2024年4月20日土曜日

生きた果実をそっと取り出すために

  管啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』(左右社、2011年;ちくま文庫、2021年)という本を読んで救われた思いになったことがあります。〈読める〉とは、つまりすっかり理解することができるということ。その書き手が述べていることについて、わからないと思える部分がいつも残ることにずいぶん頭を悩ませることが幾度もあったからです。

 その管さんの最新の書評集『本と貝殻』(コトニ社、2023年)を最近読みました。最初の章「読むことに向かって」の冒頭の「立ち話、かち渡り」のなかで『本は読めないものだから心配するな』で彼が書きたかったことが二つあったと書かれています。一つは「本に冊という単位はない」ということ、もう一つは「人はそのときの自分が読めるだけのことしか読めない読まない読みそこなう読もうとしない読むことを知らない」ということ。

 読書とはいわゆる足し算ではありません。管さんの言うように本は「読めない」ものだとすれば、では、本が「わかる」とは何か? 何か自分にとってのそのときそのときの中心に、読み取ったことを関連づけることに他ならないのではないでしょうか。「わからない」とは、その関連づけができなかったということになるように思われます。

 ジャミカの「理解するってどういうこと?」という問いに対するエリンさんの答えは『理解するってどういうこと?』の359ページから358ページにかけて、この本に書かれたことをまとめるようなかたちで記されています。その上で「本書の読者たちに私が望むのは、自分の教えている子どもたちに寄り添いながら、ジャミカの質問に対する自分の答えを考えていただきたいということです」(『理解するってどういうこと?』358ページ)とエリンさんは言っています。

 ジャミカの質問に対して答えるヒントが『本と貝殻』の「立ち話、かち渡り」には書かれています。「立ち話」?「かち渡り」?管さんの言葉を引きましょう。

 

「立ち話について。本を冊という単位で考えるな、本を擬人化するなとは何度となくくりかえしてきたぼくの基本的な考え方だが、ここではそれをあえて裏切る。知らない本たちのことを知らない人間のごとくに考えてみるのだ。未知の人は多い。だが生活空間で何度もすれちがううちに顔見知りになったり時には言葉を交わすようになったりした相手もそれなりに多いだろう。本についてもまったくおなじことがいえる。はじめは噂話で名前を聞く。ついで背表紙や表紙を見かけ、存在を認識するようになる。あるとき偶然に話をすることになる。街角や駅での立ち話。時間は三分でも十分でも、現実生活において、そんな経験はないだろうか。毎日のように顔を合わせていても、何を話したかまるで覚えていない相手もいる。逆に数年前、駅の雑踏でばったり合い、三分間だけ橘差異をしたその内容が強烈に記憶に残っているのみならず、その後の考えや行動に影響を与えた人もいる。」(『本と貝殻』22ページ)

 

 本と「立ち話」するとはどういうことなのでしょう。管さんは本を手に取ってランダムに開いて「一瞬の閃光のような『閃き読み』をする」ことだと言っています。その部分だけで十分わからなければページをさかのぼることで、もう少しわかるようになるかもしれません。本屋さんや図書館で、結構やっていることだと思います。自分に既知のことがらと思いがけず結びつくこともあるでしょう。

 「かち渡り」の方はどうでしょうか。「かち渡り」とは「徒歩で渡る」ことです。この本については何かを学びたい、何かをつかみとりたいときにやることだと管さんは言います。

 

「前後なく脈絡なくページを開いて、少しでも飲みこめるところがないかを探す。囓ってみる。そこに踏み石を投げ込む、ひとつの踏み石の大きさは1センテンスでも半パラグラフでもいい。大小があっていい。ぐらぐらしていてもいい。300ページの本なら、そんな石を百個も投げこめば、いよいよ頭から通読する準備が整ったといっていい。目標は、あくまでも向こう岸にわたること。途中の流れや水音やそこに住む生物やあたりの景色や空の色まで楽しむ余裕はないだろう。それでいい、とくかくわたってみること、するとわたり終えたときに、自分が既に不可逆な変化を経験したことがはっきりとわかり、たったいま決行したばかりのわたりを今後何度でも必要があるだけ/心ゆくまでくりかえしていいことも自覚できる。」(『本と貝殻』24ページ)

 

 「立ち話」にしろ、「かち渡り」にしろ、管さんが言っているのは本との付き合い方の基本形です。自分の中心と本に書かれてあることを関連づけるための方法だと言ってもいいでしょう。「読めない」し、そのままくりかえすこともできないのだとすれば、私たちのやるべきは、自分の既知のことや関心の中心と関連づけることしかない、と言っているようでもあります。

 「かち渡り」については私にも思い当たることがあります。ヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』(轡田収訳、岩波書店、1982年)は、学生時代から繰り返し読んできた本です。いまでも「読めた」という自身はありません。この本について書いたことは幾度かありますが、いずれも「そのときの自分に読めるだけ」のことでしかありませんでした。そのときそのときに、管さんの言う「踏み石」(足場や手がかりのこと)を、『行為としての読書』の難解な記述のなかに見つけて、それについて考えたことをノートしていきました。偶然にも300ページほどの本です。最初は書かれていたことをまとめたようなノートになりましたが、そのノートを手元に置きながら何度か再読するなかで、本に書かれていることを自分の関心と関連づけていきました。「わたり」を繰り返すことで、この本を「読めた」とは思えませんでしたが、貧しいながらも自分の読書行為観をつくることにはなりました。私のばあい、それが『行為としての読書』を理解するということだったと思います。自分のそのときの主題に関連づけて何らかのことをうみだしていく以上のことはないかもしれませんが、それが「わかること」「理解すること」だという実感を持つことはできました。

 『本と貝殻』はおびただたしい数の本についての書評集ですが、その序にあたる部分に著者による一編の詩が置かれています。そのうつくしい一節を引いて終わることにします。

 きみが読むことで

本はその殻からそっと出てくる

きみが心で呼びかけたとき

生身の貝が蓋を開けるように

どちらも生きた果実だ

どちらも生きた知識だ

どちらもひとりひとりの人間を

はるかに大きなものへとつなげてくれる 

(『本と貝殻』より)

 

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