2024年9月21日土曜日

理解することへの励まし

 『理解するってどういうこと?』の第4章に、スペイン語を母語にしているリタという女の子とキャスィという先生のカンファランスのシーンが出てきます(127ページ以降)。リタが読んでいたのはアレン・セイの『おじいさんの旅』という絵本でした。しかし、英語を読むのになれていないリタには、知らない単語が少なくなかったようです。そこで先生は、「えっとね、リタ、自分の知らない単語に出会ったときにあなたにできるのはどんなこと?」と質問します。するとリタは「声に出すの」と答えます。先生は「他にできることは?」と問いかけます。リタは教室の壁に貼られている「知らない言葉に出会ったとき、私たちができること」というタイトルの模造紙を見上げ、そこに書かれている「知らない言葉に出会ったときに自分が使うことのできるすべての方法」をキャスィに向けて話します。こうして彼女は自分のいま持っている力で『おじいさんの旅』を読むことにチャレンジするのです。

  リタとのカンファランスを聞くことによって、自立心を生み出すということは、子どもたちが読んだり、書いたりしているときに、新しいことに挑戦させること、そしてそのときには、その新しいことが今子どもが理解していることの少し上のレベルにあるということを理解しながら促すことなのだということを私は理解しました。普通の教師なら『おじいさんの旅』はリタにはむずかしすぎると考えるでしょう。しかし、思い出してみると、彼女がはじめから終わりまでこの本を読むのを、確かに私は見たのです。彼女には読む時間と意志がありました。これまでにその本の読み聞かせを4回も聞いていました。単語の認知と理解に必要な方法も身につけていました。私たちの多くは、彼女のような子にはもっと簡単なものを読むように言うことでしょう。でもそれはとんでもない間違いなのです。キャスィは『おじいさんの旅』を読めるというリタの能力を強く信じていました。だからこそ、リタには、自分がこの本が読めると確信させることができたのです。(『理解するってどういうこと?』132133ページ)

  キャスィ先生はリタの「新しい」取り組み(『おじいさんの旅』を読むこと)が、今のリタの「理解していることの少し上のレベル」にあると理解しつつ、それに取り組めるように促しています。それがリタの「自立心」を生み出し、彼女が『おじいさんの旅』を終わりまで読むことを可能にしたとエリンさんは考察しています。

 ロシア文学者の奈倉有里さんの『ことばの白地図を歩く―翻訳と魔法のあいだ―』(創元社、2023年)は奈倉さん自身の翻訳についての体験を10代の読者にもわかるような言葉で書かれた翻訳論でありながら、本を読み、理解することについてのすぐれた道案内でもあります。

  少し大きくなると、学校で母語以外の言語を習うことも多い。たとえば英語だ。いまの日本の小中学校では、算数や理科と並んで「英語」という科目はごく自然に存在している。

 だから私たちは、母語というひとつめのことばに親しみ、小中学校で習う新しい言語にふれるところまでは、とくに自覚がなくてもやっていることが多いわけだけど、そのうちさらに、世界にはまだ自分の知らない言語があることに気づく。町で知らないことばを話している人を見かけたり、現代だったらテレビやインターネットなんかで耳慣れないことばを聞いて、「いまのことばって、なんだろう?」と気がつく。そしてふと、「学校で習わないことばを学んでみたい」と思う、かもしれない。

 少なくとも私は思った――「ロシア語がやりたい」と。

(『ことばの白地図を歩く』1112ページ)

 祖父母の暮らす新潟で奈倉さんがロシア語と出会ったことからこの本は語られはじめ、やがて留学したロシアのゴーリキー文学大学で経験した数多くのエピソードを交えながら、彼女の翻訳理論が、読者を巻き込むように語られていきます。

 ロシアの大学でフランス語のマルガリータ先生の授業で「新しい言語を習うとは新しい子ども時代を知ることだ」という考え方を学んだという一節は印象的です。

 心理学風にいうなら、誰しも自分の内に「5歳の自分」を持っているという、あれだ。この「5歳の自分」はしばしば大人の世界についていけなくて、だだをこねることがある。ところが語学学習のなかに「5歳の自分」を解放できる空間を組み込んでしまえば、5歳の私はすっかり満足して、おとぎ話に聞き入って幸せそうに眠ってくれる。そして夢のなかで、詩人アレクサンドル・プーシキン(17991837)の書いた物語詩『ルスランとリュドミーラ』に出てくる学者猫(歌をうたったり、おとぎ話をきかせてくれたりする猫のことだ)と一緒に、こんなことを感じている――子供は間違えてもいいし、舌足らずでもいいし、まだまだ知らない単語がたくさんあってもいい、そのことばの世界に生まれてきただけで、じゅうぶん偉いのだ、と。(『ことばの白地図を歩く』3536ページ)

  英語の読み書き、聞く話すもままならない私にとっても、この「ことばの子供時代」の考え方は魅力的です。そしてこれは「母語」についても言えることなのではないかと考えました。『ことばの白地図を歩く』は母語や学校で習う言語以外の自分に知らない言語を学ぶことについての本ではありますが、母語の読み書き、聞く話すという行為についてもこのようなまなざしを向けてみると、新しい発見をすることがかなり多くありそうです。

 また、次のような一節にも読者として励まされました。

 人には自分の背負う「文化」を選び、学ぶ権利がある。私にかんしていえば、幼いころに好きになり、その「好き」を追いつづけている「本」や「小説」や「詩」の世界が、自分が最も重要とみなしている「文化」である。だからモスクワの文学大学は自分にとっては「異文化」的な環境ではまったくなかったし、私が本を読む人間だとさえわかってもらえれば、同級生からも異質な存在とはみなされず、すぐに仲間になれた。もちろん言語を学ぶ必要はあったが、学べるものは学べばいいだけだ。(中略-引用者)

心配しなくても大丈夫、思うままに好きな文化を選び、その知識や技術を磨いていけば、誰でも世界じゅうに「共通の文化」を担う人を見つけられるから。(『ことばの白地図を歩く』58ページ)

先程触れたリタという女の子はメキシコから移住してきたばかりで、『おじいさんの旅』についてのキャスィ先生とのカンファレンスのなかで「そうか! このおじいさんは日本も愛していたし、ここ(アメリカ)に住むことも愛していたね。」と言っています。彼女はキャスィ先生と語り合いながら、『おじいさんの旅』の中心人物(作者アレン・セイの、若い頃日本から米国に移住した祖父がモデル)に自分と共通のものを見出したのです。そのことも、リタがこの本を読み通すことを強く後押ししたのだと考えられます。

キャスィ先生がリタの『おじいさんの旅』理解を促したように、『ことばの白地図を歩く』の奈倉さんの語りそのものが、それを読む私に読むことや翻訳することについての新しい理解を促し、励ましてくれました。読んで理解するということは、自己を知る「鏡」にもなり、「共通の文化」を担う人を見つける「窓」にもなりうるのだという思いを強くしました。そして、母語を「知らない言語」として考えてみる視点を持つことのたいせつさも。

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