2018年10月20日土曜日

「知の錯覚」から抜け出す道


 『理解するってどういうこと?』は、共訳者の吉田さんとメールで何度もやりとりしながら訳した本です。自分一人でも一応の訳文はつくり、何度も推敲したつもりだったのですが、それと比較すると、出版した本の訳文の方がわかりやすいのです。これは、吉田さんの提案する訳がわかりやすかったということを言いたいわけではありません(それはそれで、実際そのとおりなのですが)。この本の「訳者あとがき」にも書いたように、お互いの訳文を検討し合うことで、思考を重ねた訳文が生み出されたということなのです。知っているつもりでいたことが、じつは何も知っていなかったという事実に、自分が気づかされて頭をフル回転しなければならなくなったということなのです。

 insightという英単語の訳を考えるために、英和辞典を引き、一般的な「洞察」という訳語を宛ててそれで満足していたわたくしは、実のところ、insightという語を著者が「なぜ」使ったかということを考えていませんでした。「この「洞察」ってどういうことなのでしょう?」と問われて慌てるわけです。前後の文を読み、著者が何を伝えようとしているのかということを考えた末に、そこでのinsightは「じっくり考えて何かを発見すること」だと気づいたのです。実際にそういうふうな訳語を使ってみると、著者の言いたいことが自分にもよくわかってくるのです。

スティーヴン・スローマン&フィリップ・ファーンバーグ(土方奈美訳)『知ってるつもり:無知の科学』(早川書房、2018)は、こうしたことを科学の全般にわたって考察した本でした。たとえば、少し勉強していろいろな知識を蓄えた時に、次のようなことに陥ってはいないでしょうか。



物事の仕組みに対する自らの知識を過大評価し、本当は知らないくせに物事の仕組みを理解していると思い込んで生活することで、世界の複雑さを無視しているのである。実際にはそうでないにもかかわらず、自分には何が起きているかわかっている、自分の意見は知識に裏づけられた正当なものであり、行動は正当な信念に依拠したものであると自らに言い聞かせる。複雑さを認識できないがゆえに、それに耐えることができるのだ。(46-47ページ)



この事態をスローマンたちは「知識の錯覚」と呼びます。そして、わたくしたちはときに「探求をやめる決断をしたことに無自覚であるために、物事の仕組みを実際より深く理解していると錯覚するのだ」と言います。

ではどのようにして「知識の錯覚」から抜け出すができるのか。その一つの策は「熟慮」することだとスローマンらは言います。



熟慮の一つのやり方は、他者と話すように、自分自身と語り合うことだ。熟慮はあなたを他者と結びつける。集団は一緒に直観を生み出すことはできないが、ともに熟慮することはできる。(94ページ)



かれらはこれを「コミュニティとしての思考」と呼んでいます。「コミュニティとしての思考」――とても魅力的な概念です。「知識の錯覚」を避けていくためにはとても重要な概念です。そうした「錯覚」から抜け出す道を、スローマンらは次のように言っています。



 本物の教育には、自分には知らないことが(たくさん)あると知ることも含まれている。持っている知識だけでなく、持っていない知識に目を向ける方法を身につけるのだ。そのためには思いあがりを捨てなければならない。知らないことは知らないと、認める必要がある。何を知らないかを知るというのは、自分の知識の限界を知り、その先に何があるかを考えてみることにほかならない。それは「なぜ?」と自問することだ。(238-9ページ)



 スローマンとファーンバーグが論じたのは、平たく言えば「無知の知」です。つまり「わかっていない」立場で物事に取り組むということの重要性です。そのために、他者の考えを理解しようとしながら(自らの考えだけでは完全ではないことを認識しつつ)、協働することを重んじているのです。そうすることで「他者と話すように、自分自身と語り合う」思考が可能になるのではないでしょうか。これは、『理解するってどういうこと?』の共訳の過程でinsightという語の訳語を考え出したときのわたくしの思考と似ています(だからといってすべてわかったとは思いませんが)。

 

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