『理解するってどういうこと?』の第8章には、ナチが猛威を振るった時代に、命がけでユダヤ人がドイツから逃れる手助けをしたエルジー・クーンーライツ(後に「ライカ」と呼ばれるカメラ工場主の娘)のことを書いた、フランク・ダバ・スミス『エルジーの戦争』(未邦訳)をめぐる、中学1年生のジュリアナとサーシャの「すばらしい対話」についての考察があります。
わずか32ページの写真集からさまざまなイメージを思い浮かべる短い授業のなかで、ジュリアナとサーシャは、サーシャの最初のイメージをもとにして、何千年ものあいだ人類に課されてきた一つの大きな問題を考えることになったのです。それは、人道的な権利をはっきりと理解しているはずの人々が、邪悪な意図を持った人々の攻撃を抑えることができないときに、いったい何が起こるか、という問題です。ジュリアナとサーシャは、自分たちが思い浮かべたさまざまなイメージによって、その本にあらわされている以上の深い理解を共有しました。数千年のあいだ人々を悩ませてきた問題をしっかりととらえていたのです。対話することによって、彼女たちはしっかりと考えて意見を持つことができたのですが、その対話がなければそれは生まれなかったでしょう。(『理解するってどういうこと?』298ページ)
独力で「その本にあらわされている以上の深い理解を共有」することは簡単なことではありません。その本に明示されていることをどれほどの時間をかけて穴があくほど見つめてもおそらく叶わないことです。
ジュリアナとサーシャになぜそれが可能になったのか。対話という問題を哲学の立場から多角的に考察した納富信留さんの『対話の技法』(笠間書院、2020年)という本には、ジュリアナとサーシャがどうして深い理解を共有することができたのか、その理由を考えるヒントが示されています。
対話を行う私は自明な存在ではなく、対話をつうじて次第にそのあり方を明らかにされていくもの、つまり対話は知らなかった自己を見つけていく過程となることが分かりました。その過程は、さしあたり私はこういう者だと自分でも社会でも認知されていた特性や地位から出発しつつ、それらの前提や基盤を批判的に検討しながらひき剥がして、裸になっていくような、そんなプロセスでした。
自分にも分かっていない自分を見つけると言うと、とても不思議に聞こえるかもしれませんが、自分のことは自分が一番よく知っているというのは思い込みです。相手に指摘されて初めて、自分がなぜそれまでそんな主張をしていたのか、それが自身にも見えてきます。対話は、こうして語り議論するそれぞれの人が何者かを、お互いに突きつけて示すような営みです。
今まで気づいていなかった自分の前提、場合によっては思い込みや偏見が明らかになること、そうして自分自身のあり方に気づくことは、その時点でそれまでの無知な自分とは違う段階に入ったことを意味します。自分がこうだったと明らかにされると、むっとしたり、恥ずかしく思うこともありますが、そういった感情の喚起が私が変わりつつあることの証左です。そこで頑なに思い込みにしがみついて、さらに自分の幻像に固執するのでなければ、対話はたしかに私たちのあり方を変えてくれます。その変容は、無知から気づきへ、限定から解放へという方向をとります。言論をつうじた吟味は、基本的には理に合わないことを批判してだれもがより納得する方向へと私たちを導いてくれるので、その先には対話を始める前には思いもよらなかった別の自分が現れるでしょう。それは、新しい自分、自由な存在の創出なのです。(中略)対話は自分についての物語を語り合うことではありません。それらを剥ぎ取って自分を知ろうとすることです。(『対話の技法』171~173ページ)
『エルジーの戦争』の写真と言葉から「イメージ」を思い浮かべる短い授業のなかで、この写真絵本には直接示されていない「大きな問題」を二人は考えることになりました。大勢の連合国兵士の映された写真を見つめながら、本のなかの写真と言葉の表層の意味を捉えることだけではなく、それらが示す深い意味を二人は考えています。考えながら、対話することが、二人にとって「知らなかった自己を見つけていく過程」になっていたのではないでしょうか。対話のなかでジュリアナは「あなたに話さなければ私はこんなことけっして思いつかなかったのだけど、またあの兵隊の男たちのことが頭に浮かんできたわ。」と言っています。彼女は自分についての物語を語っているわけではありません。まったく逆のことです。「対話を始める前には思いもよらなかった別の自分が現れ」たことの告白です。この戦争についての自分の既知の理解を「剥ぎ取って」、この戦争について「無知」であった自分を知ろうとした結果として「人類に課されてきた一つの大きな問題」を考えるに至ったのです。ジュリアナにとって、納富さんの言う「新しい自分、自由な存在の創出」が、サーシャとの対話のなかで行われたと考えることができるでしょう。
納富さんは次のように言っています。
対話は、自分とは異なる他者と向かう契機です。ですが、そうして交わす言葉を引き受けてそれを自分のものとするのは、やはり私自身です。つまり、対話の責任は結局この私にあるのです。そこでは、相手の言葉を心の内で反芻してそれをめぐってさらに考える、自分自身との対話が促されます。(『対話の技法』174ページ)
『エルジーの戦争』という写真絵本は、ジュリアナとサーシャにとって写真と言葉の集積ではなく、それまでの「無知な自分」を脱ぎ捨てて「新しい自分、自由な存在」を創出する、またとない出来事になったのです。そして二人とも相手の言葉を聞き入れながら「自分自身との対話」を行い、それまでの自分を超えて考えていたと思われます。エリンさんが、ジュリアナとサーシャのやりとりを「すばらしい対話」と呼んでいるのは、そのことを言っているのです。
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