読むにも、書くにも、「問うこと」「疑問を出してみること」「なぜ、と思うこと」の大切さを改めて感じさせてくれる本に出会いました。
タイトルは、『藪の中の家 芥川自死の謎を解く』(山崎光男著、文芸春秋)です。
書き出しの7~9ページに、以下のように書いてあります。
芥川龍之介の晩年の作品に『三つのなぜ』という小品がある。
①
なぜファウストは悪魔に出会ったか?
②
なぜソロモンはシバの女王とたつた一度しか会わなかったか?
③
なぜロビンソンは猿を飼ったか?
以上、3つの疑問に龍之介一流の機知と皮肉を交えて答えを呈示している。
わたしの芥川龍之介に対する「なぜ」は、「なぜ自殺したのか」に集約できる。『ひとつのなぜ』である。が、このなぜを惑星にたとえると、そのまわりには無数の衛星的ななぜが点在する。
昭和2年7月、芥川龍之介が自殺した日、全集(昭和30年、岩波書店版)の年譜には、次のように記載されている。
24日未明、田端の自宅に於いて、ヴェロナール及びジャールの致死量を仰いで自殺した。枕元には聖書があった。
30年前にも眼にした同じページの同じ活字である。以前は何の疑念も抱かず、並んだ活字をあるがままに受取り、次の行に移っていた。ところが、いまはわずか数行の記述が気になって仕方がない。
睡眠薬とおぼしき、ヴェロナール及びジャールとはどんな薬か。
致死量はどれほどの量か。
薬の入手先はどこなのか。
死亡診断書を書いた医師はだれか。
蘇生させられなかったのか。
医者は自殺を思いとどまらせる治療はできなかったのか。
龍之介に持病はあるのか。
主治医はだれなのか。
・・・・・・
次々に疑問が湧いて出た。
この本は、これらの疑問を解明するために書かれたのです。
2行の文章から、これだけの疑問が生まれ、そして本になってしまうのです。
読むとは、こういうことなのか、と思わせてくれるとてもいい例でした。
読むことが、さらに知ること/調べることにつながっていますし、その次にある書くという行為にもつながっています。
30年後に、読み直すという行為も。
山崎さんは、2行の文章から湧き出た質問群をリストアップしているのですが、実は、実際に使ったのは最初の1行だけでした。
「枕元には聖書があった」の方は、まったく関心を向けていません。
最初から自分が書きたい本の対象と考えていなかったのか、芥川龍之介とキリスト教のことには関心がなかったのか?
「芥川龍之介と宗教」でネット検索するとかなりの情報が得られますし、同じタイトルの『芥川龍之介とキリスト教』が川上光教と紗玉によってすでに書かれています。
前回は、小学校1年生が詩人のように世の中を見たり、聞いたり、考えたりして書く事例の「あのね帳」の実践を紹介しましたが、今回は、本物の作家がどのように本を読み、そして自分が書く本の題材をつくり出す事例でした。
「このぐらいなら、自分にもできそう!」と思っていただけたでしょうか?
それとも、「難しそう!」と思われたでしょうか?
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