ずいぶん前に読んだはずなのにその内容がさっぱり思い出せない本というものがいくつかあるものです。私にとっては、トーマス・C・フォースター著 矢倉尚子訳『増補新版 大学教授のように小説を読む方法』(白水社、2021年)がそれです。翻訳初版は2009年で、著者はミシガン大学フリント校の教授。たぶん、大学教授が文学作品の解釈法について手際よくまとめた本だ、という不遜な感想しかもてなかったのでしょうか。読んだ記憶がありません。本棚のどこかに押し込んでそのまま…だったようです。ところが、『増補新版』を書店で立ち読みしてみると、ついつい引き込まれてしまいました。こんなことが書いてあったからです。
「素人読者は小説のテクストに向き合うとき、当然ながらストーリーと登場人物に着目する。これはどういう人間だろう。何をしていて、どんな幸運または不幸がふりかかろうとしているのだろう。こうした読者は最初のうち、あるいは最後まで、感情のレベルでしか作品に反応しようとしない。作品に喜びや反発を感じ、笑ったり泣いたり、不安になったり高揚したりする。つまり、感情と直感で作品世界に没入するのだ。これこそまさに、ペンを握った、あるいはキーボードを叩いたことなる作家が、祈りの言葉を唱えつつ作品を出版社に送るときに念じている読者の反応である。ところが英文学教授が小説を読むときは、感情レベルの反応も受け入れはするものの(中略)、主たる関心は小説のほかの要素に向けられてしまう。この効果はどこから来ているのか? この人物は誰に似ている? これに似た状況設定をどこで見たのだったのだろう? (中略) もしこんな質問ができるようになれば、こんなレンズを通して文学テクストを見る方法が身につけば、あなたの読みと理解はがらりと変わる。読書はさらに実り多く楽しいものになるはずだ。」(『増補新版 大学教授のように小説を読む方法』23~24ページ)
何を野暮なことを書いている本だ、小説は直感的に感じ取ってその描き出す世界に没入すればそれでいいではないか、という声が聞こえてきそうです。確かにそうですね。野暮ったいと言えば野暮ったい。しかし小説を面白く読み終えた後には、心地よい疲労感とともに一抹の寂しさとたくさんの時間を費やしてしまったというむなしさのようなものも覚えるものです。この引用の後半に書かれているような一種「自意識」的な読者になって、考えたことを書き付けたりするとずいぶん違うのです。意味をつくり出すことになりますから。フォースターの本はそのための手がかりをずいぶんたくさんもたらしてくれます。
エリンさんも『理解するってどういうこと?』第7章「変わり続けること以上に確実なことはない」で次のように書いています。
エリンさんの言う「学ぶことの面白さ」とは、フォースターが「大学教授のように」読むために必須だという「記憶」「シンボル」「パターン」について気づくこと、そして本と本、文章と文章、テクストとテクストとの相互関連性に気づくことによって生まれるものなのかもしれません。単独で読んでいるときには思いもしないことがそういう相互関連性によって呼び起こされるのです。『理解するってどういうこと?』を知ったあとに私がフォースターの本の面白さに気づいたように。そう、私もまた「時間と共に思考がいかに変わるかについて考える、貴重な機会」をもつことができたわけです。
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