2021年12月31日金曜日

「ことばで描く」ということ 〜子どもの詩を読む〜

 (時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、以下を書いていただきました。)

 私は、作者の気持ちが伝わってくる文章を読むと、そこに魅力を感じます。ところが、生徒たちに自分の気持ちのこもったエッセイを書かせようとしても、なかなか思うように行きません。「修学旅行で長崎に行ってどうだったの?」「面白かった」、「試合に負けてどんな気持ちだったの?」「くやしかった」、それで終わりです。もっと色々な気持ちがあるはずなのに、いざ文章に書くとなると難しい。

 そんなことを考えている時に、小学生の書いた詩を読む機会がありました。小学生の詩を集めた『小さな目』という本です。50年以上に発行された古い本で、時代を感じさせるものもありますが、時代を越えて伝わるものがあり、思わず笑ってしまったり、感心したりしました。今回は、そんな作品のいくつかを紹介し、「作者の気持ちが伝わる」とはどういうことかを考えてみたいと思います。

▷次の詩は、小学校1年生の作品です。最終行を予想してみてください。

テレビ★1

            高山もとひで

おとうさんが 8にせえといった

ぼくは てつわんアトムを

みたいと いうた

はやく 8にせんと

あとからおこるぞというた

ぼくは なきそうになって

8に まわした

(          )

 テレビ放送が始まったのが1953年で、一般の家庭に普及し始めたのが1960年代半ばです。手塚治虫原作の「鉄腕アトム」がテレビアニメ化されたのが1963年。そんな時代に、父親とのチャンネル争いで負けてしまった作者。内容はシンプルです。

 最終行は、「ボクシングをやっていた」です。「くやしかった」という言葉かな、と思われた方もいるかもしれませんが、ここで「くやしかった」と書かないところが、この作品の良いところです。

 もちろん、作者はくやしかったことでしょう。しかし、それを「くやしかった」と書いてしまうと単なる説明になってしまいます。作者がくやしかったことぐらい、書かれていなくても読者は分かります。それよりも、「なきそうになって/8に まわした/ボクシングをやっていた」という場面がそのまま描写されることで、泣きそうな作者、見たくもないボクシングの画面、それに見入る父親の姿が目に見えるようです。

 また、「8にせえ(8チャンネルにしろ)」など、関西弁で書かれていることも、臨場感を高めているでしょう。


▷次の詩は、小学校3年生のものです。最終部分を予想してみて下さい。

母の日★2

        竹内由美子

母の日なので

プレゼントをしてあげた

おかあさんは

だまって

なきそうなかおで

わたしをみた

わたしは

(       )

(       )

 小学校3年生の娘からプレゼントを受け取った母親は、「だまって泣きそうな顔」をしていたのです。それを見た「私」(作者)はどうしたのか。最終部分は次の3行です。

スカートで

かおを

かくしてしまった

 作者はうれしかったのでしょうか。恥ずかしかったのでしょうか。そのように考えて、気持ちを表すことばを当てはめようとしても、どれもフィットしません。作者自身うまくことばで説明できなかったのでしょう。でもとても心が動いていて、スカートで顔を隠したのです。それをそのまま書いています。そこがこの作品の魅力になっています。


▷次の詩も、小学校3年生のものです。詩の後半4行に書かれている内容を予想してみて下さい。

ほうたい★3

        江頭雅之

先生の足に ほうたいが

まいてあった

ぼくは

「そのけが どうしたの」

と きこうと思った

でも いわなかった

(        )

 )

 )

 )

 作者は、包帯が巻かれた先生の足に着目します。どうしたんだろう、という疑問が湧きますが、口に出すことはしません。そのように考えると、後半部分は、例えば、「ぼくは/しんぱいだった/でも/なぜか きけなかった」というふうにも予想できます。

 実際は以下のようになっています。

「先生 そのけが どうしたの」

ぼくは

心のなかで

そっと きいた

 これを「ぼくは/しんぱいだった/でも/なぜか きけなかった」と書いたのでは、説明にすぎません。しかも、そのようなことは、前半部分で読み手はすでに想像できています。読み手が知りたいのは、作者の心の動きです。作者は、そんな自分の心の動きをそのままことばにして描いています。

*ここまでの3つの詩に共通するのは、「くやしかった」とか「しんぱいだった」といった、感情を表すことばを使っていないということです。そして、自分のとった行動や、自分が見たもの、自分の心の状態をそのまま書いていることです。


▷次の詩を読んでみて下さい。小学校2年生の作品です。

せんとう★4

        白石良盛

ぼくは 二十ばん

おとうとは 十八ばん

ふくぬぎのきょうそうをした

いつも おとうとにまける

さきにはいったおとうとは かならず

ゆぶねのところでまっている

「はいっとけばいいのに」と

ぼくは おとうとのせなかに

ゆをかけてやる

 この詩には、感情を表すことばは一つも使われていません。しかし、作者と弟の間の細やかな心の動きが伝わってきます。3行目の「ふくぬぎのきょうそうをした」があるために、冒頭の2行からも、二人が先を競って、下足箱に靴を入れている情景が目に浮かびます。そして、競いあいながらも、兄を気づかっている弟。それに応えて、お湯を体にかけてあげる作者。何とも微笑ましい情景です。良い作品だと思います。


▷次の詩は、小学校5年生の作品です。

はくさい取り★5

        千葉好美

うらのだんだん畑で

かあちゃんとはくさい取りだ

風がビューとわたしのかおにつきささる

遠くの畑の上を

ほこりがほばしらのようにとんで行く

かあちゃんとならんで

かれたはくさいのかわをむいたら

こおりのかたまりのようにつめたい

かじけた手をこすりながら

ぼんぼんかごにほおりこんだ

かあちゃんのかみの毛に

はくさいのくずがついている

 この詩にも、感情を表すことばは使われていません。その代わりに、作者の目に映ったものや体で経験したものが書かれています。だんだん畑、風、畑の上を飛ぶほこり、枯れた白菜の皮、かご、母親の髪の毛、白菜のくず。

 想像してみてください。もしこの作品に、「わたしもがんばる」とか「かあちゃんといっしょでうれしい」、「かあちゃんは働きものだ」とか「長生きしてほしい」といったことばが書かれていたらどうでしょう。途端に、作品が陳腐なものに感じられないでしょうか。

 そのような言葉を排除し、作者は心に残った経験をそのまま言葉で描写しています。私はこの詩を読んで、ああ、白菜は寒い時期が旬の野菜だ、と思い起こしました。こうして寒い中で収穫されたものが、お店に並んでいるのか、とも思いました。母親と一緒に生き生きとして仕事をしている作者の姿が目に浮かぶようです。

*愉快な経験をすれば、「楽しかった」「うれしかった」、つらい経験をすれば、「悲しかった」「苦しかった」という表現をします。このようなことばによる表現は、正直といえば正直なのですが、実際にその人が経験した気持ちの機微、心の動きのひだを素通りしているのです。そして、喜怒哀楽の大まかな分類のことばで済ませているのです。

 しかし、上に掲げた小学生の詩では、そのようなことばを使わずに、見たもの、行ったこと、心に浮かんだことをそのまま描いています。そのことで、読み手はその情景が目に見えるような経験をし、作者の気持ちへと思いをはせます。そこに共感が生まれます。

 ことばによる描写の本質について、梅田卓夫ほか『高校生のための文章読本』は、次のように述べています。★6

「描写とは、作者の抱いた気持ちを伝えるのではなく、その気持ちを起こさせられた状況そのものを再現し、伝達するものである。つまり感情は、作者でなく、読者が用意するものであり、作者は読者に自分と同じ感情を引き起こすために描写を与えるのである。見たものを目に見えるように言葉で描くこと、読者に自分と同じ経験を追体験させ、読者を感化すること、これが描写の本質的な役割である。」

 私が読んだ『小さな目』という本は、1962年から朝日新聞紙上に掲載された詩を集めたものです。「児童詩コンクール」や「詩の教室」といったねらいからではなく、子どもたちが感じたままを率直に表現した内容に重点を置いて選ばれたものだそうです。★7 

 ここに引用した作品も、荒削りだったり、整っていないものも含まれているかもしれません。しかし、それ以上に、このような作品にふれて楽しむことで、見たままをことばで描くということについて多くを学ぶことができると思います。

 

★1 ★4 朝日新聞社編『ぼくらの詩集 小さな目 1・2ねん』あかね書房, 1964年

★2 ★3 朝日新聞社編『ぼくらの詩集 小さな目 3・4ねん』あかね書房, 1964年

★5 朝日新聞社編『ぼくらの詩集 小さな目 5・6ねん』あかね書房, 1964年

★6 梅田卓夫ほか『高校生のための文章読本 付録「表現への扉」』筑摩書房, 1986年, 77ページ

★7『小さな目』の巻頭にある「編者のことば」による。



2021年12月23日木曜日

『質問・発問をハックするー眠っている生徒の思考を掘り起こす』の紹介

 


 長年、高校で国語を教えた後、現在は大学で教員養成に関わっている佐藤広子先生(本の協力者の一人)が、紹介文を書いてくれました。

*****

この本は冒頭からいきなり、教師自身が自分の授業を振り返らざるを得ない問いかけで始まります。

授業において、あなたは生徒に対してどのような意図をもって質問をしていますか? 使う言葉に気をつけていますか? 質問するタイミングは? 質問の順番は? どのような種類の質問をしていますか? 生徒はあなたからの質問に対して、どの程度集中して取り組んでいますか? 生徒自身が、しっかりと質問について考えていますか?」

 このような質問リストが全編にちりばめられており、読むと同時に自分の授業について見直し、考え続けることができます。毎回の授業で「どのような質問を、いつ、なぜ、どのように」行うのか、改めて考えたいという先生にお薦めの一冊です。

 著者は自身も教師として、何百人もの教師と「授業研鑽チーム」のセッションを行っています。セッションは次のように進められます。

簡潔な事前説明――ホスト役の教師が授業内容を説明し、授業の進め方に関する質問に答える。②観察――ホスト役が授業をするとき、授業研鑽チームのメンバーに授業に関するさまざまなデータを収集するように依頼する。③振り返り――授業後に、授業研鑽チーム全員が授業を振り返り、ホスト役へのフィードバックを準備する。ホスト役は、まず何がうまくいって、何を変更すべきか説明したあとに具体的なフィードバックを求める。

この本は、著者が参加した300以上のセッションの記録を分析し、質問・発問の普遍的な要素を11のハック(改善点)にまとめたものです。11のハック毎に問題提起、解決のためにすぐにできること、解決までのステップ、留意点、課題の乗り越え方、実際にハックが行われている事例の順で提示されています。生徒主体の授業を作るために大切なのは生徒たち自身に考えさせることであり、教師は生徒の思考のプロセスに寄り添い、思考を活性化するための質問を適時投げかける必要があります。この本は、どのタイミングでどういう種類の質問をすればいいのか、授業者が読んで応用できるよう、わかりやすく示すための工夫が施されています。

例えば、ハック1「質問に対して全員の手が挙がると想定する――すべての生徒が学習に参加することを期待しよう」は、数名の生徒を指名して答えさせ、教師が補足説明をして終わるような授業を再考するきっかけになります。生徒主体の授業にするためには、今目の前にいる生徒は皆考える力を持っている、授業は教師の意図した答えを探る時間ではなく、生徒全員が自ら考える時間であるという認識がまず必要です。生徒全員の可能性を信じる教師の姿勢は、生徒を勇気づけます。認識を新たにした教師は、全員の可能性を引き出すにはどういう方法でどう質問すれば良いか、ハック1から多くのヒントを得られるはずです。

次のハック2「『分かりません』とは言わせない――自立的に考えるバトンを生徒にもたせ続ける」は、さらに踏み込んで「分かりません」といって生徒が考えることから逃げるのを阻止します。そこには、授業は「正解当てっこゲーム」をする場ではなく、時にはもがき苦しみながらも思考する場であるという前提があります。生徒が「分かりません」というのは、思考プロセスのスタート地点にすぎません。「分かりません」の理由は様々です。ここではその理由に応じて、どのように思考を続けさせることができるのか、対応策が提示されています。

 

このようなハックが系統性を持ちながら全部で11提示されています。11のハックに共通して言えるのは、生徒に考えさせるには、教師がどう質問で生徒の思考を引き出せるかを考え続けることが必要だということです。考え続けている教師の下で、主体的に考え続けようとしている生徒のいる教室の実例もハックごとに紹介されています。これらの実例を通して、ハックは決して理想論ではなく、実現可能であることを読者はイメージできると思います。

 

こういうハックを重ねていくと、生徒主体の学習が活性化し、教師の存在は見えなくなっていきます。生徒の可能性を信じるところから出発して、徐々に教師が前に出なくとも生徒同士で学び合い、思考を深めていける自立した学習者の教室ができていきます。最後のハック11「学びの安全地帯をつくる――生徒が挑戦できる環境を提供する」でh、生徒が安心して学べる安全な学習空間がどうやってできるのか、具体的に書かれています。その根底には信頼があるというメッセージでハックは閉じられます。

 

この本には、授業中に生徒が示した反応を読み解き、次の授業でどういう質問をすればいいか、考える材料がふんだんに提供されています。今まで行っていた質問の質は意識しなければ変わらないものです。本書をすぐに手に取れる場所に置いて、折に触れハックの質問リストに目を通してみてはいかがでしょうか。

 

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2021年12月18日土曜日

思考を変えるレンズ

 ずいぶん前に読んだはずなのにその内容がさっぱり思い出せない本というものがいくつかあるものです。私にとっては、トーマス・C・フォースター著 矢倉尚子訳『増補新版 大学教授のように小説を読む方法』(白水社、2021年)がそれです。翻訳初版は2009年で、著者はミシガン大学フリント校の教授。たぶん、大学教授が文学作品の解釈法について手際よくまとめた本だ、という不遜な感想しかもてなかったのでしょうか。読んだ記憶がありません。本棚のどこかに押し込んでそのまま…だったようです。ところが、『増補新版』を書店で立ち読みしてみると、ついつい引き込まれてしまいました。こんなことが書いてあったからです。

「素人読者は小説のテクストに向き合うとき、当然ながらストーリーと登場人物に着目する。これはどういう人間だろう。何をしていて、どんな幸運または不幸がふりかかろうとしているのだろう。こうした読者は最初のうち、あるいは最後まで、感情のレベルでしか作品に反応しようとしない。作品に喜びや反発を感じ、笑ったり泣いたり、不安になったり高揚したりする。つまり、感情と直感で作品世界に没入するのだ。これこそまさに、ペンを握った、あるいはキーボードを叩いたことなる作家が、祈りの言葉を唱えつつ作品を出版社に送るときに念じている読者の反応である。ところが英文学教授が小説を読むときは、感情レベルの反応も受け入れはするものの(中略)、主たる関心は小説のほかの要素に向けられてしまう。この効果はどこから来ているのか? この人物は誰に似ている? これに似た状況設定をどこで見たのだったのだろう? (中略) もしこんな質問ができるようになれば、こんなレンズを通して文学テクストを見る方法が身につけば、あなたの読みと理解はがらりと変わる。読書はさらに実り多く楽しいものになるはずだ。」(『増補新版 大学教授のように小説を読む方法』2324ページ)

  この引用の前半に書いてあるように、私たちは小説を読む時最初は「ストーリーと登場人物に着目」して、「感情のレベル」で作品に取り組むものです。「感情と直感で作品世界に没入」します。いま私は佐藤究『テスカトリポカ』(角川書店、2021年)をまさにそのようにして「通勤読書」しているところです。直木賞作家の描き出す世界に「没入」しています。引用後半に述べられている「英文学教授が小説を読むとき」のようには読んでいません。ですが、ここにあげられている「質問」すなわち「レンズ」を通して読もうとすれば、たとえば以前読んだことのあるラス・カサス神父の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(染田秀藤訳、岩波文庫)のことを思い出さずにはいられません(実際に『テスカトリポカ』の参考文献にはこの本もあげられていました)。アステカ文明についての関連本のことも。この小説について振り返り、考えて、意味づけようとすればそういうことが必要になることもわかります。ノーベル賞作家オルハン・パムクが『パムクの文学講義』(岩波書店、2021年)で使っている用語で言えば、前半で述べられているのは「直感」の読みで、後半で述べられているのは「自意識」の読みということになるでしょう。フォースターが示してくれたのは「自意識」的な読者の読み方ということになります。

 何を野暮なことを書いている本だ、小説は直感的に感じ取ってその描き出す世界に没入すればそれでいいではないか、という声が聞こえてきそうです。確かにそうですね。野暮ったいと言えば野暮ったい。しかし小説を面白く読み終えた後には、心地よい疲労感とともに一抹の寂しさとたくさんの時間を費やしてしまったというむなしさのようなものも覚えるものです。この引用の後半に書かれているような一種「自意識」的な読者になって、考えたことを書き付けたりするとずいぶん違うのです。意味をつくり出すことになりますから。フォースターの本はそのための手がかりをずいぶんたくさんもたらしてくれます。

 エリンさんも『理解するってどういうこと?』第7章「変わり続けること以上に確実なことはない」で次のように書いています。

 「小説やエッセイなどを読むのを中断して、それまで自分がもっていた考えや価値観を転換してくれたことについて書き出すとき、そういう中断なしに読んでしまう場合よりもずっと深いレベルの理解に入っていくのです。こういう振り返りのなかで、学びのプロセス、とりわけ私がこの章で論じてきた理解の種類の、時間と共に思考がいかに変わるかについて考える、貴重な機会をもつのです。もし自分の学びのプロセスについての気づきを振り返り、それを記録することができたなら、学ぶことの面白さを満喫しているというだけでなく、子どもたちの学びをどう展開したらいいのかというヒントも提供してくれることになります。これ以上に価値のある時間の使い方はおそらく考えられないでしょう。」(『理解するってどういうこと?』282ページ)

  エリンさんの言う「時間と共に思考がいかに変わるかについて考える」という「理解の種類」は、フォースターの言う「英文学教授が小説を読むとき」のような「質問」や「レンズ」を通して実現されると言ってもいいのではないでしょうか。それは「自意識」的な読者になることでもあります。確かに『テスカトリポカ』を読んだ後に、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』やアステカ・マヤ・インカ文明について書かれた本を読んで、佐藤究の描いた世界を意味づけようとすれば、時間をかけてその世界に没入したその読む行為を意味づけることができます。明らかに私という読者の人生が拡張されることは確かなことです。未知の文献や映像作品に出会うきっかけも生まれますし、『テスカトリポカ』では「心臓」が小説の中心ですから、私の頭には夏目漱石『こころ』のことも浮かびました。

 エリンさんの言う「学ぶことの面白さ」とは、フォースターが「大学教授のように」読むために必須だという「記憶」「シンボル」「パターン」について気づくこと、そして本と本、文章と文章、テクストとテクストとの相互関連性に気づくことによって生まれるものなのかもしれません。単独で読んでいるときには思いもしないことがそういう相互関連性によって呼び起こされるのです。『理解するってどういうこと?』を知ったあとに私がフォースターの本の面白さに気づいたように。そう、私もまた「時間と共に思考がいかに変わるかについて考える、貴重な機会」をもつことができたわけです。

 

2021年12月10日金曜日

『学習会話を育む』を読んで

 


 佐賀県の小学校の先生・脇山真優さんが本の紹介文を書いてくれました。

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国語でも算数・数学でもそのほかの様々な授業でも、教師側は必ず「お隣さんとお話してごらん」という言葉を口にすると思います。このときの教師側のねらいとしては、生徒が自ら進んで学びを深めること、そして自分の考えをより深めたり広げたりすることだと思います。しかし、今の「学習会話」は、生徒たちの学習のためになる会話になっているでしょうか。ただ意見の発表をするだけの場となっていないでしょうか。

この「学習会話」をよりレベルアップさせるため方法を『学習会話を育む 誰かに伝えるために』が教えてくれます。

「生徒たち同士の会話はどのようにさせたらいいの?」

「学習会話を始めるための問いかけはどのようなものがいいの?」

「会話をさせるにあたって教師側はどのような手立てをしたらいいの?」

「会話を評価するにはどうしたらいい?」

 このような疑問を持っている方こそ、ぜひ本書を読んでほしいです。

 「会話は、学び手としての自覚を高めることに影響します。協力して考えをつくりあげる自由と考えを表現する方法が与えられれば、生徒は意識して学習におけるエイジェンシー(主体性)に取り組むようになります。」(「第1章 学習会話とは何か?」―7ページ)

目次を見てみると、その方法が「アクティビティー」という形でたくさん掲載されています。どれも生徒たちがわくわくするような仕掛けがたくさんあり、明日実践してみたいものばかりです。時間のない教師が、授業の引き出しを増やすのにもってこいの本だともいえるでしょう。

また、生徒たちの会話実例も多く掲載されており、生徒が会話によって考えを練り上げていく様子が手に取るようにわかります。生徒に繰り広げてほしい会話の例がそこにはあり、教師側も生徒の目指すべき会話のレベルが一目でわかるでしょう。

 グループワークやペアワークには、生徒たちの思考の過程が詰まっています。これを評価に活用していくことも教師側は大切です。その評価方法や生徒への働きかけ方、評価ツールの例などが本書の第五章に記されています。会話を評価することへチャレンジしている人や、その方法に困っている人はこの章から読んでみるのもおすすめです。

 現在、教育界で重要視されている「主体的・対話的で深い学び」を実現するためには、「学習会話」をすることが大切です。

お互い(会話に参加するすべてのパートナー)の頭の中にしっかりとした考えがつくりあげられるような手助けをすれば、生徒たちに自信とエイジェンシーの感覚が育まれます。つまり、自分がつくりだしたものを誇りに思い、自分のものだと思う感覚です。(「第2章 考えをつくりあげるための会話スキル」―102ページ)

本書を読むことで、生徒たちの会話を実りのある、意味のあるものにできるのではないかと考えます。そして、会話を通して生徒がつくりだしたものに誇りを持ち、自信を持ってもらえるような手助けをしたいものです。

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エイジェンシーは、学習会話でもキーワードです。

エイジェンシーに興味をもたれた方は、この姉妹プログで再三紹介してきました。https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=agency

そして、もう一つのブログでも・・・

https://thegiverisreborn.blogspot.com/search?q=%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B

エイジェンシー抜きの教育(それは、生徒のエイジェンシーだけでなく、教師自身のエイジェンシーも)はあり得ません!

 

2021年12月4日土曜日

チョコレート・ムースと星空

   通勤の途中で、ふと、私にとっての詩は、空にある星なのかもしれない、と思いました。みなさんにとっては、詩はどんな存在でしょうか。

 ラィティング/リーディング・ワークショップの優れた実践者アトウェルは、詩を読むことをチョコレート・ムースを食することに喩えています。アトウェルはチョコレートが大好きだそうですが、次から次へと食べると、過剰摂取で味覚も麻痺し、甘美で深い味わいに辟易してしまう。詩も同じで、詩のアンソロジーを最初から最後まで読むことはできない、一度に読めるのはせいぜい6篇か7篇の詩で、それが限界だと書いています。★ 

 小さいときから本が大好きだったものの、後年になるまで詩を読む経験がほとんどなかった私は、最初、詩を読む時も、続きが気になる本のページをどんどんめくっていくような読み方でアプローチしてしまい、詩の美味しさがわかりませんでした。

 そんな私でしたので、詩を前にすると、「詩は極上のチョコレート、一気にたくさん食べることはできない、そういう読み方で」と、自分に言い聞かせることが時々あります。(アトウェルの喩えは、私の記憶の中では、いつの間にか「チョコレート・ムース」から「極上のチョコレート」になっていました。チョコレート・ムースは自分ではあまり食べないからかもしれません。)

 チョコレート・ムースにしろ、極上のチョコレートにしろ、詩の美味しさを知っている人の「詩の味わいかた」としては、(自分にはうまく味わえないことが多いものの)私にはしっくりきます。

 でも、食べてしまうと無くなってしまうことがちょっと残念でした。

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 通勤の途中に「詩は、私にとっては空の星だ」と思ったのは、私には折にふれて読み返す詩がいくつかあり、つい先日、そのうちの一つ★★を読み直したからです。詩を読み直すことで、自分を見直したり、自分にとっての土台の一つに戻れたり、進む方向がかすかに見えたり、励まされたりします。詩によって様々な光を投げかけてくれます。

 そのような詩たちは、存在しているものの、時には忘れてしまう、でも、読み直すと、道しるべになったり、明るく照らしてくれたりします。食べても無くなってしまうわけではありません。

 たくさんの詩に出合うと、空の星が増えてきて、星がいっぱいの夜空になるかもしれません。星によって明るさも、輝き方も、それぞれに異なります。日中や天気の悪い日は星は見えないかもしれませんが、見えなくても、ちゃんとそこに存在していることには変わりはありません。そんなイメージです。

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 星が目印や道しるべになると言うイメージは、私の中では、19世紀、アメリカで奴隷たちが北部州を経てカナダまで逃亡するのを手助けした組織があり、その逃亡の過程で北極星が目印にされていたこと、また、「ここからはじまる」で終わる、ピーター・レイノルズの絵本『ほしをめざして』を思い出したことなどもかかわっています。

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 私は詩を書けませんが、もし、私が詩を書けることがあり、もし、その中で「詩は空の星」と言う喩えを使ったとすると、その5文字の中に、上にだらだらと書いたような思いが詰まっていることになります。

 アトウェルは、詩を教えるときに、詩を「ひらく(unpack)ように読む」★★★と言います。上のようなことを考えたときに「ひらく/詰め込んだ荷物をほどく」と言うイメージが少しだけ実感できるような気がしました。素晴らしい詩人たちは、無駄な言葉を削ぎ落とし、選りすぐった言葉で綴っています。それをひらく楽しみ、これはまさにチョコレート・ムースをじっくり味わう楽しみなんだろうと思います。

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★ Nancie Atwell著の Naming the World: A Year of Poems and Lessons (Heinemann, 2006) とセットの A Poem a Day: A Guide to Naming the World の27ページに書かれています。

★★『ハビービー 私のパレスチナ』(北星堂書店、2008年)という本が邦訳されているネオミ・シーハブ・ナイ(Naomi Shihab Nye)の Famous という詩です。アトウェルが生徒たちに紹介する詩の一つでもあります。この詩は Poetry Foundation のウェブサイト(https://www.poetryfoundation.org/)で読めます。https://www.poetryfoundation.org/poems/47993/famous

なお、このサイトではネオミ・シーハブ・ナイ氏が自身の詩を朗読している動画などもあります。(例えば https://www.poetryfoundation.org/video/154493/naomi-shihab-nye-reads-separation-wall)。インターネットに関わる技術の進歩で、詩人や著者が自分の作品を読み上げる動画を多く目にするようになりました。

★★★ 『イン・ザ・ミドル』(三省堂、2018年)67〜68ページ、112〜115ページをご参照ください。