2024年9月28日土曜日

新ルール「会話文だけはだめ!地の文を」はどうなる? 特別支援学級での作家の時間

(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)

気だるい篤くんとひまわり



 学校の花壇に伸びる背の高いひまわりが、頭を垂れて疲れているように見えます。9月、一向におさまらない暑さの中で、何だか立ち尽くしているようです。クーラーのよく効いた教室から、ガラス窓を隔てて灼熱の外、熱気で蒸し上がる頭を垂れたひまわりを眺めていると、どこか罪悪感すら感じてしまいます。


 作家の時間で夏の詩を作っている6年生の篤くん。普段通り、身体中から一生懸命に「一生懸命ではない様子」を表現しています。私たちのチームもこの様子には慣れたもので、篤くんの背中を突いて、なんとか姿勢を保てるように意識を促しています。

 そんな彼が夏の詩に添える写真を撮影する時、暑くて外に出たくないことから、教室の中から頭を垂れるひまわりの写真を撮影しました。

 こうやって、頭を垂れるひまわりを写真に撮影して眺めてみると、余計につらそうに見えてきます。篤くんに、「このひまわりに合う言葉ある?」と聞いたところ、「目の検査の時に使う欠けた環のことなんていうか知っている? ランドルト環」と話すので、そのまま写真の側のテキストボックスに入力してあげました。最近、雑学本を読んだらしく、いくつか雑学を披露したので、それもそのまま入力してあげました。

「ひまわり、何だか暑そうだなあ。」と話しかけると、篤くんは、「おれも暑い」と答え、それもテキストボックスに添えました。こうして「ひまわり」という篤くんの詩が完成しました。1枚10円以上もかかるカラーレーザープリンターで画用紙に印刷し、廊下にきらびやかに飾りました。


 篤くんは優しい子です。ただ、自己肯定感がとても低く、自分は何をやってもうまくいかないと考えがちです。本当は、四六時中(もちろん授業中も…)本を読んでいるので、とても博学です。でも、「受け身」や「やらされ感」に耐えることや、体を器用に動かすことも苦手なので、話をよく聞いて字を書いたり、タイピングしたりすることは、こちらが思う以上に精神的負荷が高いのかもしれません。


 調べてみると、ひまわりが下を向くのは、雨水で種を腐らせないようにしたり、鳥などから種を守るためにしているそうです。学校や社会から、彼が蓄えた豊富な知識を守っているとするならば、ひまわりは篤くんそのものなのかもしれません。

 わたしたちが篤くんの今とこれからのために、どのように関わっていくべきなのか、みんなで模索しているところです。


篤くんはこちらにも登場しています

特別支援学級の作家の時間で子どもたちのベースキャンプを守る〜弘前大学の先生方の訪問記より〜https://wwletter.blogspot.com/2024/03/blog-post_22.html



新ルール「会話文だけで書かない。地の文を作る」


 夏の詩作りが終わり、特別支援学級の作家の時間は、フィクション作品作りの期間に入っています。10月終わり頃まで行って、いろいろな作品作りを楽しんだ後、自分のお気に入りの作品1つを出版したいと考えています。11月から個人面談も始まるので、そこで保護者の皆さんにファンレターを依頼し、作家たちのモチベーションを高めていこうと思います。

 今回、私にはねらいがありました。会話文と地の文を書き分けられるようになることです。どうしても、アニメや漫画の影響なのか、地の文がまったくなく会話文だけで進んでいってしまう物語を書く子が何人かいました。作家として新しいステージに上って欲しいと思っていた私は、昨年度は半ば諦めましたが、もう一度この部分に言及することにしました。物語を描き始めてしまうと、子どもたちにとっては折角書いたのに…と直すモチベーションが下がります。今年は、ユニット冒頭のミニ・レッスンで、「ルール」として打ち出したのです。


新ルールがうまく重なる子と重ならない子


 この新ルール「会話文だけで書かない。地の文を作る」で、自分のスタイルを修正できる子もいました。この子にとっては、このミニ・レッスンは成果があったように思います。この子の作家としてのステージとミニ・レッスンがうまく重なり合う結果になったわけです。

 けれど、カギカッコが取れただけで、結局文章の内容は会話文という子が、どうしてもいます。「先生、『〇〇は言いました』ばっかりになってしまうからいやだー」という声もありました。どうしてそのような「会話文だけの文章」から抜け出せないのか、私は迷うことになりました。


 一つ目に、絵が好きな子が絵を描くことによって登場人物の行動や表情などを表現してしまうことが挙げられます。「絵を見れば分かるでしょ」というわけです。自分の考えたことを伝えたい欲求も、絵を描くことによって満足してしまうのだと思います。しかし、その絵で伝えたかったことが読者であるクラスメイトに伝わっていないことが多いのです。特別支援学級の児童は、非常に独特で個性的な絵を描くので、その絵を見る人に伝わっていないことがよくあります。しかし、相手に伝わるか伝わらないかよりも、自分自身の表現をしたいという気持ちの方が勝り、相手に伝わっているかどうかにあまり関心がないように見えます。

 二つ目に、子どもたちは作家の椅子で発表することを日常的な共有としています。絵を大型テレビに映して発表するのですが、そこで子どもたちは自由に解説をすることができるのです。それでクラスメイトには雰囲気で伝わってしまうことで、問題意識が芽生えないこともあります。出版したものは、クラスメイト以外にも保護者やお世話になっている先生方も読む機会があるのですが、結局はそのような紙面からしか物語を楽しめない読者のことは、あまり想定に入っていないようです。


地の文を「心の理論」で考える


 そして、一つ目や二つ目とも重複する三つ目の問題ですが、そもそも、自閉傾向のある子どもたちは、目で見たこと、耳で聞いたことの情報処理には問題がない子が多い一方で、目や耳で確認できないこと、たとえば、登場人物の感情や読む人の気持ち、人によって受け取り方が違うことなど、情報として現れていないことを推測するのが苦手なのです。そういった理由からか、自分がイメージした情報を全て登場人物の会話文として目に見えるようにしたり、耳で聞こえるようにすることで、見えにくい情報を可視化して整理しようとしているのかもしれません。

 また、三人称視点の地の文のような俯瞰してものを見る見方は、特性のある子には苦手なのだと思います。これで思い返されるのが、「サリーとアン課題」や「アイスクリーム屋課題」と言われる心の理論課題です。詳しい内容については、私も専門家ではないので検索していただきたいのですが、自閉症などの発達障害をもつ児童は、正解率が一般的な児童よりも低くなる傾向があるそうです。

サイト「脳科学辞典」へのリンク」

https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96#%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96%E3%81%A8%E8%87%AA%E9%96%89%E7%97%87%E5%85%90%E3%83%BB%E8%80%85

自閉傾向のある児童が、他者の意図や心の状態を推測することが苦手であることから、第三者視点の地の文のように、そこに登場していない俯瞰的な語りを描写することは、難しいのではないかと予想しています。



新ルールは「いい塩梅」にしよう


 そのような子達に、「これ地の文ではないよね」と指摘しても良いことがないのは明らかです。結局表現自体を止めてしまうのではないかと私たちは心配しました。私たちが一番大切にしていることは、その子がのびのびと自分を表現できることであり、良い書き手として自分のペースで成長していけることです。決して「良い作品を作らせること」を目標にしていません。

 私たちは、新ルールを作ったのはいいものの、それを「いい塩梅」で曖昧にすることにしました。つまり、子どもたち一人ひとりを、障害特性や現段階での書く力からもういちどアセスメントを行い、その子が「地の文と会話文をかき分ける指導」に相応しい段階にいるかを再考することにしました。そして、今必要なアプローチが、地の文の指導ではなく他の支援になるのであれば、そちらを優先するようにしたのです。


一人称視点の地の文ミニ・レッスン


「ルールをいい塩梅にする」以外にも行ったことがあります。一人称視点の地の文のミニ・レッスンを行い、子どもたちの地の文の幅を広げました。これまで、全てが人物の会話文になってしまい、一人称視点の物語を書く子はあまりいなかったので、主人公の視点で語る地の文はイメージがしやすく、反応が良かったように思います。実際に話した部分だけカギカッコをつけるというルールも明確で、これからの作品作りに応用してくれる子が出てくれるのではないかと期待しています。『桃太郎が語る桃太郎』(文:クゲ ユウジ、絵:岡村 優太 高陵社書店 2017年)などの「1人称童話」シリーズというものもあり、読み聞かせをしようと思っています。


 それでも、新ルールは時折、ミニ・レッスンの中で触れています。意識できた子にとっては、成長のまたとない機会であるので、より強く意識できるようにし、それでもミニ・レッスンだけにしぼり、いたずらに地の文ができていないと指摘はしないようにしています。




それでもアセスメントは尊い


 冒頭に登場した篤くんの場合、言葉を巧みに扱うことはできる一方で、手指の巧緻性は課題で、鉛筆やタイピングなどは精神的負荷が高い作業になっていました。さらに、自己肯定感が低く、修正したり、やり直したりするような、「否定」につながるような活動には取り組めないという性質もあります。そこに、教師や支援員が入って篤くんが生み出した言葉をタブレットにタイピングする支援を継続し、新ルールは曖昧にすることにしました。

 ところが一緒にタイピングをしていると、思った以上に篤くんは理解しルールを受け入れようとしていて、「ここにはカギカッコを入れて!」など、支援者にお願いすることもありました。本当にアセスメントは難しいです。ただ、夏休み前の篤くんは、バトルイラストと作家の椅子での解説ばかりの作家の時間を続けてきていたので、この篤くんの感じは良い傾向の兆しであるように思います。ここは臨機応変に様子を見ながら、地の文の理解が篤くんにどこまで可能か、もう少しよくアセスメントしていこうと思っています。


継続的なアセスメントで指導・支援を調整する


 今回の新ルール「会話文だけで書かない。地の文を作る」を振り返ると、当然のことながら、この段階などとっくに超えている子どもと、ちょうどこの段階にいる子どもと、この段階を迎える前にもっと会話文だけのお話作りに没頭するべき子どもと、さまざまな段階にいる子どもが私たちの教室にはいることが分かりました。この3段階の子どもたちを一直線上に並べてアセスメントをするのは、児童の実態を読み誤る危険もあることは承知の上ですが、会話文主体の物語を味わい尽くした次のステップとして、第三者視点が加わる地の文という段階があり、地の文に引き上げたいからといって、会話文物語を味わおうとしている子どもを無理くりに引き上げることは、最も大切な表現しようとする意欲を削ぐことになるかもしれません。

「表現したい気持ち」「表現しようとする意欲」は、特別支援学級で作家の時間を行う私たちにとって、もっとも大切にしていることです。そして、地の文を書く技能は、今回ばっちりミニ・レッスンが重なり合った子どものように、タイミングがくれば向上させるのは簡単なことですが、篤くんのようなケースでは、意欲や自尊心を向上させる支援は本当に根気のいる難しいものになります。目の前の子どもを性急に伸ばそうとしない私たちは、もしかしたら悠長なのかもしれません。それでも、新ルールを全員に厳格に当てはめることは、やはり断念しました。

 新ルールを設定することによって、子どもたちに刺激を与えたことは事実です。私たちは、チームでアセスメントを行うことによって、新ルールが子どもたちにどのように作用しているかの情報を集め続け、それをカンファランスによって調整することにより、「いい塩梅」に納めることに成功しました。新ルールを設定したこと自体は失敗とは考えていません。ただそれ以上に、アセスメントを続けて、支援を調整することが本当に大切だと再確認する機会になりました。

オオシロカラカサタケかなあ?
ゴルフボールみたいでした。


0 件のコメント:

コメントを投稿