2016年10月22日土曜日

想像力を駆使する練習


 ケリー・ギャラガー(Kelly Gallagher)という著者の『Readicide』(Stenhouse, 2009、未邦訳)という本を読みました。Readicideという耳慣れないタイトルは、genocide(虐殺)やsuicide(自殺)やhomicide(殺人)と同じ-cideという言葉をreadにくっつけたもので、強いて訳せば「読殺」とでもなるでしょうか。物騒なタイトルに思われますが、副題には「学校がどのように読むことを殺しつつあるか、そしてあなたはそれについて何ができるのか(How Schools Are Killing Reading and What You Can Do About It)」とあります。過度に教えすぎることや、大切なことを教えずにすべてを子どもに任せてしまうような教え方が、「読殺」を招いているのが現在の米国における理解指導の現実であり、それを克服するために、本や文章をじっくりと読んで考え、理解するような学習が必要だというのが『Readicide(読殺)』という本の趣旨です。
 もちろん、米国の現状についての警鐘を鳴らす本ですから、日本の現状に直接言及しているわけではありません。むしろ、この本のなかでは、米国では「読殺」が着実に進行しているけれども、日本や中国・韓国・シンガポール等のアジアの国々はそうではないと書かれています。ですが、「学校がどのように読むことを殺しつつあるか、そしてあなたはそれについて何ができるのか」という副題の問いは米国だけのこととは思えないのです。
 一つだけ、この本に何度も引かれている言葉について書きます。それは言語哲学者ケネス・バークの本のなかに出てくる「想像力を駆使する練習(imaginative rehearsals)」という言葉です。
 彼女がバークの言葉を引きながら言っていることを、かなり意訳して言えば、次のようになります。

ケネス・バークは、若者が本を読まなければならないのは、本が現実世界への「想像力を駆使する練習」を提供するからだ、と言っている。バークが主張しているのは、本を読む子どもたちはただ単に物語を読んでいるのではなくて、読むことによって自分の生きる込み入った世界を理解する機会が彼らには与えられつつある、ということだ。

 子どもが本をじっくり読んで、考えて、発見するための「想像力を駆使する練習」にならないような授業とカリキュラムは、どのようなものであっても「readicide(読殺)」を招くというわけです。じっくり読んで、考える時間があるからこそ、読むこと、理解することの学びは子どもの人生とつながるというわけです。
Readicide(読殺)』は警鐘を鳴らしているだけではなく、読書体験を回復し、読み手を育てるためのたくさんの対策を示してもいます。それはジャミカの言葉への回答として書かれた『理解するってどういうこと?』の著者が探究したのと同根の問題意識をもったものに思われます。世界中の小さなジャミカを「読殺」しないようにするため私たちは何をすればよいのか、という問いを私たちが共有していかなくてはならないという問題意識です。
 タイトルにひかれて読み始めた、平川克美さんの『なにかのためではない、特別なこと―失われた「大人の哲学」を求めて―』(平凡社、2016年)には、「弱さ」を中心に据える社会の持つ強さについて、自らの経験にもとづいた魅力的な言葉がたくさんありましたが、その一つに次のようなものがあります。

学ぶとは何かを分かるために行うのではなく、分からないことを巡る旅のようなものであり、一巡りすると自分の目の前の風景が以前とは異なって見えるようになる。おそらくは、学ぶとはそういう経験のことなのだろう。(79ページ)

 平川さんのたどり着いた「学ぶとは何か」に対する回答も、おそらく「想像力を駆使する練習」を繰り返した成果です。平川さんの本は読書についてだけのものではありませんが、「想像力を駆使する練習」もまた「なにかのためでない、特別なこと」の一つなのだと思います。「読殺」を回避するためのすばらしい知恵がここにも示されています。

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