・「問い」によって、読み手は、初めて「確認」をこえて、自分にとってどんな理解が可能かを確かめることができる。しかし、その理解したと思えることでも、理解が不十分だったり、誤っていたりすることはたえず起こってくる。少しでもそれを避けようとするなら、分かったつもありでも、果たしてその理解で十分なのか、その理解の内容を「吟味」する慎重さが必要である。(『「学ぶ力」を育てる教育になにが欠けているか』29ページ)
・ことさら、子どもたちの「真実の内在化」★の学習に向けて、子どもたちの自発的な「問い」を大切にし、子どもたちの「自ら学び自ら考える」授業に取り組むとするなら、教師は一層「わからないこと」に対応していく必要に迫られていくことになるはずである。(同書 185ページ)
★「学び手自身が物事の「真実性」を確かめた上で受け止め、自分の理解をつくっていく」学び方のこと
武田さんとエリンさんは、ともに、考えて、読み、「問い」を持つことをたいせつに思っています(思うだけでなく、文章のなかで実演しているからです)。武田さんの本は、小学校の国語教科書教材を例にしています。もちろん、国語教科書をカバーする教育を彼が唱えようとしているからではありません。その逆です。「定番」と言ってもよいほど長い間使われている教科書教材が分析の対象となっているのは、それらの教材の従来の扱われ方をまさしく問うためです。教材の採択だけでなく、その解釈や授業での発問や活動のすべてが「定番」化してしまっていることを批判し、大切なところをしっかりと見極めるべきだと、武田さんは言っているのです。
第三部「3」の「「問い」作りからの新しい教材研究、発見の楽しさ」には教員免許の認定講習会での「教育学」の講義の模様が描かれています。こうしたところにも『理解するってどういうこと?』との共通点を見ることができるでしょう。120ページから123ページにかけて引かれている、講習参加者の先生方の「感想」には、講習のなかでのワークショップで作品解釈上の発見をいくつもして、そこにおもしろさを覚えていったことがわかります。そのことが読むことの授業をおもしろいものにしていく一番の近道であることを、私も思いました。これらの「感想」は、武田さんの「理解のための方法」を使って、考えながら、先生方がじっくりと考えた末につかんだ理解の成果であったと言えるのではないでしょうか。それらの「感想」の内容は、『理解するってどういうこと?』第4章後半でのサラとオードリーという二人の先生の対話(この対話もエリンさんの研修の一コマでした!)のなかでの発見を彷彿とさせます。
武田さんの本はこうして理解のための方法を使って、その作品に取り組みながら、じっくり考えた成果を明るみに出しているからこそ、深い認識と理解を示すことができたのだと思います。実際、『「学ぶ力」を育てる教育になにが欠けているか』の第三部で「文学作品の「問い」作りの困難さの主な原因」が三つ挙げられていますが(113~114ページ)、武田さんの解決法は、「推測する」「イメージを描く」「解釈する」等の理解するため方法(『理解するってどういうこと?』資料A参照)を使うことであると言えるでしょう。
レベル分けされた作品(つまり、教科書教材)をもとにここで探究されたことを、いろいろな作品に応用していくことができるなら、深い理解を繰り返しながら生きていくことのできる人を育てることができるのではないかと思います。代表的な教科書教材を武田さんが分析し、解釈するくだりは、まるで読者に「考え聞かせ」をして、深い理解のモデルを示してもらっているようでした。それをもとにして、実演してみせたり、疑問点を相談したり、話し合いをして共有をはかったりすることで、武田さんの問題提起をより深く「理解する」ことができるように思います。いや、そもそも学びをつくり出すとはそういうふうにしていかなければできない、ということを、この本は示そうとした(語ろうとするのではなく)のだということに、思い至りました。『理解するってどういうこと?』と読み比べることで。
0 件のコメント:
コメントを投稿