「ジャックと豆の木」のジャックが語り手で、時折『おとなしいめんどり』のめんどりが茶々を入れるかたちで進行していく、レイン・スミスとジョン・シェスカの『くさいくさいチーズぼうや&たくさんのおとぼけ話【新版】』(ほるぷ出版、2019年)という絵本を読んだことがあります。本の扉に「とびら」と大きくひらがなで書かれていたり、「謝辞」が逆さまに印刷されていたり、その後には昔話を換骨奪胎した話が並んでいます(ついでに言うとカバーの背表紙のところには、めんどりがぶつぶつ言う台詞が赤い字で書かれていますが、カバーをとってみると本体の背表紙は絵柄は同じでもめんどりの言葉はありません)。スミスの文もシェスカのイラストもまるで人を食ったようなつくりで、読み返すたびに意外性にうたれます。この絵本を読むということは、同時に自分が知っていた昔話や物語の記憶を振り返りながら、読書や物語についての自分の思い込みや当たり前としていたことを考え直すことになります。
ポストモダン絵本の代表格として論じられることもあるこの本を訳した青山南さんのエッセイ『本は眺めたり触ったりが楽しい』(阿部真理子絵、ちくま文庫、2023年:1997年に早川書房から刊行された『眺めたり触ったり』を文庫化したもの)を読みました。
青山さんのこの本も『くさいくさいチーズぼうや&たくさんのおとぼけ話』と同じように「読書」についての私の思い込みや当たり前を考え直すきっかけをたくさんもたらしてくれます。私の印象に残った本書のエピソードのいくつかを取り上げてみます。
1)読書は著者と読者との共作行為
米国の作家レイモンド・カーヴァーの「九つの短編と一つの詩」をもとにつくられた映画『ショート・カッツ』を観た後、青山さんはカーヴァー作品を読んだ際の記憶とあまりにも違っていることに戸惑い、この映画をつくったアルトマンという監督の文章を読みます。そのなかの「中身は変更可能なのだ」「問題は、登場人物たちがいったい何者であるか」であり「ピーナッツ・バター・サンドウィッチの作り方の話をしていようが、隣人の殺し方の話をしていようが、話の中身は、この人物たちの感情や行動ほどには、重要ではない」という言葉に出会います(もちろん英語で、でしょう)。この体験を元に青山さんは次のように言っています。
「本を読むというのは、本の中身を、読んだじぶんの感想に合わせて、デフォルメすることなのかもしれない。中身を忘れても、あるいは間違って記憶しても、それはそれで立派な読書なのかもしれない。/『ショート・カッツ』はカーヴァーとの共作である、とアルトマンはいいきっている。読書とは、きっと、著者と読者との共作行為なのだ。」(『本は眺めたり触ったりが楽しい』177ページ)
自分が面白く読み終えた本について、その感想を内容も含めて誰かに伝える時のことを思い出してみれば、多くの人が思い当たることなのではないでしょうか。そうでなければ、読んだ本の面白さはおそらく他の人に伝わりません。『ショート・カッツ』も観たことがなく、アルトマンの文章にも触れたことがない私にも、青山さんの言っている読書が「著者と読者との共作行為」だという言葉は強く響きます。
2)本を交替で朗読して共有することの意味
この本の中程では声に出して読むこと(朗読)の意義が少し長く語られます。私も昔読んで印象に残っている『読書する女』のことも出てきて嬉しかったのですが、その部分の終わり近くで、760ページもあるトマス・ピンチョンの『重力の虹』という小説を、室外で80人が40時間かけて順番に朗読する「朗読会」についての「ニューヨーク・タイムズ」誌の記事に触れられていました。青山さんはその記事を書いた編集者の言葉を引用しています。「野外で集団で本を、とりわけ大作を朗読すること」の「良い点」についてです。
(1)読むことがだれの重荷にもならない。
(2)作品を外気にさらすことで、作品の毒気が駆除される。
(3)読書は陰気な室内活動だという考え方に異議を唱える。
(4)現代小説に特有の孤絶の雰囲気が軽減される。
(『本は眺めたり触ったりが楽しい』160ページ)
トマス・ピンチョンの小説を読み通すことができていない私にとっても、この言葉は新鮮なものでした。80人集めるのは難しいかもしれませんが、時にはこのようにして、ひとりではどうしても難しすぎて読み通すことのできない本を声に出して朗読し、共有することで、「読書」や「本」についての考え方を見直すことができるのかもしれません(まったく文脈は異なりますが、1960年代の日本で作家・椋鳩十が提唱した「母と子の二十分間読書」もこの編集者の言葉通りの特徴をもっていたと思います)。
3)読書の記憶違い
青山さんが一時期ある週刊誌で自分が読んだ新しい本のことを紹介するコラムを担当した時のことも印象に残りました。そのようなコラムを週刊誌に連載することがいかに大変なことかは想像に難くないことです。しかし、そのコラムを書く際に、青山さんは「感動しっぱなしではなくて、自分の心の文脈のなかであわただしくも整理した」ため、取り上げた本ことが「どういう本だったか、わりあいくっきりと頭に浮かぶ」とも言っています。そして次のように述べています。
「本がおもしろかったとき、そして、その本のことをしばらく覚えていたいときは、ぜったい、他人に話したほうがいい。くわしく話したほうがだんぜんいいが、相手が聞いてくれないときは、おもしろかったよ、と繰り返し言うだけでもいい。でも、そのさいも、どこどこがおもしろかった、と細部にかならず言及する。細部は、一度インプットされると、記憶としてしぶとく生き残るからだ。(中略)もちろん、それでも忘れる。でも、忘れたり、ひょいとおもいだしたりしているうちに、本を読むということは本の中身を記憶することではない、と実感するようになる。」(『本は眺めたり触ったりが楽しい』184ページ)
いま私も、青山さんの『本は眺めたり触ったりが楽しい』を読んで「おもしろかった」箇所を引用しながら書いています。引用するのは、そこの箇所の青山さんの言葉が私の心に残ったからです。上に引用した文章の「細部は、一度インプットされると、記憶としてしぶとく生き残る」という言葉に共感を覚えたから引用してそれについて書いています。そして実は『本は眺めたり触ったりが楽しい』のなかで印象深かった「細部」とは「読書の記憶違い」についての青山さんのエピソードです。
青山さんが高校生の頃に、駅から自宅まで帰る途中で雨が降り出して「雨宿り」に立ち寄った「貧弱な」書店で、アンドレ・ジッドの『贋金つくり』の文庫版の上巻を買ったということが本書の177ページには書かれています。それを書いたのが1990年代。ところが2000年代に書かれた「文庫版の追記」では、同じく高校生の時に雨宿りで立ち寄った「貧弱な」書店で偶然出会い購入した本はジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』の文庫版ということになっています。青山さんによれば「なぜ記憶が変貌したのかはわからない」のだが、出会った状況の記憶はそのままに『贋金つくり』が『怒りの葡萄』に「上書き保存」されたのではないかということ。しかもそのいずれもその後の青山さんにとっては大切な小説となったわけで、「体内にしみ込んだと思った読書体験」が鮮明であったと書かれています。
ジッドの小説もスタインベックの小説も青山さんにとっては「体内にしみ込んだと思った読書体験」を喚起したことは間違いないことです。青山さんは「「高校生」「いきなりの雨」「貧弱な本屋」というアイテムは変わっていない。また、そのときそこで一冊の本に出会ったという事実もまったく変わっていない」と書かれています。いずれの小説も青山さんにとっては生涯でまたとない「出会い」を経験した本であったからこその「記憶違い」で、きっとどちらも真実なのだと思います。いずれも「体内にしみこんだと思った読書体験」をしたからこそ、二つの「現実」が記述されたのではないかと私は思います。「本を読むということは本の中身を記憶することではない」のですから。