以前にも取り上げたのですが、『理解するってどういうこと?』の第9章の「3 読み・書きを学ぶ際の主要な構成要素-理解のさまざまな成果」の最後のところで、黒人としてはじめて白人の学校に登校したルビー・ブリッジスのことを扱ったロバート・コールズの『ルビー・ブリッジス物語』(未邦訳)やジャクリーン・ウッドソンの『むこうがわのあのこ』(こだまともこ訳、光村教育図書、2010年)を扱いながら、理解の成果の一つである「共感」について教える授業の一場面が出てきます。デヴォンテという黒人の子どもが、周りの白人たちは「ルビー」のことを嫌っていたけれども、自分の兄なら「ルビー」の感じたことが「よくわかる」と思うと述べた後に言った「白人がね僕たちのような人みんなを、好きかどうか、うーん、ほんとに好きかどうか? 先生は?」という問いかけに対して、エリンさんは次のように心のなかで考え、そしてデヴォンテに答えます。
〈私にはわかりません。わかりっこないのです。一人の白人として、私にはぜったいにわかりません。私は心が張り裂けそうなのですが、これは私には理解不能な領域の共感です。私が共感したいと思ってみても、彼らが何を感じているのかと想像しようと努力してみても、レイモンドやデヴォンテやサマンサと同じように深く理解することはけっしてできないのです。
「デヴォンテ、私にはわかりっこないのよ。完全に共感することはできないの」と彼に言いました。「でも、どれほどあなたがたが共感したかということは、この心で感じることができるの。」〉(『理解するってどういうこと?』354~355ページ)
「一人の白人として、私にはぜったいにわかりません」という言葉は痛切です。しかし、ここで重要なのは、エリンさんがデヴォンテに対して「どれほどあなたがたが共感したかということは、この心で感じることができるの」と答えているということです。このエピソードは「わかる」ということの根幹に何があるのかということを教えてくれます。
養老孟司さんの近著『ものがわかるということ』(祥伝社、2023年)の「心は共通性をもっている」という節には、このエリンさんの考えと発言を、まるで説明してくれるような一節がありました。
〈心とは共通性そのものです。こう言うと、多くの人がポカンとします。心は自分だけのものだと思っているからです。
でも、心に共通性がなかったら、「共通了解」は成り立ちません。私とあなたで、日本語が共通しています。共通しているから、「お昼を食べよう」と私が話せば、あなたがそれを理解します。話して通じなかったら、話す意味がありません。通じるということは、考えが「共通する」ということです。
ということは、心は共通性をもたないと、まったく意味がないことになります。感情だって同じです。自分の悲しみを伝えても通じなかったら、とても寂しくなります。自分が悲しいときに、友だちも悲しがってくれる。自分がうれしいときに、友だちもうれしがってくれる。これが「共感」です。感情も共通性を求めるのです。〉(『ものがわかるということ』78ページ)
養老さんの本には、このような考え方の根拠となる実験が引用されています。皆さんもどこかで聞いたり、読んだりしたことがあるかもしれません。
〈参加するのは三歳児と五歳児。舞台に箱Aと箱Bを用意します。
そこにお姉さんが登場します。箱Aに人形を入れ、箱にふたをして舞台から去ります。
次に、お母さんが現れます。箱Aに入っている人形を取り出し、箱Bに移します。
再びお姉さんが舞台に現れます。
そこで、舞台を見ていた三歳児と五歳児に、研究者が質問します。
「お姉さんが開けるのは、どちらの箱?」〉(『ものがわかるということ』19~20ページ)
当然「お姉さん」は「箱A」を開けるでしょう。今「当然」と言ってしまいましたが、それは私が「お姉さん」の立場に立ってこの状況を理解しようとしたからです。ところが「三歳児」は「箱B」と答えます。「お母さん」が「人形」を「箱B」に移したのを目撃しているので、「お姉さん」も「箱B」を開けると考えるわけです。「お母さん」の行為を目撃して「人形」のある箱がどちらかを知っている自分と同じように「お姉さん」が考えると思ったからです。「お姉さん」の立場には立つことができないから「箱B」を開けると答えたのです。しかし「五歳児」は「お姉さん」の立場に立って考えるので、私と同じように「箱A」と答えることができるのです。養老さんの言い方によると「三歳児」は自分と「お姉さん」を「交換する」ことができず、「五歳児」は「交換する」ことができるようになった事になります。
〈この他者の心を理解するというはたらきを、「心の理論」と呼びます。発達心理学では「心を読む」と表現しますが、私は「交換する」と考えます。必ずしも心を読む必要はなく、「相手の立場だったら」と自分が考えればいいのです。
この、自分と相手を交換するというはたらきも人間だけのものです。〉(『ものがわかるということ』10ページ)
エリンさんがデヴォンテに「どれほどあなたがたが共感したかということは、この心で感じることができる」と言ったのは、ぜったいに「共感」することはできないとしても、デヴォンテやルビーの「立場」に立って考え、デヴォンテたちがルビー・ブリッジスにどれほど「共感」しているかということを伝えようとしたのではないでしょうか。養老さんは心には「共通性」があるからこそ「共感」が生まれると言い、それは「自分と相手を交換するというはたらき」を人間がもつからだと言っています。「自分と相手を交換する」ことができるからこそ、私たちはフィクションの登場人物を気にかけ、「共感」できるのです。
もう一つ。エリンさんは「この心で感じることができる」と言っていました。それは、頭だけで「わかる」を超える体感のようなものを言っています。「感じることができる」のですから。養老さんの言葉で言えば「共鳴」です。
〈自然のなかに身を置いていると、その自然のルールに、我々の身体の中にもある自然のルールが共鳴をする。すると、いくら頭で考えてもわからないことが、わかってくるのです。
自然がわかる。生物がわかる。その「わかる」の根本は、共鳴だと私は思います。人間同士もそうでしょう。〉(『ものがわかるということ』201ページ)
エリンさんは「共感」できるというと嘘になってしまうけれども、自分の「身体の中にもある自然のルール」が「共鳴」することはできる、と言っていたのかもしれません。同じ「自然のルール」をもつ人間としての「共鳴」です。
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