2018年8月31日金曜日

(読解)テストへの対応


 リーディング・ワークショップやライティング・ワークショップ関連の文献で、テストへの対応が具体的に書かれている箇所を、時々、目にします。

 その中から、読解テストへの対応として、参考になりそうに思うのは、以下の2点です。

 1) テストを「一つのジャンル」ととらえ、いろいろなジャンルの特徴を学んでいくのと同様に、ある時期、「テストというジャンル」について学ぶ。
 2) 誰のために、どういう目的で、何を読むのかによって、(意識的に)読み方を変えることができるようになることをサポートする。

1)  テストというジャンルを学ぶ

 生徒が新しいジャンルに接したときに、そのジャンルの文章を分析し、特徴を見出しつつ学ぶように、テストについても「一つのジャンル」としてアプローチする、という考え方です。その具体的な様子は Put Thinking to the Testという題名の本の中で描かれています。この本の第2章は、「テストを一つのジャンルを考える: 共通テストの独自性」がテーマになっており、テストというのは、次のような3点の特徴のある、一つのジャンルだ、と考えられています(18ページ)。

 ある内容を、テスト独自の形式と方法で取り扱う。
 普段の授業ではあまり使わないテスト独自の語彙がある。
 生徒が従わなければいけない手順がある。

 これについては2014 1115日のWWRW便り「テストというジャンル(の中の詩)」で、次のような例を紹介しました。

 子どもたちが付箋をもって、テストに登場する詩とその問題を見て、気づいたことを書きこみ、先生は子どもたちの付箋に書かれたことを確認したり、それを深めたりし、最終的には、テストの詩とそうでない詩の読み方の共通点と異なる点が一目瞭然のベン図を作成しています。

 子ども(4年生)の中には、「テスト作成者は、僕が、彼らが作った質問を理解できているかどうかを見たいんだね。僕が(テスト問題として出されている)詩を理解できているかどうかでなくて」という分析をしている子もいます。
https://wwletter.blogspot.com/2014/11/blog-post_15.html

 この方法は、「まどろっこしい」と思われるかもしれませんが、生徒が付箋をもって、テストというジャンルで気づいたことを書き込みながら分析して、上のようなことを自ら発見することで、得られる部分も大きい気がします。

  ベン図で思い出しましたが、そういえば作文テストについては、『ライティング・ワークショップ』(新評論、2007年)の著者たちは、「ライティング・ワークショップと作文テストの関係」というベン図(133ページ)を作成し、それを子どもたちに見せて、作文テストについて説明しています。ベン図なので、共通点と異なる点がはっきりします。そして子どもたちは、説明を聞いたあとで、テスト形式で書いてみて、そのあと、先生が困った点や対応がはっきりするような質問をしてサポートしています。詳しくは『ライティング・ワークショップ』第9章 評価と評定の中の「州規模で実施される作文テストとライティング・ワークショップ」というセクション(131~135ページ)に書かれています。

 共通テストの特徴を伝えて、実際にテスト形式を体験し、対応を考えるというやり方は、先月、邦訳がでた『イン・ザ・ミドル』(ナンシー・アトウェル、三省堂)でも使われています。『イン・ザ・ミドル』では、読解のテストを受ける1週間ぐらい前に、テスト対策として、生徒たちが受ける読解テストについて、4種類の問題があることを先生が指摘し、テストの問題文と質問がどのようにつくられているのかを生徒が学ぶこと、問題文の読み方や答え方の手順を扱うミニ・レッスンも行うことなども書かれています(235236ページ)。

2) 誰のために、どういう目的で読むのか。

 上で紹介したPut Thinking to the Test の著者の一人、パトリック・A.アレン(Patrick A. Allen)さんが書いたリーディング・ワークショップのカンファランスについての本 Conferring:The Keystone of Reader’s Workshop ★★で、「(読むことの)目的と、誰に向かって読むのかの再定義」を論じているセクションがあります。

 この本の中では三角形の図で、誰に向かって読むのかについて、「自分」「自分と関係のある人」「まず会うことのない人」と3つに分けてかなり詳しく書かれています。 ここではごく短く紹介しますが、「誰に向かって読むのか」の中の、「まず会うことのない人」の中に、外部のテスト作成者が含まれます。  

 著者のアレンさんは、生徒たちが、誰に向かって、どういう目的で読むのかを意識することで、「読み方(プロセス)や、読んで得るもの(プロダクト)を、柔軟に変えることができる」ようにサポートしていくことを詳しく説明しています。

 私も、いろいろな読み方ができ、意識的に読み方を変えられることは、リーディング・ワークショップで身につく大切なことの一つだと思います。私の知人で英語を教えている人が、英語の授業でブッククラブをしたところ、学習者の一人が、「今までTOEICの読み方しか知らなかった」と言っていたそうです。英語を読むことについて、TOEICの読み方しか知らないというのは、個人的には、あまりにもったいない気がします。いろいろな読み方ができ、自分で必要に応じて、読み方を変えられることのメリットは大きいと思います。

 『ライティング・ワークショップ』では、「ワークショップ中の創作と作文テストでは受ける印象がまったく違います」としたうえで、「それでもなお、図9-1(←ベン図のことです)のようにライティング・ワークショップと作文テストを並べて検討すると、ライティング・ワークショップで学ぶことで子どもたちがテストを受ける準備ができているのが分かります。子どもたちは、作文テストに必要なスキルをワークショップで習得できるのです」(132ページ)と書かれています。

 『イン・ザ・ミドル』には、「本に夢中になって取り組む多くの時間こそが大切」とか「自分たちが受ける共通テストの形式や何が要求されているのかを知って、その練習に23日かければ、十分に適応できます」(どちらも235ページ)という文がでてきます。

もちろん、日本にそのまま当てはまらない点もあると思います。でも、上のような文を読むと、リーディング/ライティング・ワークショップの実践者たちは、ワークショップでの大量の読み書きを通して身につけていく力は、テストにも適応できる力の土台である、だから、テストの前に、適応できるようにサポートすれば十分だと実感しているように思います。

Put Thinking to the Test はLori L. Conrad, Missy Matthews, Cheryl Zimmerman, Patrick A. Allen著、Stenhouseより2008年に出版されています。

★★Conferring: The Keystone of Readers Workshop はPatrick A. Allen著、Stenhouse より2009年に出版されています。この本の66ページに三角形の図があり、62~75ページで詳しく説明されています。

2018年8月24日金曜日

評価は、生徒に対してするものではなく、生徒と協力してするもの!


 ライティング・ワークショップ/作家の時間(WW)とリーディング・ワークショップ/読書家の時間(RW)が、評価の観点からも優れた実践であることを証明してくれる本が、近日発刊されます。
 タイトルは、『一人ひとりをいかす評価』(キャロル・トムリンソン他著、北大路書房)です。

 WWRWは、診断的評価、総括的評価、そして成績でももちろん優れているのです★が、今回は「指導と評価の一体化」に最も関係の深い形成的評価に焦点を絞って紹介します。

◆形成的評価の特徴と影響
 『一人ひとりをいかす評価』の中で、形成的評価の特徴と影響について、評価の専門家たちの定義を紹介してくれています。その中の一人でイギリス人の研究者のウィリアムのを下に引用します。

 ディラン・ウィリアムは、「評価は、指導の次のステップを決めるために、教師が生徒のパフォーマンスについての証拠を集め、解釈し、そして使ったときの方が、証拠もなしに決めたときよりもどれだけ好ましいかという程度に応じて、形成的である度合いも決まる」としています。言い換えると、評価は「集めた証拠が、生徒のニーズに見合った指導に使われた場合に」形成的になります。ウィリアムはまた、教師が指導を改善するために評価情報を使うのと同じくらい、生徒たちも自分自身やクラスメイトの学習を改善するために評価情報を使うことが重要なのだと書いています。「力のある学習者たちは、自分の長所と短所(強みや弱み)がわかっているときにこそ、その力を一番よく発揮するのです」。こうした目標に向けて、形成的評価を授業で頻繁に(一つの教科で1週間に2~5回)行うべきです。(引用は、本書第4章の90ページより。この第4章では、形成的評価で使える具体的な方法も紹介されています。)

 この後に2人の他の研究者の定義を紹介した後で、「学力向上と評価を促進する州レベルの協議会(The State Collaborative on Assessment and Student Standards)」が採用し、幅広く引用されている次のような形成的評価の定義を紹介してくれています。それは、「意図された学習目標に向けて生徒の到達度を向上するように、教師による指導と生徒による学習を修正し続けるために継続して行われるフィードバックを提供し、指導/学習の間を通して教師と生徒によって用いられるプロセスである」(本書91ページ)と。そして、著者たちは以下の解説を付けてくれています。

 この定義で重要なのは、次の二つのことが強調されていることです。一つに、形成的評価が、何か特別な評価の種類やタイミングで行われるものではなく、プロセスとして捉えられていることです。もう一つは、そのプロセスが学習ユニットの開始時点で始まり、ユニットが展開するにつれて継続されて行われるということです。ですから、ウィリアムの説明に戻ると、評価を形成的にするのは、手段なのです。つまり、生徒のニーズについての情報を集め、それから学び、そしてそれを使いこなして、生徒の成功に貢献することを約束する指導と学習計画に修正を加えられるようにすること、です。(引用は、本書91ページより。)

 生徒たちがわかる/できるように教えるということは、まさに、こういうふうにすることだと思われませんか?
 WWとRWではこれを、カンファランスを中心に、多様な方法(作家ノートや読書ノート、共有の時間の生徒たちの振り返り、ミニ・レッスン中の生徒たちの発言、生徒たちが学期中を通じてつくり続けるポートフォリオ等も含む)で行われ続けます。

◆形成的評価で生徒が果たす役割
 形成的評価の特徴を考える際に、もう一つ忘れてはならない大事な要素があります。それは、生徒たちが果たす役割です。一般的に「評価」は「教師が生徒たちに対して行うもの」というイメージが強いですが、診断的評価と総括的評価および成績★まで含めて、本来は生徒たちと共に行うべきものです。そうすることによって、評価と成績の価値が何倍にも膨れ上がります。その理由を、『一人ひとりをいかす評価』(99~101ページ)では三つ挙げています。
 一つは、学校の最も重要な目標は「自立した学び手を育てること」★★だからです。
 二つ目は、自立した学び手となるために必要な知識や態度やスキルを生徒たちが身につけられるようにするためには継続的な支援が必要だからです。学びは、イベントではなくて、プロセスです。
 三つ目は、重要な内容に関する目標に向けて自分がどのように成長したかをお互いが評価できるように生徒たちを教えることは、いくつかの点で有益だからです。これによって、生徒たちは自己評価能力や相互評価能力を高めることができます。(つまり、教師に依存しないで自分を評価できる+自己修正・改善能力を高められるようになるのです。)

 これらはまさに、WWRWによる授業が実現していることだと思いませんか?

 ぜひ、形成的評価を含めた3つの評価と成績を、この本を通して自分のものにして、よりよい学びを生徒たちに提供してください。

◆ 特別割引情報
1冊(書店およびネット価格)2376円のところ、特別割引2000円(税・送料込み)となります。
ご希望の方は、冊数、②お名前、 ③郵便番号+住所 ④電話番号を書いて、pro.workshop gmail.com  お申込みください。


★これらの点については、『イン・ザ・ミドル』(特に、第8章)、『成績をハックする』、『読書家の時間』(特に、第8章)に詳しく書かれていますので、ぜひご覧ください。

★★『一人ひとりをいかす評価』の99ページに、著者たちの「自立した学び手」像が5つ紹介されています。興味のある方は、あなたにとっての「自立した学び手」像をpro.workshopgmail.comに、お送りください。『読書家の時間』の執筆に携わったメンバーが描き出した「自立した学び手」と「自立した読み手」のリストをお送りします。



2018年8月18日土曜日

見えない糸(invisible lines)を結ぶ


熱烈に学ぶ、沈黙を使って深く耳をすます、もがくことを味わい楽しむ、ルネサンスの画家や思想家のように考える、思考を変化させる、夢中で対話する、感情と結び付けて記憶する・・・・・・これらは、エリン・オリヴァー・キーンさんが探り出した「理解する(わかる)」ことの種類です。『理解するってどういうこと?』のなかにはこうした「理解の種類」のモデルとしての作家や画家たちのエピソードがたくさん示されています。




画家や作家の人生そのものを題材にした小説は、必ずと言っていいほど「理解する」ことに関わってきます。『暗幕のゲルニカ』や『楽園のカンヴァス』(ともに、新潮文庫)を手始めに、原田マハさんの小説にはまりかけて、次の一冊を探して手にしたのが『奇跡の人The Miracle Worker』(小学館文庫)という小説。聞き覚えのあるタイトルだなと思って読み始めました。舞台は明治20年、青森県弘前。見ることも聞くこともできない少女介良れん(けら・れん)とその教師であった去場安(さりば・あん)、そして狼野キワ(おいの・きわ)という盲目の三味線の名手の三人が中心となって展開する物語です。

ここまで書くとだいたいおわかりでしょうが、『奇跡の人The Miracle Worker』は、ヘレン・ケラー『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(小倉慶郎訳、新潮文庫)のアダプテーション(翻案)と言っていい小説です。れんに言葉を教え、思考し、表現する人になるための学びをさせるための、筆舌に尽くしがたい、すさまじい安の意思と行動に引き込まれるようにして『奇跡の人The Miracle Worker』を読み終えました。見えないこと、聞こえないことを克服したれん以上に、その教師である去場安その人が「奇跡の人」にほかならないと思えました。

そこで、本家(?)の『奇跡の人』はどうなっていただろうかと思い、ヘレン・ケラーのこの自伝を再読してみたのです。自伝ですから、ヘレンがサリバン先生とのやりとりを回想しています。第6章に「愛って何?」というヘレンの問いかけにサリバン先生が答えるエピソードがあります。

 

「愛というのは、いま太陽が顔を出す前に空を覆っていた雲のようなものなのよ」これだけでは、当時の私には理解できなかった。そこでやさしくかみ砕いて、サリバン先生は説明を続けた。

「雲にさわることはできないでしょう? それでも雨が降ってくるのはわかるし、善い日には、花も乾いた大地も雨を喜んでいるのがわかるでしょう? それと愛は同じなのよ。愛も手で触れることはできません。だけど、愛が注がれる時のやさしさを感じることはできます。愛があるから、喜びが湧いてくるし、遊びたい気持ちも起きるのよ」

その瞬間、美しい真理が、私の脳裏にひらいめいた――私の心とほかの人の心は、見えない糸で結ばれているのだ、と。(ヘレン・ケラー『奇跡の人』44-45ページ)

 

 今更と思われるかもしれませんが、ヘレンケラーの『奇跡の人』の一節。見ることも聞くこともできなかったヘレンが、「愛」が目に見えないことを悟って、人と人との間に「見えない糸」があることを知るというエピソードです。「その瞬間、美しい真理が、私の脳裏にひらめいた――私の心とほかの人の心は、見えない糸で結ばれているのだ、と」というくだりは、原文では「The beautiful truth burst upon my mind――I felt that there were invisible lines stretched between my spirit and the spirits of others.」となっています。見えないはずのヘレンが「見えない糸invisible line」という言葉を使っているのです(素朴に、ちょっとびっくりしてしまいました)。このinvisible linesが「愛」だと、ヘレンは知ったのです。 

サリバン先生の「愛というのは、いま太陽が顔を出す前に空を覆っていた雲のようなものなのよ」という比喩を、悲しいかな、見える人の一人であるわたくしはすんなりと理解できませんでした。「雲」は太陽の光を阻むもののはずなのに、どうして「愛」の比喩になるのだろうか、と。むしろ世の中を隈無く照らす太陽の方が「愛」に似つかわしいのではないか、と。ヘレンが見えない人であることをすっかり忘れていました。 

サリバン先生は「触れること」なら出来るヘレンのために、「触れることのできないもの」としての雲の比喩を使って、愛とは何に似ているものか、をヘレンに伝え、考えさせようとしたのです。「雲」は具体的なモノだけれども触れることはできないものですが、このサリバン先生の機知によって、見ることのできないヘレンにとっては、目に見えない抽象概念としての「愛」とは何かを考える手がかりになったのです。相手が「わかる」ために必要なコンテキスト(状況、条件)を、相手の身になって考え抜いたからこそ生まれた比喩です。invisibleとは「見えない」という意味の形容詞ですが、ヘレンはuntouchable(触ることのできない)な対象としての「雲」からの類推で、この語彙まで獲得したということになります。「私の心とほかの人の心は、見えない糸で結ばれている」という「美しい真理」がヘレンの脳裏に「ひらいめいた」というのは、ヘレンが「愛」とは何かを理解したしるしだと言っていいでしょう。

サリバン先生の「理解の種類」(相手が「わかる」ために必要なコンテキスト(状況、条件)を、相手の身になって考え抜く)が、ヘレンに「愛」とは「私の心とほかの人の心」が「見えない糸で結ばれている」という「理解の成果」(発見)をもたらしたのです。原田マハさんの描く「去場安」は、相手が「わかる」ために必要なコンテキスト(状況、条件)を、相手の身になって考え抜くという「理解の種類」を徹底して行った人物として造型されています。あきらめずに、自分の心とれんの心と間に「見えない糸」を結び、わかろうとする「愛」を貫いた人物として。

2018年8月11日土曜日

紆余曲折? 夏休みの読書計画


 短い夏休み。短いので大切に使おう!と意気込み、かなり真面目に自分の夏の読書計画を立てていました。 


 例えば、「そもそも」ある教え方自体が何を目指しているの?という、「そもそも」に関わる部分を考えられるような本もじっくり読もう等、目標も複数設定し、それなりに自分の向上心?も感じるものになったのですが、いざ、眺めてみるとあまり楽しそうではありません。リストした本に夢中で取り組んでいる自分が想像しにくいのです。


  せっかくの夏休みなのに、なんだか行き詰ってしまい、ふと、『リーディング・ワークショップ』(ルーシー・カルキンズ著、新評論)の中に、「旅行のときに本用のスーツケースを持っていく」みたいなことが書かれていたことを思いだしました。本用のスーツケースを持って旅行に行くことは、私には、「いつか実現してみたい、憧れの夏休み読書」なので、やや逃避的に、その箇所を開いてみました。

 「優れた読書家が、自分の読書について語っている様子を想像してみてください。<中略>旅行に行くときには、衣類用のスーツケースと本用のスーツケースを持っていくので二つのスーツケースが必要になるとか、財布に折りたたまれている書評の切り抜きのこととか、あるいはベッドの横のテーブルに積み上げられた本のことを話してくれるかもしれません」(62ページ)と書かれています。


 この部分は、ほぼ記憶どおりでした。よかったのは、この箇所を思い出したことから、この前後と上の<中略>と書いた部分をじっくり読み直すことになり、そのおかげで、行き詰った自分の読書計画を見直す視点が得られたことです。上の<中略>と書いた箇所や前後も含めて、3段落強、とやや長めですが、以下、引用します。


 私たちも、子どもたちも、それぞれの生活の中で本を読むことについて「メンター」と呼ぶべき人、つまり「よき師匠」として導いてくれるような読書家にはなかなか出会うことがありません。ちょうど、弟子入りした見習い工が熟練者に学ぶように、子どもたちが教師という熟練した読書家に弟子入りして読むことを学ぶとすれば、教師の読むことの教え方も根本的に変っていくと思います。
 優れた読書家が、自分の読書について語っている様子を想像してみてください。その話の中に、私たちが、通常、教室で行っているようなことが出てくるでしょうか? 例えば、教科書を読んで比較対照事項を抜き出すとか、各章の最後の設問に答えるとか、比喩や象徴表現のリストをつくると いったことです。言うまでもなく、読書家たちはそんなことは語らないと思います。
 そうではなくて、本を読むことがどれだけ楽しく熱中させてくれるか、そして、どれだけその人たちの暮らしや生き方に影響を及ぼしているのかを語ってくれるはずです。旅行に行くときには、衣類用のスーツケースと本用のスーツケースを持っていくので二つのスーツケースが必要になるとか、財布に折りたたまれている書評の切り抜きのこととか、あるいはベッドの横のテーブルに積み上げられた本のことを話してくれるかもしれません。
 本を読むことにかかわるこのような話は、単にすぐれた読書家のほほえましいエピソードというだけではなく、読むことで違った生き方ができるということも教えてくれるのです。(62~63ページ)


 ここから思ったのは以下です。
・自分の夏休みの読書にも、先輩の読書家として、学習者に伝えるべきことが含まれている。
・「本を読むことがどれだけ楽しく熱中させてくれるか」は私にはやや微妙な分野です。物語の展開にどんどん引っ張っぱられるようなフィクション系は大好きで、むしろ、「自制心をもって適量読むだけにする」のが難しいです。ただ、今回、当初の読書計画では、この部分を大きく削除したために、読書計画がつまらなくなったのも事実です。「楽しく熱中」の要素も読書計画に残してOKと思い直しました。
・とはいえ、「楽しく熱中」だけだと、やはりケーキだけ食べているような「偏食感」もあり、そういう読書家のイメージは、自分のなりたいメンターとしてはイマイチです。上記に引用した箇所の、「楽しく熱中」の次に書いてある「暮らしや生き方に影響を及ぼしている」や「読むことで違った生き方ができるということ」を、私の場合はもう少し意識する必要がありそうです。
・「暮らしや生き方に影響を及ぼしている」や「読むことで違った生き方ができるということ」を考えると、最初に計画していたような「そもそも」を論じるようなものや、あまり得意でない分野、知らなかった分野を読むことも必要です。ただ、それが単なる苦行ではなくて、しっかり集中することが必要です。ここから「エンゲージメント(Engagement) 」という概念と「読むスタミナ、書くスタミナ」という概念を思い出しました。★
➔ つまり、私の取り組むべき課題は、不得意分野へのエンゲージメント(集中して、取り組むこと)を上げつつ、不得意分野でも、読むスタミナを少しづつ高めることだと、意識ができました。


 なんだか紆余曲折して、結局、元の場所に戻ってきたような気がしますし、もしかすると「苦行」に見えた同じ本を読むことになるかもしれません。でも、「メンターになれるような読書家」を意識すれば、「嫌々の苦行」として取り組もうとは思いません。エンゲージメントし、読むスタミナを高めることができるように工夫し、そのために具体的にできることをやってみることになります。そうすると、このプロセスから、「読むこと」自体についても、学習者に伝えられることも生まれそうです。紆余曲折した読書計画ですが、ようやく「取り組みたい」気持ちになってきました。エンゲージメントするために具体的にできること★なども、今から読み直そうと思います。


★ エンゲージメントについては2015年11月27日のWW/RW便り「読む・書くときのエンゲージメント(Engagement) 」を以下のURLよりご覧ください。
https://wwletter.blogspot.com/2015/11/engagement.html


★ 書く、読むスタミナについては、2017年5月5日WW/RW便り「書くスタミナ(読むスタミナ)をつけるには 」を以下のURLよりご覧くださいhttps://wwletter.blogspot.com/2017/05/blog-post.html

2018年8月3日金曜日

スゴイ文章と実践が散りばめられている『イン・ザ・ミドル』



 強烈に暑いです! この本を読んだからといって、涼しくなるわけではありません。でも、熱い内容が一杯盛り込まれているので、頭の回転が速くなり、相対的にからだの涼しさを感じられるかもしれません。(単純に、暑いことを忘れさせてくれるだけかもしれません!)

 『イン・ザ・ミドル』(ナンシー・アトウェル著、三省堂)の中には、宝物のような文章が数限りなく散りばめられています。今回は、その中の3つを紹介します。(●は引用で、◆は私のコメントです。)

● 書くこととは、意味を見出し、それを良い形に練り上げるプロセスである。そうわかったときに、私は教えることもまたプロセスなのだと気づきました。経験上、今のやり方を変えたほうが生徒の成長にプラスになると気づいた時には、それを改めて修正するだけの勇気と謙虚さをもてるようにもなりました。教師という職業はまさにライフワークなのだ、と実感もしました。同時に、私の教え方は、教師として、また一人の人間としての私を映しだす鏡なのだということも。(32ページ)
◆とても大事なポイント。教えることを、このように捉えられていない人が、なんと多いことか! あまりにも、イベントとしてしか捉えていない人が多すぎます。教員研修は、その典型。教員研修で、イベントをやり続けるということは、授業もそれでおやりなさい、というメッセージを発信しているのと同じです。それを教員研修(今夏にたくさん行われている免許更新制の講座も含めて!)を提供する側や講師が残念ながら理解していません。
「プロセス」よりは「サイクル」と言いたいぐらいです。いずれにしても、イベントである限りは、乏しい学びしかつくり出せないことが約束されています。
「私の教え方は、私を映し出す鏡」 ~ まったくその通りです。何を大切にしていて、何を大切にしていないかが、透けて見えてしまいます。(授業だけでなく、研修や会議、さらには学校自体にも、言えてしまうことですが!)それほど、サイクルを回し続ける=学び続けることは大事です。ちなみに、このサイクルを回し続けることと、教材研究/指導案/研究授業+協議的なものをすることとは混同するべきではありません。まったくの別物で、後者にいくら時間を費やしても、授業の改善は期待できませんから。

● 今の私が心がけているのは、生徒に接する時のバランスです。聞き手である私と語り手である私のバランス。観察する私と働きかける私のバランス。協力する人、批評する人、そして、いつも生徒を応援する人としてのバランス。それが固定化せず、最適のものになるように、日々模索しています。(36~7ページ)
◆これもまた、とてつもなく大事なことです。このバランスが悪い人が日本の教室には多すぎます。(研修会等の講師も! バランスのいい人にお目にかかったことはありますか?) 成長し続けることと、このバランス(「模索」ないし「もがき」と言い換えてもいい!)は、比例関係にある気がします。そして、両方を阻むのが教科書であり、指導案である気がします。それらによって、生徒の側を向けないことがほぼ約束されるわけですから。http://projectbetterschool.blogspot.jp/2017/12/blog-post_31.html に代表されるように。
教師と生徒たちとのやり取りなしで、学び★はつくり出せるのでしょうか?

● ライティング・ワークショップの両輪は、教師の知識と、生徒の自己決定です。私は、自分が教える書き手たちの選択、意図、必要を尊重しながら、同時に彼らに対応し、導き、成長する方法を示しています。日々探究しているのは、このちょうどよいバランスです。(37ページ)
◆「両輪」は、「主体的・対話的で、深い学び」を実現するための方法でもある気がします。日本の先生たちには前者はそれなりにあると仮定して★★、後者をどう身につけていくかは大きな課題です。学びの主役が誰かを考えれば、その答えは明らかだと思うのですが・・・生徒たちを「子ども」と捉え続けるのか、それとも「書き手」と捉えて接したり、会話をしたりすることから生じる違いを考えてみたことはありますか? 生徒や子どもで捉える限りは上下関係を前提にし、彼らは自己決定できない存在なので、教師である自分がすべて/ほとんどを決めてあげるという発想にならざるを得ません。それに対して「書き手」(や「読み手」)と捉えられると、主体性を委ねられるような会話や接し方が可能になります。★★★
http://projectbetterschool.blogspot.com/2018/01/blog-post.htmlで紹介した「子どもが実際に学ぶ方法と教師が教える方法との間にはギャップがある」ことを認識し、「私たちが教える論理が、子どもたちが学ぶ論理と同じとは限らない」ことを踏まえた実践に切り替えることだと思います。その切り替えについては、本書が詳しく紹介してくれています。著者のアトウェルさん自身も読み・書きの指導を一斉指導からはじめたのです。彼女も最初の数年間は「書き手=生徒たちの選択、意図、必要」に目を向けることはできていなかったのです。バランスを欠いて、教える内容にばかり目が行っていて。
なお、ライティング・ワークショップは、リーディング・ワークショップにそのまま置き換えられますし、すべての教科にも置き換えられます。

 ぜひ夏休みの間に、あなたの宝物探しをしてください!


★ この学びには、生徒の学びはもちろん、教師の学びも含まれています。後者の学びが確保されない限り、授業が改善され続けることはありませんから。

★★ このように書かなければならない理由は、本書や『最高の授業』で紹介されている「書くこと」「読むこと」「聞くこと」「話すこと」と、たとえば『国語科授業づくりの10の原理、100の言語技術』で紹介されている中身があまりにも違い過ぎるからです。

★★★ 『言葉を選ぶ、授業が変わる!』(特に、第8章の「あなたは、『誰と話している』と思っていますか?」)を参照してください。