2019年3月30日土曜日

ミニ・レッスンがもたらしてくれるもの

 前回のWW/RW便り、「教科書を」vs「教科書で」を読みながら、「従来型の講義」vs「ミニ・レッスン」の関係と、どこか似ているなあと思いました。

 ミニ・レッスンは、ライティング/リーディング・ワークショップの最初に、クラス全員に短く教える時間です。一見すると、通常の講義の「ミニ」版に思えるかもしれませんが、「通常の講義を短くしたもの」ではありません。

 まず、3月2日のWW/RW便りに、「『ミニ』レッスンを導入すると(60分の授業であれば、5分から15分程度の時間を使うことが多いと思いますから)、授業全体の時間のとらえ方、使い方が変わります」と書いたように、ミニ・レッスンの導入は、授業の中核にある残りの時間とセットです。つまり、ミニ・レッスンの導入は、「どうやって、個人や小グループで読み書きを学ぶことを、授業の中核に据えるの? どうやって実現するの?」ということに、目を向けさせてくれます。

 また、前回のWW/RW便りの最後の方に以下の文がありました。

学習指導要領を踏まえて編集された教科書は、全国の誰に対しても使えることを念頭に入れていますが、それは言い方を変えると、『誰にもしっくりこない』ことを意味します。最大の欠陥は、教科書執筆者たちが教師の目の前にいる生徒たちのことを一切知らないことです。」

 
ミニ・レッスンの内容を決めるときには、目の前にいる生徒たちの観察も必要です。

 『イン・ザ・ミドル』の著者、アトウェルは「ワークショップを始めた頃は、生徒の反応を見て、ミニ・レッスンの内容を決めていました。毎晩、生徒がしていたことやできなかったことと関連づけて、翌日のミニ・レッスンを組み立てました」(『イン・ザ・ミドル』三省堂、155ページ)というぐらいです。(⇒ なお、同じページに、何年か教えるうちに、何をいつ教えるとうまくいくのか、というパターンがでてきたことも記されています。)

 同様に、カルキンズも、教師の観察からミニ・レッスンが生まれること、過去の生徒からミニ・レッスンの進め方を計画し、直面しそうな問題を予測するものの、毎年、過去に教えた生徒と異なるニーズを持った生徒が教室に来ることもあるので、新しい視点で考えることも必要であるとしています(『リーディング・ワークショップ』84ページ)。

 しかし、ミニ・レッスンの内容を決めていく元になるのは、目の前の生徒だけではありません。

 アトウェルは、1998年に出た『イン・ザ・ミドル』第2版★(邦訳なし)では、ミニ・レッスンの内容を決めていく元になるものとして、次のようなことを挙げています(151-152ページ)。

・生徒の読み書きで実際に起こっていることから、生徒が次に学ぶ必要があるとわかったこと。

・教師の経験から、その年代の生徒が学ぶ必要があると、わかっていること。

・教師が持っている、先輩の読み手、書き手として、読み書きについてもっている知識。

・ 生徒にトライしてほしいジャンル。

・生徒が書いたものから、書くこと/読むことの問題について、解決を見出したことがわかったこと、あるいは、書き手の技や文学的な反応について、よく考えて使えているのがわかったこと。

・ 教師が、読み手、書き手として、読むプロセス、書くプロセスで行っていること。

➡ 上記のようなことを元にミニ・レッスンを計画しようと思えば、 1冊の教科書でカバーできない、多くの優れた文章を扱うことになります、また、教科書では扱わないトピックもたくさんでてきます。

 また教科書でよく出てくるような書き方や読み方も、「本当に役立つの?」と、立ち止まって考える場合もでてくるかもしれません。★★
 
 3月2日のWW/RW便りにも記しましたが、ミニ・レッスンをどう教えるのか、というのも、教師にとってはチャレンジです。

 小学校3~6年生の実践を中心に書かれた本★★★(122-123ページ)のなかで、ミニ・レッスンを行っている教師たちが作成した「よいミニ・レッスンに共通する要素」が20項目近く紹介されています。その中には、「一つの手順、一つのスキル、あるいは一つの理解に焦点をあてる」や「生徒のニーズに合っている」など、内容選択の参考になる項目がありますが、それだけではありません。「生徒が理解に貢献したり応用したりできるような場をつくる」や「ミニ・レッスンの最初からが生徒を引き込み、生徒が積極的に参加できるようにする」等の教え方に関わる要素も含まれています。

 ミニ・レッスンを導入しようと思うと、ミニ・レッスン中に、生徒が自分で咀嚼する、見つける、名前をつけるという場、参加して貢献するという場を、どうやってつくればいいの?と考えざるをえません。人数が多い教室、静かに聞くことだけに慣れてきた生徒が多い教室では、いきなりは難しいかもしれないので、どうやってステップを踏んでいくの?と具体的な手立てを計画することになるかもしれません。

 こうやってみていくと、ミニ・レッスンがもたらしてくれるものの中には、授業時間全体の使い方、生徒の観察、教師自身の知識、教師自身の観察、読み書きに関する幅広いトピック、それを提示するのにふさわしい多様な教材、そして、教室が、お互いに参加・貢献できる場になっているのかどうか等の、多くの視点やチャレンジが入っているように思います。

*****

★ Nancie Atwell の In the Middle (第2版)は1998年にBoynton/Cook/Heinemann社より出版されています。邦訳が出ているのは2015年に出版された第3版です。
★★ 上記の第2版の中で、アトウェルは、教科書や商業ベースの教材で扱われるスキルやお手本は、本当の読み書きの世界とはギャップがあることも記しています(152ページ)
★★★ Irene C. Fountas と Gay Su Pinnell の Guiding Readers and Writers Grades 3-6という本で、2001年にHeinemann社より出版されています。


2019年3月22日金曜日

4月から新しい授業に挑戦してみたいあなたへ ~ 「教科書を」vs 「教科書で」


 4月からの新年度に自分はどのような授業ができる/したいか考え始めている方も少なくないと思います。
 それは、もろカリキュラムとは何かに関係することです。これは長年「教科書vs 「教科書」論争に対して、自分はどのようなスタンスを取るのか、と深く関係します。

 『一人ひとりをいかす評価』』をブッククラブで読んでいたメンバーの一人から、「学習指導要領はカリキュラムや指導法を考えるための指導事項を提示したものにすぎません」(224ページ)という文章に対して、次のようなコメントが書かれました。
 「市教委はこういう言い方をします。『学習指導要領は国民との契約に等しい。法律に準じるものです。』つまり『しなければならないもの』ということ。それを聞いた教師の多くは、学習指導要領に準じて検定を通った教科書★『を』教えれば仕事が終わると解釈してしまいます。しかし、それが先生方の自立した授業を発想することを止めてしまっているように思います。教師の仕事はとてもクリエイティブなものだと私は思うのですが。学習指導要領や教科書の役目は、全国どこでも一定水準の、一定な指導事項を取り扱うためにあるのだと思います。ここはおさえといてね、という。
 昨年会った教師志望の学生さんが、学習指導要領に従うと面白いことができない(教育実習でうるさく言われ、教科書通りにやらされたことが面白くない)と言っていましたが、一方で、彼は私の教科書を使わない授業を、学習指導要領を無視していると考えていたこともわかり驚かされました。学習指導要領はこなさないといけない『内容』ではないということが伝わらないのは、誰も読んでいないから? こういう学生さんも、ある意味、危険な存在になり得るなあと感じましたが、現場の先輩方よりは元気があっていいです(笑)。」

 あなたは、これを読んでどのように思われましたか?★★

 確かに、教育公務員である教師は、学習指導要領をおさえる義務はあります。しかし、それに基づいて作られた教科書をカバーする義務まではありません。そのような印象を教委の指導主事が先生たちに与えてしまったら、大きな間違いです。「教科書は、あくまでも主たる教材」にすぎませんから。それをもとにカリキュラムを開発する権利というか役割をもっているのが教師です(あくまでも、学習指導要領をおさえつつ!)。この点について 学習指導要領を書いている教科調査官たちのスタンスは、https://projectbetterschool.blogspot.com/2012/10/blog-post_21.html に紹介した通りです。(他にも、カリキュラム=年間指導計画について、このブログ・PLC便りの左上に「カリキュラム」を入力して検索すると、たくさんの関連記事を読むことができます。)
 教科調査官も、先生たちに自立した授業やクリエイティブな仕事をすることを期待しているのです。そして、教科書をカバーする授業では、教える教師も学ぶ生徒たちも退屈してしまうことを認識しています(指導主事や管理職の中には、このとても大切なことを無視してしまう人がいるのでしょうか? そんなこと、文科省も教科調査官も望んでいません!)。★★★

 教科書を脇において、学習指導要領を読み込めば、生徒たちはもちろん、教師もワクワクできる授業に可能性が開かれます。ぜひ、春休みの間に学修指導要領に目を通してください。あまり長くないし、ネットで読めますから、購入する必要さえありません。目を通しさえすれば、教科書では見えない、多様な可能性が見えてきます!


★ 学習指導要領を踏まえて編集された教科書は、全国の誰に対しても使えることを念頭に入れていますが、それは言い方を変えると、「誰にもしっくりこない」ことを意味します。最大の欠陥は、教科書執筆者たちが教師の目の前にいる生徒たちのことを一切知らないことです。(もちろん、教師の得意・不得意も知りません!)カリキュラムとは、教師が学習内容(学習指導要領)を踏まえながら、目の前の生徒たちが受け入れられやすい教材等(教科書は、その選択肢の一つに過ぎません!)を探して、彼らと協力してつくり出すものです。
★★ そういえば、姉妹ブログの「PLC便り」でも似たようなことを今週書いていましたので、ご覧ください。
そこで紹介した本も参考になります。
教科書通りに教えることの弊害にまだ気づかれていない方には、『理解するってどういうこと?』(特に、120~121ページ)がおすすめです。
★★★ 「シラバスは、教科書の目次をそのまま写しています。そうしないと教育委員会にとやかく言われるので。(でも実際は、かなり柔軟に教えています。)一方、「教科書を教える」のではなく「教科書で教える」と教育センターで口すっぱく言われます。ダブルバインドです!?!」や「教科書さえやればいい、教科書がちゃんとできていれば問題ない、教科書さえもちゃんとできないのか!!』みたいな会話がよく交わされるわけです。お互いの多様な実践から学び合おうとする姿が欲しいです。アルバイトではなくプロなんですから」という現場の声もあります。
  教科書の捉え方で最も説得力があるのは、80年代の初頭に出会ったオーストラリアの指導主事から聞きました。それは、「教科書は能力のない教師のためのものです」というものです。能力のある教師は、自分でいろいろ工夫するし、教科書なんて使わないことを、指導主事(も誰も)が認めているのです。この点、日本の教育委員会も、文科省も極めてグレーです。

2019年3月15日金曜日

記憶と創造との密接な関係




 ダンテの『神曲』「地獄篇」を寿岳文章訳(集英社文庫)で読んだときに、訳文の独特のリズムに引き込まれたり、時に恐ろしく、時に滑稽なウィリアム・ブレイクの挿画に見入ったりしながら、読者のわたくしはダンテ(案内役のウェルギリウス)とともにだんだんと地獄を下り、その底に行き着いて、地獄世界が逆円錐状の階層構造になっていることを知りました。それにしても、ダンテの描く地獄世界はどうしてこんなふうに階層的なのだろうかと疑問に思っていました。仏教とは違って、ダンテの地獄世界は区画のある団地のような感じにも思われたからです。

 桑木野幸司『記憶術全史―ムネモシュネの饗宴―』(講談社叢書メチエ、201812月)の第4章「天国と地獄の記憶」にはその疑問への答えのヒントがありました。フランセス・イエイツという学者の『記憶術』に、「『神曲』「地獄篇」は、「地獄とそこで与えられる罰を整然と配列された鮮烈なイメージで描き、避けなければならない悪徳を心に刻むための記憶法のひとつとみなされていた」と書かれていたというのです。



「地獄篇」は、身の毛もよだつようなイメージ群が、整然と区画された地獄世界の中で、罪の重さに応じて階層的に配列され、実に記憶しやすい構造になっている。多少なりとも記憶術の心得のある読者なら、そのことにすぐ気がつくはずだ。(『記憶術全史』106ページ)



 なるほど、そういうことだったのか、「記憶しやすい構造」と言われれば、確かにそう(わたくしには「記憶術の心得」がありませんでした)。ダンテは登場人物のイメージと場面を細やかに描写して読者の頭のなかに「記憶」としての地獄世界を残したのです。わたくしの場合は、寿岳の訳文とブレイクの挿画の助けを借りて、ということになりますが(寿岳訳はダンテの想定した読者が同時代の庶民だったということを意識して言葉を選んでいます。「へへののもへじ」という訳文に遭遇したときはびっくりしました。どこで使われているか、どうぞ探してみてください!)。

 『記憶術全史』では、さらに、『神曲』が一種の「建築的記憶術」を具体化したものであって、「ダンテの物語世界では、記憶・想起とはまさに心の中でのフィジカルな身体移動として理解することができる」とされ、「ダンテが当時の記憶理論に通暁し、記憶の様々な特性を巧みに活かした物語構造を紡いでいることは確かだ」と書かれています。そしてダンテが物語の舞台として選びとった地獄・煉獄・天国は、「過去・現在・未来」という「厳格な空間分節がほどこされ」た格好の場所で、ダンテの選んだ秩序然とした空間が「記憶のロクスとしての最適の特徴を備えている」と言うのです。

 「ロクス」とは「記憶用の図像(figurae)を受け入れ、活用する仮想の器」のこと。記憶を支える視覚的ツールのようなものでしょうか。記憶術ではこの「ロクス」(器)が重要な位置を占めています。桑木野さんは「記憶ロクス」の条件として七つのことを指摘しています。

1       明るさ

2       堅固さ

3       ロクス間の適切な間隔

4       秩序正しく順番に学ぶ

5       ロクスの巡回方法の規則性

6       ロクスの転用可能性

7       イメージを消去することなく常に保持するためのロクスを持つべし

何かを記憶するために心がけていることなどを思い出してみてください。意外と、この七つの条件があてはまることは多いかと思います。試験のための一夜漬けの記憶のためなら、ハウツー的でリサイクル可能な「ロクス」(器)でかまわないのですが、その場合は記憶は保持されません。大切な記憶をずっと保存するためには覚えたい情報の数だけの「ロクス」(器)が必要です。一つひとつの情報が使われる場面ごとしっかりと記憶主体の感情と結びつけられることが何よりも大切なのだということでもあります。

本書には「記憶と創造の密接な関係」についての考察が少なくありません。つまり「既存の情報を拡張し、データ間の新たな組み合わせを見つけ出す場面、いうなれば知識を創造する現場」で「何かをしゃべりたい衝動」が生み出される点を重んじています。「記憶術」の歴史が人間の記憶の質に関するきわめて重要な問題提起だと言うのです。本書の後半で、記憶術文献に関する緻密な史的考察から桑木野さんが引き出したのは、「記憶とは過去のデータを創造的に再構成することに他ならない」(311ページ)という見解ですが、そのことから、一方では記憶そのものが書き換えられていくおそれがあり、他方では「創造的記憶」を重視し、記憶を不変の静的なものとしてではなく、移ろいゆく動的なものと捉える考え方が導かれます。これは、創造的思考に、一見それとは無縁なはずの記憶が不可欠だということでもあります。とりわけ感情と結びついた記憶ほど、ゆたかで創造的な思考をいざなうものはないのです。

『理解するってどういうこと?』の最終章(9章「感じるために、記憶するために、理解するために」)で扱われた「理解の種類」は「感情と記憶」でした。感情的な絆を覚えることのできたテクストの内容は記憶に残るものです。それは対象を創造的に理解する行為でもあります。「記憶術」の史的な考証の末に桑木野さんが示した見解と、「理解する」とはどういうことなのかを探求した末にエリンさんが導き出した見解とが、同じ景色を見せてくれるというのは、とても興味深いことです。『記憶術全史』を読みながら、わたくしは幾度も『理解するってどういうこと?』第9章を訳した時のことを思い出していました。大切な記憶をずっと保存するというのは、感情を伴った理解がわたくしたちの頭のなかにもたらしてくれる成果であり、またとない学びの宝物の一つなのです。

2019年3月8日金曜日

新刊紹介『シンプルな方法で学校は変わる』

ライティング・ワークショップという教え方が紹介されたのは、『ライティング・ワークショップ』が出版された2007年3月のことでした。その当時はまだ、検索エンジンで「ライティング・ワークショップ」を入力しても何も引っかかりませんでした。
それがいまは、少しはあります。まだ少なすぎますが。(状況は、「作家の時間」でも同じです。残念ながら、まだまだ知られていません! ぜひ、この卓越した方法を実践し、そして広げてください!)
日本での実践がはじめて紹介されたのが、『効果10倍の学びの技法』(2007年5月刊)の中でした(109~114ページ参照)。そして、その翌年4月に、『作家の時間』が出版されました。

 今回は、そのはじめて日本でのライティング・ワークショップの実践例が紹介された本の『効果10倍の学びの技法』(PHP新書)が絶版になっていたのを、みくに出版が増補版の形で復刻してくれることになり、14日に刊行されます。タイトルは、前回はサブタイトルだった『シンプルな方法で学校は変わる』です。

なお、オリジナルのタイトルである「効果10倍・・・」には、深い意味はありません。著者の二人は、最初から「シンプルな方法で学校は変わる」で考えていましたが、前年に出た『効果10倍の教える技術』の売れ行きがよかったので、それにあやかる形で出すのが企画として通りやすいという理由だけでした。今回は、元々著者たちが考えていたタイトルで出せてスッキリしています。その方がはるかに中身を表していますから。
すぐにでも取り組んでみたくなる(と同時に、授業や学校を変えるための効果的な方法がライティング・ワークショップも含めて47つも紹介されています。それらの情報収集をしたり実践をしたりしたのは、もう15~24年前になりますが、それらに対するニーズは、本が出た12年前よりも、今の方がはるかに高まっていると思います★。これらの方法が紹介されているパート1は、そのままで十分に使えるという判断から、最小限の加筆と情報の追加しか行いませんでした。
著者二人は本の構想段階から理論編と実践編の2つのパートの構成で考え、そして理論編の「なかなか変わらない学校をどう変える?」も、12年前に書きあがっていました。しかし、本が新書版で出ることになり、ページ数の関係でパート2はすべてカットするという判断を下さざるを得ませんでした。しかし、今回はそれがすべて(若干新しく書き直した箇所もありますが)掲載されますので、うれしい限りです。

ここで「学校」と書かれている部分は、そのまま「授業」に置き換えても、すべてあてはまってしまいます! それほど、両者は同じ問題を抱えているというか、「入れ子」構造になっているわけです。(実は、研修や会議も、同じです! 最初から学校を変えるのが難しいと思われるなら、ぜひ授業、研修、会議、さらに行事等で練習をしてみてください。それも、関わる人数があまり多くない状態で試してみるのがいいと思います。「夢は大きく、行動は小さく」が成功するための鉄則です。そして、小さな成功を積み上げていってください。逆に、最初から大きく動いてしまうと、失敗が約束されているようなものですから、ご注意ください。)


★「アクティブ・ラーニング」が言われ出したのは、数年前からですが、その中身はもちろんのこと、日本の教育が(当時も、今も、そして今後も!)考える必要のあることがかなり網羅的におさえられています。しかし、1冊の本ですべてを網羅することなど到底できませんから、二人の共著者は、その後12年間も(その前も!)授業と学校をよりよくするというテーマにこだわり続けて(それぞれの領域や力点のおき方は異なりますが)、情報提供・発信を続けています。新刊の巻末には、そうした本がリストアップされていますので、ぜひそちらも参考にしてください。そのうちの一つが、昨年スタートした「ハック(巧妙に改造し続ける)・シリーズ」です。その第1弾は『成績をハックする』でしたが、第2弾の『宿題をハックする』は4月に出版される予定です。そして、第3弾は今年中に『教科書をハックする』を、さらに第4弾には「教員研修・研究をハックする」を予定しているので、ご期待ください。これらはすべて、国語の授業を巧妙に改造し続けるためにはもちろん、すべての教科領域で欠かせないテーマを扱っています。
 あなたは、学校の何をハックしたいですか?



2019年3月2日土曜日

時には、ミニ・レッスンに時間をかける

 ライティング/リーディング・ワークショップにおけるミニ・レッスン。私の知人は、それまで授業の大半をクラス全体に向かって講義していたので、まず「ミニ」という言葉にビックリしたと言っていました。『イン・ザ・ミドル』(三省堂、2018年)の著者アトウェルも、教師になったころは「ミニ」ではなくて「特大の」レッスンを生徒たちに行っていたそうです(In the Middle 第2版 、148ページ)。

 たしかに「ミニ」レッスンを導入すると(60分の授業であれば、5分から15分程度の時間を使うことが多いと思いますから)、授業全体の時間のとらえ方、使い方が変わります。

 『リーディング・ワークショップ』(新評論、2010年)の著者、カルキンズは「ミニ・レッスンの難しさは、単に教える内容を決めることではなく、教えたことを子どもたちに定着させ、それを将来も使えるようにするためにはどうやって教えたらいいのかを考えることにあります」(『リーディング・ワークショップ』84ページ)と言っています。そしてミニ・レッスンを教えるときに、「導入」「提示」「実際に試す」「つながる」「フォローアップ」という要素を入れるように勧めています。(『リーディング・ワークショップ』84~93ページに、実例をあげて詳しく説明されています。)

 実践者が実践を積み重ねるなかで、ミニ・レッスンを「どうやって」教えればよいのか、それぞれに考えていることを感じます。

 さて、ワークショップを始めるようになり、「特大」のレッスンをやめて「ミニ」レッスンをするようになったアトウェルですが、当初は、ミニ・レッスンは、読み書きに役立つ有益な知識を生徒に伝える場だと考え、しっかり準備した知識を、しっかりリハーサルして語り、そして、書く時間/読む時間に生徒を送りだしていたそうです(In the Middle 第2版、150ページ)。

 そんなアトウェルもミニ・レッスンを行うなかで、知識を単に与える以外に、ミニ・レッスンでは多くのことができることに気づき、ミニ・レッスンでの教え方にも幅がでてきますIn the Middle 第2版、150~153ページ)

 その中で印象に残ったのが、ミニ・レッスンは、生徒が知っていることを共有し、クラスで一緒に、知っていることを確認し、考え、知識を作り出す場であり、クラスで共通の枠組み、語彙、基準、手順を作り出す場でもある(In the Middle, 第2版、150ページ)と考えたことです。

 この考えは、その後、『イン・ザ・ミドル』でかなりのページを割いて紹介されている、以下の二つの事例につながっているように思います。

 ひとつは「教師が書くプロセスを見せる」と「教師が自分の書いた詩を使って教える」というセクション(166~174ページ)。

 もう一つは、過去の生徒の書いた優れたレター・エッセイを集め、生徒が優れたレター・エッセイを分析し、その特徴を名づけていく(305~311ページ)です。
 
 どちらも時間がかかります。1日で終えるのも無理です。

 前者は、最終的にはクラス全体で作成した「よい詩を書くために詩人がしていること」という長いリストになり、生徒のワークショップ・ノートに貼り付けられます。時間はかかりますが、「ほぼすべての生徒が、最初の3か月で最重要なものの一つと認識」するものになり、「このようなミニ・レッスンの効果は計り知れません」と、アトウェルは記しています(173ページ)。

 後者からは、「優れたレター・エッセイで批評家がいつも行うことは何か」と「批評家が他にもコメントできることは何か」というリストが生まれます(308~310ページ)。

 一度リストができれば、それを翌年以降、印刷して渡せばあっという間に終わる、と、せっかちな私は思ってしまいます。でも、誰かが作り出した知識をただ与えるのではなく、「実際の事例から生徒が見つけ、それを名づけ、今後に使えるリストにしていく」、そんなミニ・レッスンも時には必要なんだと思わされます。