2023年12月30日土曜日

固定観念をくつがえすような詩にふれる 〜私の読書体験〜

*時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿をお願いしました。 

 これまでに何回か、RW/WW便りで日本の現代詩を紹介してきました。

 今回は、「え、これが詩なの?」と言いたくなるような、ちょっと変わった詩、学校で先生から教わるような感じとは異なった詩を紹介したいと思います。

中江俊夫「語彙集」★1

 語彙を集めた本、というまさにその名の通りの詩集です。収められた作品の書き出しの部分を見ていきましょう。★2

第一章

儀式。集り。

非常に。

悪い男。

縛る。

唇。口。呪い。

おきる。

股。脚。影。

狭い。

中庭。

・・・

→ これ何? と思いました。儀式が集りであることは、まあ、わかります。それが、「非常に。悪い男。」とどう関係があるのでしょう? 縛る、って何を? 唇を? わからないことだらけです。

第二章

おとなう

戸弟

うとうと

問う

訪う

とおとお

遠い

追い

かけっこ

結婚

・・・

→ 単語の音を手掛かりに、連想される言葉が連なっています。

第十二章

こいこい

来い

来い

故意

行為

好意


鵜呑みだ

鷲捉みだ

千鳥足だ

ねこばばだ

たぬきねいりだ

・・・・

→ 書き出しは、語呂合わせです。「来い/恋」というふうに並んでいると、恋がやってきてほしい、というイメージが浮かんだりします。「故意/行為/好意」の3つの言葉は、何となく関連する場面が浮かぶかもしれません。第二連は、生き物の名前を含んだ表現が並びます。

第六十一章

べたつく

いちゃつく

にちゃつく


じゃらつく

でれつく

ほれつく

べちゃつく


くっつく

せっつく

はりつく

・・・


→「べたつく」も「いちゃつく」もわかる気がします。場面が思い浮かびます。でも、「にちゃつく」って何? わかるような、わからないような。第二連の「じゃらつく」はどうでしょう? 「でれつく」は私にはわかりません。詩人の造語でしょうか。

 こんな感じで、言葉が延々と並んでいるのです。私がこの詩集に出会ったのは十代の後半でした。「わからない! 何だ、これは?」とつぶやきながらも、その言葉のイメージの連なり、言葉の音の重なりに圧倒されたことを覚えています。

和合亮一「詩の礫」★3

2011年3月、東日本大震災の時、高校教師で詩人の和合亮一さんは43歳。福島市に住んでいました。津波で原子力発電所が被災し、爆発。放射能漏れが報道されます。

和合さんは書いています。「ラジオからは、新潟や山形へと避難する人々へ、慌てないで下さいという呼びかけ。アナウンサーも時々、涙声になる。人は減っていく。放射能の恐怖。食料・水・ガソリンは手に入る見込みがない。気力が失われた時、詩を書く欲望だけが浮かんだ。」★4  

和合さんは、ツイッターに投稿を始めます。それが反響を呼び、多くの人に読まれました。それをまとめたのが、『詩の礫(つぶて)』という詩集です。

次のように始まります。


震災に遭いました。避難所に居ましたが、落ち着いたので、仕事をするために戻りました。皆さんにいろいろとご心配をおかけいたしました。励ましをありがとうございました。

2011年3月16日 4:23


本日で被災六日目になります。物の見方や考え方が変わりました。

2011年3月16日 4:29


これが最初の2編です。身辺のことを書き連ねた文章です。次のように続きます。


行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。

2011年3月16日 4:30


放射能が降っています。静かな夜です。

2011年3月16日 4:30


ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。

2011年3月16日 4:31


4時23分から4時31分の間に、5編の投稿があるのです。刻々と言葉を書き付ける和合さんの思いが、その勢いに乗って伝わってきます。

3月20日から引用します。


馬よ、詩よ、余震よ、ヘリコプターよ、風よ、春よ、雲の切れ間よ。何を、何を、追っているの。命、命を。…だから、優しく、優しく…。また祖母の声だ。

2011年3月20日 22:46

(中略)


はるか 遠い 森の 奥の 一本の木 心の中の あなた はるかな あなた

2011年3月20日 20:49


緊急地震速報。震源地は宮城県沖。緊急地震速報。震源地は茨城県沖。緊急地震速報。震源地は岩手県沖。緊急地震速報。震源地は冷蔵庫3段目。緊急地震速報。震源地は革靴の右足。緊急地震速報。震源地は玉ねぎの箱。緊急地震速報。震源地は広辞苑。緊急地震速報。震源地は、春。

2011年3月20日 22:52


 相次ぐツイッターの投稿を追いかけるように読みながら、読み手は、ある時は静けさを感じ、ある時は問いかけについて考え込み、ある時は差し出されたイメージを味わったことと想像します。

 そして「緊急地震速報」で始まる一編。私は、まさに読んでいる私自身が震源地にいるような、言葉の衝撃を感じました。テレビやラジオでよく耳にする言葉です。被災者にとっては身に迫る言葉。しかし、当事者でなければ、聞き流してしまう言葉です。それが、ツイッターという形で、読み手を揺さぶったことでしょう。

 私は、多くの人たちが、この言葉を「詩」として読んだのではないと思います。ただ、和合さんの発する言葉を追いかけるように、その勢いに乗り、刺激を受けた。そのような書き手と読み手の関係があったのです。


谷川俊太郎「好きリスト」★5

次のような詩です。


好きリスト

谷川俊太郎


ノルウェーの空港で買った木のトングが好きです

冬 庭に降り積もっている落ち葉が好きです

昔から使っている錆びかかったとんかち 好きです

天井裏に住んでいるネズ公も困るけど好きかもしれない

あ ジョニー・デップ好きです

もちろん夕焼けどんなのでも好きだし

真ん中に草が生えている田舎の一本道好きだなあ

バルトークの「子どものために」好きです

アラーキーが撮る写真おおむね好きです

山萩のたたずまい好きです 花の咲き方も

いま乗っているファイアット・プント好きです    

松の実好きです イチジク好きです アボカドも

ユニクロの今年出たアンダー(黒)好きです

シェーカーの家具好きです 持ってませんけど

カニグズバーグという作家好きです


この中で好き以上に愛してるのはどれだろう

それを考えるの好きです

嫌いなもの(と人)のこと何故嫌いか考えるのも

 1行目から15行目まで、自分の好きなものを並べているだけの詩です。「並べているだけ」と言いましたが、そこには、著者の生活や気持ちが織り込まれ、「あなたの好きなものって何?」って聞かれて、「そうだなあ、ええと」と言って喋り出したような、そんな趣があります。

 1行目。「ああ、ヨーロッパに旅行に行ったのだろうなあ。空港の売店に立ち寄って、トングで良いものを見つけたのだろう。旅先でこういう買い物する時ってあるよねえ。」と私は想像します。

 2行目。「これは自宅の庭かな。落ち葉が降り積もるのだから、木立があるんだろうなあ。」と私はイメージします。

 4行目では、ネズミではなく「ネズ公」なのですね。「困るけど、好きかもしれない」という気持ちの持ちようがいいなあ、と思います。「好き」と「嫌い」の二つに分割するのではなく、その間の揺れを味わう感じが好きです。

 この詩を読むと私は、「この作品のテーマは何ですか?」とか、「著者は何を言いたいのでしょう?」などという発問が野暮なものに思えてきます。

「詩を読み解こう」などと構えることなく、素朴に、「好きなものについて自分も喋ってみたい、書いてみたい。」そんな気持ちになりませんか。

 実は、この詩は詩集ではなく、『すき好きノート』という書き込み式の本の冒頭に掲げられているのです。自分の好きな俳優は? 好きな音楽は? 好きな窓は? 好きな雲は? 好きな瞬間は?・・・といったいろいろな質問に自分で書き込んで、自分だけの「本」が出来上がる仕組みになっている、そんな本です。

*****

★1 中江俊夫『語彙集』思潮社、1972年発行。

★2 中江俊夫『現代詩文庫39 中江俊夫詩集』思潮社、1971年発行、より引用。

★3 和合亮一『詩の礫』徳間書店、2011年発行。

★4 同書、6ページ。

★5 谷川俊太郎『すき好きノート』アリス館、2012年発行。


2023年12月22日金曜日

大介くんが自分の意思で書き始めるまで 特別支援学級の作家の時間

 最近とても良いことが、ゆっくりと時間が流れる特別支援学級の教室で起きています。

 あの大介くんが、自分の意思で作文を書いているのです。これほど嬉しいことはありません。


大介くんに関する記事

https://wwletter.blogspot.com/search/label/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%AF%E6%8F%B4


(すべての子どもの名前は仮名です。エピソードや児童の特性などにも、ある程度の加工を加えています)


⚪︎作家の時間で何も書けない大介くん


 3年生の 大介くんは作家の時間で何も書けない子でした。

 大介くんは、答えを間違えてしまったり、どうしていいか分からないことに、強い不安を感じてしまう子でした。うまくいかない自分を他人に見られることもとても嫌がり、自分を認めることができずにいました。

 私が彼と出会ったのは、私が特別支援学級を受け持ち始めたときで、それと同時に、彼が1年生で入学してきたときでした。私たちは同じ時に入学した同学年ということになります。低学年の頃はまだ良かったのですが、中学年にもなると客観的な視点も芽生え、自分が生み出したあらゆるものに自信を持つことができないようでした。


 作家の時間が始まっても、長い間、本当に書きませんでした。もし、書いたとしても、ホワイトボードに自分の好きな絵を描く程度。紙に何かを描いても、それを他の人に見られないように机の中にずっと持っていたり、ぐちゃぐちゃに丸めて細切れに破き、捨ててしまったりを繰り返しました。書く様子も見せたくないので、彼の机だけをパーテーションで囲い、安全地帯をつくりました。

 おそらく、自分の理想がとても高いのだとおもいます。すぐに100%を求めてしまう。消しゴムで紙が汚れてしまうことも、とても嫌がり、反発してしまう。まさにガラスの心をもった完璧主義者なのです。

 本当はとても器用なのです。図工でも、自分の作りたいものが定まればすごい緻密なものを作ることができます。彼のアイロンビーズの作品がそれを物語ります。また運動会の表現運動もずっと友達のダンスを見て、いつの間にか見ただけで覚えてしまう。体を動かして練習する気は毛頭ないのですが、ただ自分の納得がいくまで見ていました。完璧にマスターすると自分の体をやっと動かし始める学習スタイルです。

 もともと文字の読み書きは大変苦手です。発語もなかなか即時に出すことができない。友達とのコミニケーションもフラストレーションが溜まってしまい、ついつい拳を振り上げてしまう。作家の時間で自分の良さを活かすことができず、1年間以上が経過しました。

 作家の時間で、文字を書けるのに何もせず、漫画ばかりを描いていると、やっぱり戸惑います。指導者として心の中がざわざわしてしまう。何もやらない、取り組まないことを放置しておくことで、教育としてこれで良いのだろうかと、私自身が不安になりました。強い指導をして無理矢理に文字を書かせたこともありました。しかし、私たちの特別支援学級のあり方として、そんな強い指導を継続させることはできません。本当にこれでいいのか、迷いを秘めておくことができず、一緒に教室運営している大橋先生に打ち明けました。大介くんがその気になるタイミングはいつか来ると話し、彼が好きな絵を描くという姿を、担任二人でずっと様子を見ていました。


⚪️私たちは大介くんに何をしたか


 あるとき、その大橋先生の支援によって、タブレットを使って作品作りをすすめると、紙で書くよりもずっとハードルが低いということが分かりました。消し跡も残らないし、やり直しもすぐにできます。例えば、タブレットで日記のようなワークシートを作って、そこに彼にとって印象深かった学校生活の写真を入れておき、その中に自分がやったことをキーボード入力できるようにしていく。その支援で、一枚の作品であれば、なんとか作ることができるということが分かりました。ただそれが大介くんが本当に表現したいものかは、私たちにも捉えることができず、どうしても無理矢理に場を設定して、何とかワークシートを作らせるような作品づくりの強要になっている可能性もありました。まあ、何もないよりはいいかと。それでも、作品集に大介くんの作品が掲載されるので、友達や保護者からファンレターをもらうことができました。

 もしかしたら、大介くんは長い時間をかけて、書くことは自分にとってどんな楽しさがあるのか、友達や保護者に作品を見てもらうことで、どういう気持ちになるのかと言うことをゆっくりゆっくり理解していって自分のものにしていったんじゃないかなと思います。

 振り返ると、このタブレットを使った日記形式への支援は、大介くんが自ら書けるようになるための継続的な支援とはならなかったのですが、それに至るためには良い支援になったのではないかと考えています。自分から書くまで何もしないでとことん待つことが得策とは思えません。大切な時間がどんどん少なくなってしまいます。いくら「信じて待つ」ことが大切とはいえ、それを全ての状況に当てはめるのであれば、教師という仕事は必要なくなってしまいます。やはり、具体的な支援とそのタイミングを考えなければなりこません。

 けれども、強引な指導や強い制限をかけることで大介くんの人格を否定するような教え方は、あってはなりません。無理に支援を行えば二次障害を誘発してしまうことも考えられます。特別支援学級に在籍する子どもは、周りの環境に適応することが難しい子や二次障害に苦しむ子も多く、絶対に避けなければなりません。そうなると、熱すぎず、ぬるすぎない、ちょうど良い支援を行うためには、私たちが日頃から大介くんの様子をアセスメントし、対話をしていたからできたのだと思っています。


⚪︎自分の意思で鉛筆を動かし始めた大介くん


 9・10月のブログにも書きましたが、オリジナルキャラクター「大チュウ」との出会いが本当に大きいと思います。大チュウが大介くんの分身となって、冒険をしたり、仲間を作ったり、ホワイトボードや紙の上で大活躍するようになったのです。時間があれば、大介くんは大チュウを描き、周りの友達もおもしろがって、自分の自由帳に大チュウを描きました。大チュウを通じて、仲間とのコミュニケーション量が増大していきました。

 コミュニティの力は大きいです。教師の直接的支援の重要性もさることながら、コミュニティは子どもにとって空気のような存在です。その空気が持つ属性によって、自分の力が十分に発揮できるかが左右されてしまいます。温かさに満ちた仲間とのコミュニケーションの量と質が、大介くんの安心して学習に臨む姿勢を生み出していきました。もしかしたらそれは、教師と大介くんとの関係だけでは成立できなかったかもしれません。しかし、その空気を作り出すことは、教師の大切な仕事であると考えています。教師にとっても、教室の空気作りに成功メソッドはなく、大変難しい仕事ではありますが、子どもたちの力を引き出す重要なファクターであることは否めません。そして、その空気を生み出す一番の存在が、教師に他なりません。

 最初、日記形式のワークシートに大チュウを載せても、大介くんはあまり喜びませんでした。大チュウの日記を出版することを拒み、普通の学習の場面の日記を出版しました。ところが、この後から次第に自分から原稿用紙に手を伸ばしていきます。きっと、自分の納得のいく大チュウを描いてみたいという気持ちになったのかもしれません。休み時間も家でも、大チュウを描き続けました。そして、原稿用紙にまで手を伸ばし、ついに、字を書き始めるようになったのです。大介くんが、こんなにも字を書けるという事実に気づいたのは、最近のことかもしれません。彼が運動会の表現運動もずっと傍から友達のダンスを見続け、当日の2・3日前から踊れるようになる学び方と同じことが、今回の作家の時間でも起きているのだろうと思いました。

 今回、彼が本心で出版したいと決意し、自分の力で書き切った作品『大チュウの大冒険』を私も読み終えて、20年も仕事を続けてきましたが、改めて子どもの成長に携わることができてよかったという思いでいっぱいです。大チュウが仲間に後押しされながら、冒険の旅に出発するところで終わっていて、「つづく」と書かれています。大介くんの不器用ながら成長したいという気持ちが現れた良い作品だと思い、私もファンレターを送りました。もう彼に強引な指導をしなくても、鉛筆を動かし続けています。ファンのために、続きを書き始めているからです。大介くんが本当に表現したいことを失敗や恥ずかしさに負けることなく表現できる喜び、そんな学習の真の楽しさを感じていることは、彼がいきいきと書く姿を見れば、誰にでも分かることであると思います。




2023年12月16日土曜日

深く学ぶ喜びを味わう道

 『理解するってどういうこと?』の第1章で、小学校2年生のジャミカの質問を受けた後、エリンさんは「理解」について再考し始めるのですが、そのときに「理解することとは、知的能力が発達することと同義である」ということに気づきます。それがどういうことか説明するために、エリンさんは自分自身の知的な体験の記憶を次のように語っています。

「私は、高校生のときにアメリカ史の授業で死刑制度についての研究プロジェクトに取り組む課題を与えられたことがあります。私は、数十もの資料を使って、幅広い背景と年齢の人々にインタビューを行い、いろいろな州の法律を調べて、自分自身がこれまでにもっていた価値観や考えていたことをもうこれ以上は無理というまで掘り下げました。いろいろな疑問やイメージで頭のなかがいっぱいになって、夜中に目を覚ましたり、この問題についての話に友だちや家族を長々とつきあわせたりしながら、自分の考えを繰り返し修正したのです。そして、クラスメイトに自分の考えを披露し、主張したことを正当化しなければなりませんでした。クラスメイトたちは質問や難題を浴びせてきました。私の発表が終わって、レポートを提出した後も、私はまだそのテーマに終止符をうつことはできませんでした。頭のなかはずっと揺さぶられ続け、この答えの出ない複雑な問題にもがき続けたのです。自分の成績がどんなものだったかは思い出せませんが、知的な取り組みに高揚感を覚えたのは確かです。その私の満足感は、内面的なものでした。外部から与えられるどんな報酬も、細切れの情報をつなぎあわせてパズルを解いていったこのときの興奮にとってかわることはできないでしょう。この死刑制度という複雑な問題を理解できるようになったことによって、私はもっと多くのことを知りたくなりました。」(『理解するってどういうこと?』9ページ)

 「答えの出ない複雑な問題にもがき続けた」ことで自分の「内面」に「高揚感」「満足感」「興奮」を覚えたエリンさんにとって、「成績」という「外部」からの価値づけは関心の外であったと言ってもいいでしょう。だから「よく覚えていない」と語っています。このプロジェクトで一番いい成績だったというような回想ならおそらくその結果が書かれることになります。ですから「よく覚えていない」なのです。その代わりにここでは、プロジェクトに取り組んだ自分自身が、何をやったか、他の人の反応はどうだったかという過程が克明に書かれています。これは、エリンさんのこの学習の過程で他の何ものにも替えることのできない「内面」の報酬を得たことをあらわします。この引用の後に「もっと多くのことを知りたくなりました」とエリンさんは続けています。知的な探究心がどのように芽生え発展してくのかということを伝え、知的な探究がいかにそれに取り組んだ者の自己効力感を高めるのかということを教えるエピソードでもあります。

 ロン・バーガーさんの『子どもの誇りに灯をともす―誰もが探究して学びあうクラフトマンシップの文化をつくる―』(塚越悦子訳、藤原さと解説、英治出版、2023年)には、エリンさんが経験したような学びの高揚感や達成感や興奮を覚える子どもたちの姿がたくさん描かれています。その一つ「水の学習」プロジェクトで、大学生とともに近隣の小川や井戸の調査研究に協働で取り組んだ子どもたちは、ロンさんを驚かせる「成長ぶり」を示します。プロジェクトに参加した生徒の母親の言葉はロンさんに言います。「私の息子は変わりました。いくらテストの結果が振るわなくても、息子は自分が勉強のできない生徒だと思わなくなりました。あのプロジェクトを成し遂げたのだから、自分にはそれだけの能力があると信じているのです」と(『子どもの誇りに灯をともす』180ページ)。

 おそらくこの生徒もエリンさんと同じく「内面」で知的な高揚感や達成感や興奮を覚え続けたのでしょう。それがあるから、外部からの評価を気にしなくなった。そして自らの知的発達を確信することができたということでもあります。

 『子どもの誇りに灯をともす』のなかで、もう一つ興味深かったのは、208ページから始まる「ある教室のストーリー―教えるためのインスピレーション―」です。「がっしりとした筋肉質の大柄な小学6年生」である「バディ」という男子生徒と並んで歩くシーンから始まりますが、「バディ」を含めた小学生たちと「旧鉱山」に出かけて、岩石採取をするプロジェクトの描写です。「旧鉱山」には洞窟もあったので、そこでも色々な石を採取します。学校に戻ってから、洞窟での体験をもとづいてマーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』の洞窟のエピソードを読み直して、洞窟地図をつくったり、また洞窟を素材にした短篇小説を書いたり・・・というふうにこのプロジェクトは続いていきました。

 「手のかかる」生徒だった「バディ」も、こうした野外での活動には熱心に取り組んだようです。他の生徒たちもそうでした。感心するのは、一人ひとりの生徒たちが自分の「得意」や「興味あること」を見つける手がかりが随所にあるプロジェクトだというところです。また、体験と言葉を結びつけることが組み込まれているというところにも目を引かれました。体験して考えたことを表現する手立てをもつことができるからです。

 エリンさんは「死刑制度」の研究プロジェクトに参加する過程で、知的な高揚感と興奮と達成感を覚えました。ロンさんの生徒たちはプロジェクトに参加する過程で知的な発達を見せました。どんなに小さなものでも入り口を見つけて、そこに入って見つけたものにこだわって探究し、仲間とやりとりしながら、何かをつくり上げる過程で達成感を覚えるからこそ、その後生きていくうえで重要になる自尊心がうまれるのだということを、二人の言葉は教えてくれます。深いレベルで学ぶ喜びを味わう道を。

 

★うかつにも、『子どもの誇りに灯をともす』は「PCL便り」の2023.7.24でも取り上げられていることに、上の文章を書いてから気づきました。引用した生徒の母親の言葉が一致しています。あの言葉はそれぐらいインパクトがあります。

https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC

 

2023年12月9日土曜日

自転車に乗る練習からイメージする「ガイド書き」

 これまで、時々、「ガイド書き」(guided writing) という言葉を耳にしつつも、「ガイド読み」の書くこと版?ぐらいのイメージしかありませんでした。(「ガイド読み」(ガイデット・リーディング guided reading) では、読むことについて共通の課題を持っている子どもたちを集めて、少人数で短い時間、教えます。ガイド読み」については、『リーディング・ワークショップ』(新評論、2010年)第8章「ガイド読み」と「効果的な読み」125ー138ページをご参照ください。★1)

 最近、「小グループで教える」ことに焦点を当てた本『Teaching Writing in Small Groups』(★2)を読んでいます。ライティング・ワークショップで、「全体へのミニ・レッスン」と「個別カンファランス」に加えて、様々な小グループでの教え方をうまく取り入れると、「それぞれの子どもたちへの個別カンファランスの頻度が上がらない」とか「クラス全体にデモンストレーションしても、うまくできない子どもがいる」等への対応ができるヒントがたくさんあるような印象を受けています。

 多様な小グループの教え方の一つが「ガイド書き」(guided writing)で、この本では「ガイド書き」という章(76-86ページ)で説明されています。(以下のページ数は『Teaching Writing in Small Groups』のページ数です。)

 著者のセラヴァロウ氏(Jennifer Serravallo)は、小グループで書き手を教える場合、実のところ、それは「ガイド書き」になっていると言います。それは、集められた子どもたちが、現時点ではまだできていない新しい作家の技や方法にトライして、できるようにガイドするのが目的だからです。教師はいろいろな目的で小グループ活動をすると思いますが、他の小グループとの違いは、書き手に与えられるサポートの量(ガイド書きではサポートがたくさん与えられる)と教え方の構成(ガイド書きでは、教師がしっかりコントロールしている)だと記しています(80ページ)。

 ガイド書きで子どもたちを集める場合、教えるポイントは同じですが、子どもたちは、それぞれ異なるトピックの作品に取り組んでいることも多いです。教師は、異なるトピックでも共通するような指示をたくさん出し、しっかり足場かけ(scaffolding)をしてサポートします(80ページ)。

 例えば、幼稚園の子どもたちを教えているニカルズ先生は、「自分のこと(経験や行ったこと)を書く(personal narrative)」というユニットを教えている時に、「海岸には砂があります。海では泳ぐことができます。海岸が大好きです」というように、事実を書いているものの、それだけで終わっている子どもたちがいることに気づきます。そこで、そういう子たちを集めて、「自分のこと(経験や行ったこと)を書く」時には、ストーリーにはいくつかの出来事の連続性があることや、実際に行ったことや言ったことなどの情報を織り込むことを、ガイド書きで教えることにしました。 (ここから、以下の数段落は、77ページと78ページから、ざっくり紹介です)。

 集められた3名の子どもたちは、それぞれ、プール、海岸、公園について書こうとしています。先生は、それぞれの子どもたちに、プール/海岸/公園に行った、「ある特定の時」を考えるように言います。それから「その時に起こった最初のこと、そこで自分が行ったことを考えるように指示し、それについてさっと絵を書いてみるように言います。「絵に誰がいるの?」「この人は何をしているの?」等も聞きながら、さらに、次に起こったこと、その次に起こったことの絵を書くように言います。 

 簡単な絵ができると、最初の絵について、子どもたちに最初に何をしたのかを尋ねて、それぞれが自分の行動を言えれば、それを文として絵の下に書くように言います。

 また絵に書かれている人が言ったことを、吹き出しで書くようにも言います。

 こんな感じでガイド書きを続け、最後には付箋に「言ったこと」「行ったこと」と書いて子どもたちに渡し、「言ったこと」「行ったこと」を加えるという二つの方法を、子どもたちが今後も覚えられるようにして、終了です。

 先生は最後には「言ったこと」「行ったこと」を強調していますが、実は、ガイド書きの間には、もっとたくさんのことを、サポートをいっぱい出して、できるようにしていることも指摘されています。

 例えば以下です。

・「(プール、海岸、公園に行った)ある1回」について書くのか「プール、海岸、公園について」書くのかの違い

・文を書く前に、場面を思い出して、絵を書いてみる

・文を書く前に、口に出して言ってみる

・一つの文を書いてから、次の文を始める

・絵に戻って吹き出しをつけることで、出てきた人が言ったことを思い出す

・絵を見て、言葉を足す

(77-78ページ)。

*****

 上記のようなことは、先生がどんどん「具体的に行うように促す」ことで、子どもたちは行っています。

 私がイメージしやすかったのは、「ガイド書き」で行うサポートを、自転車に乗り始めた子どもと親に例えていたことでした (80ページより)。

 初めて自転車に乗ることにトライする時に、親が自転車を支えることで、子どもは転ばずに進めます。これは自分一人ではできないことです。親は、コンスタントにサポートをしながら、子どもに「前を見て」「ハンドルをまっすぐにして」「ペダルを漕いで」など、どんどん指示を出していきます。

 これで、「自転車に乗る」という感覚がつかめます。

 でも、いつも親がサポートすることは必要ではありませんし、いつも親がサポートしていると、子どもが一人で乗れるようになることの妨げにもなります。

 同様に、ガイド書きの時は集中的にサポートし、指示もたくさん出しますが、それはガイド書きのときだけですし、ガイド書きばかり使うのも望ましくないようです。

*****

(★1)「ガイド読み」には多様な方法があり、行う人によってかなりバリエーションもあり、『リーディング・ワークショップ』で説明されている「ガイド読み」は、『Guided Reading』という著書もあるゲイ・スウ・ピネル(Gay Su Pinnell) に影響を受けた教え方だと説明されています(『リーディング・ワークショップ』126ページ)。

(★2) Jennifer Serravallo著

Teaching Writing in Small Groups (Heinemann社より 2021年)



2023年12月1日金曜日

子どもたちが国語を好きになり、読み書きの力をつける授業にするための13の問い

 先週の記事の執筆者の冨田先生は、『作家の時間』と『読書家の時間』を15年ぐらい実践し、それらを社会科に応用した『社会科ワークショップ』も10年弱実践しています。なので、国語の授業を「作家の時間」や「読書家の時間」で行う際の「問い」はもはや必要なく、それらを「学校ワークショップ」として実践すべく「問い」を考えたわけです。

しかし、教科書をカバーする従来の国語の授業に疑問を感じている方(や「作家の時間」にチャレンジし始めたばかりの方)は、そういう問いがあった方が考えやすい/実践に進みやすいと思って、考えてみました。参考にしたのは、「作家の時間」を先生たちの学びのコミュニティーづくりに応用した「学校ワークショップ」をする際に冨田先生が考え出した問いのリストです。★ 問いの後には、簡単な解説や情報が得られる本やサイトを紹介しています。


・生徒一人ひとりが、主体者意識を伴った目標を設定することができるか? ~ これを可能にするヒントが、『イン・ザ・ミドル』(特に、第8章? 本全部?)や『あなたの授業が子どもと世界を変える』が得られます。
・教師による講義(話)を1コマの国語の授業で10分ぐらいに押さえられているか? ~ この10分ぐらいというのは、脳の機能に由来しています(人権問題に由来しているという人もいます!)。一番長い時間を生徒たちが実際に書く時間(「読書家の時間」の場合は、実際に読む時間)に割けていますか? 最後の5~10分は「学んだことの共有」や「振り返り」として確保できていますか? ※しかし、いま日本中で行われている振り返りシートを使った「振り返り」は弊害が大きすぎますので、要注意です!!
・国語の授業の「成果物(出版)」は出せているか? ~ 生徒たちが学んだことを発表し、輝ける機会をつくれていますか?
・生徒はポートフォリオを紡ぐことができているか? ~ 自分の学びの記録(作家のサイクルhttps://wwletter.blogspot.com/2012/01/blog-post_28.html を回し続け、それぞれの段階で試行錯誤している記録だったり、ジャンルによって、自分が学んだことやチャレンジしたことの記録など)は、宝物になります。
・生徒たちが主体的かつ対話的に学び続けられる学習環境をどのようにつくり出しているか? ~ 主体的に学んでいる人、話している人が一番よく学んでいるので、それができる環境をどのように作っていますか? http://wwletter.blogspot.com/2010/05/ww.html

・生徒が作品を作ることをモデルで示すように、教師はどのようにモデルを示しているか? ~ WW/RW便り: モデルの検索結果 (wwletter.blogspot.com) でこの点についての記事がたくさん読めます。
・国語の授業におけるカンファランスは実施できているか? ~ 作家の時間は、英語ではライティング・ワークショップ、ライターズ・ワークショップまたはカンファランス・アプローチというぐらいに、教師と生徒、教師と複数の生徒、そして生徒同士のカンファランスを中心に据えた教え方です。
・ファンレター(他者からの反応)は、誰から、どのように受け取るべきか? ~ これをもらうことが、子どもたちには最高のやる気(さらに努力して取り組み続ける意欲)になります。その意味では、最後にもらうよりも、学びの過程でもらえた方が、はるかに価値は高いです。
・生徒の成果・成長を祝うために何ができているか? ~ そもそも、成果物や成長を感じられるものをつくり出しているか? 日本ではこれまで、成果物(生徒の作品やパフォーマンス)をつくる授業や、それらに対する評価をほとんどしてきませんでした。教育界の傾向や本書は、テストに向けての授業や、テスト以外には評価方法は考えられないという「偽の教え方」や「偽の評価」から、「本物の教え方」や「本物の評価」に転換する要として、成果物が位置づけられています。『学びの中心はやっぱり生徒だ!』や、https://docs.google.com/spreadsheets/d/1KXuWtBc4kl6jRr2KGwnqPAH1vSryYkM7qNXd0ArKpYU/edit#gid=1042705275のリストの本のなかでは、本物の成果物やその発表の対象なしの学びは、「生徒中心の学び」とは言えない、という主張が貫かれています。(以上、『みんな羽ばたいて』の5ページより)
・授業を持続可能な形で運営することができるか? ~ ここは、https://projectbetterschool.blogspot.com/2023/01/blog-post_15.html が参考になります。
・一人ひとりの生徒が「学ぶ責任」に耐え、支え合えるか? ~ 生徒たちが責任を担えるような教師の教え方が肝心で、『「学びの責任」は誰にあるのか』や『一斉授業をハックする』が参考になります。
・生徒の多様性が、教師の指向に合う教育論に偏ってしまうことはないか? ~ この点については、『イン・ザ・ミドル』の第1章で著者が『教える論理』から『学ぶ論理』に移行した経緯が詳しく紹介されています。
・「世の中」 のトップダウン・マインドに対して、教室/授業(作家の時間の教え方)を防衛することができるか? ~ テストをして、その成績を出すことや、そのために教える授業がいまだに横行しています。そんな悪習に流されずに、自分を貫くことは容易ではありません。管理職、保護者、同僚たちのその悪習を踏襲する圧力に対して、生徒が書くこと(や読むこと)を好きになり、書く(読む)力をつける教え方を貫くのは大変なことです。『成績をハックする』などを参照してください。

 上の問いのなかには、教材のこと、教材研究のこと、指導案のこと、教科書をカバーすることなどは一切含まれていません。それらはすべて、最後の項目の「悪習」に含まれるものであり、「教える論理」に基づいたものです。ぜひ、「学ぶ論理」に転換した教え方・学び方をお願いします。


http://wwletter.blogspot.com/2023/11/blog-post_24.html の最後のほうで掲載されている問いは、とてもいいリストです。日本の教育書や論文を読んでいると、正解志向があまりにも強すぎて、いい問いを見かけることはほとんどありません。問いこそが、思考を促し、正解(らしきもの)は思考を停止させてしまうにも関わらず。

2023年11月24日金曜日

「学校ワークショップ」〜ワークショップの学び方を生かした学校マネジメント〜

『作家の時間』や『読書家の時間』が学習コミュニティを育てるよいプラットフォームとして成立するのであれば、先生たちが学び続ける学校をつくることにワークショップを応用することはできないでしょうか?



「作家の時間」や「読書家の時間」は他の教科や学習コミュニティにも応用できる




 私は『作家の時間』や『読書家の時間』をはじめとするワークショップの学びの仕組みに関心を持ちました。まだ教職についてまもない20年弱前のこと、子どもたちを「自立的な学習者」へと成長できるようにすることが目的であるワークショップの学び方に共感し、また、学習コミュニティが成熟していったり、子どもたち一人ひとりが書くこと・読むことを楽しみ高まっていったりする姿に感動を覚えました。

 また、自分自身の子どもを見る目、学習を見る目に変化が起きていることに気づきました。他者が作った目標に向かって育てるのではなく、それぞれの子どもが内面から自由意志で伸びようとするベクトルと、私自身が持っているリソース(問い、励まし、知識や経験)とを、どのように掛け合わせたら良いかを模索し、その子特有の成長点へと教師の支援を届けるようにしました。国語という一つの教科の中であっても、子どもたちを「高い」「低い」で見るのではなく、「どのような色をしているか」という点で見るようになりました。教室の中には相互作用と多様性が生まれ、狭い価値基準で他者と比べないで、自分の得意や良さを生かす作品が生まれていきました。

 そうやってワークショップという学習環境を学んできた私は、いつしか、自分の好きな教科である「社会科」や学び続けてきた「特別支援」の現場でも、この学び方を展開できるのではないかと考えました。それが『社会科ワークショップ』です。特別支援の中での作家の時間も、子どもたちの良さを引き出す学習環境となっています。





ワークショップというプラットフォームを使ってマネジメントする




 つまり、「作家の時間」「読書家の時間」は、メソッドというよりは、コミュニティ作りのプラットフォームなのです。そして、その成長過程にあるコミュニティを調整していくマネジメントの一つなのだと考えています。そう考えれば、私が行ってきた『作家の時間』や『読書家の時間』を社会科や特別支援に応用すること以上に、もっと他のコミュニティに応用することが可能なはずです。

 そう、私たちにとって最も身近な学びのコミュニティは、学校の先生たち、学校や職員室に応用することです。


先生たちが学習者の一人として成長しようとする学校とは?




 先生たちも、「自立的な学習者」の一人として学習のコミュニティに参加し、全ての先生が他者が作ったものではない主体者意識の込もった目標を定め、一人ひとりのペースで成長していきます。そこに「高い」「低い」はなく、一人ひとりの差異が色となっていきます。お互いを尊重し、感謝とケアを送り合い、学校の存在目的である「子どもの学習」や「自立的な学習者への成長」にむかって、緩やかに協働して進んでいきます。

 もう語り尽くされた感がありますが、「職員室と学級は入れ子構造である」というフレーズがあります。職員室がトップダウンであれば、学級もまたそうなってしまい、職員室の学びが受動的であれば、学級もまた受動的であることから逃れられません。この入れ子構造から逃れるためには、相当に厚い防衛線が必要で、画一化から自分を守り続けるだけで疲弊してしまいます。

 そうであれば、古い皮袋にワークショップを入れるのではなく、新しい皮袋が必要になるのだと思います。学校全体でワークショップのコミュニティ作りを応用していくのです。





 そのように考えると、いろいろな問いが様々に生まれていきます。


学校ワークショップへの問い


・先生一人一人が、主体者意識を伴った目標を設定することができるか?
・学校ワークショップにおける「ミニ・レッスン」や「振り返り」はどうあるべきか?
・学校ワークショップでの「アウトプット(出版)」はどうあるべきか?
・先生たちはポートフォリオを紡ぐことができるか?
・先生たちが学び続けられる学習環境はどうあるべきか?
・教師が作品を作ることをモデルで示すように、校長はどのようにモデルを示すべきか?
・学校運営におけるカンファランスとは、どのような関係で行われるべきか?
・ファンレター(他者からの反応)は、誰から、どのように受け取るべきか?
・成果・成長を祝うためにどうすればよいか?
・持続可能にマネジメントすることができるか?
・一人ひとりの教師がそのような責任に耐え、支え合えるか?
・職員室の多様性が、リーダーの指向に合う教育論に偏ってしまうことはないか?
・「世の中」のトップダウン・マインドに対して、学校を防衛することができるか?

 これらの問いに少しずつ答えられるような仕事ができたら良いと思っています。





先生の成長を助ける学校ワークショップ


 現在、私は公立小学校の教務主任という立場です。自分も特別支援学級の担任という一人のプレイヤーとして仕事をしながら、学校運営の一端を担っています。

 私の勤務する学校は、一人ひとりの先生が自分の持ち味を生かしながら専門性を磨いています。力のある先生ばかりです。一方で、どこか自信なさげに見えることが多くあります。力があるのに「充実感」や「幸福感」が薄いように見えるのです。他の先生、校長、保護者や子どもから、求められている理想の教師像を気にし過ぎているのかもしれません。私自身もどのように声をかけたら良いか分からず、先生たちの背中を見つめるだけになってしまうことも多くあります。



 私の教師としてのあゆみと共にいつも傍にいたワークショップの学び方が、子どもたちだけでなく、先生たちを助ける方向に生かせないかを考えています。




(写真は「横浜市自然観察の森」 子どもたちと宿泊体験学習に行きました)

2023年11月18日土曜日

新しく学んだことを既知のことに関連づける「マルジナリア」

 『理解するってどういうこと?』の第5章には「読み・書きを学ぶ際の主要な構成要素」として「さまざまな認識方法」が掲げられています(『理解するってどういうこと?』167ページ)。読み手が流ちょうに読むのを助ける一連のスキルと方法は「表面の認識方法」ですが、読み手が自分の理解を拡張して応用するための理解を助ける一連のスキルと方法は「深い認識方法」と呼ばれています。このうち「深い認識方法」には「意味づけの領域」「関連づけの領域」「優れた読み手・書き手になる領域」の三つの領域があるとされています。

 本を読んでいて新しい知識にめぐりあった時には嬉しいものです。しかしその新しい知識を「深くわかった」と実感する時に私たちのなかでは何が起こっているのでしょうか? それは、新しく学んだことが自分の既に知っていることと関連づけられた時ではないかと思います。そのようなことが起これば、自分の既に知っていることはかたちを変えざるを得ません。自分が既に知っていたことが間違っていたと思える場合すらあります。そのように揺さぶられるからこそ、新しい知識を「深くわかった」と実感するのではないでしょうか。

 私は、そういう意味で、『理解するってどういうこと?』に記されている理解の仕方の中心になるのは、「深い認識方法」の「関連づけの領域」ではないかと考えています。エリンさんは次のように言っています。

「関連づけの領域とは、説得力を持って書かれた文章を読むあいだ、活性化された私たちの頭のなかで働いている認識過程のことです。子どもの頃から読んできたいろいろな本についての消えない記憶を残してくれて、表面の意味以上の書かれていないメッセージ(ある本や文章を書くときに作家が考えていたであろうさまざまなアイディア)をじっくり考えた初めてのときのことを、思い出させてくれる領域です。(中略)関連づけの領域は、私たち一人ひとりの解釈をつくり出し、読む意欲をかき立てる、エンジンのようなものなのです。また、新たに学んだり発見したりしたさまざまなアイディアを取り入れることで、自分が既にもっていた知識や、もともと持っていた考え方や、感情や意見を作り直してくれます。」(『理解するってどういうこと?』178ページ)

 では、「関連づけの領域」を発動させるにはどうしたらいいのでしょうか。そんなに簡単なことでないように思われます。どうすれば新しく学んだことを既知のことに関連づけることができるのでしょうか。

 以前取り上げた『記憶のデザイン』(筑摩書房)の著者山本貴光さんに『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』(本の雑誌社、2020年)という著書にはそのためのヒントたくさんあります。「マルジナリア」とは、山本さんによれば、本の余白(マージン)に書き込まれたもの、のことです。いわゆる「書き込み」ですね。『マルジナリアでつかまえて』はこの「マルジナリア」の諸相を多彩に知らせてくれる本です(『本の雑誌』に連載された記事がもとになっています)。

「文章とは、書く側からいうと、読者の脳と記憶に探りを入れて、そこにあるものを意識にのぼらせてしまう一種のハッキングの技法みたいなものだ。これを読む側から見れば、誰かが書いた言葉の組み合わせを目から脳に文字通り体に入れて、なにが生じてしまうかを自分の体で実験しているようなものである。なにそれコワイ!コワイが楽しい!!

 念のためにいえば、そのつどの読書は一度しか生じない。同じ川に二度入れないのと同様である。マルジナリアとは、そうした出来事の観察記録でもあるのだ。」(『マルジナリアでつかまえて』57ページ)

 読者自身の頭のなかで行われる「関連づけ」を具体的に自分が「観察」できるようにしてくれるのが「マルジナリア」であるというわけです。「そのつど」の読んで気づいたことが言葉や記号や絵図として残されるのです。そしてその「マルジナリア」を私たちは再読することもできます。

 そんなことは読書ノートやジャーナルに書けばいいではないかと思われるかもしれません。実際私もそうすることは少なくないですが、時間をとっていささか構えて書くことになります。それに対して、「マルジナリア」は読んでいる本自体をノートやジャーナルにしてしまうものでもあります。

 『マルジナリアでつかまえて』には、古今東西の、自分の読んでいる本をノートやジャーナルにしてしまった人々のことが、その人々の実践のありようを示す写真とともに、柔軟でわかりやすい文体で紹介されています。漢文訓読すらも「マルジナリア」だと言われると、漢文学習が少し違ったものに見えてきて、これも中国文に対する深い理解のための「関連づけの領域」だったのだと思えてくるから不思議です。多彩な「マルジナリア」の姿については是非本書を手に取ってご覧下さい。

『マルジナリアでつかまえて』の最後のあたりに「マルジナリアことはじめ」という章があります。山本さんの経験をもとに「マルジナリア」をどのようにつくるのかということがわかりやすくまとめられています。「書き込み」については次のように述べられています。

「書き込みにもいろいろありますが、線を引くのはその一つ。中学や高校の教科書などで重要な箇所に選を引いたりした経験があるかもしれません。ページにたくさんの文字が並ぶなかで、「ここは重要」という箇所を浮かび上がらせるためのマーキングですね。

「重要」な箇所ばかりでなくてもよいと思います。私の場合、「気になるところ」ぐあいの意味で線を引くことが多いです。ここは気になる、あとでもう一度戻ってきたい、なんだろうこれは?といった具合です。基本的には、「あ、ここ線を引きたい」と感じたら気持ちの赴くままに引けばよいわけです。もちろんなんらかのルールを設定して運用するのもありです。」(『マルジナリアでつかまえて』255ページ)

 「あ、ここ線を引きたい」という箇所で、おそらく「関連づけ」が起こっているはずです。読者の既知の情報が揺さぶられています。そこのところが「マルジナリア」をつくる意義でもあると思います。この引用のすぐあとの部分で、ついつい線を引きすぎてしまうことがよくあると述べられていますが、その場合は、線を引いた部分のなかでとくに大事なところをマーカーペンなどでマーキングするとも書かれています。これもなるほどと思いました。大事なところのさらに大事なところが絞り込まれていきます。

では読んでいる本の余白にどのようなメモを山本さんはしているか。


 「・要約:込み入った内容を簡単にまとめる

・換言:込み入った内容を自分なりにパラフレーズ

・意見:読んで思い浮かんだこと、アイデアなども

・疑問:書かれていることへの疑問

・調査:他の文献やネットなどで調べたこと

・原文:翻訳書などで原文の表現がどうなっているか」(『マルジナリアでつかまえて』257ページ)

 

こうなると、かなり詳しく読んでいる自分の思考や記憶をその本の内容と関連づけて言葉にすることになります。「要約」も「換言」も「意見」も「疑問」も、既知のことと関連づけるからこそうまれ、意味をもつことになります。山本さん述べるところの「マルジナリア」が「関連づけの領域」を発動させ、活性化させると私が考えるのもこのためです。こういう営みが理解の「エンジン」となることは言うまでもありません。そして、山本さんはこんなことも言っています。

「こうしたマルジナリアを眺めていると、ものを読むとはいったいどういう営みなのだろう、といまさらながら不思議な気分にもなってくる。もう少し言えば、私たちは一冊の本を読み終えたりできるのだろうか。開くつど新たな発見や疑問が湧いてくる本があるとしたら、その本を読み終わる日は来るのだろうか。

ボルヘスに、開くたび違うページが現れる「砂の本」という短篇があったのを思い出す。実は、どんな本も「砂の本」なのかもしれない。それにほら、余白に書き込みをすると、そのつど違うページになるのだしね。」(『マルジナリアでつかまえて』179ページ)

菅啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』(ちくま文庫)を想起させる言葉です。「そのつど違うページになる」からこそ、「マルジナリア」が記された本や文章は、その読者にとってかけがえのない宝物であると言うこともできるでしょう。読み終えることができないからこそ、その本について、世界について、自分について深く知るためのプラットフォームになるのだと思います。

 

 

2023年11月11日土曜日

子どもたちが自分でジャンルを選択する創作活動 〜先生の先を行く生徒たち?

 「自分が何について書きたいのか」よりも、「自分がどういうジャンルで書きたいのか」の方に心を惹かれる、そんな子どもたちの姿を教室で見ることはありますでしょうか。例えば、ファンタジーを書き続ける子どもは、「ファンタジー」というジャンルが持っている力に惹かれているのかもしれません。自由な世界を作り出し、現実ではあり得ない方法で登場人物を活躍させることができるという、このジャンルの特性から、力を得て、ファンタジーを書き続けているのかもしれません。また、ビデオゲームのガイドを書くことが好きな子どもは、友だちに自分の知識を伝えられることが楽しいのかもしれません。最近読み始めた本『Craft and Process Studies: Units That Provide Writers with Choice of Genre』(3ページ)の中に、上記のような内容を見つけ、たしかに、あるジャンル/タイプの持つ力を見つけてしまった子どもはいるだろうなあと思いました。

 ある4年生の教室でも、自分の書きたいタイプの作品について尋ねると、「パロディ」「(出版されているものの)続編」「実際にあるテレビ番組の自分なりのエピソード」等々が出てきて、先生が「それは自宅で書いているの? それとも学校で?」と尋ねると、子どもたちは「自宅で」と答えるという場面があります(2ページ)。教室外で、教師の知らないところで、実は子どもたちは、熱心な書き手だった、ということもあるようです(3ページ)。そして、自分がのめり込むジャンル/タイプの作品を作り出すことに時間も忘れて熱心に取り組むにもかかわらず、そのような創作活動は、「教室の学び」の中には存在しないように感じる子どももいるようです。「意見文」「回想録」「詩」「フィクション」など、「ジャンル学習」でジャンル別に単元を組んでいても、子どもたちが興味のあるジャンルを全て取り上げていくのは不可能ですから、そこに入らないジャンルは「学習ではない」と感じてしまうのかもしれません。

 この本の著者のグラヴァー氏(Matt Glover)は、「子どもたちが自分でジャンルを選択する」ことを取り入れるメリットとして、以下の6点を記しています(6ページ)。

・本当の目的と読者を選ぶことを後押しする

・子どもたちが、ジャンルの概念をより理解できるようになる

・その分野での学びを加速させ、深める

・書き手としてのアイデンティティを強める

・ジャンル、トピック、読者、目的の4つを一緒に活用する

・生徒を書き手として理解するための大切な情報を教師が知ることができる

 上記で挙げた中の下から二つめ「ジャンル、トピック、読者、目的の4つを一緒に活用する」の好例が紹介されていました。5年生のジェレミー君です。先生がカンファランスで、「読者は誰を考えているの?」と尋ねたとき、以下のような答が返ってきました(15ページ、以下の説明も、全て15ページより)。

 「猫を家族に迎え入れた時のことを書いている。書き終わったら、複写して、猫の保護施設の人に渡すつもり。そうすれば猫の保護施設の人が、そこに来た人に僕の話を渡せるので、猫を家族に迎え入れようと思う人が出てくるかもしれない」

 先生は、カンファランスで読者を決めることについてサポートしようと思っていたようですが、ジェレミー君は先生の遥か先を行っていたようです。

 グラヴァー氏は、猫を家族に迎えた話であれば、あらかじめ単元として予定されている「回想録」というジャンル学習の時に書くこともできる、しかし、「回想録」のような、あらかじめジャンルが指定されている単元の場合、他のジャンルの可能性を考えることはできないことを指摘しています。

 子どもたちが自分でジャンルを選択できる場合、いろいろなジャンルを頭に浮かべながら、自分が伝えたいこと(題材、目的)と読者に最適と思えるジャンルを選択できる、つまり、トピック、目的、読者、ジャンル全てを、統合的に考えられるというのは、大きなメリットになりそうです。

*****

 まだ、この本の全体像は見えてこないのですが、ミニ・レッスンの定番で出てきそうなクラフト(作家が使える技)やプロセス(さまざまな書く段階)の中でも、多くのジャンルに共通するトピックは多く、題材の選択だけでなくジャンルの選択をどのように加えたり、位置付けたりするのかを引き続き考え、また紹介できればと思っています。

★1

Matt Glover著

Craft and Process Studies: Units That Provide Writers with Choice of Genre

Heinemann社より 2020年


2023年11月3日金曜日

「観点別評価」の三つの観点には、問題がある!

 今回は、前回と前々回の記事への異なる視点からのフィードバックを書きます。

 まずは前回の記事から。

 記事の後半部分には訪問者二人の感想が紹介されており、その最後に これからどのように他者の視点を意識したり,社会のニーズに応える文章の書き方を獲得していくのか,そのプロセスについて,次はまたお話をうかがってみたいと感じています」と書かれています。

前者の「他者の視点」については、その後に実践者がフォローしていないことから分かるように、ライティング・ワークショップでは一切問題になっていないからです。というか、ライティング・ワークショップのアプローチほど、読み手を意識して書く練習をするものはありません。「書きたいことを書く」と同じレベルで大切にしているのが、「目的をもって書く」「設定した対象に届く文章を書く」だからです。相手に届かなければ/相手が面白がってくれなければ、届くまで/面白がってくれるまで書くようになります。それを実現するために、「作家の椅子」という仕掛けがあったり、読者からのフィードバックが大切にされています。書いている途中の仲間にアドバイスをもらうことも、頻繁に行われています。

このことによって、渡辺さんが授業参観の主な目的に設定していた「学びのなかで起こる子どもたちの内的変化」も、かなり起こっています。

それが読み取れる事例が、『増補版・作家の時間』で紹介されています。第11章の「1年間の子どもの成長~作文が大嫌いだった粕谷君」です。4月に粕谷君が書いた文章と年度末の3月にクラスの発表会で彼がみんなに紹介した文章(そして、その間に彼のなかで起こった変化が、明らかです。

いま教育界では、「活動」が重視されています。それも、教材研究を念入りにした教師が事前に考え抜いた「活動」が。それがあたかも、教師がすべきことと理解する風潮が濃くあります。全国の附属学校を含めて研究校での研究発表は、その線上で行われています。しかし、そうした取り組みが周辺の学校に普及することは、ほとんどありません。考え出した先生しかやれませんし、子どもたちにとっては、どんなに教師ががんばったところで、活動はやはり「やらされ感」の濃いものですから。生徒が自分から主体的に、自立的(「自律」ではありません!)に取り組む類のものではありません。

しかし、粕谷君の事例だけでなく、渡辺さんたちも見た今回のクラスの子どもたちも、授業中だけでなく、授業以外でも考え、書き続ける子どもたちが増えるのがライティング・ワークショップです。子どもたちは、自分が本当に表現したいことに出会えば、時間なんか関係なくなります。休み時間、昼食時、放課後、家に帰ってからも、考え、そして書き続けます。それが読み手に伝わることを念頭に入れて。これは、「活動」とはまったく次元の異なるものです。「自分事」のレベルもまったく違います。

 こうしたプロセスにより、子どもたちは単に書くことが好きになるだけでなく、そこでのクラスメイトや読者とのやりとりを楽しむようになり、書くスキルを磨き、書く力をつけ、そして学校を卒業してからも書き続ける素地を身につけています。(これらのどれだけを作文教育は実現できているでしょうか?)

 

後者の「社会のニーズ」については、実践者自身がブログの最後で5行にわたって、とても誠実に考えています。しかし、このテーマに関しては、参観者と実践者の継続的な対話を期待したいところです。何しろ、この問いを投げかけた責任が参観者にはありますから。

私がこの点について紹介できるのは、http://wwletter.blogspot.com/2023/02/sel.html です。特に冒頭の部分を読まれて、あなたはどのような感想をもちましたか?

もう一つは、『イン・ザ・ミドル』の29~30ページに書いてあることです。これを含めて第1章「教えることを学ぶ」はぜひ読んでみてください。

子どもたちはみな、ストーリーをもっています! それも、価値あるストーリーを。

それを吐き出すチャンスを与えていないのは、教科書をカバーすることこそが大事に仕立て上げている、現行の教育制度です。あまりにも、「銀行型の教育」をやり続けることに忙しく(ちなみに、この「預金型教育」に対置する形でパウロ・フレイレが提唱しているのが「探究型教育」でした)! この転換が実現しない限り、無駄な努力と時間を浪費するだけの教員研修と授業が続くことが約束されています。

このような一人ひとりの生徒の書くことを含めた学びを大切にした実践がまとめられている本が、『一人ひとりを大切にする学校』デニス・リトキー著ですので、おすすめです。学校のあり方を根底の部分で考え直すための視点が網羅されています。その一つは、評価(エキシビション、ポートフォリオ、ナラティブ)です。テストや成績である限りは、授業も「探究型」ではなく「預金型」をすることを義務付けているわけですから。両者は、コインの裏表の関係にあります。

 前々回の記事では、八田幸恵・渡邉久暢著『高等学校 観点別評価入門』が『理解するってどういうこと?』との関連で紹介されていました。

 引っかかったのは、その「観点別評価」=「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」のことです。

 多くのまじめな先生たちが、それを真に受ける形で苦労されているのを見てきました。それは、単元を計画したり、評価/成績をつける際に、それら三つに「無理やり」合わせようとすることによって起こり続けています。

 教育の目標イコール評価は、扱う教科領域が何であれ、通常は知識・技能・態度で表されるものではないでしょうか。それら三つによって教師はカリキュラムを考えて教え、生徒たちは身につけるのが望ましいものとされています。

 しかし、現在の学習指導要領で求めている「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」という三つの観点は、それとのズレがあります。

 このズレを、文科省はどのように考えているのでしょうか?

「思考・判断・表現」は、すべて技能に含まれます。そうなると、「知識・技能」の技能に含まれているものは、文科省は何と捉えていて、研究者や現場の先生たちは何と理解しているのでしょうか?

 残るもう一つの「主体的に学習に取り組む態度」も、最初に登場した時から問題であり続けています。私が最初にそれを聞いた時に思ったのは、その9割がたは教師★の授業評価であって、生徒が示せる態度は「いいところ」1割ぐらいではないか、というものでした。通常、生徒たちは、自分が興味をもてそうにない教科書教材や、教師がよかれと思って用意した教科書以外の学習材ないし活動に参加させられる形で授業が展開するのですから。(そこに「自立」が入る余地はほとんどなく、教師は生徒の「自律」を願う程度です。)

 このような大きなボタンの掛け違えがあるなかで、観点別評価にこだわり続ける意味はあるのでしょうか?

評価(および評定/成績と、その裏返しとして生徒たちが身につけるべきもの)ということでは、(ボタンを掛け違えている)日本産の評価本と、本物の評価を志向している海外の評価本の「比較読み」をおすすめします。

・『一人ひとりをいかす評価』キャロル・トムリンソン著

・『理解するってどういうこと』エリン・キーン著

・『成績をハックする』スター・サックシュタイン著

・『聞くことから始めよう!』マイロン・デューク著

・『成績だけが評価じゃない』スター・サックシュタイン著

・『テストだけでは測れない!』吉田新一郎著

・『イン・ザ・ミドル』(特に、第8章)ナンシー・アトウェル著

 

★教師に言わせると、9割がたは「それは、教科書の責任でしょう」となるかと思います。それほど、教科書というシロモノは大きな問題を抱えています。『教科書をハックする』を参照ください。

2023年10月28日土曜日

教室に本物の編集者さんがやってきた 特別支援学級の作家の時間

(すべての子どもの名前は仮名です。エピソードや児童の特性などにも、ある程度の加工を加えています)

 あまり季節の変化を感じさせないTシャツばかりの子どもたちでも、上着を羽織って登校する姿が多くなってきました。私が担任する特別支援学級の子どもたちは、一部の活発なアウトドア派を除き、まったりと教室で「作家の時間」をしたり、教室のテーブルコーナーでおしゃべりをしたり、休み時間はインドア志向が強いのですが、それぞれの過ごし方で休み時間を過ごしています。

 先日、図書文化社の渡辺さんと村田さんが「作家の時間」で学ぶ子どもたちの様子を参観しにきて下さいました。お二人は、「作家の時間」と「特別支援」の両方に興味を持っていただき、ご連絡をいただきました。教育に関する発信をしていただいていますが、お話によると、なかなか現場を直接ご覧になる機会も少ないとのこと。それではということで、都内からはるばる横浜の郊外までご来校いただきました。

 今、ノンフィクションのユニットをひとまず区切り(ノンフィクションを書き終えたい子はまだ書いています)、フィクション作品の制作に取り組んでいます。ご見学いただいた日のミニ・レッスンは、「ファンタジーの入り口」の話。『めっきらもっきらどおんどん』(長谷川摂子作 ふりやなな画 福音館書店)を題材に、現実の世界から突然ファンタジーの世界に切り替わる時のポイントについて、考えました。千と千尋の神隠しの「トンネル」と同じという話も出て、よく理解できている子もいます。まだ子どもたちは、フィクションを書き始めたばかり。構想を練っている段階で、物語の概略を作るために有効な作家のテクニックだと思い、取り上げてみました。

作品作りは一進一退の大介くん

 今年度が始まって半年ほどの間、イラストしか描かなかったり、描いても恥ずかしくてすぐに捨ててしまう3年生の大介くん。失敗やうまくいかないことへの不安から、人の目を気にしすぎたり、少しうまくいかなかっただけで捨ててしまったり、なかなか継続できませんでしたが、オリジナルキャラクターの「大チュウ」を創作したことで、彼の中で少しずつ変化が生まれていました。(2023年9月22日の投稿にも登場)

 なんと、タブレットで描いた「大チュウ」を印刷して欲しいと、私に頼んできたのです。これは、前回もらったクラスメイトの保護者からのファンレターがもう効果を発揮したのでしょうか。 私は早速、カラーで3枚印刷しました。1枚は家庭用、もう1枚はお気に入りファイル用(自分の好きなものを蓄積できるポートフォリオ リンク先の生活科ワークショップのお宝ポートフォリを参照)、そして、それとなく教室の壁面掲示板に貼っておく用の3枚です。

 今日はなんと、文字とイラストの両方が書ける原稿用紙に絵と字を描いているではありませか!!もう3年様子を見ている私からすると、これは奇跡です。大介くん自身が決めたものを、誰からも指示をされずに取り組んでいるなんて。しかも、字も絵も書いています。本当に素晴らしいことです。私は、「大介くんの作品、楽しみにしているよ」と声をかけるだけで、特に何も支援をせずに、自分の作品作りをすることにしました。あまり大袈裟に褒めて、プレッシャーになってしまうことを避けたかったからです。

 しかし、授業後、これまで以上にしっかり書けている大介くんの原稿用紙の束が捨てられていることに気がつきました。ショック…。やはり、理想が高すぎるのか、人の目を気にしすぎているのか、難しい局面です。一応、ゴミ箱からこっそりその束を拾っておきました。

 子どもの成長は一進一退。また、ゆっくり慌てずに、文字で自分を表現する楽しさを味わえるように、あの手この手で促していこうと思います。

ここぞとばかりに自分の作品をPRする康太くん

 5年生の康太くん(2023年8月26日の投稿にも登場)は、動画クリエイターやイラストレーターのような仕事に就きたいと考えています。今日は雑誌のプロの編集者さんである渡辺さんと村田さんが来ると聞いて、朝から自分の作品のPRをしたいと気合いが入りっぱなしです。お二人が教室に入るや否や、テーブルコーナーに誘い込み、自分のこれまでの動画作品や作家の作品を見せ、将来のために自分を売り込んでいます。素晴らしい行動力!! これは将来、本当に大物になりそうですね。

 もちろん、この日の作家の椅子は、康太くんが名乗り出ました。康太くんは、アニメや漫画のように人物のセリフや行動のみの記述になってしまい、場面の設定への記述や情景の描写を書き込むことができずにいましたが、前回のカンファランスで「天気」「風」「温度」などで、人物の心情を表現するテクニックを教えました。「任せといて!!」という感じだったので、康太くんならやってくれると思っていましたが、本当に恐ろしいほど理解が早いです。お城に他国の兵隊が攻め込んで、王子様が亡くなり、ペットが飼い主を亡くして途方にくれる様子を、セリフを少なくして表現し、ショート・ストーリーに仕立て上げました。康太くんはこれを、2日間ほどで仕上げてしまうので、すごいです。(気分屋で多動傾向が強く、かつては教室で学ぶことができませんでした。一つのことを熟考することは苦手で、インスピレーションと瞬発力で、一瞬にして作品を形にします。余った時間は好きなことをしています。)

 編集者のお二人にもしっかりPRできて大満足の康太くん。将来本当にお仕事をすることがあるかもしれません。

時間割変更してでも作家の時間を欲しがる紀之くん

 この日の作家の時間も、「ミニ・レッスン」「ひたすら書く」「作家の椅子」と進み、授業が終わって帰りの支度を始めています。3年生の紀之くんは将来、作家になりたいそうです。独特の世界観をもち、これまで読んだことのないストーリーを作ります。今は、2時間後、4時間後、8時間後の未来から来た主人公と現在の主人公が一緒に難しい宿題を協力して行う長編作品(100ページ以上に及びます)を執筆中です。

 その紀之くんが時間割ボードのところに来て、もう一人の担任の高木先生に、文字通り口角泡を飛ばして訴えています。「明日の国語を4時間目にズラしてください!!交流があって、作家ができません!!」私と高木先生は目配せをして、国語の時間を移動させることにしました。

 紀之くんは普段はとても穏やかですが、一つにこだわると頑固な職人さんのようにとことん突き詰めるタイプです。もうこうなると、紀之くんを説得するのは困難であることは、私たち担任には分かっていました。同時に、私たちは嬉しくもありました。一人ひとりの興味関心に寄り添える特別支援学級の学習といっても、これほど子どもたちが自分で設定した目標を達成したいという意欲に溢れる姿を見られるのは、それほど多くないものです。紀之くんの自分らしく学びたいという気持ちを発露させたこの行動は、私たちにとっても嬉しいものでありました。

編集者から見たライティング・ワークショップの感想

 さて、昼休みから5時間目の作家の時間、帰りの会の様子を見ていただいた渡辺さんと村田さんには、この子どもたちの姿はどのように映ったのでしょうか? 後日感想をいただくことができました。

村田さんからいただいた感想

 今回、特別支援学級でのライティング・ワークショップの授業を1時間見学しました。この実践の教育的考察は私にはできませんが、取り組みをみた感想を述べたいと思います。私は編集者をしていますが、この仕事のなかでいちばんの苦難は原稿がこないことです。ただしこれも避けては通れない生みの苦しみ、きっと寝る間も惜しんで原稿と向き合っているのだろう、とこれまで自分を納得させてきましたが、実はそうでもなかったのかも知れません。

 ライティング・ワークショップをみてみると、子どもたちは自分からあれを書きたい、これを書きたいと手を挙げます。書いているあいだはもの凄い集中力で、見学者には見向きもしません。できあがったら発表して友だちに感想を聞き、「おもしろかった」と答えると「どこが? 具体的には?」と聞き返すのです。書くことへの強い意欲、そしてよりよい作品づくりへの貪欲さを感じました。授業のおわりには、「もっと書く時間をくれ」と先生に時間割変更の交渉までこなしてしまいます。

 自分が抱いていた作文授業のイメージとはあまりにも違っていて戸惑いっぱなしの1時間でしたが、ものを書くという知的活動を子どもたちが存分に楽しんでいる姿が印象的で、いまも目に焼き付いています。これが「生みの喜び」なのだと思い知られました。私がお願いしている原稿が待てど暮らせどこないのは、そういうことかと反省した次第です。

 最近は出版界隈にも生成AI旋風が巻き起こっていますが、これからは文章作成も校正もなんでもAIがやってくれるそうです。子どもたちが大人になる頃には、人間が文章を書く必要がない時代になっているかも知れません。だからこそ、喜びであれ苦しみであれ、知的な生産活動をこれからも全力で楽しんでいってほしいと思いました。(村田さん、ありがとうございました)

渡辺さんからいただいた感想

 いつ授業が始まるのかな? 作文の授業とうかがっていたのに,子どもたちがまずは自由にお絵かきするところから始まったことに,戸惑いを感じました。しかし,そのうちに子どもたちは,絵に合わせて,ぐんぐんとストーリーを書き始めました。

「これは,いわゆる読解や作文の学習とはまったく異なるぞ」ということが,だんだん感覚を通して私にも理解されはじめました。

「好きなことだから,楽しかったことだから,そのことを自分は書きたい」「一生懸命書いたから,それがみんなにも伝わっているかを確かめたい」「書くのが好きだから,もっと上手くなるための意見やリクエストがほしい」,こういったシンプルな願いが原動力になって子どもたちの活動が進んでいくのです。そして,読み手の「もっと続きが読みたいな」「○○さんの世界をもっと知りたいな」という反応が,さらに書き手を鼓舞していきます。

「真正の学習」とはこういうことか,と頭で考えるよりも先に納得が生じました。本の編集を仕事にしている端くれとしても,この活動には「ものを書くということの本質」がたくさん詰まっていることを感じました。

 特別支援教育の教室で実践されているということで,ひとりひとりの子どもの様子にあわせた学習上の工夫もたくさんありましたが,私がいちばん感動したのは上記の点です。「好きなことだから,楽しかったことだから,そのことを自分は書きたいのだ」という自分中心の原動力からスタートした子どもたちが,これからどのように他者の視点を意識したり,社会のニーズに応える文章の書き方を獲得していくのか,そのプロセスについて,次はまたお話をうかがってみたいと感じています。(渡辺さん、ありがとうございました)

感想を頂いて

 村田さんの「生みの喜び」は、私たち大人が忘れかけている感覚かもしれません。「プレイフル」「メイカー」「ティンカリング」など、学習者中心の学び方と根底を同じくする大切な感覚なのだと思います。これを投げ出してしまっては、学ぶことは「よくできた偽物」にすり替わってしまうかもしれません。

 渡辺さんの「社会のニーズ」についての投げかけは、私自身も自ずと思考を巡らせてしまうような問いを頂いたと思っています。特別支援学級の子どもたちにとって、「社会のニーズ」とはどのような形に見えているのか。また、私たち特別支援学級の教師にとって「社会のニーズ」に応える国語とは何なのか、そもそも、学校とは「社会のニーズ」とどのように相対して行けば良いのか。これについては、またの機会に考えていきたいと思います。

(写真は雲取山への登山道で見つけた巨大なカラカサタケ)



2023年10月21日土曜日

子どもたちの遠い未来の姿を見据える

 

子どもの遠い未来の姿を見据える

 

八田幸恵・渡邉久暢著『高等学校 観点別評価入門』(学事出版、2023年)は、現在の学習指導要領で求められる「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」という三つの観点に即した「観点別評価」について、具体的な事例に基づきながら丁寧に書かれた本です。が、本書「まえがき」によると、「観点別評価」の仕方についての「ノウハウを伝達すること」をねらったものではなく、「現行の「観点別評価」をいかに教育評価の理念に沿って実施できるか、その方針を示すこと」を目的とし、「読者一人ひとりが自身の評価観を構築することに寄与すること」をめざした試みです。

「観点別評価」についての本ですが、著者たちの試みの中心は、どのような「理解」をすることができる人として生徒を成長させていくかということにあります。なるほどと思い、読み進めながら大事だと思ったところに付箋紙を貼っていきましたが、付箋紙だらけになってしまいました。

たとえば八田さんと渡邉さんは「教科で育てるべき資質・能力を階層的に捉える」ことを主張しています。

 「そもそも資質・能力を階層的に捉えるとは、それぞれの層は質的に異なっているのであり、基礎となる層が形成されても発展の層が形成されているとは限らないと考えるということです。すなわち、個別具体的な知識を暗記している(「知っている・できる」)からといってその教科における重要な概念を自分の頭で理解している(「わかる」)とは限らない、重要な概念を自分のあたまで理解している(「わかる」)からといって実生活・実社会の文脈において使いこなせる(「使える」)とは限らないということです。」(『高等学校 観点別評価入門』57ページ)

 「「知っている・できる」レベルであれば、発問と答えを繰り返す一問一答式の言葉による教え込みの授業でも形成できるかもしれません。また評価方法に関しては、多肢選択式、穴埋め問題、正誤式といった伝統的な評価方法で評価できます。/一方で最も深いレベルである「使える」レベルの学力は、言葉で教えられるだけではなく、実際に自分で経験してみないと形成されません。たとえば論証の妥当性という視角からテキストを批判する資質・能力は、いくら教師が言葉で「主張-論拠-根拠」を教えて、対象となっているテキストの主張部分や論拠部分を指し示してみたとして、それだけで生徒が論証を捉え妥当性を検討できるようにはなりません。実際に生徒が自分で論証の骨格を抜き出してみたり、様々な反論を読んでみたり、自分で論証を意識して書いてみたりする経験を積み重ねることで、じわじわと形成されていくものです。「テキストを批判するとはどういうことか」といった深いレベルの理解は、最終的には言葉を超える「ピンときた」経験や「身体で掴んだ」経験に依存するものであり、言葉による伝達や指示には限界があります。したがって評価方法に関しても、実際にパフォーマンスさせてみるような評価方法が求められます。」(『高等学校 観点別評価入門』5960ページ)

 「階層的に捉える」とは、「知っている・できる」レベルと「わかる」レベル」、「使える」レベルの違いを見極めることでもあります。「知っている・できる」ことでも「わかる」レベルにあるとは限らない、そして「わかる」レベルにあっても、「使える」とは限らない、ということでもあります。「知っている・できる」「わかる」レベルは、『理解するってどういうこと?』の41ページにある「表22b 多様な理解の種類(私たちが生活のなかで経験すること)」を知ること、そして「使える」レベルは347349ページの「表91 理解することで得られる成果」を言葉にすることだと言っていいかもしれません。

「表74 ノンフィクションをしっかりと読めるようにするには」(『理解するってどういうこと?』274276ページ)には「効果的な指導法」として、「ノンフィクションのさまざまな構造」や「ノンフィクションの障害」を教えたり、そのために必要な「用語」を教えたりすることが挙げられていますが、それは「知っている・できる」「わかる」レベルのことだと考えられます。しかし、それらを「使える」レベルにするためには「ノンフィクションの構造や障害を示して説明できるようになるべき」だとされ、「ひたすら読んだり、書いたりする時間に、自分が読んだり書いたりしているノンフィクションの理解を促進するために、その文章構造や障害をどれだけ認識し、使いこなしているかをカンファランスしたり、仲間と話し合うように指導」することが必要だとされています。その過程で、八田さんたちの言う「じわじわと形成されていくもの」について、エリンさんは次のように言います。

 「子どもたちがフィクションを読むときとは違った方法でノンフィクションを読むように教えたときは長持ちします。それは、子どもたちが教室を巣立ってから後にも長く使うことができるツールですし、私たちが想像もできないような難しいノンフィクションを読み、情報を理解するときに活用できる方法です。ノンフィクションの構造と障害について学ぶことは、多様な種類の理解に役立ちます。ノンフィクションを読みこなすツールは、理解のための7つの方法と同じく、新しい情報を自分のものにする際に使いこなしてほしい方法です。使いこなすことで、子どもたちは自分の考えや態度を変え、新しい知識に基づいて行動し、世界に参加して行くことになるのです。」(『理解するってどういうこと?』277278ページ)

「ひたすら読んだり、書いたりする時間」に読んだり書いたりしたノンフィクションを「カンファランス」したり「仲間と話し合う」ことで「子どもたちが教室を巣立ってから後にも長く使うことのできるツール」「私たちが想像もできないような難しいフィクションを読み、情報を理解するときに活用できる方法」を身につけ「使いこなす」ことが目指されているのです。子どもたちの未来の姿を見据えるまなざしがあります。

わたくしが、八田さんと渡邉さんのこの本のなかでとくに感銘を覚えたのは次のような箇所ですが、これらの言葉の奥にエリンさんと同じまなざしを感じます。

 「筆者たちは自己評価の核心を、「世界をこのように理解することができた自分」をつくりだし、また「これから世界をこのように追究し、世界をこのように変えていきたい自分」をつくりだすという点に求めます。そしてこのような自己評価を、子どもの全体的・継続的な発達を支援する個人内評価の最も有効な手段であると考えます。」(『高等学校 観点別評価入門』37ページ)

「どのような評価方法が望ましいのかだけを考えるのではなく、どんな大人になってほしいのか、大人になるためになぜこの教科を学ぶのか、高校卒業後に大部分の知識・技能を忘れてしまったとしても生徒の中に残っておいてほしいこの教科固有の理解や見方・考え方は何か、そのためにどの時点でどのような理解が確認できればよいのか、その理解(目標)をできるだけ直接的に評価できる評価方法は何かと考えるべきです。」(『高等学校 観点別評価入門』120ページ)

八田さんと渡邉さんも、教科で学んだことが、「子どもたちが教室を巣立ってから後にも長く使うことのできるツール」や「私たちが想像もできないような難しいフィクションを読み、情報を理解するときに活用できる方法」を身につけ「使いこなす」ことができるようになることを学習指導と学習評価のとくに大切な目標としていることを、とても大切なことだと思います。エリンさんが「ノンフィクションの指導法」について言っていることと、八田さんと渡邉さんが「評価方法」について言っていることとの間にこうした共通点を見ることができるのも、ともに、子どもがどんな大人になってほしいのかという、遠い未来を見据える確かなまなざしをもっているからなのではないでしょうか。

2023年10月14日土曜日

「一つの場面」に立ち止まる 〜私の絵本の読書体験から〜

◆ 時々投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿をお願いしました。

 五味太郎さんの『絵本をよんでみる』★1という本があります。自作以外の13冊の絵本を取り上げ、私はこんなふうに読んだ、ということを編集者の小野明さんと対談形式で語っている本です。その中で、ユリー・シュルヴィッツの『よあけ』の一場面にふれています。五味さんは、高校時代に山での焚き火について豊富な経験があります。そして、この絵本の「このたき火を見るだけで、ぼくにはこの本を読む価値がある」と言います。

 絵本の中の一つの場面に魅せられる。私にも同様の経験があります。読み進めていって、ページをめくった途端、ハッと息を飲んだり、「あっ」と声をあげそうになる。そこの絵に見入って思いを巡らせる。何度その絵本を読み返しても、その場面で立ち止まって考えたくなる。新たな疑問が湧いたり、自分の体験を思い出す。そんなふうに「一つの場面」で立ち止まる、そんな読み方があって良いと思います。
 
 そのような場面をほかの人と分かち合うことは楽しいものです。高校生の教室で絵本を取り上げて読んだ時は、「この絵本で、一番印象に残った場面(ページ)はどこですか?」という質問をしていました。生徒たちの選ぶ場面はいろいろです。なぜその場面を選んだかを聞いていくと、そこに自分を投影しているのがわかってきます。それを出し合うことで、お互いのつがなりが生まれ、絵本への理解も深まります。

 今回は、私が立ち止まった「一つの場面」という視点から、3冊の絵本を紹介します。

▶︎ ジェイン・ヨーレン『月夜のみみずく』★2

 冬の夜更け、女の子がお父さんと一緒に、みみずくを探しに森に出かけていく話です。
風のない静まり返った中を、雪を踏みしめながら歩いていきます。松の森に着くと、お父さんは「ほうーほう、ほ・ほ・ほ ほーーーう」と呼びかけますが、みみずくは現れません。さらに森の奥へ歩いていきます。暗い森の中にある空き地に着くと、お父さんは再び呼びかけます。「ほうーほう ほ・ほ・ほ ほーーーう」
 すると、やまびこのように、みみずくの鳴き声が聞こえてきます。再びお父さんは呼びかけます。すると、木の影からみみずくが現れます。お父さんが懐中電灯で照らす中、大きなみみずくを、女の子とお父さんが見つめています。
 そしてページをめくると、見開きいっぱいに描かれた、目を見開いたみみずくの姿。

「1分間かしら
 3分間だったかしら 
 ああもう 100分くらいに おもえたわ
   あたしたち じっと みつめあった」

 この場面に、女の子とお父さんは描かれていません。みみずくだけです。あたかも、絵本の読み手である私が、実際にみみずくと向き合っているように感じます。くりっと大きな目。茶色に毛の混じったからだ。木の枝を使っている足の爪。

 このページにたどり着くまでに、12の場面が描かれています。ページをめくりながら、みみずくはいつ現れるのだろう、なかなか出てこないなあ、などという思いにとらわれていました。じれったいような、ワクワクするような気持ちでした。そして、やっと目にするみみずくの姿なのです。

 一つの鳥の姿を、このような思いで待ち望んだことはありません。こんなふうに仔細に鳥の姿を見たこともありません。みみずくは夜行性だと言われますが、夜、目は見えるのだろうか? 暗い中でどうやって獲物を取るのだろうか。寒くないのだろうか? いろいろな疑問を思いつきます。自分は、みみずくのことを何も知らないのだなあ、と気づかされます。雪を踏みしめながら森の中を歩いた体験を思い出します。気温が下がって、表面が硬くなったところを歩くと、シャリッ、シャリッという音がします。遠くで、鳥の鳴く声が聞こえたりします。学生時代に山登りをしていた体験が、ふっと思い出されたりしました。

▶︎ モーディカイ・ガースティン『綱渡りの男』★3

 かつて、ニューヨークにあった、並んで立つ二つの超高層ビルの間を綱渡りした男の物語です。そのビルは、今はなき世界貿易センターのツイン・タワーです。フィリップ・プティというフランス人の大道芸人が、完成間際のツイン・タワーに惹かれるところから話は始まります。二つのビルの間を綱渡りしたいと考えたプティは、計画を練り、友人たちと実行に移します。工事現場の作業員に変装してビルに入り、夜になるのを待って屋上に上がります。そして、綱をつけた矢を40メートル離れたもう一方のビルの屋上に向けて放って綱を渡し、重たい綱を友人たちと力を合わせて引っ張り上げます。
 綱を張り終えたところで、夜が明けます。8メートル半もあるバランス用の棒を持って、綱の上を歩き出すフィリップ。綱の上にいる彼を、地上にいる人々が見つけて大騒ぎになり、警察官が屋上に駆けつけます。1時間ほど綱の上で大道芸を披露したフィリップは、無事、綱を渡り終えます。彼は逮捕され、裁判所に連れて行かれます。裁判官は、街の子どもたちのために公園で綱渡りをするように、と言います。フィリップは喜んでそれを実行します。
 
 そして、次のページ。見開きの左側のページには、「ふたつのタワーは、いまはもうありません。」という言葉が書かれ、右側のページには、ツイン・タワーのない街並みが描かれています。ツイン・タワーのあったところには空があるだけです。
 「えっ」と私は思いました。そうか、フィリップが綱渡りをしてから何年も経って、ツイン・タワーがテロリストの攻撃を受けて崩壊した9・11の事件があったのだ、ということに思いあたります。
 あの朝、ニュースをやっていたテレビの画面が突然切り替わり、ビルに飛行機が衝突し、そしてビルが崩れ落ちる様が映し出されました。ニュースが流れ続けました。多くの犠牲者が出ました。「テロへの報復」が叫ばれました。それに対して反対する声もありました。今から22年も前のことです。

 さらに次のページをめくると、ツイン・タワーが幻のように描かれた最後の場面になります。次の言葉が書かれています。

「でも、人々の記憶のなかには、ふたつのタワーは、空にきざみつけられたように、くっきり残っています。1974年8月7日、フィリップ・プティがタワーのあいだを歩いた、あのすばらしい朝のことも。」

 この絵本は、9・11の記憶を刻むために書かれたのだと思います。そして、犠牲になった多くの人たちを追悼し、かつて存在したツイン・タワーのことを思い返すときに、フィリップ・プティの綱渡りがあったことも知っておいて欲しいと著者は願っているのでしょう。
 私は、大道芸とツイン・タワーとの対比ということを考えます。多くの人たちが犠牲になったことは悲惨なことですが、その事件に至るまで、ツイン・タワーは輝かしい米国の社会の象徴だったのではないでしょうか。経済力を背景にした米国の威信をかけた存在であり、それが米国の誇りでもあった。だからこそ、テロリストの標的になったわけです。それに対して、フィリップの成し遂げた行為は、「芸」でした。それは、国家の威信とかとは対極にあります。世界一の貿易の拠点となるビルを作ろうという意図で作られたツイン・タワーに対して、二つのビルの間の空間を綱渡りしたら面白そうだ、という一人の大道芸人の発想。この「芸」に打ち込む人のこの発想は、とても大切なものだと考えます。

▶︎ ショーン・タン『セミ』★4

 背広を着た一匹のセミが人間と一緒で会社で働いています。データ入力の仕事をこなしています。会社のトイレに行かせてもらえず、12ブロック離れたところまで仕事を中断して行かなければなりません。そしてそのたびに給料が差し引かれます。人間が帰った後も、残業をして仕事を終わらせますが、感謝されることはありません。会社の人間はセミを嫌っていて、いじめたり、暴言を吐きかけたりします。それでも文句も言わずに17年間、勤めます。定年の日が来ても、セミは「机を拭いていけ」と言われるだけで、送別会も、握手もありません。
 やるべき仕事がなくなり、お金もなく、帰る家もないセミは階段を屋上へと登っていきます。屋上の縁に立つセミ。すると、背中が割れて、中から羽を持った赤いセミの成虫が出てきて、空に飛びます。

 そして次のページをめくると、そこには、空を飛ぶセミのが何十と描かれています。空を飛び交うセミ。そして、次のページに最後の言葉が記されています。

「セミ みんな 森にかえる。
 ときどき ニンゲンのこと かんがえる。
 わらいが とまらない。」

 この本に出会った時、セミの飛び交う絵と、最後の言葉に大きな衝撃を受けました。
「一匹のセミ」対「それをいじめる人間たち」というところから、一挙に、「世界にいるおびただしいセミ」対「この人間社会」というところへ、自分が引っ張り出されたような感じでした。

 「わらいが とまらない」とはどういうことでしょうか。私はかつて高校3年生のクラスでこの本を取り上げてブッククラブをしたことがあります。その中で、「わらいがとまらない、ってどういうことだと思いますか?」という質問を投げかけました。
 一つの意見は、いじめられていた会社から解放されて嬉しかったのだろう、というものでした。やっと、森に帰れる、自然の中に戻れるのが嬉しくて笑ったのだろう、ということです。
別の意見としては、会社から解放されて、かつて自分をいじめていた人間たちを笑っているのではないか、というものがありました。
 私は次のようにも考えます。人間のひどさを笑っていると共に、セミをいじめている人間たちも組織の中で働かされているかわいそうな存在なのだ、という意味で笑っているのではないか、という考えです。
 セミは赤い色をしています。会社に勤めている場面は、一面が灰色で描かれていたとの対照的です。赤という色に命を感じます。それに対して、灰色は生気のない世界とかじられます。
 私の自宅のそばに公園があって、夏になると、セミのジージーという鳴き声でいっぱいになります。この絵本に出会って以来、そのセミの声が「セミが人間を笑っているような声」にも聞こえてくる、そんな気になることがあります。


★1 五味太郎・小野明『絵本をよんでみる』リブロポート, 1988年発行。
★2 ジェイン・ヨーレン著、工藤直子訳、ショーエンヘール絵『月夜のみみずく』偕成社, 1989年発行。原作は Jane Yolen, illustrated by John Schoenherr, Owl Moon, Philomel, 1987.
★3 モディカイ・ガースティン著、川本三郎訳『綱渡りの男』小峰書店, 2005年発行。原作はMordicai Gerstein, The Man Who Walked Between the Towers, Square Fish, 2003.
★4 ショーン・タン著、岸本佐知子訳『セミ』河出書房新社, 2019年発行。原作は Shaun Tan, Cicada, Hoddar Children’s Books, 2008.

2023年10月6日金曜日

プロの作家やノンフィクション・ライターやジャーナリストたちがしていることで、生徒たちも書く時にできること/すべきこと

    声を出して読む

 まずは、自分が書いた文章を「声を出して読む」です。

 それだけで、よく書けているところや、長すぎたり、意味が取りづらかったりして、修正が必要なところがわかります。さらに、どうすれば、分かりやすくしたり、よりインパクトを与えたりするにはどうしたらいいかに気づけることも。

 「声を出して読むことで、書いている時には気づけなかった細かい点に気づける」という人もいます。

 さらには、声を出して読むことで、自分が書いた文章のリズムを感じたり、つくり出したりすることもできます。

 また、大学生を対象にした調査では、声を出さないで読むよりも、声を出して読む方が、5%ではありますが、誤字脱字などのケアレスミスに気づけることも明らかになっています。 

 下書きを書いた後(清書する前)の修正の段階(https://wwletter.blogspot.com/2012/01/blog-post_28.htmlを参照)で声を出して読むと、自分が書いている文章のトーン(響き、読み手への伝わり具合)、文章構成、リズムなどに気がつくことができます。

 ここまで紹介してきた「声を出して読む」以外の方法として、効果的なものには、

    しばらく間を置く

   書くことは大変なことなので、そのトピックについて話す

   自分への期待値を下げる

 ②の「しばらく間を置く」は、書いたものとは異なることをすることで、その内容について考えない時間を確保することです。(そのためには、並行していくつかの作品に取り組んだ方がいいことも意味します! 一つの授業時間内よりも、次の時間の方がいいぐらいですから。さらには、数日時間をおくぐらいが。)目や頭を、その作品から離すことで、戻った時にフレッシュな(他人の)目で作品を読めるようになります。

 ③は、書くことが特に億劫な人には効果的です。書く代わりに話してもらって、それを録音すればいいのです。書くのは嫌いでも、話すのは好き(得意)という人は結構いますから。こういう時にこそ、一人一台を有効に活用してください。間違っても、億劫がっている生徒に原稿用紙を埋めさせて、書くことを嫌いにするようなことは避けてください。

④の「自分への期待値を下げられない」のは、プロの書き手たちが抱えているだけでなく、誰もが抱えている問題です。最初からいい文章/評価される文章を書かなければと思いこんでいます。でも、そんなことができる人は、そうたくさんはいません。下書きレベルは、箇条書きレベルでも、文章としては読めるようなものではなくてもいいのです。「下書き」ですから! それが、すべての出発点と捉えればいいのです。(結果的に、それが終着点の可能性もあり得ますが、それは単にラッキーなだけです!)

 ある作家は、次のように言っています。「多くの人が書く才能はもっています。でも、修正を書く勇気をもっていません。さらに、修正-読み直し-修正を何度も繰り返す勇気をもっている人は少なくなります」

 それを繰り返せる人が、プロの作家やノンフィクション・ライターやジャーナリストです!

 この最後の下書き-修正-(声を出して読む-修正-読み直し-修正・・・・繰り返し・・・・修正こそが、書くのがうまくなる唯一の道であることを教えてあげてください。

参考: https://www.edutopia.org/article/things-professional-writers-do-students-should-too

 

2023年9月22日金曜日

特別支援学級の作家の時間 〜出版と作家の椅子〜


 今、特別支援学級の作家の時間の出版準備をしているところです。夏休み前に出版をしておきたかったのですが、いろいろなドタバタで原稿の整理ができず、夏休みが終わってから原稿を整理して、成績処理などの大体を終えてからということで、この時期の印刷になってしまいました。教務主任と兼務しているので、なかなか隙間を見つけるのが大変です。

 目の前には、子どもたちの原稿がたくさん積み重なっています。今一度確認すると、やっぱり、名前がなかったり、題名が判読できなかったり、週明けに確認をする必要がある原稿用紙もあり、付箋をつけて置いてあります。子どもたちの作品には、必ず表紙をつけるようにお願いしています。表紙には、題名、作家の名前、作品を表すイラストが描かれています。これは必ずつけるようにいつも言っていますが、それでも忘れてしまう子がいます。(僕もチェックを忘れてしまいます。)

 今回は、5・6月の「フィクション編」と7月の「詩・言葉遊び編」の作品が掲載されます。9月はもうすでに「ノンフィクション編」がスタートしていますので、これらの作品は、11月ぐらいの出版を目指しています。


作家の時間の出版原稿


 僕の場合は、A4のコピー用紙に表に4枚、裏に4枚の子どもたちのA4の原稿用紙を割り付け印刷します。なので、A4に合計8枚の原稿が載ります。そして、表紙は色上質紙で華やかにし、表紙か、またはその裏に目次を載せるようにしています。ちなみに、ほとんどの号に自分の作品も入れています。この装丁は一般級担任時代から紆余曲折して、今はこの形に落ち着いています。

 今、一人一台のタブレットがあるので、もしかしたらPDFにして配信した方が楽なんではないかと何度か思いましたが、やっぱり印刷してホチキスで留めた紙で出版をすることにしています。子どもたちの出版のイメージが、やっぱり「本づくり」としているように紙であることや、手に持ってめくることのできる実物の感覚、お家の方に自分で手渡す情景などを想像すると、やっぱり紙に印刷したものがいいのではないかと考えています。


作家の椅子と出版を主なアウトプットの場にする


 今年度は年3回を目標に出版をしています。10年前くらい一般級担任時代には、月に1回のペースで出版をしていたので、相当量の紙を消費していましたが、今は時間がなくてそのペースで印刷をすることができません。現在の特別支援学級の作家の時間では、作家の椅子(原稿をテレビに映し、口頭で読み上げて発表する形式。友達から即コメントがもらえる)を頻繁に使っているので、印刷しての出版はそれほど多くなくてもいいと思っています。

 作家の椅子は出来立てほやほやの作品を発表してフィードバックをもらう方法なのに対し、出版は完成原稿ファイルの中からベスト作品を1・2点選んで印刷するアウトプットの方法です。作家の椅子で発表をした作品を出版する子もいますし、口頭での発表が苦手な子は、作家の椅子をしなくても出版を活用すれば、多くのフィードバックがもらえるような仕組みになっています。

 作家の椅子の発表をたくさん活用できるということは、たくさんのメリットがあります。即時性があり、自分の学習にすぐにポジティブなフィードバックが返ってくるので、見通しを持つことが苦手なADHD傾向の児童でも成果をすぐに実感することができます。また、文字だけでなく、動画を加えたり、書いていないことを口頭で補うこともでき、複数のメディアを融合して発表することもできます。また、出版作品が厳選されるので、教師にとっても無理のない仕事の仕方にすることができます。

 やはり作家の椅子の一番のメリットは、読者(読者や先生)から直接声で笑顔で感想をもらえるということです。子どもの達成感ややる気に直結します。私が「〇〇さんの次の作品は、どんなものを書いて欲しい?」と聞くと、発表者の子どもは読んでくれる相手がいること(自閉的傾向のあるお子さんは相手意識を持ちづらい子どももいます)と、自分も友達の作品の読者であることを意識しますから、お互いに学習を高めあう小さなコミュニティが生まれます。作家の椅子はシンプルですばらしい手法です。


教師も自分の作品を開示して、モデルを示す


 教師の作品も出版します。僕の作品も子どもたちと同じように文集に並びます。僕は授業時間の半分くらいはカンファランス、もう半分は自分の作品を子どもたちの前で書くことに時間を使っています。最近では子どもと同じように、紙と鉛筆で書くことが多いです。(最近、特別支援学級の子どもたちの中には、タブレットで作品を作る子もいるので、「同じように」とは言い切れなくなってしまいましたが…)僕の場合は、大型テレビの実物投影機に自分の原稿用紙を映しているので、僕の作品がどうやって描かれていって、どうやって鉛筆が止まって、どうやって悩んで、それでまたどうやってまた鉛筆が動き始めたのかが、リアルタイムに分かるようにしています。

 これを『作家の時間』では「モデルを示す」と表現します。教師も書き手の一人であり、子どもたちと一緒に、作品作りを楽しみ、苦悩し、立ち止まって、みんなから意見をもらって進んでいく、同じ空間にいる書き手であることを示します。唯一の違いは、教師の書く姿が、テレビに映っていて、いつでも確認できるということです。子どもたちは、「先生の作品の『しっぽのながいカバ』の続きは終わったの?」と、聞いてくれます。僕が、悩み楽しみ書いている様子を子どもたちが見ることで、書くという学習が、子どもだけが行う「勉強」なのではなく、大人も子どもも取り組んでいて楽しい「遊び」であるというメッセージが込められています。


作家たちの原動力、ファンレターとファンレターへのお返し


 作家の時間の作品集と同時に配られるのは保護者用のファンレター用紙です。これが子どもたちの表現する喜びをリアルで確かなものにしてくれる、素晴らしいツールになります。子どもたちの作品を読んだ保護者が、ファンレターを書いて子どもたちに贈ってくれるのです。A4の紙に8人分書くことができるようなメモサイズの用紙になっていて、「〇〇さんへ」と「〇〇より」と記入できる枠を用意しています。これぐらいの大きさの方が、保護者にとっても気軽に書けるサイズのようですし、匿名のファンレターは味気ないですから、お名前を書いてもらっています。中には知っている子どもだけでなく、全員に一言ずつ書いてくれる保護者もいますし、綺麗な便箋に書いてくれる保護者もいます。作家の椅子では、先生や友達から声が届いて、こちらも子どもたちは喜ぶのですが、ファンレターは紙で届くので、何度も読み返すことができます。一般級での実践では、ファンレターは作家ノートに貼り付けて、何度も読み返せるようにしていました。随分前にもらったファンレターを読み返している子もいて、作家というのは、読者がいて初めて仕事ができるのだと私も知ることができました。先生でも友達でもない他者が、自分の作品を読んでメッセージを送ってくれるのですから、喜びもひとしおです。

 ファンレターが届いたら、ファンレターを書いてくれた保護者に向けて、お返事を書きます。ファンレターを書いてくれたことへの感謝の気持ちや、「次の作品も楽しみにしてください」などの、次回作への抱負などを書き表す子が多いです。「作家はファンを大切にする」と伝えています。


大介くんへのファンレター


 3年生の大介くん(仮名です。学習状況や児童の特性などにも、ある程度の加工を加えています。)は、失敗やうまくいかないことへの不安をとても恐れてしまう子です。うまくいかない自分自身を受け入れることができないですし、友達や先生がそれを見ていることなんてもっと嫌な気持ちになってしまいます。それなら、やらない方がマシ。おしゃべりも得意でないので、先生に助けを求めることも面倒。やりたくないとみんなのいる10m離れたところから見つめるだけの学習になってしまい、先生が誘っても怒り出してしまいます。大介くんは、みんなの前で行う学習に取り組むことが本当に苦手なお子さんです。

 そんな大介くんは休み時間にイラストを描くのが大好きなので、僕の勧めで作家の時間にイラストを描くようにしました。最初は誰かがそれを見るのをとても嫌がっていましたが(パーテーションで覆い、人の目を気にしないでいられるようにすることもあります)、同じ教室にいる女性の大橋先生が「ねぇ、大介くんの作品も出版しようよー」としつこく誘うと、渋々一枚の絵を差し出してくれました。それが「大チュウ」のはじまりです。

「大チュウ」は、ピカチュウの顔に、大介くんの名前の「大」の字がついているキャラクターです。大介くんはピカチュウが大好きなので、大好きすぎて自分がピカチュウになった「大チュウ」が生まれたのだと思います。大橋先生が苦心の末に手に入れたその作品(もちろん文字は「大」だけです)を裏表紙の写真に載せて出版することにしました。

 刷り上がった本が配られて、大介くんは最初は怒っていましたが(渋々了承したのに)、周りの友達が「大チュウだー」「大チュウがいるー」と喜ぶのを見て、ちょっとだけいい気持ちになり、唇をとんがらせながら振り上げた拳をゆっくりと下ろしました。

 その後、保護者の方から何枚かファンレターをいただきました。『かわいいピカチュウですね』『他にはどんな友達がいるのですか?』大介くんは、「ピカチュウじゃねえよ」とツッコミを入れながら、ファンレターのお返しに、普段は文字を書くことを嫌うのに「ファンレター、ありがとうございました」「大チュウと犬チュウがいます」と書きました。

 今回の出版にも大介くんの作品が載っています。また、大橋先生がゲットしてくれました。夏野菜が収穫できたときの写真と、野菜の名前をタブレットで描いた日記のようなものです。大介くんは、作家の椅子はできませんでしたが、出版をすることでファンレターが友達、先生、保護者などから届くことがきっと分かっています。僕はこれから、大介くんの交流級の先生などからファンレターを書いてくれるように頼むのだろうと思いますが、そんなことをしなくても、誰かがファンレターを書いてくれるのではないかと考えています。大介くんのとんがり唇をしながらまんざらでもない様子を見るのが、教師としても嬉しい瞬間です。



2023年9月16日土曜日

共感と共鳴

  以前にも取り上げたのですが、『理解するってどういうこと?』の第9章の「3 読み・書きを学ぶ際の主要な構成要素-理解のさまざまな成果」の最後のところで、黒人としてはじめて白人の学校に登校したルビー・ブリッジスのことを扱ったロバート・コールズの『ルビー・ブリッジス物語』(未邦訳)やジャクリーン・ウッドソンの『むこうがわのあのこ』(こだまともこ訳、光村教育図書、2010年)を扱いながら、理解の成果の一つである「共感」について教える授業の一場面が出てきます。デヴォンテという黒人の子どもが、周りの白人たちは「ルビー」のことを嫌っていたけれども、自分の兄なら「ルビー」の感じたことが「よくわかる」と思うと述べた後に言った「白人がね僕たちのような人みんなを、好きかどうか、うーん、ほんとに好きかどうか? 先生は?」という問いかけに対して、エリンさんは次のように心のなかで考え、そしてデヴォンテに答えます。

〈私にはわかりません。わかりっこないのです。一人の白人として、私にはぜったいにわかりません。私は心が張り裂けそうなのですが、これは私には理解不能な領域の共感です。私が共感したいと思ってみても、彼らが何を感じているのかと想像しようと努力してみても、レイモンドやデヴォンテやサマンサと同じように深く理解することはけっしてできないのです。
「デヴォンテ、私にはわかりっこないのよ。完全に共感することはできないの」と彼に言いました。「でも、どれほどあなたがたが共感したかということは、この心で感じることができるの。」〉(『理解するってどういうこと?』354~355ページ)
 「一人の白人として、私にはぜったいにわかりません」という言葉は痛切です。しかし、ここで重要なのは、エリンさんがデヴォンテに対して「どれほどあなたがたが共感したかということは、この心で感じることができるの」と答えているということです。このエピソードは「わかる」ということの根幹に何があるのかということを教えてくれます。
 養老孟司さんの近著『ものがわかるということ』(祥伝社、2023年)の「心は共通性をもっている」という節には、このエリンさんの考えと発言を、まるで説明してくれるような一節がありました。
〈心とは共通性そのものです。こう言うと、多くの人がポカンとします。心は自分だけのものだと思っているからです。
 でも、心に共通性がなかったら、「共通了解」は成り立ちません。私とあなたで、日本語が共通しています。共通しているから、「お昼を食べよう」と私が話せば、あなたがそれを理解します。話して通じなかったら、話す意味がありません。通じるということは、考えが「共通する」ということです。
ということは、心は共通性をもたないと、まったく意味がないことになります。感情だって同じです。自分の悲しみを伝えても通じなかったら、とても寂しくなります。自分が悲しいときに、友だちも悲しがってくれる。自分がうれしいときに、友だちもうれしがってくれる。これが「共感」です。感情も共通性を求めるのです。〉(『ものがわかるということ』78ページ)
養老さんの本には、このような考え方の根拠となる実験が引用されています。皆さんもどこかで聞いたり、読んだりしたことがあるかもしれません。
〈参加するのは三歳児と五歳児。舞台に箱Aと箱Bを用意します。
 そこにお姉さんが登場します。箱Aに人形を入れ、箱にふたをして舞台から去ります。
 次に、お母さんが現れます。箱Aに入っている人形を取り出し、箱Bに移します。
 再びお姉さんが舞台に現れます。
 そこで、舞台を見ていた三歳児と五歳児に、研究者が質問します。
 「お姉さんが開けるのは、どちらの箱?」〉(『ものがわかるということ』19~20ページ)
 当然「お姉さん」は「箱A」を開けるでしょう。今「当然」と言ってしまいましたが、それは私が「お姉さん」の立場に立ってこの状況を理解しようとしたからです。ところが「三歳児」は「箱B」と答えます。「お母さん」が「人形」を「箱B」に移したのを目撃しているので、「お姉さん」も「箱B」を開けると考えるわけです。「お母さん」の行為を目撃して「人形」のある箱がどちらかを知っている自分と同じように「お姉さん」が考えると思ったからです。「お姉さん」の立場には立つことができないから「箱B」を開けると答えたのです。しかし「五歳児」は「お姉さん」の立場に立って考えるので、私と同じように「箱A」と答えることができるのです。養老さんの言い方によると「三歳児」は自分と「お姉さん」を「交換する」ことができず、「五歳児」は「交換する」ことができるようになった事になります。
〈この他者の心を理解するというはたらきを、「心の理論」と呼びます。発達心理学では「心を読む」と表現しますが、私は「交換する」と考えます。必ずしも心を読む必要はなく、「相手の立場だったら」と自分が考えればいいのです。
 この、自分と相手を交換するというはたらきも人間だけのものです。〉(『ものがわかるということ』10ページ)
エリンさんがデヴォンテに「どれほどあなたがたが共感したかということは、この心で感じることができる」と言ったのは、ぜったいに「共感」することはできないとしても、デヴォンテやルビーの「立場」に立って考え、デヴォンテたちがルビー・ブリッジスにどれほど「共感」しているかということを伝えようとしたのではないでしょうか。養老さんは心には「共通性」があるからこそ「共感」が生まれると言い、それは「自分と相手を交換するというはたらき」を人間がもつからだと言っています。「自分と相手を交換する」ことができるからこそ、私たちはフィクションの登場人物を気にかけ、「共感」できるのです。
もう一つ。エリンさんは「この心で感じることができる」と言っていました。それは、頭だけで「わかる」を超える体感のようなものを言っています。「感じることができる」のですから。養老さんの言葉で言えば「共鳴」です。
〈自然のなかに身を置いていると、その自然のルールに、我々の身体の中にもある自然のルールが共鳴をする。すると、いくら頭で考えてもわからないことが、わかってくるのです。 
 自然がわかる。生物がわかる。その「わかる」の根本は、共鳴だと私は思います。人間同士もそうでしょう。〉(『ものがわかるということ』201ページ)
 エリンさんは「共感」できるというと嘘になってしまうけれども、自分の「身体の中にもある自然のルール」が「共鳴」することはできる、と言っていたのかもしれません。同じ「自然のルール」をもつ人間としての「共鳴」です。
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