本を読まなくなった、読めなくなったと感じることは少なくないことです。いまはちょっと読みたくないという時もあるでしょう。そういう時、自分に何が起こっているのか。いや、そういう時であっても、目は文字を追っているものです。
逆に、本に夢中になって読み終えると、その本の内容を無性に誰かに語りたくなることもあります。語ろうとするなら、その本の内容をぐっと自分にひきつけなくてはなりません。そうでないと、語ることはできない。本について語るということは、半分以上自分について語ることなのです。
エリンさんも『理解するってどういうこと?』の7章で、ノーベル賞詩人パブロ・ネルーダの不可解な死後につくられた追悼文集に寄稿された、エドゥアルド・ガレアーノという作家のエッセイと、それを読んだ後で自分がノートに書いた文章を引用しています。彼女はその時のことを次のように振り返っています。
その夜私は大きな助成金の申請書を書くはずでした。翌日が申請書の締め切り日で、その準備のために何時間も集中する必要があるとわかっていました。しかし、この本に誘いこまれて読み終えると、私はこの文章をかかないではいられなかったのです。この文章を読んでいるあいだの自分の思考を忘れたくなかったからです。申請書作成の責任感は頭の片隅に押しやって、音楽をかけ、ガレアーノと自分自身の言葉に没頭しました。後悔などしていません。結局、助成金の申請書も書き上げ、自分の思考を書き上げる時間も手に入れましたが、それから6年経ってみると、私の宝物になったのは、後者のほうでした。何年もあとになってネルーダについてこうして書くなど思ってもいませんでしたが、ガレアーノのエッセイとこのノートを読み返して、この詩人についてより深く理解することができたのです。(『理解するってどういうこと?』280ページ)
申請書の作成を急がなければならない夜に、エリンさんが自分のノートに向き合ったのはなぜか。ガレアーノの味わい深い文章との交流のなかで生み出されたもの、つまり、ガレアーノの文章と自分とのあいだのやりとりでうまれたworkが、それをどこかに書いておかないと永遠に消えてしまうからです。そして、エリンさんは書くことでそのやりとり(work)を頭のなかに刻みました(そして、実はここのところを訳すときに、私も同じエリンさんと同じ思いを追体験したように思われました。勘違いかもしれませんが)。
これは読む行為にとってとても大切なことです。この時、ガレアーノの文章から自分のつくり出した意味をエリンさんは丁寧に言葉にしています(ガレアーノの文章の四倍か五倍ぐらいの長さです!)。これは、理解の種類の一つ「私たちの思考を変化させること」の一つの実践であり、書くことによって、ネルーダとガレアーノの対話に参加し、自分の過去を振り返りながら、互いの痛みを共有する「人間らしい感情」に思いをはせるのです。共感をうみだすために自分の考えを変化させ続けるという理解の姿が描かれています。
最近になって読んだ読書論のなかに、エリンさんと同じ心の動きをあらわす言葉を見つけました。若松英輔さんの『本をよめなくなった人のための読書論』(亜紀書房、2019年)です(以前このブログで若松さんの『種まく人』を取り上げたこともあります)。どこを開いても珠玉のような言葉が並んでいる本ですが、上に書いたことを考えていた私の目に次のような言葉が飛び込んできました。
本を読めないとき、無理に読もうとしてもなかなかうまくいきません。そんなときは書くことから始めるとよいかもしれません。そうやって、ひとたび離れた読書との関係を取り戻していった人を私は、何人も知っています。
「読む」ことと「書く」ことは呼吸のような関係です。読めなくなっているのは、吐き出したい思いが、胸にいっぱいたまっているからかもしれません。
息を深く吐けば、自然に深く吸えるようになります。気分が落ち着かないとき、深呼吸をすると、ふと視界が開けるように感じることもあります。このことは「読む」ことと「書く」こととのあいだにも起こります。(『本をよめなくなった人のための読書論』33-34ページ)
「うまく」書く必要はない。ただ、書けばよいのです。ほかの誰にも見られることはありません。少しずつ、内なる「書く人」を目覚めさせていきましょう。(中略)読む人と書く人が同時に働くとき、私たちは、読むだけの人の目にはけっして映ることのない、新しい意味を感じ始めます。(同上、37ページ)
エリンさんが書いていたことの意味をわかりやすく私に教えてくれる言葉です。エリンさんも、おそらく、ネルーダの詩を読み、ガレアーノの詩を読んだだけで、その「新しい意味」がうまれることはなかったのではないでしょうか。彼女もまた書くことで自らの「内なる「書く人」」を目覚めさせて、「新しい意味」を発見したのです。若松さんは「書くとは、思いを相手に伝えることでもありますが、自分のなかにあって、自分でも気がつかない思いを感じ直してみることです」(40-41ページ)とも言っています。「自分のなかにあって、自分でも気づかない思い」――エリンさんがノートに書くことで発見したのはそのような「思い」だったのではないでしょうか。だからこそ、ネルーダという詩人についての「深い理解」が生み出されたのです。
「読む」とは、今日まで生きてきたすべての経験を通じて、その日、そのときの自分を照らす一つの言葉に出会うことにほかなりません。(『本をよめなくなった人のための読書論』78ページ)
「読む」をこのように考えていくことができるなら、「読む」がlife(人生)にとって意味のある営みだと思われるのではないでしょうか。若松さんの本には、エリンさんの本と同様、読むことや理解することについてのこのように「たしかな」言葉が溢れています。
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