2018年1月19日金曜日

On Reading


   アンドレ・ケルテスという写真家の『読む時間』(創元社、2013年)という写真集を手に入れました。1915年から1970年にかけて、ケルテスが世界中で撮影した「読書する人」の写真が収められています。書斎で本の山に埋もれて分厚い本を読む紳士の写真もあるし、町中の市場のような場所で、うち捨てられていた本をむさぼるように読む子どもの写真もあるし、絵やレリーフに描かれた読書する人や、暑い日の公園の芝生の上で熱心に読書にふける半裸の男性の写真もあります。

 『理解するってどういうこと?』にも、翻訳書を出版するにあたって著者のエリンさんからいただいた写真がいくつも収められています(原著には、メンターに関する絵の図版はありますが、これらの写真は翻訳書だけにしかありません)。ガイド読みやワークショップでの読み聞かせや、教室環境の写真などが収められています。必ずしも読書だけにかぎりません。むしろ、理解しようとする人の姿がそこには映し出されていると言っていいでしょう。ケルテスの被写体とはそこが違います。違うなぁと想っていたら、もう一冊、読書についての写真集を持っているのを思い出しました。

 On Readingというその写真集は、甲斐扶佐義(かい・ふさよし)の本です(光村推古書院、1997年)。どうしてこの本を買ったのかは覚えていません。しかし、改めてこの本を開いてみると、そこにはケルテスとは違った視線で、甲斐が19501970年代、1990年代の京都の人々の「読む」姿を映し出してます(そのなかには、若かりし鶴見俊輔の姿も映っています)。ケルテスの本は読書の写真集そのものでしたが、甲斐の本は「理解すること」の写真集と言ってもいいでしょう。写真のところどころに次のようなキャプションがあるからです。

 写真集の各セクションが「よむ。」「よむとき。」「よめば。」「よめ。」。なにやら文法の時間を思い出しそうなセクション名です。たとえば、「よむ。」のセクションに収められている写真につけられたキャプションを列挙してみます。



公園でよむ。/スニーカーでよむ。/時間のすきまを見つけて読む。今読まなくてもいいんだが読んでしまう。読みだすと、今読まなくてはいけないと思う。/たこやきのつつみ紙をよむ。/座り込んでよむ。/みあげてよむ。/カモの気持ちをよむ。/子供の心をよむのはむつかし。/こんな所でよんだり。/こんな所でよんだり。/酒と本の日々。学者、哲学者、建築家の人…。/ねこはぼくの気持ちをよみ、ぼくはねこの気持ちをよむ。/高い所でよむ。/思わずよむ。/無心によむ。/猫がよむ。/影をよむ。/日傘でよむ。/なにをよんでいるの?



 こんな調子です。「カモの気持ち」って? 写真を見たくなりますね。甲斐の選んだ写真のなかには、ケルテスと違って、本が必ず出てくるわけではありません。現にこのキャプションにも「カモの気持ちよよむ。」や「子供の心をよむのはむつかし。」というものがあります。また、後ろの方の「よめ。」のセクションには、路地裏にたたずむ老夫婦が接骨院の看板とその向こうのモニュメントらしきものを見上げている写真があって「この風景をよめ。」とキャプションがついています。甲斐のOn Readingは、読書の風景を写真に収めながら、被写体の読書行為が「本を読む」ことにとどまらないことだということに、甲斐自身が気づいて、それを読者にも伝えようとしていることがわかります。紛れもなくこの本は「理解する」ことについての本で、日常のさまざまな場所で営まれる理解することの光景を、私たちの前にみせてくれます。そこがとてもおもしろい。だから、この写真集なら、エリンさんの写真がいくつか収められていても違和感はありません。『理解するってどういうこと?』の写真は図版に「よむ」「よむとき」「よめば」「よめ」のどれかを使ってキャプションを考えてみれば、いろいろな理解の種類があることに思い至るでしょう。

 さすがに、スマホを(で?)読む姿はどちらの写真集にもありません(ありえません)。が、ケルテスや甲斐ならその姿をどんなふうに映すのでしょうね? そして甲斐さんならどんなキャプションをつけるのでしょうか?

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