遅ればせながら、桑野隆さんの『生きることとしてのダイアローグ―バフチン対話思想のエッセンス―』(岩波書店、2021年)を読みました。桑野さんはミハイル・バフチンの研究者であり翻訳者ですが、これまで私は桑野さんの多くの著作に学ばせていただいています。この本は、バフチンの「対話思想」をとてもわかりやすい言葉で解説しながら、バフチンの対話論がいまでも現代を生きる私たちが身の回りの出来事を考える手がかりになりうることを示しています。
バフチンの対話論の基本的特徴は、たとえば次のようなバフチンの言葉にあらわれています(『生きることとしてのダイアローグ』にある、桑野さんの訳文です)。
「対話では、人間は外部に自分自身をあきらかにするだけではなく、あるがままの自分にはじめてなるのである――くりかえすが、それは他者にたいしてだけではなく、自分自身にとってもである。」(10ページ)
アンリ・マティスとパブロ・ピカソの絵による対話の考察に始まる『理解するってどういうこと?』の第8章で、エリンさんも次のように言っています。
私たちの学校の子どもたちにこうした対話を望むのは、間違っているでしょうか? この二人の画家たちの50年間にわたる「穏やかなライバル関係」の特徴の一部を、私たちの授業に組み入れることは、間違っているでしょうか? もし私が間違っていると言うのなら、あなたとこのことについて対話がしたいです。私の考えを聞いてもらえる機会が欲しいですし、あなたの考えや経験に影響される機会が欲しいです。この点について少しも議論しないで、理解することなど望めるでしょうか?」(『理解するってどういうこと?』299ページ)
それがマティスとピカソの「「穏やかなライバル関係」の特徴の一部」です。マティスとピカソの描いた絵は『理解するってどういうこと?』の291ページと293ページにあります。当然のことながら描くには時間が必要ですから、即答はあり得ません。描きながら考える、考えながら描く、そのための時間のなかで、二人は相手だけでなく自分自身とも向き合っていたはずです。エリンさんが子どもたちに望んでいるのはきっとそういう対話です。
『理解するってどういうこと?』第8章の後半に、クララという先生のミニ・レッスンの記録があります。ロバート・コールズの『ルビー・ブリッジス物語』のブッククラブの際に行われた「質問する」という理解するための方法のミニ・レッスンの記録です。このレッスンは後半で、ジャスミンという生徒の質問によってとても大切な局面を迎えますが、そこでクララ先生は、ジャスミンの質問に対する答えをすぐには発言させず、模造紙に次のことを箇条書きにして共有します。
ある人が質問をすると、それは作品について他のみんなが新しい視点で考える助けになる。
ときには、質問にすぐに答えようとしない方がいい。その代わり、しばらくのあいだ頭のなかに漂わせておく。」(『理解するってどういうこと?』323ページ)
桑野さんの『生きることとしてのダイアローグ』の最後の章も「沈黙」と題され、バフチン晩年のメモにあらわれる「沈黙」の考察に言及されています。そして、石牟礼道子さんの『苦海浄土』三部作を「沈黙を余儀なくされた人びとの〈心に汲み入る対話〉になっている」(154ページ)と捉え、若松英輔さんの著作の言葉を借りて「〈対話〉を問題にする以上、「沈黙と向き合う」べきなのです」(同前)と述べています。この本のとても深みのある部分です。「沈黙」は「対話」の一つの種類なのです。エリンさんによれば「対話」は理解の種類の一つですから、バフチン流に考えれば「沈黙」も理解の種類の一つになります。
最後に、『生きることとしてのダイアローグ』第Ⅰ部に置かれたバフチンの言葉を引用します。
こういう対話を実現できる学びが、子どもたちを夢中にさせます。未完のダイアローグ(対話)が、生きることとしてのほんものの学びを生みます。
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