2020年12月25日金曜日

楽しかった「プチ探究プロジェクト・鬼滅の刃」

 私の長年の仕事仲間の長崎先生は、学校訪問時の小学生の熱狂から端を発して、最終的に「『鬼滅の刃』の単行本(23冊)を読破」という、探究プロジェクトを遂行。「(自分の疑問への答えを)どうしても知りたかった。それだけでした」でも「実に楽しいひと時だった」というプロジェクトだったそうです。『リーディング・ワークショップ』で登場する「リーディング・プロジェクト」★を思い出します。自分が探究したいことがあるって、すごい力です。では以下、楽しい探究の世界へどうぞ!

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「プチ探究活動結果報告「なぜ、今日の日本人が『鬼滅の刃』に魅せられたのか」

 10月初旬、山間部にあるK小学校を訪れました。子どもたちに英語の絵本の読み聞かせをする訪問授業でした。子どもたちの感性のみずみずしさ、大人とは異なる本の評価や捉え方など、実に興味深い発見のあった訪問でした。

 実は、この訪問がきっかけで考え続けているいることがあるのです。

 訪問の日、教室に入ると子どもたちは全員黒板に向かって漫画の絵を描いていました。全員同じ漫画です。夢中で描き続けているのです。すごい熱気でした。担任の先生が、「キメツばかりですよ。」と苦笑いをしていたのを覚えています。

 「キメツ」?その時は何のことか分からなかった。その直後、16日に「鬼滅の刃」という映画が封切られ、大ブームを巻き起こしました。日本映画の興行収入の記録も塗り替える勢いだそうです。それで、気づいたのです。あの子たちはこれを描いていたのかと。黒と緑の市松模様の少年や竹を加えた少女はこれだったのかと。また、ある会合で、「今年のマイブーム」を尋ねられた友人の整形外科医のK氏も「とにかく鬼滅にハマった。こんなことは人生初だ。」とまで言うのです。

 なぜこれほど子どもたちの心を捉えるのか、知りたいと思いました。なぜ、日本中の子どもから大人までこのアニメに魅せられるか。職業的関心から、その要因を知りたいと思いました。今の日本の世相(パラダイム)や雰囲気、価値観の揺らぎみたいなものを知る上で、とても気になるテーマだと思ったのです。背景には、ずっと苦手だと思ってきた、ストーリーテリングのこともあります。どのような物語をどのように語るのが、人を惹きつけるのかという点でもです。

 まず、我が家は Amazon Primeでビデオを見ることができるので、「鬼滅の刃」を見てみようと思いました。10話くらい見ました。

 結構驚きました。最初は、意味が分からなかった。家族を鬼に惨殺された少年が、鬼退治をするという単純なストーリです。しかも、暴力的なシーンが結構過激。首は飛ぶし、真っ赤な血が吹き出す(鬼を退治できるのは特別な剣で首を飛ばす必要があるらしい)。こんなもの小学生に見せていいのかと思うくらい(R12指定がついている)。「残虐」といえばそうなのです。

 ここまで見ても、僕にはどうしても理解できませんでした。不思議でした。

 大学生に意見を聞いてみようと思いました。いろいろな答えがありました。なるほどなあと思えるものもあった(最近はアニメオタクのような大学生が多い)。学生諸君の意見で、一番印象に残ったのは、残虐性の背後にある人間性、やさしさみたいなものに心動くという意見でした。

 ついに、TVアニメ版は全編制覇。次の日には映画館にも足を運んで「無限列車編」も観ました。さらには、何と単行本も購入(紙の本は入手困難とのことでKindle版)、ついに全編読了です。

 ネット上にも様々な論考、論説が溢れています。「大のおとなが、たかが漫画にこれほど本気になるのか!?」と、驚くばかりだったのですが、いつの間にか夢中になってしまっていたのです。もう一つのアニメブームといった言葉では語れない現象となってしまっている。

 全体としては、単純な冒険活劇で、アニメらしい馬鹿馬鹿しさもある中で、時折、ホロリとさせるところがある。それが日本人を惹きつけるのではないか。それが、僕の中での結論です。登場する鬼は、もとは人間なんですが、鬼殺隊(主人公たちが属している)によって首をはねられた鬼は、断末魔の叫びの中で、人間だったときのことを思い出すのです。それに主人公の炭次郎は理解を示して、手厚く葬ってやろうとする。なんだか心に響くのです。

 子どもの虐待など日本人が鬼畜と化してしまったのではないかと思うほどのニュースをよく目にします。政治も誠実とは言い難く、本質とは離れたところで動いている人たちが多い。そして、コロナ禍。長期にわたる不況。暗い世相が長く続いている。純粋で、真っ直ぐな思いやひたむきな情熱。そんなものを日本人は渇望しているのかもしれない。そんな渇きを潤してくれたのが、「鬼滅の刃」だったのかもしれません。

 学校訪問時の小学生の熱狂から端を発した、僕のプチ探究活動は、ひとまず完結。

 この物語について考えたのは、実に楽しいひと時でした。締め切りがあって、調べたわけでもない。きちんとした裏付けやエビデンスを集めたわけでもない。「なぜだろう?」という思いにまかせて、いろいろな人の考察を読んだり、考え続けてきただけでした。どうしても知りたかった。それだけでした。

[おまけ]

 以下、プチ探究活動「なぜ、今日の日本人が『鬼滅の刃』に魅せられたのか」について、自分なりに得たことを書き出してみました。

1. 分かりやすい勧善懲悪(鬼退治)と明確なゴール(禰󠄀豆子を人間に戻す)

2. メインのストーリーの背後にある物語への同情や共感。鬼にならざるをえなかった、人間の悲しいストーリーが、対決シーンの中や断末魔の瞬間に挿入される。そのタイミングも絶妙。(それを生み出した社会への怒り、理不尽さ、その人たちを鬼へと追い込んだ鬼畜と化した普通の人間)

3. 主人公(炭治郎)の前向きで、ひたむきかつ慈悲深いパーソナリティ(応援したくなる)。人を殺した(食った)鬼であっても、その死に当たって気持ちを寄せ、鬼も涙する。

4. 善悪の両者に引き裂かれた禰󠄀豆子の存在とその不思議な魅力(気をもむ存在だが、突然鬼としての強烈な力を発揮する)

5. 魅力的な仲間たちの存在(善逸、伊之助、柱ほか)。その若者たちが、切磋琢磨し成長する姿が描かれる。

6. おもいっきり単純化された登場人物のパーソナリティー。煉獄杏寿郎のように、主人公でない人物にも人気が集まっている。

7. なんだかおしゃれな容姿や小道具(花札のイアリング、髪型、ファッション、美形の男女、ちょっぴりセクシー)

8.  決まり文句にはまる(「全集中」「◯◯の型」など)。それに伴う感情の太い動き。

9. (明治、昭和に比べて)謎の大正時代の雰囲気が物語の背景にぴったり

10.  声優陣の実力が半端じゃない

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★『『リーディング・ワークショップ』(ルーシー・カルキンズ著、新評論、2010年)の12章(リーディング・プロジェクト)208-215ページをご参照ください。リーディング・プロジェクトは、これまでも何回か、紹介しているトピックですので、ブログ版の左上に「プロジェクト」と入力して検索すると、リーディング・プロジェクトやブック・プロジェクトに関わる記事が出てきます。

2020年12月19日土曜日

見えないものを観る力

  『理解するってどういうこと?』の第6章「理解のルネサンス」206ページには表61として「ルネサンス的思考を推進する教室」の特徴が11挙げられてますが、その最初に掲げられているのはこの世界のありとあらゆるテーマについて「たくさんの質問を自ら作り出し、書きとめ、そして振り返る」という行為です。「質問する」というのは「理解のための七つの方法」の一つでもありますが、とくに「ルネサンス的思考」を導くうえではとても大切な方法だということになります。ミケランジェロもダ・ヴィンチも「子どものような好奇心」をもちながらたくさんの「質問」を自らつくり出してそれを探ったからこそ、世界の「今まで知らなかった側面を発見する」ことができたわけです。

 しかし「質問」をつくり出して「今まで知らなかった側面を発見する」ためには何が必要なのでしょうか? そんなことを考えながら、最近購入した神田房枝さんの『知覚力を磨く―絵画を観察するように世界を見る技法―』(ダイアモンド社、202010月)を、冬の夜のひとときに開き、読み始めました。

 神田さんはこの本のなかで「自分を取り巻く世界の情報を、既存の知識と統合しながら解釈すること」の重要性を指摘してします。すなわち「知覚」です。これがあるからこそ私たちは世界を「意味づける」ことができるというのです。「思考」も「解釈」も「知覚」することから始まるのです。そして「知覚」を磨くためには、①「知識」を増やす、②「他者」の知覚を取り入れる、③知覚の「根拠」を問う、そして④見る/観る方法を変える、という四つのことが重要であると言っています。とりわけ、四番目の「見る/観る方法を変える」ことが「知覚」の質を高めるとも。

 「見る/観る方法を変える」ということは「自分の目が「何を/いかに見るのか」ということをコントロールしてく」ことだとも言っていて、そのモデルとして取り上げられているのが他ならぬ、ダ・ヴィンチだというのです。ダ・ヴィンチは「観察」すなわち「純粋に見る」ことの名手だったわけですが、その行為はどうして重要なのでしょう。神田さんの言葉を引きます。

  じつを言うと、観察の影響力は、視覚的刺激を超えたところにまで及びます。端的に言えば、対象を集中的に観察することによって、「見えないものを観る力」が高まるのです。/ と言っても、これはオカルトとかスピリチュアルめいた話ではありません。「眼では見えないものを脳で観る」と表現すれば、より多くの方に納得していただけるでしょうか。本書では、この脳で見る機能を「マインドアイ」、そこで観られる像を「メンタルイメージ」と呼びたいと思います。(『知覚力を磨く』78ページ)

 

 「マインドアイ」で見る/観ることによって「メンタルイメージ」を生み出すこと、それが「知覚」を磨くことになるのだという神田さんのこの考え方は、『理解するってどういうこと?』の「ルネサンスの思考」の特徴と重なります。ただ世界をボーッと眺めるだけではダ・ヴィンチのように発見をすることはできません。「マインドアイ」を働かせて「メンタルイメージをつくり出す。そしてその「メンタルイメージ」を修正しながら世界を捉えていく。それは考えながら世界と向き合っていくということに他なりません。そのようにして「見る/観る方法を変えていく」ことによって、「見えないものを観る力」がはぐくまれていくというのです。

 神田さんの方法論は、124ページ以降で「絵画を観察するように世界を見る方法」として実に具体的に示されることになりますが、それは『知覚力を磨く』をぜひ読んでください。一つだけ例をあげます。この本の152ページから153ページの見開きには一枚の絵が掲げられています。その絵(あえて誰の何の絵かは書かないでおきます)をじっくり眺めた後で、その絵には戻らないで次のような三つの質問に答えてくださいと神田さんは書いています。

 質問① この絵が描いている「場所」はどこでしょう?/質問② この絵のなかには、「何人」の人間が描かれていましたか? ただし、バルコニー席にいる人は数えきれないので除外しましょう。/質問③ どんなにおいがしましたか?(『知覚力を磨く』154ページ)

 恥ずかしながら、私はこの三つの質問に十分答えることができませんでした。しかし、この質問についての神田さんの回答を読みながら、いかに自分が見ているようで観ていないのかということを思い知らされました。三つの質問を考え、神田さんの文章を読んだ後で、もう一度その絵を観ると、自分がいかに「マインドアイ」を働かせていなかったかということが、とても具体的なかたちでわかり、しかしそれは以外にも悔しいことなどではなく、むしろ驚きにも似た思いを抱きました。気づかなかったことで得をしたような思いです。

 絵画についての観察による解釈を示すことに加え、神田さんは、シャーロック・ホームズの言葉を引きながら「多様な解釈を引き出せるような眼のつけどころを観ることこそが、観察の神髄なのです」と言っています。「絵画を観察するように見る方法」を使うことで「今まで知らなかった側面を発見する」という理解の種類が出現するのです。神田さんの『知覚力を磨く』を読むことで「理解する」とはこういうことを言うのかという発見が私の頭のなかに刻まれたわけです。とても重要な「知的な宝物」をいただいた幸福な気分で、その夜はぐっすり眠ることができました。

 

★ちなみに『知覚力を磨く』の著者紹介欄には、神田房枝さんについて「法人教育コンサルタント/美術史学者」に加えて「ダヴィンチ研究所ディレクター」とあります。私が『理解するってどういうこと?』第6章の内容と『知覚力を磨く』との親和性を強く感じたのは当然のことだったのかもしれません。

2020年12月11日金曜日

『生徒指導をハックする』の「関係修復のアプローチ」とRWおよびWWの共通点

 一見、生徒指導と国語の指導は関係ないように思えます。しかし、RWWWのアプローチと、『生徒指導をハックする』の中で中心的に紹介されている「関係修復のアプローチ」には大きな共通点があります。そのことについて、共訳者の一人の中井さんが書いてくれました。

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 言うまでも無く、生徒にとって学校で過ごす時間の大半は授業であり、その時間が有意義で楽しい時間になればなるほど生徒は学校に行きたいと思うようになるでしょう。そんな魅力的な学びをつくり出すためにたゆまぬ努力を続けることが教師の使命であり、それが教職のやりがいでもあります。

 けれども、生徒のやる気がなくて満足に学習できなかったり、昨日は良かったのに今日は生徒がまったく集中できていなかったりして思うように学習が進められないことがしばしばです。そもそも、いわゆる「困難校」では毎日生徒指導に追われて教材研究や学習開発どころではない…そんな声はいつでも多く聞こえてくる、学校現場で働かれている先生方の「身をひきさかれる思い」が吐露されたもののように感じます。学習指導と生徒指導は地続きの関係にあるのが現実です。けれども、だからといって国語の時間を利用して生徒指導に単純に結び付けるのは、国語の学びとしても生徒指導としても、効果をもたないばかりか、逆効果にさえなってしまう恐れがあります。例えば、人を思いやることや命の大切さをもっともらしく文学の授業のゴールにしたり、作文の中から生徒の“深層心理”を解読して家庭環境を探ったりしてしまえば、生徒は読むことが嫌いになり、心を閉ざして何も書かなくなってしまうかもしれないのです。

 本書は、こうした学習指導と生徒指導はそれぞれ異なるシステムをもった別個のものではなく、同じ構図の上で自然と重なり合っているものだという発想をもたらしてくれます。その根底に流れるのが、考え続けること・考えるのを止めないこと、です。

 例えば何か問題が起きた時、本書では、教師が問題を解決してその解決策(多くの場合は罰のような既成の処分)に生徒を従わせるのではなく、その問題の解決方法を生徒自身が自分たちで考え、それを教師としてサポートする方法が示されています。そのために教師は、なぜその生徒がそのような行動を起こしたのかを対話の中から丁寧に考え、根本となる原因をつきとめようとします。自分自身で問題を解決しようとすることで生徒は自分の行動の意味を考え、それがもたらす結果に責任をもとうとします。教師も生徒のどちらもが、あらかじめ設えられたものに従うのではなく、自分自身で考え、それを伝え合うことで「一緒に自分たちの文化をつくること」が大切にされています(『生徒指導をハックする』の主にはハック3)。こうした教師と生徒の関係性は、RWWWで共に読み合い、書き合うコミュニティーでも当然のように大切にされてきたことです。

 校則やルールとして決められた、覚えきれないほど膨大な「守らなければならないこと、やってはいけないこと」をひとつひとつチェックするような生徒指導もやめてしまいます。その代わりに、「安全・安心な学びの場にする」といったシンプルな「期待」をクラスで考え、それを満たすために自分がするべきこと、するのをやめるべきことは何かと、生徒は自分自身で考えます(同、ハック4)。これらのことを考え、考え続けることは決して簡単なことではなく、きっと脳に汗をかくような営みです。けれども「自分はできない」と諦めてしまうのではなく、その努力の先にある成長を信じてあきらめずに試し続ける「成長マインド」を育てる方法についても示してくれています(同、ハック5)。

RWWWの中でも、生徒は自分で目標を設定し、それを意識しながら、どのような方法で読んだり書いたりするのが良いだろうかと自分自身で考えます。そしてきっとこの取り組みの先には成長した自分がいるだろうと信じて、「脳に汗かく」ことを楽しみながら試行錯誤する姿ともぴったり重なり合うものではないでしょうか。

 このように、本書では育ちあうコミュニティーとしての「考え続ける学校」を生徒と教師がともにつくっていく方法が9つのハックとして示されています。学校を安心・安全な場にするために築き上げられてきたはずの校則やルールが逆に教師と生徒両方の思考を止めてしまっていることに気付き、再び考え始めることの必要性を感じざるを得ません。

それは国語の授業でも同じです。一斉指導や、一見対話的に見えるもののその内実は教師がもつ「正解(のようなもの)」を言い当てるような授業では、教師も生徒もあらかじめ用意されたものをそのまま受け取ることにのみ注力してしまい、思考がすっかり停止しています。その思考停止状態にいちはやく気付き、「考え続ける教室」を構築しようとするのがRWWWなのだと、本書を読むことで改めて「関係修復のアプローチ」★と国語の学習とのつながりを知ることができます。

★「関係修復のアプローチ」および『生徒指導をハックする』については、http://projectbetterschool.blogspot.com/2020/12/blog-post_9.htmlをご覧ください。

2020年12月4日金曜日

書き手は混沌としたプロセスを何度も通る? 〜「書くプロセス」におけるハッカー?、ドナルド・マレー

  最近、ある本★で、読み書きのつながりを、呼吸(つまり息を吸うことと吐くこと)に喩えていて、その喩えが、どうも私にはしっくりこない、というか、「あることを含めてくれる喩えだと、もっと嬉しいのに」と思いました。

 もちろん、呼吸は生きる上で欠かせませんし、息を吸うことと吐くことの「両方」が不可欠なので、この点からはいい喩えだなと思えます。

 しかし、「呼吸」に喩えてしまうと、「読み書きのつながり」の中にある、「不規則性、同時性/瞬時性」が見過ごされるように感じました。健康的な呼吸は、「規則正しい、一定のリズム」で行われています。しかし、私にとって、「読み書きのつながり」は、ちっとも規則正しくないし、一定のリズムでもありません。

 読んでいて急に思いついてメモしたり、突然書き始めたり、また、書いている時に行き詰まって、ヒントになりそうな本をパラパラめくったりもします。

 さらに、「読むこと」だけを考えても、その読み方も規則正しくありません。いろいろなペースで、行ったり来たりしながら、いろいろな読み方をしています。「書くこと」だけを考えても、同様です。時にはメモも取りつつ、こちらも行ったり来たりしながら、いろいろな書き方をしています。

 落ち着いた、規則的な呼吸では掴みきれない、動的なものが、読み書きのつながりの中にも、読むことの中にも、書くことの中にも、あるように思います。その動的な部分も含めてくれるようないい比喩があるといいな、と思います。何か思いつかれた方はぜひ教えてください!

 さて、前回の投稿では、WWの創設者とも言えるドナルド・グレイヴスが、「国語界のハッカー」として紹介されていました。「ハッカー」の概念を前回の投稿から借りると、WWとも深く関わる「書くプロセスのハッカー」は、もう一人のドナルド、つまりドナルド・M・マレー(Donald M. Murray)だと思います。

 ドナルド・マレーは自身が優れた書き手として、書き手が実際に通るプロセスを観察し続け、それを明らかにしようとした人です(たまたま、もう一人のハッカー?と同じファーストネームです。こちらのドナルドも、このブログで何度か紹介してきましたので、ブログ版の左上に「マレー 」と入力して検索してみてください)。

 優れた実践者アトウェル は、マレーのプレゼンを見て、「また、決められた方法でアウトラインを書いて、下書きから最終稿に直線的に進むという定説が揺さぶられるのもよくわかりました」と記しています(『イン・ザ・ミドル』166ページ)。

 私が上に書いた不規則性、同時性/瞬時性というイメージは、ドナルド・マレーの著作★★から学びました。

 一般に「書くプロセス」と言われると、「書く前の段階→下書き→推敲」と言う段階を経て「完成」と言うイメージを持つ人もいると思います。しかしマレーは、まずこの「書く前の段階→下書き→推敲」と言うプロセスが、一つの作品を仕上げるまでに、何度も何度も何度も通ることを指摘します(一つめの図)。(ブログ版には、以下マレーの書いた図を4つ貼り付けていますので、よろしければ、そちらをご参照ください。Facebook版では文字の説明だけです。)

(9ページ)

 次にマレーは、上のプロセスを何度も繰り返す中で、情報を集めることと、それをつなげること、そして、読むことと書くことを行っていると指摘します。(二つめの図)


(11ページ)

 それから、読むこと、書くこと、情報をつなげること、情報を集めることとの関わりを示すために、読むこと、書くこと、情報をつなげること、情報を集めること、をそれぞれ点線で繋ぎます。(三つめの図)


(15ページ)

 そして、最後の四つめの図では、「書くことは、(読むこと、書くこと、情報をつなげること、情報を集めることの間で)、複雑で、瞬時に起こる相互作用なのだ」と記した上で、この四つが複雑に絡み合っているような図を提示しています。

(15ページ)


 マレーの説明を見ていると、図が進むにつれて、書くプロセスは、読むことを巻き込んだ「混沌としたもの」にすら思えてきます。書き手は、このプロセスを何度も何度も経験しながら、それでも、その中で、自分にとってうまくいく方法を、少しずつ見つけていくのかな、と思います。

 なぜ、こういう不規則性、同時性/瞬時性が気になるかというと、(これは自分への反省も込めて書いていますが)、読み書きを「規則正しい、一定のリズム」で教えてしまいたくなる部分が教師にはあるように思うからです。そして、「読むことを深める良いツール」や「書くことを助ける良いツール」があればあるほど、それを、全員に紹介して、全員に使って欲しくなったりもします。

 そうなると、「今日は付箋を貼る日」とか、「今日は物語の要素を整理する図の空白を埋める日」とかになり、ツールを使うことが目的になってしまう危険すら出てきます。

 「書くプロセスのハッカー」?であるドナルド・マレーの上の図が出てくる本の裏表紙には、以下のような言葉もあります。(私のざっと訳ですみません。)

 「書くことは、本来、才能、やる気、ヴィジョン、語彙力、文体という事柄ではなく、机に座って書くという事なのだ。書き手とは、実際に書く人のことである」 

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★ The Literacy Workshop (Stenhouse, 2020). 著者はMaria Walther とKaren Biggs-Tuckerです。

★★ この図は、ドナルド・マレーの重要な論文などを集めた本 The Essential Don Murrayからです。マレーが亡くなったあと、彼の同僚2名の手によって編集され、2009年に出版されました。副題は Lessons from America's Greatest Writing Teacherですから、「書くことについて、アメリカで最高の教師だったマレーが教えてくれたこと」みたいな感じでしょうか。The Essential Don Murray を編集したのは、Thomas Newkirk と Lisa C. Millerで、出版社は Heinemannです。