『理解するってどういうこと?』の第6章「理解のルネサンス」では「ルネサンスの思考」という「理解の種類」が取り上げれています。「ルネサンスの思考」とは、エリンさんによれば、「幅広いテーマや興味・関心やジャンルの本や文章を探究することに駆り立てられ」「複数の考えが相互に関連するのを理解したり、パターンを認識したり」「特定のテーマや作家に熱烈な興味を抱くようになり、それらを理解するためなら、たくさんの時間とエネルギーを惜しげもなく使おうと」して、「考えを掘り下げることで、今まで知らなかった側面を発見する」ような「学習者」になるということです。「ルネサンスの思考」を促す教室の条件は『理解するってどういうこと?』の206ページに示されています。どうすればこの「理解の種類」とその成果を分かち合うことができるのでしょうか。
「デジタルな遊びもそれ以外の遊びも大事。遊びは子どもの仕事である」という立場から書かれたジョーダン・シャピロ(関美和・村瀬隆宗訳)『ニュー・チャイルドフッドーつながりあった世界で生きる知恵を育む教育ー』(NTT出版、2021年)という本の第8章「新しい読み書き」にそのヒントになる一節がありました。シャピロさんは「リテラシー教育」の歴史を概観しながら、「テクノロジー」(技術)と「エピステーメー」(認識)の関連づけを重視して、次のような二つの問いを立てます。
今日、書面でのコミュニケーションはあらゆる職業で行われています。もちろん、私たちは葦のペンで粘土板を彫ることはなく、古代ギリシャ人のように動物の皮をなめし、軽石でこすって羊皮紙をつくることもありません。中世の修道士が使っていたインクの調合法も僕は知りません。そうしたリテラシーの訓練をしても、もはや無駄です。一方で、今の子どもが学ぶべき新技術はたくさんあります。ですから、私たちは古代シュメール人に学び、学校を「コンピュータハウス」と考えるべきなのかもしれません。そうすることで、次のような重要な問いと真剣に向き合うことができるのです。子どもたちは新しいテクノロジー環境で充実した人生を送れるように、十分に準備できているか? 新しい時代の道具を利用しながら、これまで人類に大きく貢献してきた価値観、智恵、独創性をうまく生かせる世界を築き上げられるか? (シャピロ『ニュー・チャイルドフッド』187ページ)
この引用の最後の二つの問い(とくに最後の問いはこれからの教育を考えるために極めて重要です)を考えるために、シャピロさんは自分の息子が小学校3、4年で学んだ「説得的ライティング」の学習を取り上げて考察します。「説得術の伝統的ルール」を教えるために、プレゼンテーションソフトを使った「プレゼンテーション資料の作成」が宿題として課されていたそうです。シャピロさんの見立てによると、この学習は「プロセスライティング」の考え方に立つものでした。「プロセスライティング」が、着想、校正・編集、そして成果物の作成と共有のそれぞれのステップで「新しいテクノロジー」が十分に機能することを述べた後で、シャピロさんは次のような重要な指摘をしています。
先生がその宿題で育てようとしたスキルは、ごっこ遊びを通して育まれるのと同じものでした。プロジェクトの狙いは、息子が自分の中に強い自己感を見出す手助けをし、自信をもって、自分の価値を順序立てて表明できるように導くことにありました。(中略―引用者)今の子どもは、伝統的な装置とデジタルな装置を組み合わせて意思疎通ができるようになることを求められています。なぜなら、自己表現のプロセスは、そのために使う道具から切り離せないからです。マーシャル・マクルーハンは「メディアはメッセージである」と言いました。現代のテクノロジーを意図的に学習体験に取り入れようとする教師の存在なしには、子どもはつながりあう世界に合った創造的な表現スキルを磨くことはできません。(シャピロ『ニュー・チャイルドフッド』192ページ)
そして、「新しい時代の道具を利用しながら、これまで人類に大きく貢献してきた価値観、智恵、独創性をうまく生かせる世界を築き上げ」るための方法を、シーモア・パパートの「コンピュータは二の次で、知識が第一」という考えや、ミッチェル・レズニックの「子どもはものを構築するとき、頭の中で新しいアイデアを組み立てている。そしてそのアイデアを原動力として、新しいものをこの世界で構築する。この終わりのないスパイラルが延々と続いていく」という言葉などを手がかりに考察しています。そのうえで、コンピュータースキルを子どもが身につける学習は、「つながりあう世界で貢献する方法を、十分な情報をもとに選択できるようになるため」であるという重要な見解を導くのです。「新しい産業革命」に貢献することがけっしてその目的ではないということを指摘することも忘れずに。
「つながりあう世界で貢献する方法を、十分な情報をもとに選択できる」ということは「ルネサンスの学習者」の重要な属性にほかなりません。加えて、シャピロさんは「新しいテクノロジー」の時代の「ルネサンスの学習者」のリテラシーにとって重要な問題をもう一つ指摘しています。
ひとつだけ確かなことは、僕の息子の世代が大人になったとき、日常的な読む行為のほとんどがスクリーンデバイス上で行われるということです。テクノロジー恐怖症の人たちがどう考えようと、スクリーンデバイスは書き言葉の敵ではありません。むしろその逆で、スマホのおかげで今日の社会はかつてなく文字への依存度が高まっています。読む人の数も読む量も、頻度も増えています。ただし、読まれているのは本ではありません。ウェブ上の文字との関わりは極めて軽薄で、重厚な文学は滅びかけていると考える人もいますが、そうした見方のもとにあるのは過去へのロマンにすぎません。そういう人が思い描いているのは、誰もがプラトンを読み重厚な散文を書いていたような古き良き時代です。
しかし、実際には、そんな時代は存在しませんでした。そもそも大半の人は読み書きができず、たとえできたとしても、多くが大衆的な読み物を楽しんでいました。(中略―引用者)しかし何を読んでも、誰も痛い目にはあっておらず、それから(引用者注―『源氏物語』や『ドン・キホーテ』が書かれた時代から)数百年たった今も、文字を読めるひとはかつてなく増え、「良い」読み物も「悪い」読み物も入手しやすくなっています。これがデジタルテクノロジーの功績です。(シャピロ『ニュー・チャイルドフッド』201~202ページ)
この考え方は読者史・読者論史でこれまでも言われてきたこと★の延長線上にあり、「デジタルか紙か」という問いは核心的な問いでないことがよくわかります。読み書きのツールの転換をわたくしたちは歴史のなかで何度も経験し、その都度それらのツールの「上手な」使い方を開発し、共有してきました。「デジタルデバイスを使った上手な読み方」を教え、読み書きの文化を共有するコミュニティをつくっていくことができるかどうかということを真剣に考えていくことこそ、これからの教育・文化・社会の重要な課題です。そのようなコミュニティが形成されてこそ「ルネサンスの学習者」を育てることが可能になるからです。『理解するってどういうこと?』206ページに示された「表6・1 ルネサンス的思考を促進する教室」の諸条件を満たすために「新しいテクノロジー」が強力なツールとなりうることを、シャピロさんの『ニュー・チャイルドフッド』は教えてくれます。それが、子どもたちに提供された「タブレット」を前にわたくしたちが考えていかなければならない大切なことの一つなのかもしれません。
★たとえば、カヴァッロとシャルチエ『読むことの歴史』(東京大学出版会)や、永峯重敏『雑誌と読者の近代』(日本エディタースクール出版部)など。
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