2022年5月27日金曜日

授業に生徒が夢中で取り組むとは

 エンゲイジメントは、まだ聞きなれない言葉だと思います。

 一般的には「関与」「参加」と訳されますが、そんなレベルではありません。

 姉妹ブログの「PLC便り」で取り上げたことがあります。

 https://projectbetterschool.blogspot.com/2015/03/blog-post_15.html

 アメリカでも、エンゲイジメントは、次のような状況でした。

 「2、30年前、エンゲイジメントという言葉が学会の分科会や専門書のタイトル、そして多くの教室で使われることはありませんでした。なぜなら、教師は教え、生徒はその指導に従う、「それが授業だ」という考え方だったからです。もし、エンゲイジメントがその枠組みの一部であるならば、それに越したことはない、という程度でした。勤勉で従順な生徒は、一般的に単位を取るために苦労をしません。もし、単位を取れない生徒がいれば、教師は生徒のせいにするだけでよかったのです。」(リリア・レント著『教科書をハックする』の39ページより。原書が出版されたのは2013年なので、最初の「2、30年」は、今なら「3、40年前」にする必要あり。ここ、20年ぐらい、「エンゲイジメント」は英語圏でキーワードになっています。それなしに生徒たちはまともに学べない、ということで。さらにここ10年ぐらいは、それをはるかに越えた生徒を「エンパワーメント」する学びの模索が重視されるようになっています。そして、「エンゲイジメント」は必要最低限と捉えられるようになっています。)

「生徒が夢中になって学んでいる教室では、エネルギーを感じることができます。そのような授業では、めったに教科書が学びの中心にはなっていません。その代わり、理解を求める生徒は、教科書の中身をカバーすることではなく、探究のプロセスを大切にします。教科書やインターネットは必要な要素ですが、夢中になって取り組む学び手がいなければ何の役にも立ちません。」(前掲『教科書をハックする』の41ページ)

「現実では、あまりにも多くの生徒が知りたいと思う気持ちもなしに教科書を読んでいます。彼らは、教師を満足させるために、あるいはワークシートの空欄を埋めるために必要な情報を見つけては次のページへと移り、やる気がなく、中身がつまらないことを確信するだけなのです。

それでは、いったいどうすれば、教室の中で明るく火花が飛ぶように学びへの好奇心に火をつけることができるのでしょうか? さらに大切なこととして、生徒が自分には関係ないと思ったり、退屈に感じたりする教科書やほかの教材にどうすれば夢中にさせることができるのでしょうか? 簡単な答えはありませんが、「夢中になって読むのを可能にするジョン・ガスリーのモデル」は最初の大切なスタート地点になります。それを示した【表1-1】を見てください。」(前掲『教科書をハックする』の42ページ)

 この表には、読む指導を夢中で取り組めるようにするためのヒントが満載ですので(もちろん、「書くこと」にも、「聞く・話す」にも、さらには他教科にも応用できます!)、一つひとつの項目をぜひじっくり読んで自分のものにしてください。

  たとえば、2つ目の項目の「コントロールと選択を生徒に提供する」を、あなたはどのくらいすでにやれていますか?

 与えられたもの(教科書)を与えられた方法で学ぶだけでは、オウナーシップ(その学びが自分のものと思える意識)は得られず、教師に「お付き合い」をしているだけです。

 具体的な方法として、次の4つが提案されています。

1番目は、どう学ぶかの選択肢を、生徒たちに提供する

2番目は、何を学ぶかの選択/判断に、生徒が参加する

3番目は、自分が何を知ったり、できるようになったりしたことを表現する方法の選択肢を提供する(従って、もはやテストだけではないことを意味します)。

そして4番目は、探究学習=プロジェクト学習を実践する

 1番目には、、マイク・エンダーソン著『教育のプロがすすめる選択する学び』が、4番目には、https://wwletter.blogspot.com/2021/08/wwrw.html が参考になります。

  4番目と5番目の「自己効力感」と「興味関心」は、教師ないし教科書会社が一方的にいいと思って生徒全員に押し付ける教材が、一人ひとりの生徒の「能力」や「興味関心」に合っていることは考えられないので、こここそが教師の出番になります。1番目の項目の習得目標とこれら二つをマッチングさせられる存在は、教師しかいませんから。ここで威力を発揮するのが「見取りと子ども理解」です。https://projectbetterschool.blogspot.com/2022/05/blog-post_22.html

 生徒たちがエンゲイジする(夢中で取り組む)授業に挑戦されたい方は、ぜひこの表を自分のものにしてください。疑問質問がありましたら(あるいは、実践紹介できる方は)、pro.workshop@gmail.comにご一報ください。


2022年5月21日土曜日

道に迷うことの意味

 

道に迷うことの意味

 

 『理解するってどういうこと?』の第9章でエリンさんは「感情と記憶」という理解の種類について次のように書いています。

 ・感情的な関連づけがおこなわれると、理解は豊かなものとなる。私たちは美しいと感じることを再度体験したくなり、学習に喜びが含まれているとよりよく理解できる。創造的な活動をするなかで、私たちは光り輝くもの、記憶に残るもの、他の人たちに意味のあるものをつくろうとする。最終的に、私たちがしっかり考えて発見したことは強力で、長持ちするものとなる。こうして、記憶に残る。(『理解するってどういうこと?』339ページ)

  そして「私たちは、人々が自らの学んだことに感情的な結びつきを作った場合に、学んだことを理解し、記憶し、他の場面で応用できるようになるということを知っています」とも言っています(『理解するってどういうこと?』342ページ)。このような「感情的な関連づけ」「感情的な結びつき」はどのように生じるのでしょうか。それはむしろ、自分にとって既知のことがらのあたらしい意味を発見して心が揺さぶられる経験のことを言っているように思われます。

マイケル・ボンド著(竹内和世訳)『失われゆく我々の内なる地図―空間認知の隠れた役割―』(白揚社、2022年)という本を読んでそのことを思わざるを得ませんでした。この本の原著タイトルはWayfinding。「道を見つける力」という日本語で訳すことができます。「空間アプローチ」と「自己中心アプローチ」という二つの認知的アプローチの話が出てきますが、ここの部分でわたくしはこの著者が「理解」のことを扱っているのだと思いました。

  ありがたいことに人間は、どんな人工システムと比べても計り知れないほど複雑で、有能な脳内ナビを備えている。ではどうやって私たちはそれを使うのか?

 心理学者によると、不慣れな土地で道を見つけるとき、人は次の二つの戦略のうちどちらかをとるという。すべてのことを空間の中の自分の位置と関連づける「自己中心的」アプローチか、それともランドスケープの特徴に頼り、ランドスケープ同士の関係を見て自分の位置を知るという「空間」アプローチのいずれかだ。自己中心的アプローチは、一連の指示に従うような感じである――いくつ道路を渡れば目的の交差点に出て、その後、左右どちらに曲がるか? 一方、空間アプローチのほうは、鳥の視点をとる必要がある――あの丘から見て、私の家はどこにあるのか? 南に向かうべきか、それとも西に? 自己中心的アプローチはいわば自分の勘に頼り、空間アプローチは全体像から考える。(『失われゆく我々の内なる地図』134-135ページ)

  「不慣れな土地」での道を見つけるときにここで言われている二つのアプローチは誰しもがとるものではないでしょうか。そして、「自己中心的アプローチ」が「自分の勘」に頼るもので、「空間アプローチ」が「全体像」から考えるためのものだと考えれば、私たちにとって「空間アプローチ」が非常に重要だということになります。

  ひとつの空間スキルに熟達していても、必ずしもほかの技能にもすぐれているとは限らない。イケアの家具を組み立てるのがとても上手でも、方向感覚が劣っていることもありうる。ただそうは言っても、ナビゲーションに熟練している人はどの空間的なタスクも巧みにこなせるという傾向はある。彼らは周囲の環境に注意を払い、適切な時に決定を下す。前に言ったことのある場所を、違った視点からでも認識することができ、しかもおおむね視点取得が得意である。彼らはすぐれた作業記憶を持ち、どのくらい遠くまで来たか、何回曲がったか、さらにランドマークの位置も覚えていられる。詳しい空間情報が処理される脳の領域である海馬も、平均より大きい。彼らは、いわゆる「場独立」のテストで高い成績を収める。このテストは大きくて複雑な形の中に単純な形をどれほど簡単に見つけられるかを測るもので、ランドマークや道などの特徴をメンタルマップの中にまとめあげるのに役立つスキルである。彼らはまた、ナビゲーションをする際に、鳥の目で見る空間アプローチと、ルートに基づく自己中心的アプローチの両方を使うのがうまく、またそのふたつをいつ切り替えるかよく分かっている。(『失われゆく我々の内なる地図』153-154ページ)

  「鳥の目で見る空間アプローチ」と「ルートに基づく自己中心的アプローチ」のあれかこれかではなくて、この両者をどのように切り替えるかが大切なことなのです。これは経験的にはよくわかります。そしてなにごとかを理解しようとするときに私たちの頭のなかで起こっていることでもあります。

では道を見つけるときに私たちには何が大切なのでしょうか。「発達性地理的見当識障害(DTD)」についての研究をふまえて、ボンドは次のようにも言っています。

 海馬の空間記憶がどれほど正確であっても、前頭前皮質の意思決定がどれほど効率的であっても、もしくは自己中心的な座標系をより広い世界へつなげる脳梁膨大後部皮質の機能がいかにすぐれていても、もしそれらがひとつのネットワークとして機能しなければ、私たちはどこにも行き着くことはできないのだ。(『失われゆく我々の内なる地図』288ページ)

  「海馬」「前頭前皮質」「脳梁膨大後部皮質」…私たちの脳の部位をあらわす言葉ですが、それぞれの働きが関連しなければ、私たちには道がわからないというのです。その「ネットワーク」が欠けているために自分がどこにいるかわからないというのが「DTD」の特徴です。逆に考えれば、その「ネットワーク」が欠けているからこそ、それを探そうとするわけです。だからこそ「道に迷う」わけです。

 では「道に迷った」とき私たちはどうするか。本書後半には「認知症患者の空間行動」の研究が取り上げられていますが、「介護施設」での入所者の行動分析を行ったいくつかの研究からボンドは次のように言っています。

 ミツバチが蜜を探すように、彼女は手がかりから手がかりへとダンスをする。人々がルートを知らないときに旅をするやりかたと似ていなくもない。分からなくなるたびに、馴染みのあるものを探して進むのだ。(『失われゆく我々の内なる地図』297ページ)

 自分が完全に世界を理解していないとき、そこを探求するのは――そう、自分がまだ見つけていないものを探すのは――理にかなっている。トールキンが『指輪物語』で私たちに思い出させてくれたように、「さまよう人のすべてが迷っているわけではない」。(『失われゆく我々の内なる地図』298ページ)

  「道に迷う」ことは実のところ「自分がまだ見つけていないものを探す」営みであって、そのこと自体が生きている証なのかもしれません。逆に、GPSなどの道に迷うことのないようにするテクノロジーは私たちに何をもたらすのか。本書の終わり近くでボンドは次のように述べます。

 GPSによって、いっさい道に迷わないということもあり得るようになった。人によっては魅力的に聞こえるだろう。だが必ずしもそれは、想像するほど魅力的なものではないかもしれない。常に地理的に間違うことのない世界に生きるとき、私たちは自分というもののいくらかを、成長の可能性のいくらかを失う。レベッカ・ソルニットは著書『迷うことについて』で、確実性と知らないということについて熟考し、こう言っている。「決して迷わないというのは生きていることにはならない。どうやって迷うかを知らなければ、破滅が待っている。発見に満ちた人生は、未知の土地のどこか、その中間に横たわっている」。続けて彼女はヘンリー・デイビッド・ソローの文章を引用する。ウォールデンの池のほとりに彼が建てた小屋での二年間は、「思慮深く」生き、「人生のすべての真髄をすすりとろう」とする試みだった。「道に迷って初めて」と彼は言った――「つまり世界を失って初めて私たちは自分を発見し始め、自分がどこにいるのか、そして私たちと世界とのかかわりの持つ無限の広がりを認識できる」。(『失われゆく我々の内なる地図』304ページ)

 ここではレベッカ・ソルニットと彼女が引用するヘンリー・ソローの言葉が引かれています。引用に次ぐ引用となりますが、それだけに「道に迷うこと」が人間にもたらす可能性についての思考の系譜を見る思いがします。それは、迷いながら「自分がまだ見つけていないものを探す」ということが、理解の種類の一つであることを物語ってもいるのです。道に迷いながら「自分がまだ見つけていないものを探す」過程で、既知のことがらのあたらしい意味を発見することになるからです。そのとき、理解しようとする人の頭のなかに「鳥の目で見る空間アプローチ」と「ルートに基づく自己中心的アプローチ」とのネットワークが築かれ、自分が「いま・ここ」にいるという認識がうまれ、強い「感情的な関連づけ」がひき起こされるのだと思われます。

2022年5月14日土曜日

(副題も含めた)題名のミニ・レッスン

 少し前に、中学生の教室でよく読まれた本や中学生におすすめの本を、中学校での教職経験のある先生方や司書の方にたくさん教えていただきました。知らない本のオンパレードだったこともあり、たくさんの題名を見ている間に、題名のミニ・レッスンについて考えてみたくなりました。

 まずは「副題のミニ・レッスン」です。『スマイル!』『祈り』『世界を信じるためのメソッド』『勇者はなぜ、逃げ切れなかったのか』『釜石の奇跡』。こういう題名を見ると、皆さんはどういう本を想像されますか? これらを副題つきにすると、以下のようになります。

『スマイル! ――笑顔と出会った自転車地球一周157ヵ国、155,502km』(小口良平、河出書房新社、2017年)

『祈り――忘れるな拉致――報道写真集』(新潟日報社、2020年)

『世界を信じるためのメソッド――ぼくらの時代のメディア・リテラシー』(森達也、理論社, 2006年)

『勇者はなぜ、逃げ切れなかったのか――歴史から考えよう「災害を生きぬく未来」』田所真、くもん出版、2016年

『釜石の奇跡――どんな防災教育が子どもの"いのち"を救えるのか?』(NHKスペシャル取材班、イースト・プレス、2015年)

 「釜石」と見て、サッカーを思い出した私は、『釜石の奇跡』は「スポーツ感動もの」だと思ったので、副題を見て、自分の的外れさに苦笑です。

 考えてみると、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ、新潮社、2021年)も、印象に残る題名ですが、ここからだけでは内容の見当はつきにくいです。この本に副題はあったのかな?と思って表紙を見ると、英語で小さ目の字で The Real British Secondary School Daysと書かれています。異なる言語で書き足すという方法があるのも学べます。

 ここまでに挙げた本は全てノンフィクション系の本ですから、「副題」を扱うのは、ノンフィクションの導入のときのミニ・レッスンでもいいのかもしれません。特にノンフィクションを書きたい子どもには、「副題とのコラボとその方法」は、自分が使える技の引き出しに入れておきたい一つのようにも思います。

 他方、フィクションの場合は、ノンフィクション系と比較すると、副題があるものは少ない印象を受けました。そこで、「気になった題名で著者が行っていること」を考えてみました。

 今回、教えていただいた多くの本を見ていて、一番、印象に残った題名は以下です。

 『か「」く「」し「」ご「」と「』(住野よる、新潮社、2017年)

 「 」を使われていることから、「句読法で工夫する」という方法にも目が向きます。

 子どもたちに、題名を分析してもらうと、いろいろと工夫のポイントが出てきそうですが、私も著者の行っている工夫を、もう少し考えてみました。

 ・よくある日本語の単語をカタカナにする 

(例) 『キケン』(有川浩、新潮社、2010年)

→ アマゾンで検索すると、略称「機研(キケン)」=危険、という紹介が書かれていたので、(カタカナのように)音だけにすると、複数の異なる漢字を示唆することができるのがわかります。

 ・一見マッチしない言葉を組み合わせる。

(例)『少年アリス』(長野まゆみ、河出書房新社、1989年)

『ミッキーマウスの憂鬱』(松岡圭祐、新潮社、2005年)

→ 少年とアリス? ミッキーマウスはハッピーなイメージなのに? と興味を惹かれました。

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 「どうやって選書をするの?」と学習者に聞くと、選書方法として「題名」がよく入ってきます。私自身は題名だけで選書することは少なく、「作家読み」か「人のお薦め」が多いです。とはいえ、気になった題名から検索すると、カスタマー・レビューが読めますので、助けになります。

 そして、「あ、これは素敵な題名だけど、自分には合わないジャンルや自分にはおそらく楽しめない本だ」と思うこともあります。それはそれで「あり」というか、教師が図書コーナーやおすすめ本を全て読まないといけない、いうことではありません。

 実際、優れた実践者のアトウェル氏は、ブックトークについて説明している箇所で以下のように言っています。

 「まだ私が読んでいない新しい本について、購入した理由、受賞歴、書評、同じ作家の他の本、本に印刷されている紹介や国会図書館のサマリーなどを読み上げる時もあります。そして、この本を一番に読みたい人がいないかを尋ねます。読んでみて、高く評価できれば、ブックトークするようにとも言い添えます。また私が苦手な、ファンタジーやサイエンス・フィクションの本については、そのジャンルが好きな生徒に渡して目を通すように頼みます」(『イン・ザ・ミドル』144ページ)

 『読書家の時間』では、教師は自分が読んでいない本でもカンファランスができることが書かれています(2014年版でも、今年6月下旬に刊行予定の改訂版でもこの部分は同じ内容です)。「カンファランス」という章の中に「教師が読んでいない本でもカンファランスはできる」というセクションがあり、以下のように書かれています。

 もし、子どもたちが読んでいる本の内容を正しく理解しているかどうかを確認するためにカンファランスを行うとするならば、教師は子どもたちの読んでいるすべての本に目を通し、その全てについて「正しい理解」ができていないとカンファランスを行うことはできません。

 <略>

 多くの教師が、子どもたちの成長を可能な限り最大限に引き出したいと考えているはずです。にもかかわらず、教師の知っている本や教材しか読ませないとするならば、子どもたちは狭い籠で育てられた鳥のように、大空を知ることなく1年間を過ごすことになります。<略>このようなことにならないためにも、読んでいない本でもカンファランスを行っていくようにしましょう。(『読書家の時間』104〜105ページ)

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 子どもたちが大空を知る鳥のように羽ばたけるためにも、おすすめ本リストは教師と子どもの強力なサポーターになりそうです。

2022年5月6日金曜日

新しい目で世界を見るための本

 数年前まで、国立系の中高一貫校で教えていて、いまは本文中にもある軽井沢風越学園で国語を教えている澤田先生が『見て・考えて・描く 自然探究ノート ~ ネイチャー・ジャーナリング』の書評を書いてくれたので紹介します。

 より良い文章の書き手とは、より良く世界を見る人のことである。その思いを強めたきっかけの一つは、現任校である軽井沢風越学園の同僚たちの書く文章だった。

 軽井沢風越学園は、長野県の軽井沢にある幼稚園・小学校・中学校の「混在」校である。「混在」しているのは子どもたちだけでない。大人のスタッフも同様で、多くの現場から同僚が集まる。小学校の教員をしていた人、野外保育の実践を重ねてきた人、森のガイドをしていた人、僕のように中学校や高校から集まってきた人、デザイナー、放送局出身の人…。そうした多様な同僚との関わりの中で、内心ひそかに驚いていたことがあった。野外保育など、自然をフィールドとして長く働いてきた同僚たちの書く文章が、とても魅力的なのだ。彼らの書く文章のなかでは、人や木々や生き物が活き活きと動く。昨日とは違う今日の太陽の日差し、森の中でうごきはじめる小さな生き物、子どもたち同士の遊ぶ姿。そういう風景から、彼らは背後にある意味を見出し、物語を紡いでいく。優れた書き手は、世界をより良く見ることを通して、そこに新たな意味を創り出していくのだ。それは、僕のような凡百の書き手にとっては、うっとりしてしまう書きぶりだった。

 しかし、ジョン・ミューア・ロウズ『見て・考えて・描く 自然探究ノート』を読むと、神業のような彼らの「世界を見る目」にも、熟達の道があったのではないかと思わされる。というのも、本書は、世界をより良く見るための、極めて具体的なネイチャー・ジャーナリングの手引書だからである。僕は初めて知った言葉なのだが、ネイチャー・ジャーナリングとは、ナチュラリストと呼ばれる人々が用いる自然観察の方法だという。ナチュラリストは、理論や概念からではなく、実際に自分の眼で捉えるところから世界を捉えようとする。そのため、生き物、樹木、岩、水、風景などの自然を、先入観を排して分析的に観察し、記録し、思考していく。

本書の特長は、ネイチャー・ジャーナリングの方針とノートの詳細な具体例が、豊富に示されていることにある。例えば、一本の木を、雲を、どう見るのか。僕たちの頭の中にあるステレオタイプな木や雲の姿を脇において、目の前の木や雲そのものを観察し、記録するために、どこに注目し、何を描くと良いのか。そのために必要な水彩絵の具や鉛筆などの道具も含めて、実に具体的に指南してくれる。まさに、神は細部に宿っている。本書にある多数の美しいカラーイラストを眺めるだけでも楽しいが(筆者は、美しい絵を描くことは本質ではないと強調しているが、実際問題として、本書のスケッチはどれもこれも美しい)、この細かな手引きは、ネイチャー・ジャーナリングを実践しようとする人の心強い味方になるはずだ。絵心のない僕でさえ、この本を参考に山のスケッチでもしてみようかと心誘われたくらいなのだから。

 でも、この本の最大の魅力は、世界に向けて自分を開いていく好奇心が、天性の才能ではなく、意識的に保ち、磨きつづけられるものだと宣言する姿勢にある。そしてこの思想は、自然科学の領域を超えて、学ぶことの根底をささえるものだ。というのも、僕にはこのネイチャー・ジャーナリングの話が、自分の専門である国語科の「書くこと」における「作家ノート」(writer’s notebook)と重なって思えるからである。この「作家ノート」とは、書き手が文章を書く前の段階で使うノートのことだが、決してただの下書き用ノートではない。そのノートを持ち歩くことで、書き手は、書く題材を自ら探すように世界を眺める。自分が驚いたことを書き留めたり、気になった会話を記録したりと、世界をちょっと違う角度から眺めるようになる。つまり、作家ノートの本質は、書くための手段である以上に、世界とつながるための手段なのだ。作家ノートにこそ、書くことを通じて世界を発見するという、書くことの最も大事な現場がある。そして、この作家ノートの機能は、言葉によるネイチャー・ジャーナリングそのもの。アメリカの作文指導者であるラルフ・フレッチャーは、作家ノートを「あなたを目覚めさせ、あなたの内と外の世界でいま起きていることに、注意を向けさせてくれる」時計のベルに喩えているが(A Wirter’s Notebook)、ネイチャー・ジャーナリングのノートも、きっと同じ音を響かせているに違いない。

 子どもの頃からの「名言好き」の僕にとっては、「見る」「観察する」ことに関する多くの箴言が紹介されているのも、本書の魅力の一つ。さまざまな魅力的な断章の中で、本書を象徴するようなマルセル・プルーストの次の言葉がとりわけ印象に残った。「発見という名の航海の本質は、新しい風景を探すことではない、新しい目でみることなのだ」。

 見慣れたはずの風景を、新しい目で見る。結局のところ、世界をより豊かに享受し、好奇心を持って自己を更新しつづける人とは、そういう人なのかもしれない。それは詩人であり、科学者でもある(偶然かもしれないが、本書70ページではジャーナルの方法として詩を書くことが挙げられている)。

『見て・考えて・描く 自然探究ノート』は、極めて具体的なネイチャー・ジャーナリングの方法の本でありながら、そんなふうに、教科の枠を超えた示唆を与えてくれる魅力的な本だと思う。僕にとっては、国語と理科の思わぬ距離の近さを感じた読書でもあった。発見するとは、新しい目で見ること。せっかく森のある学校に勤めているのだから、僕も自分の作家ノートのなかに自然探究ノートの要素をどう取り入れるか、考えてみたい。