2015年3月21日土曜日

『理解するってどういうこと?』と『遊ぶヴィゴツキー』

 『理解するってどういうこと?』の第4章は、エドワード・ホッパーの『早朝の日曜日』という絵とジョン・ストーンの同名の詩から始まっています(『早朝の日曜日』は、ショーン・タンの絵本『ロストシング』(河出書房新社)でもパロディ化されるほど印象深い絵です。タンの絵本のなかのどこにあるか探してみてください)。この章の後半では、著者の行った研修会(ワークショップ)の場面が出てきますが、そこで著者は、この絵と詩がどのようにわかるようになったか、最初はそれらの意味をどのように理解しはじめるのか? という質問をして、各自のわかり方について考えるよう求めています。そしてそれをパートナーとペアで語りあうことで、理解の過程に各自がどのように取り組んでいるのかを自覚するようにしています。
 次の二つの発言は、いずれもこの研修会に参加した小学校教師のサラの発言です。

○「何も起こっていないわ」とサラは語気を強めました。「こんな絵、我慢できない。それより、馬とカウボーイが砂煙をあげて大騒ぎしているレミントンの絵を見る方がましだわ。」(136ページ)
○「今は、ホッパーの絵をまた見るのが面白いの。これまで好きになれない絵だなんて、私言っていたけど、笑わないでね。今はこの絵に描かれている店先をじっと見て、沈黙について考えると、これはまったく沈黙ではないのよ。もう私はこの絵に、平日のにぎやかさや、商売や、活動を感じることができるし、起こっていることをぜんぶ描いたような絵よりも、この絵のような静けさが今は好きになってしまったわ。たぶん、あなたはこんな、フレデリック・レミントンの大ファンの私を笑うだろうけど、静けさを鑑賞し、起こるかもしれない何か、つまり、今は起こっていないけれど、再び起こるだろうことに耳を傾けることを本当に学んだのよ。」(144ページ)

  ホッパーの『早朝の日曜日』には、ある街角の日曜日の早朝の無人の風景が描かれているだけで、彼女が言うように目に見える出来事は何も起こっているように見えません。そのサラが同じ絵を「面白い」とまで言っています。このサラの変化は、彼女がパートナーのオードリーとこの詩や絵についてだけでなくて、それらを各々がどのように理解しはじめたのかを述べ合って、反応し合うなかで起こりました。
 もちろんホッパーの絵とストーンの詩の力のおかげだ、という考え方もできます。また、この絵と詩の持つ「沈黙」に目を向けるだけの読者としての力量がそもそもサラ先生にそなわっていたのだ、と考えることもできるでしょう。ですが、サラの発言は明らかにそれだけではなかったことを示しています。
 ホルツマンの『遊ぶヴィゴツキー』(茂呂雄二訳、新曜社)は、『理解するってどういうこと?』の少し前に同じ出版社から刊行された翻訳書ですが、タイトルに興味を惹かれて購入し、つい最近開いてみた本ですが、次のようなことが書かれていました。

 ○ごっこ遊びで、子どもたちは、自分たちになじみのことがらを演じると同時に、彼らの能力を超えた、まったく新しいことがらを演じるのである。そして一日中やっても飽きもしない。また、私たちは、幼児がやり方を知らなくても、幼児が能力を超えて話をし、お絵描きをし、絵本を読むにまかせるのである。このような遊びのパフォーマンスをする空間は、発達と学習にとって非常に重要である。そしてこれは、幼児期ばかりでなく、大人にとっても重要である。/このように考えると、発達は、自分でない人物をパフォーマンスすることで、自分が何者であるかを創造する活動となる。(27ページ)

  「ごっこ遊び」の意味を掘り下げながら、引用の最後のところに示された「自分でない人物をパフォーマンスすることで、自分が何者であるかを創造する活動」が「発達」だという見方がきわめて重要に思われますし、サラの発見は、オードリーの話を聞きながらそれをモデルとして「自分でない人物」の理解過程を頭のなかで実行してみた結果、自分自身の理解過程に意識的になって読者としての自分を「創造」したのであろうと思われます。
 また、ホルツマンは読み書きのような「高次精神機能」が「精神間的である」というヴィゴツキーの考え方を重んじています。これもオードリーとサラのやり取りにおけるお互いの変化にあてはまります。この研修会(ワークショップ)でペア・ワークがなければ、サラに上に書いたような変化はずっと訪れなかったかもしれません
 もう一つ、二人の教師はお互いの話をじっくりと聞き合っていたからこそ、自らの理解過程を意識化し、活性化させたのです。オードリーは言っています。「一人で読むときに頭のなかに飛び交うものよりももっとたくさん考えられるようにするのに、誰かと話すのが役立って、話すにつれて意味を“つくり出す”手助けをしてくれると、サラ、あなたは私に教えてくれたのよ」と。サラも「あなたは、この絵と詩について私が考えるようにさせてくれたのよ。そうすることによって、これまでのようによく考えずに単純な、何にも動きがないから好きじゃないっていう反応をするのでなくて、しっかりと考え始められたのよ。」と言っています。見事に呼応しています。『遊ぶヴィゴツキー』の後半で、ホルツマンがインプロ(即興劇)の効果について述べている次のような発言を踏まえると、サラとオードリーのやり取りをさらに深く意味づけることができそうです。

 ○仕事場にインプロを持ち込むことで、会話は大きく変わる。それは上記のような(相手の話を聞かずに一方的に同じ問いを繰り返すような会話例がこの直前に引かれている-引用者注)不快なやり取りを減らすだけでなく、赤ちゃんとのやり取りのような創造的意味作りの会話に転換できるのである(ただし大人同士あるいは仕事場にふさわしいやり方で、ではあるが)。大人がこれを一貫して行なうのは本当に難しい。首尾よくやるには、話すことばかりでなく、聞くことの練習が必要だ。というのも、仕事場も含んで日常の会話では、他の人の会話の一部しか聞いていないからだ。(142ページ)

  二人は「赤ちゃんとのやり取りのような創造的意味作りの会話」を実現していたのです。相手の言おうとすることを、一部ではなくその全体を、しっかりと聞き合うことができたからこそ、サラの変化(それを「発達」と呼んで良いのではないでしょうか?)が生まれ、それはオードリーにも変化を与えずにはおかなかったのです。そう言えば、「聞く」ことの重要性は、『理解するってどういうこと?』で、第9章の最後でエリンさんがジャミカに呼びかける部分の最後のメッセージでもあります。

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