2026年7月3日金曜日

本(Book)。頭(Head)。心(Heart)。

  6月8日の「合い言葉は、ノーティス・アンド・ノート(そこに注目して! そこにちゃんとメモして!)」で触れたように、ビアーズとプロストは、生徒が理解するための方法を使わざるを得なくなる、本のなかの「道標」として「予想外の行動(対照と矛盾)」「アハ体験」「難問」「賢者の言葉」「繰り返し」「回想の場面」の六つを提案しました。この著者たちは、米国のさまざま地域の学校を訪ねてこうした「道標」を使ったワークショップを行い、本や文章を読むことと理解について、教師たちや子どもたちと議論しました。その経験をもとにまとめたのがDisrupting Thinking(『思考を創造的に破壊する』)という本です★。

 彼女たちは、子どもたちが学年が進むにつれて、次第に自分がなぜ読むのかということを考えず、あるレベルに到達することや試験に合格するためにしか読まなくなる傾向があることに気づきます。読むために適切なマインドセットをもたせる、つまり「何を読むのか」だけでなく「なぜ、いかに読むか」ということをもっと考えさせなければ、活字離れ(aliteracy)が拡大するという危機感を抱きました。読むために適切なマインドセット、とはどのようなものか。
 ビアーズらは「読むことの最終目標」を「私たちが今ある以上のものになることである。今以上によくなることであり、自分のわからないことをわかるようになることである」と考えたのですが、どのようにすればそれを子どもたちに伝えることができるかということを、読むことと理解についてのワークショップを繰り返しながら試行錯誤します。
 子どもたちに「読む時には、本や文章の言語的、知的、感情的な側面について考えてほしい。つまり、責任を持って、積極的に読んでほしい」などと言っても反応がなく、もう少しやわらげて「読むことはあなたを変えられます。世界を広げてくれます。しかし、読む時には、自分の反応について考え、本や文章の内容についても考えなければなりません。そして、これが、あなたを思いやりのある人間にするためにどう役立つか自問自答してください」と語っても、あなたたちはいつまでここにいるのと返され、シンプルに「今日は文章の内容について考え、同時にその内容に対する自分の反応についても考えてください」と言うと、これは評価の対象になる授業なのかと言われる始末。
 こうした子どもたちのやりとり経て、彼女たちは「今日、読む際に、本の中身、頭のなか、そして心のなかについて考えてください」と伝えることにしたのです。ビアーズたちが黒板に、「本。頭。心。」と書いたその後の子どもの様子は次のようなものでした。

「本。頭。心。一人の少年が繰り返した:「本。頭。心」別の生徒が尋ねた。:「頭とは何ですか?」 私たちは「自分に『何にびっくりしたか?』と問いかけてみてください。そうすれば、本のない余蘊いついて考えながら、既に知っていることについても考えることができます」と説明した。彼は頷いて「すごい!」と答えた。別の子どもが「心に関する質問とは何ですか?」と尋ねた。私たちは「『これは私に何を教えてくれたか?』や『これは私の感じ方をどう変えるか?』と試みに自問してみてください」と答える。さらに頷きが返ってきた。私たちは息を飲んだ。
 部屋は静まり返った。私たちが黒板に問いかけ文を書き加えるあいだ。子どもたちはこの三つの言葉を凝視していたのである。そして彼らは肩をすくめて「わかった!」と言った。そこに確かに書かれていた。三つの言葉。本。頭。心。私たちの考えたフレームワークが、子どもたちに、テクストから情報を抽出するだけでなく、もっと深く考える必要があることを思い出させたのである。
フレームワークの本、頭、心とは何を意味するのだろうか? これは、本や文章に注意を払い、それについて考え、そして読むことによってどのように感じたり、どれだけ変化したりしたか(たとえわずかな変化でも)に注意を向ける必要があることを示す、短い簡潔なフレーズである。」★★

「短い簡潔なフレーズ」で読むために必要なマインドセットを子どもたちに伝えることができたというエピソードです。英語で本はBook、頭はHead、心はHeart。読むために必要なマインドセットのことを、彼女たちはこのそれぞれの頭文字を使って「BHHフレームワーク」と名づけました。次のようなものです★★★。

1 「本のなか」に何があるか
・この本は何について書いてあるか?
・その話を語っているのは誰か?
・筆者が私に知って欲しいことは何か?
2 自分の「頭のなか」に何があるか
・何にびっくりする?
・自分が既に知っていたことをこの筆者はどう考えている?
・自分の既に知っていたことに反対したり、賛成したりする部分はどこ?
・自分は何に気づいたか?
3 自分の「心のなか」に何があるか
・自分自身について何を学んだか?
・自分がよくなることをこの本はどのように助けたか?

 「「本のなか」に何があるか」「自分の「頭のなか」に何があるか」「自分の「心のなか」に何があるか」という三つの大きな柱のそれぞれについて「問いかけ文(prompt)」が設けられています。もちろん「本」には、長編物語だけはなく、短編の物語や詩歌も含まれますし、ノンフィクションの本や文章も含まれます。一つひとつの問いかけ文に対する自分の回答をメモして、ペアやグループで出し合って、何を手がかりにそういう答えになったのかを話し合ってみてはどうでしょうか? 「本のなか」に何があるのかということについて話し合っていたのに、いつのまにか「頭のなか」のことを話題にしているということがあるのかもしれません。はじめから「心のなか」に何が生まれたのかを話題にするのが好きな人もいるでしょう。そんなふうに三つの枠組みの境目は重なり合うこともあります。でも、今自分が語っていることは「本」「頭」「心」のいずれの「なか」のことを意識して確かめ合うことで、私たちが「何を」読んでいるのか、「どのように」読んでいるのかということを共有することができます。それが読むために適切なマインドセットを手に入れるということなのです。

★Kylene Beers and Robert Porbst(2017) Disrupting Thinking: Why How We Read Matters, Scholastic. 山元隆春著『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン』(溪水社、2026年)の第3章第2節で論じています。
★★Kylene Beers and Robert Porbst(2017) Disrupting Thinking, pp.62-63山元隆春著『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン』(溪水社、2026年)116~117ページ
★★★Kylene Beers and Robert Porbst(2017) Disrupting Thinking, p.63山元隆春著『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン』(溪水社、2026年)118ページ

2026年6月26日金曜日

二極化する子どもたちの言語環境

(写真は梅雨の北八ヶ岳です。深い苔に覆われて神秘的な空気に包まれます)


 今の子どもたちが生きる世界の言語環境は、大人の想像を超えて激変しています。長年、小学校教師として多くの子どもたちを見守ってきましたが、近年その変化を肌で感じずにはいられません。今日は、教師としての切実な視点から、現在進行形で起きている問題について書き記したいと思います。


(静かな曇り空の白駒池)



無法地帯になるSNSのオープンチャット


 今や、どの学校でもSNSトラブル(主にLINEをイメージしています)というのは目新しいものではなくなりました。都心部、郊外に限らず、どの子どももSNSトラブルに巻き込まれる可能性をもっています。なぜなら、ご存知の通り、子どももスマートフォンを持ち、使っているからです。友達とのやり取りの中で、いい使い方をしていれば、問題になることはありませんが、人間関係の作り方や自己表現の仕方が未熟である子どもたちですから、当然、そのSNS上でトラブルは起きます。それが、1:1の関係で問題がこじれるのであれば、子どもにとっても直接あって謝ったり、問題を解決したりする道が残されているでしょうが、グループチャットのように多数の友達が利用している場になってくると、トラブルは閉鎖的で排他的な空間になり、意図的に人を傷つけようとする無法空間へと変貌してしまいます。そこに、良識を持った経験のある大人は存在しませんから、それは当然のことです。


 高校生の我が子も当然のことながら、SNSを使っていますし、小学校教師という立場上、児童がどのような言葉を使ってSNSの閉鎖空間の中でトラブルを起こしているのか、少しはわかっているつもりです。少し例を挙げてみましょう。


 まず私が目を引くのは、単語、いや、単語でもない文字列です。「すご」「きしょ」「しね」「おつ」「やば」「えも」「えぐ」。2文字で表現されているものを挙げてみました。2文字で限定することはないですが、SNSのチャットの性質上、短文、もしくは単語でやり取りをすることが非常に多いです。たまに長い文章が入っていると思ったら、悪ふざけで何かのコピー&ペーストであったり、または長い文章を打ったことに対して謝罪の言葉が入ったりします。卓球のように即時即応的なやりとりを是とすることが基本マナーとして底通していて、読むことで相手の時間を使ってしまうことはタブーとされている風潮があります。読むことに時間を使って、相手への反応を返すのに30秒かかってしまうことは、強いて言えば、マナー違反なのです。


 また、スタンプや画像なども、学齢の低い子どもたちでも、駆使しています。たとえば、相手を攻撃し、傷つけることの意味を含んだ画像などを、どこからか持ってきて相手に送ったり、「死」を連想させるような画像を送りつけたりする事例もあります。言葉と違って、画面上に占める面積も大きく、視覚的に相手に伝わりやすいので、相手に与えるインパクトもテキスト以上のものがあります。


 言葉や画像の中には、当然のことながら、卑猥な言葉が入り込んできたり、人権上問題のある言葉を意図的に使ったりと、荒れ放題の状況となります。また、設定によっては、グループチャットに相手を無理やり引き込むということも可能です。そのグループに所属したくなく、グループチャットを退出したとしても、第三者に無理やり引き入れられてしまうこともあります。手の込んだやり口になってくると、相手のアカウント名と画像をそのままコピーして、あたかも相手かのような素振りをして、グループチャットに参加することも可能です。


 短文でのコミュニケーションやスタンプや画像、いろいろな設定等、家庭生活や社会生活とはかけ離れたコミュニケーション環境が、子どもが使っているSNSの中にはあります。規範を作る良識のある大人がいなければ欲望や感情が垂れ流しになる場になり、そこに悪意や憎悪が混じることで、人が傷ついていても何も感じないような、自分たち中心の混沌とした空間が形成されることになります。これが、現在のオープンチャットの現状ということになります。


(繁茂する苔たち)



「持たせなければいい」はできるか?


「持たせなければいい」という意見は当然あると思います。保護者同士で連絡先を共有している子ども同士で行うのであれば、親がSNSのやり取りを確認し、経験不足の子どもが発信してしまったことに対して、保護者が直接子どもを指導し、謝罪などの言葉をかけられる環境が整っているのならば、リスクは少ないと言えますし、それができないのならば、「もたせなければいい」という第三者の言葉はごく自然なものです。

 しかし、そう簡単でもありません。家族の形や家庭のあり方が複雑化すればするほど、親と子どもが連絡をとりあう手段は難しくなっていきます。保護者が遅くまで仕事をしなければならない、子どもが遅くまで習い事や塾に行かなければならないなど、家庭や地域によって事情は様々でしょうが、SNSを通じて保護者と子どもがコミュニケーションをせざるを得ない状況がますます増えています。誰からかかってくるか分からない固定電話では不安ですし、保護者も使い慣れているSNSアプリでしたら、子どもにすぐに使い方を教えることできます。こうやって、子どもたちはスマートフォンを与えられ、最初は保護者の指導の下、SNSデビューを果たしていきます。しかし、そんなに忙しい保護者や子どものスマートフォンの使い方を、保護者が手厚く指導することなどできるのでしょうか? 「もたせなければいい」という議論は、インフラ環境として出来上がってしまったSNSを使わせないことであり、生活自体が成り立たなくなってしまうほど、子どもたちの生活に根付いているのです。


(高見石小屋のランプ)




二極化する言語環境


 述べてきたように、SNSを通じた家族や友達同士のコミュニケーションが主体になればなるほど、手には常にスマートフォンが握られている環境が出来上がり、大部分の言葉の学習はスマートフォンから行われることになります。たとえば、現実に、動画サイトから刺激的な言葉を一日に3・4時間以上も視聴する児童がいます。心無い言葉や卑猥な表現などを、何の制約もないまま、一日に3・4時間以上自由に視聴する子どもは、そうではない子どもと全く異なる言語環境に身を置いていることになります。

 しかも、低い学齢の子どもは、周りの子どもたちもみんなそのような言語環境で暮らしていると錯覚します(実際に、地域によっては、生活環境が似たような状況になることもあるでしょう)。つまり、学校生活の中でも、そのような刺激的な言葉を相手に浴びせかけてしまう子どもが出てくることになります。

 しかし、良識ある保護者は、スマートフォンの使用の制限や禁止をしたり、動画サイトを閲覧できないように設定したりと、いろいろな手段を使って、言語環境を守っています。家族や友達同士と直接やりとりをするような顔の見える関係の中で育った子どもは、保護者が特殊な言葉を使うことのない限り、それほど、学校生活から逸脱した言葉を使うことはありません。一般的な保護者であれば、大なり小なりSNSなどの影響を理解していますので、「最初は」子どものスマートフォンの使用に制限をかけています。

 しかし、刺激的な言葉を動画サイトから浴びるように聞いている児童は、何の躊躇もなく、学校生活の中で友達に自分のもっている特殊で「いけてる」語彙を、そのような言語環境にいない児童にぶつけてしまいます。言い放った後は後の祭り。「そんなつもりで言ったわけではなかった」「なんでそんなにひどい言葉を言われたのか分からない」そんな言い分が並ぶことになります。同じ言語環境にいない子ども同士の加害と被害の関係は、同じ言葉でもそれに対する受け取り方が全く違うため、「傷ついた」「傷つけられた」の感覚のズレが関係悪化の引き金として強く働いてしまいます。


 現在の教室に通う児童の言語環境は、保護者の意識やスマートフォンの使用度などによって、二極化、または多様化しています。たとえば、聞くに耐えない動画で獲得した刺激的な言語で育つ子どももいれば、そのような言葉とは触れさせないよう「箱入り娘」のように育てられた子どももいます。そのような全く違う言語を使う者同士、保護者同士で、「傷つけられた」「傷つけられてない」という仲介の役割を担わなければならない先生たちは、手前味噌ながら、本当に大変な立場に立っていると言わざるを得ません。


(奥深い森に苔むす)



責任は誰にあるのか? 責任を持つことができるのか?


 子どものSNSの使用に責任を持たなければならないのは、言わずもがな、その保護者です。ですから、SNSで子どもが相手を傷つけたり、違法行為を行ったのならば、その責任は保護者にあり、保護者が謝罪をしたり、自分の子どもを指導をしたりする責任を負うのは当然のことでしょう。

 しかし、当の保護者はそれを行うことができるのでしょうか? アカウント名と写真から友達の誰かを把握するのは、保護者一人では至難の業です。話したがらない自分の子どもから、全く関係のないキャラクターの写真が貼り付けられている画面を見せられても、保護者が誰が誰だか把握するだけでも至難の業です。また、先ほどから述べているように、使っている言語が保護者とも違う言葉なので、それを読み解くだけでもとても時間と労力がかかる作業になります。聞いたことのない言葉と、意味が分からない表現の様式、画像とスタンプで、オープンチャットの中はぐちゃぐちゃです。

 さらに深刻なのは、保護者自身も他の保護者と繋がりを持っておらず、アクセスができないということです。習い事が一緒とか、そのような理由がなければ、他の保護者と連絡を取る手段は皆無です。個人情報保護という名目で、連絡網はもう20年前から消えました。保護者が集まらない懇談会では、当然そのような役割を担うことはできません。保護者にとっても、親類縁者以外で子どもとつながっている大人は、先生しかいないのです。

 そんななかで、保護者は本当に責任をもつことができるのでしょうか? それ以前に、責任を持つとは、何を指す言葉なのでしょうか? 被害者家庭は、神妙な面持ちで学校に相談に来て、「学校の仕事ではないと理解しているのですが、うちの子が学校に行きたくないと言っているので」とつぶやきます。そして、「大事(警察や弁護士への相談)にしたくない」と加えるのです。

 加害側に立ってしまった保護者はこう言います。「うちも被害者です。うちだって言われてますから。」言葉はその通りで、加害者も被害者も、その一瞬を切り取ればそのような立場になるだけで、オープンチャットの文脈の中では、加害者と被害者が一瞬で切り替わっていく現実があります。傷ついた側が正義とするならば、正義はいくらでも存在してしまうのです。

 しかし、元をただせば、スマートフォンやSNSを手渡したのは、加害者も被害者も保護者です。その保護者たちが、先生を頼って学校に駆け込みます。このSNSトラブルを「大事」にすることなく処理することができるのは、もはや先生しかいません。しかし、この先生も、一歩対応を間違えれば、「いじめを見過ごしている」「加害者側に立っている!」「なぜ個人の問題に踏み込むのか!」となります。

 これがSNSトラブルの構造。先生が潰れてしまいます。 責任は誰にあるのでしょうか? 確実に言えることは、先生に責任はありません。

(森の奥に佇む地獄池)



SNS規制に賛成


 世界の各国が子どものSNS利用に制限をかける動きをとっています。保護者もしっかり見守れない、先生も潰れてしまう、言語はバラバラになり、無法地帯が次々と生まれてしまうこの状況で、私自身も私の家族もSNSを利用していますが、しっかりと賛成の立場を取りたいと思います。


2026年6月20日土曜日

「小説を探す」という行為

  エリンさんは『理解するってどういうこと?』の第7章で「作品構造」に触れて次のように述べています。

 「作品構造は、単語、文、作品全体に現れています。フィクションにおいては、典型的には、何らかの設定場面におかれた登場人物たちと出会い、何らかの対立や争いに見舞われ、そして一連の出来事を経てある種の結末に至ると予測します。いわゆる「物語文法」によって、私たちは予測することができるのです。しかし、もし書き手がフラッシュバック(回想)やファストフォワード(未来へ飛ぶ)といった作家の技を使ったときは、それによって引き押される時間変動のせいで混乱することがあります。これは、出来事は時間順におこるものだということに私たちが日頃から慣らされているためです。また、筋が複雑になればなるほど、予測も少しずつ難しくなっていきます。」(『理解するってどういうこと?』263ページ)

  「予測」が難しくなるということは作品理解の困難さが増すことでもあります。しかし、。「予測」が難しくなるということは、往々にして作中人物の予想外の言動に出会うことになり、そこで立ち止まって考えることは読者が理解するための方法のいくつかを使うチャンスにもなります。

 『ゲームの王国』や『地図と拳』の作者・小川哲さんの『言語化するための小説思考』(講談社現代新書、2026年)を読みました。小説創作技術について書かれた本かと思って手に取ったのですが、理解のためのヒントになる言葉がたくさん見つかりました。

 小川さんのこの本が面白いのは、一貫して小説を作者と読者とのコミュニケーションと捉えているからです。もちろん作家としての経験に基づいて書かれた本なのですが、逆向きに考えてみると、小説に限ってのことではありますが、理解の種類の様々を示してくれた本であると言うこともできるでしょう。

たとえば、本書の「「文体」とは何か?」と題された章で、「情報」の「順番」こそが「文体」を規定すると言い、「「読みやすさ」とは「視点人物と読者の情報量の差を最小化する」ことによって感じられるものなのではないか」(50ページ)と言って、そのように主張する理由を次のように述べています。

「現実世界の僕たちの認知と思弁はひどく主観的で、そのまま文字にしたところで「私」と読者の情報量があまりにも大きく、とてもじゃないが読むに値するものにはならないだろう。そもそも文章は三次元の現実世界(と脳内の思弁)を一次元なリニアな記号に置き換えたものであるので、情報の順番にはかならず恣意性が伴うものなのだが、その恣意性をどう扱うかという点に「文体」の根底が生まれるのではないか。(『言語化のための小説思考』50ページ)

  小説をはじめとした文章は、例外なく「つくりもの」なのですから、「情報の順番」もそれを書く人の判断によります。「視点人物と読者の情報量の差を最小化する」ことで、その小説は多くの読者を獲得したことになるわけです。

 本書後半の「本気で小説を探しているか」という章では、次のように書かれていました。

 「「○○という作品みたいな表現がしたい」とか「△△という言葉を使ってみたい」とか、そういう欲求は、異なる人生を歩んできた個人にしか実現できないはずの「作風」を阻害する要因になり得る。「小説には正解がない」と僕が考えるのは、それぞれの作者が自分の言葉を、自分のやり方を探究していく過程にしか小説は存在しないと思っているからだ。

小説から発生した小説は、小説を超えることができない。 いい小説は、小説を超えた先の何かを与えるはずで、このメカニズムを見つけることが僕にとって「小説を探す」という行為でもある。 とはいえ、読者はそれぞれの解凍プログラムを持っているので、作者が提示した作品が、最初に作者が表現しようとした「人間の認知」と異なるものを喚起することは往々にして起こり得る。 この現象を僕は「誤読」と呼んでいて、多くの人に支持される作品はこの種の「誤読」を誘発する傾向にあると思っている。 「私(作者)の物語」が、「私(読者)の物語」に転換され、作品が読者の人生と結びつき、本来のポテンシャルを超えて受容されていく現象だ(「誤読」を誘発する一つの鍵は、多くの人々の人生に存在しているが、まだ誰も名指ししたことのない体験を言語に圧縮することにあると考えている)」。(『言語化のための小説思考』146ページ)

  本書のもとになった『群像』誌の連載は「小説を探しにいく」と題されていたということです。それだけに「小説を探す」ということは彼の言うところの「小説思考」の核心にあたる行為だと思われます。小川さんにとって「小説を探す」とは「小説を超えた先の何かを与える」「メカニズム」を見つけることです。たとえば夏目漱石の「こころ」に感銘を覚えて、「こころ」みたいな表現がしたいと考えて小説を書くことは、「こころ」という小説を絶えずどこか「正解」として意識しながら書くことになり、その書き手が「自分の言葉を、自分のやり方で探究していく過程」を殺すことになってしまいかねません。

 小川さんの本からの引用文の後半は読者の読書行為について書かれています。 彼が「誤読」と呼ぶ行為は、「こころ」みたいな表現がしたいと考えて書くのとは正反対の営みです。 作者の「物語」を読者の「物語」に「転換」するということは、作品と読者の人生を強く結び付ける営みだからこそ、「まだ誰も名指ししたことのない体験を言語に圧縮する」ことになる、つまり、その人生を送っている読者にしか持ち得ていない体験を言葉で表現するということになるわけです。

小川さんはまた「出力された作品の質でAIが人間と肩を並べ、あるいは先行していく未来は遠くない将来に生じると感じているが、作品から世界に接続していく過程には、現実世界を生きてきた人間の持つ強さが残っている」とも書いています(『言語化するための小説思考』144ページ)。「小説を探す」という行為は、本や文章を自分の人生に結びつけながら、自分にとって大切な意味をつくり出ために大切な、人間的な営みなのです。

 

2026年6月12日金曜日

視覚的な広がりを複合的に楽しめる『大人も読みたいこどもの本200』(マガジンハウス2025年)

最近、図書館から借りて来た『大人も読みたいこどもの本200』(マガジンハウス2025年)は、「教室内閲覧」にして教室に1冊あるといいなと思いました。

まず、全てのページがとにかくカラフルです。レターサイズぐらいの大きめの本なので、持ち運びには重たいですが、ふんだんなカラー写真があるからこそ、その魅力がよくわかる本や情報をたくさん知ることができます。

例えば、以下のような本の紹介には、写真の強みがしっかり活かされています。(おそらく文章だけで説明されても、ほとんどイメージはできないと思います。)

・京都の職人技が可能にしたジオラマ本『360°Book 富士山」(144ページ)

・鏡の仕組みを利用して絵本に虹をかける『ふしぎなにじ』(120ページ)

・美容室アシスタントになって紙で髪を自在にという、工作絵本『ヘアーサロンチョッキン』(123ページ)

・田中達也が見立て、『くみたて』てゆく世界(30-33ページ)

・畳んでも広げても楽しいジャバラ絵本の傑作『魚がすいすい』(131ページ)

・アルファベットが次々に飛び出す、仕掛け絵本『ABC3Dポップアップ見本帖』(148ページ)

また、本に関わる<場所>の情報もあります。

例えば、名作『スイミー』の世界を体験できるという「アクアマリンふくしま」(16-19ページ)や、「絵と言葉の世界を体感」できるという「プレイミュージアム」(74-95ページ) 。

「プレイミュージアム」の中の「エルマーのぼうけん展」の詳しい説明を見ていると、フィクションとノンフィクションがいい形で交差しているように思いました。

つまり、エルマーの冒険に夢中な子どもにとっては、エルマーというフィクションをきっかけに、ミュージアムの「説明文」という、異なるジャンルの文を読めそうです。

「逆も然り」で、この本のカラフルな写真や説明に惹かれて「エルマーのぼうけん展」の記事を読んだ子どもは、エルマーのぼうけんシリーズを読んでみようと思うかもしれません。

加えて、こども図書館船<ほんのもり号>(35-37ページ)や<こども本の森>(38-41ページ)の写真や記事をみていると、本に関わる場所が、休暇中に訪れたい目的地になるかもしれません。

本に関わる場所だけでなく、作家やイラストレーターを含め、特定の本に関わる情報も豊富です。ムーミン/トーベ、『魔女の宅急便』/角野栄子、ショーン・タン/『アライバル』、『ハリー・ポッター』、ヨシタケシンスケ、藤子・F・不二雄、『長靴下のピッピ』、ミャエル・エンデ/『モモ』、『クマのプーさん』、『くまの子ウーフ』等々、パラパラみていると、子どもたちにも馴染みのある本や作家も多そうです。

作家や作品についての説明も、「説明文を先に読んでから、実際の本を読む」、「本を既に読んでいるので、その説明文を興味を持って読む」、そのどちらにも入り口が大きく開いている印象です。

また取り扱っている本の難易度の幅が広いので、「以前、読んだけど読み直してみたい」とか「ちょっと文字は多いけど、"これから読みたい本リスト"に入れておいて、いずれチャレンジしてみたい」等の反応も期待できそうです。

*****

(おまけ: 私の反応)

私は「子どもの本ベスト〇〇」系を読むのが大好きですが、私が持っているほとんどの本は、カラー印刷ではなく、文字だけで説明されています。小さめ、軽めの本が多く、持ち運びも楽で、そういう本に慣れ、文字情報中心の本の方が心地よい私には、『大人も読みたいこどもの本200』は、読み慣れないタイプの本でした。今回、私にとっては、ジオラマ本やジャバラ絵本を知っただけでなく、馴染みのない本の作り方に触れた時間でもありました。

例えば、『大人も読みたいこどもの本200』には、「贈る絵本を色で選ぶ」ということで、青、赤、黄色、黒のページ(96-99ページ)がありました。「色で絵本を選ぶ」感覚も、「色で絵本を仕分ける」感覚も、私には馴染みのない不思議な基準で、あまりしっくりきませんでした。この「しっくりこない」という感覚を体験できたのも、よかったように思います。

もちろん、文字情報もあるので、十分に楽しめました。ちなみに、青のページの中の一冊『お日さま お月さま お星さま』には、「カート・ヴォネガットの唯一の絵本作品」(96ページ)と説明があり、私はヴォネガットと絵本のギャップに興味津々です。黄色のページには、『アンディ・ウォーホルのヘビのおはなし』(98ページ)が「ウォーホルがイラストレーター時代、顧客であった皮革製品会社のために描いたイラストから生まれた絵本」と紹介されていて、「こんな本もあるんだ、読んでみたい」と思いました。

文字情報が中心の本ガイドによく登場しそうな本も、表紙その他のカラー写真付きで登場しています。表紙の写真がカラーで掲載されていると、すぐに思い出せるので助かります。

比較的長く読み継がれている本も多めで、「『ちいさいおうち』 は、私が小さい時に読んだ本!出版年は1965年!」(170-173ページ)」とビックリしたりもします。

知っている作家や本が出てくると嬉しくて、『ぼくを探しに』が紹介されているところで(195ページ)、『続ぼくを探しに ビッグ・オーとの出会い』があることを付け加えてくれるといいのに」とか、「レオ・レオニの絵本を7冊も紹介するなら(15, 17ページ)、『コーネリアス たってあるいたわにのはなし』も捨てがたいと思うけど」等、勝手な会話(というか、本に対しての一方的な話かけ)も楽しめました。

2026年6月8日月曜日

合い言葉は、ノーティス・アンド・ノート(そこに注目して! そこにちゃんとメモして!)

「大造じいさんとガン」(椋鳩十)の授業(小学校5年生)で、おとりのガンを救うために残雪がハヤブサに立ち向かった場面で大造じいさんが残雪に向けていた銃を下ろしてしまったのはなぜか、いう質問をすることはよくあります。「どうして(なぜ)大造じいさんはそのまま撃たずに、銃を下ろしてしまったのでしょうか?」と。文学作品の登場人物の行動の解釈ですから、必ずしも正解があるとは言えません。また、このようなことを授業で子どもたちに質問しても根拠が見つからないと答えてくれないことが多いという指摘もあります。

 しかし、銃を下ろしたわけですから、大造じいさんが残雪のことを単なる獲物や敵と見なせなくなったことは、この行動からだけでも推し量ることができます。大造じいさんと残雪との関係(もちろん大造じいさん側から一方的ということではありますが)が大きく変わったことを示している箇所と捉えることもできます。ではどうして変わったのだろう、とか、あぁ、そういえば最初の年に釣り針を避けてタニシだけを食べられて大造じいさんはその知恵にうなっていたね、とか、あれこれ考える余地のある部分です。推測(推論)して文章を深く理解するために私たちはそういうことをします。
 先生からの質問ということになると、子どもは身構えてしまいますし、正解は何だろうということが頭から離れません。だから答えにくくなります。しかし、自分でそういう問いをつくることができるような箇所を探して、先ほどのような問いをつくって考えることができれば、それは理解するための方法を使っていることになり、読書家と言われる人がやっていることと同じことをしていることになります。
 理解する行為の研究によって明らかになった、優れた読み手が行う理解するための方法はcomprehension strategiesと呼ばれ、研究者は「理解方略」という言葉にしています。もともとのstrategyという言葉自体が軍事用語なのですが、目的をもったメタ認知的行為を表すのに効果的なので、理解行為についてもこのような言葉が使われました。
 しかし「うまく理解するためにはこんな方法があります」と言われ、それを学んで覚えたとしても、とくに本や文章の理解については、その方法をどこで使えばいいのかわからなければ、理解は深まりません。
 米国のロバート・プロストとカイリーン・ビアーズは本や文章を精読する時に理解するための方法を使うべき箇所のことを精読のための「道標(signposts)」と呼んでいます。本や文章を読む際に読者が丁寧に注意を払った方がいい箇所のことです。Signpostsですから「道路標識」でもいいのすが、短い方がいいので「道標」と訳すことにしました。
「精読はテクストに対する綿密な注意、すなわち読者の重要な経験や思考や記憶、他の読者の反応や解釈、そしてそうした要素の間の相互関係に対する綿密な注意を世簿起こすものでなければならない。これらのうちのどれかにのみ注目して、他のものをおろそかにするのは愚かなことだ。私たちが提案したいのは、どのテクストのどの表現も、不合理なもののだと思って読むということである。私たちが望んでいるのは、たとえば、そのテクストの予想外の要素に気づいて、少し時間をとって書き、慎重に考えて、再読し、分析しということなのである。つまり、丁寧に読むということなのだ。」★
 引用部分の「テクスト」は、「本や文章」と置き換えても意味が通じます。「大造じいさんとガン」を精読するためには、そのきっかけとなる箇所を見つけて、そこで自問してみるとこの作品を丁寧に読むことができるという考え方です。
 ビアーズとプロストは米国の小学生から高校生が授業のなかで読む可能性のある児童文学やYA文学の本を読み返して、精読のための「道標」になる箇所はないかと探しました。条件は、読むスキルが十分でなくあまり熱心でない読者でも見つけることができる、いろいろな本や文章にくりかえし表れる、質問をする・予測する・視覚化する・つながりを見つける・推測する、といった、理解するための方法のどれか一つを実行する手助けになる、です。
 例えば、上記の「大造じいさんとガン」の大造じいさんが銃を下ろした箇所のような、それまでの登場人物の言動とは対照的で矛盾していて、読者の理解や期待を裏切るところを「対照と矛盾(対照と矛盾)」と名づけました。読者にとっては「予想外の行動」となるところでもあります(実際にビアーズとプロストが実例として扱っているのはラングストン・ヒューズの「ありがと、おばさん」という掌編小説です。★★)。
 二人が提案しているのは、「予想外の行動」(読者の期待と登場人物の行為との鋭い対照、それまでの行動やパターンと矛盾)と、「アハ体験」(ある登場人物が、自己・他者・周囲の世界に関する自分の行動や認識を変化させた何かを自覚すること)、「難問(難題)」(ある登場人物が内面でもがかざるをえなくなるような問題)、「賢者の言葉」(年長の、賢い登場人物が、中心人物の人生に関して提供するアドバイスや深い思考に満ちた言葉)、繰り返し(その小説の多くで繰り返し使われる出来事、イメージ、特定の語彙)、回想の場面(物語の進行を中断して、登場人物が回想する場面)、の六つ★★★です。
 ビアーズとプロストの本のタイトルはNotice and Note。即席に訳してみるなら「そこに注目して! そこにちゃんとメモして!」とでもなるでしょうか。原語はとても語呂がいいので、日本語もそれに匹敵するようにしたかったのですがうまくいかず、この文章のタイトルもとりあえずそのまま「ノーティス・アンド・ノート」とします。「ノーティス(注目)」とは特定の何かを優先するということです。どこでもいいというわけではありません。その本や文章を丁寧に読んで深い意味をつくり出すことのできる場所に注目することができれば、精読につながるという主張です。注目すべき箇所がどこか難しく考える必要はない。とりあえず、どんな本や文章でも、六つの「道標」にあたる場所はどこにあるか、考えながら読んでいけばいい。そしてそこに出会ったら、「核となる問い」について自分で考えたことを「ノートする」つまり書き留めていけばよい。二人の本はそのようなことを教えてくれます。
 人から質問されて答えるのなら難問になりかねませんが、自分で探し出して自分で問いを出して考えることで、本や文章の表現を深く探ることになるし、登場人物の言動を改めて振り返ってみることで、気づいていなかった側面に気づいてハッとすることもあります。その小説に描かれた世界の状況がもっと詳しくわかってきます。合い言葉は「ノーティス・アンド・ノート(そこに注目して! そこにちゃんとメモして!)」です!
★Kylene Beers & Robert Probst (2013) Notice and Note: Strategies for Close Reading, Hinemann, p.37 引用箇所は山元隆春著(2026)『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン―「対話的読み"による自他の理解と自己形成―』(溪水社)p.83。
★★ 前掲『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン』pp.88-102参照。
★★★ 同上書p.87 の表「六つの道標と核となる問い」には「道標を見つける手がかり」と見つけたら自問するといい「核となる問い」の例が示されています。

2026年5月30日土曜日

「ことば あのむだなもの」 ----吉原幸子の詩を読む----

 [時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿をお願いしました。]

私は、詩を読んでいて、ドキッとする言葉、ハッとさせられる言葉に出会うことがあります。それも単に気の利いた表現とか目新しい言い回しとかではなく、その言葉について考えを巡らせることで、詩全体のテーマが見えてくる、そんな言葉です。


今回は、そのような視点から、吉原幸子氏★1の詩を読んでみたいと思います。次のような順で読んでいきます。

(1) 冒頭から順に読む

(2) 心に留まった言葉について考えを巡らせる

(3) 全体を読み直す

仔犬の墓★2

吉原幸子

 

地のなかに 仔犬はまるくなって お菓子の紙袋を前あしに抱いて 眠ってゐる

 

おまえがぴょんぴょんとびはねてゐるとき にんげんたちは知らん顔して とびつかれまいとわざと横むいたふりなんかしてゐたのに さうやって おまえがもうたべられなくなると 袋ごとお菓子を抱かせて 土をかけながら 泣いてやるのです

 

ゆるしておくれ わたしたちの身がってを おまへがあんなにとびはねるので 安心してゐたのよ それににんげんは ことば あのむだなもののためにいそがしかった おまへの病気を さびしい脱け毛を 知らなかった

 

しっぽといっしょにお尻までふってたおまへ なげたビスケットをどうしてもうけとめられなかった おふるの首わがゆるゆるだったおまへ 捨て犬でなくなってからたったひと月 あんなに いのちをよろこんでゐた はづかしいほどなめてくれた みつめてくれた おまへ 茶いろのやせっぽち

 

(1)

第1連。亡くなった犬を地面に葬る場面が描かれています。

第2連。その犬は、ぴょんぴょん飛び跳ねる元気な犬でした。しかし、周りの人たちは、飛びつかれるのが嫌で知らん顔をしていたことがわかります。

第3連。詩人は「ゆるしておくれ」と語りかけます。犬の元気な姿を見て安心してしまって注意を注ぐことがなく、その結果、犬が病気になって弱っていく兆しに気づかなかったのです。詩人は、それを「わたしたちの身がって」と言っています。

第4連。元気だった時の犬の思い出が語られます。その犬は、捨てられていたのを拾われて育てられ、それがひと月続いたのです。とても親しくなついていた犬だったのに、病気になっていたことに気づかず、死なせてしまったことを詩人は悔やんでいます。

 

(2)

 私の心に留まったのは、第3連の「それににんげんは ことば あのむだなもののためにいそがしかった」という一文です。

「ことば あのむだなもの」とは一体何を意味しているのでしょうか。一般的に考えれば、言葉が無駄なものだなんてとんでもない。人間が社会生活をおくる上で欠かせないものだと反論することもできます。しかし、詩人はあえて、「むだなもの」と言っているのです。

 

私が考えたことを書き出してみます。

○人間が、日常の生活のいろいろなことに忙しくて、犬に気を向けなかった、ということだろうか。

○犬は言葉を持たないが、人間は言葉を持っている。

○人間が言葉を操ることで犬よりも高等だと思っていることへの反省ではないだろうか。

○言葉を持たない犬について、いきいきと描かれているのに、言葉をもつ人間については、いきいきと描かれていない。

○言葉で詩を書いている詩人が、言葉を「むだなもの」と言うのは矛盾する感じがする。

 

(3)

再び全体を読み直して、私は第2連の「泣いてやるのです」という表現が気になりました。「泣いているのです」ではありません。上からの目線で犬を見て、体裁を整えている人間の姿が感じられます。

詩全体から伝わってくる犬の姿は、ストレートで生き生きしています。うれしくて飛び跳ねていたこと、人になついて、なめたり見つめたりしていた犬。けれども病気になって弱って死んでしまったのでした。

それに対して人間は、知らん顔をしたり、横を向いたふりをしたりして屈折しています。犬の死に対して、心から悲しむのではなく、ここでは泣いておこうという判断で「泣いてやる」のです。そこにあるのは、駆け引きやごまかしや体裁をととのえること言葉を使っている人間の姿ではないだろうか。そのように私は感じます。

 

このように考えを巡らせてきて、もう一度、読んでみました。「ゆるしておくれ わたしたちの身がってを」という表現が心に染み込んできました。犬に対して罪深いことをした、という詩人の気持ちが伝わってきました。

そして、言葉を「むだなもの」にしてきたのではないか、という詩人の自己批判も込められているように思います。

 

自分の心に留まったこと、一体どういうことなんだろうと疑問に思ったことについて、それを流してしまわずに、詩人が差し出す言葉に寄り添って丁寧に考えてみる。場合によっては、近しい人と感想を分かち合ってもいいかもしれません。それが詩を読むことの喜びにつながっていくのではないか、と思います。

 

1 吉原幸子(19322002)東京生まれ。


2 『現代詩文庫56  吉原幸子詩集』思潮社、1973年刊

 

2026年5月22日金曜日

生徒の書く気を引き出す: 本当にいる読者のために書く

 生徒たちが大量の文章を書くようになった本当の理由は、彼らが本物の読み手、つまり心からつながり/伝えたいと思える相手に向けて書く機会を与えられたときでした。

 

ほかの生徒への手紙を書くこと

2003年の冬、イラク戦争が始まる直前、私の中学生たちはイラクのインターナショナル・ハイスクールに通う英語が話せる高校生たちとペンパル交流をしていました。生徒たちは差し迫る戦争をとても心配しており、進行中の対立についてさまざまな視点を知りたいと思っていました。また、年上のペンパルに自分たちの書く力をアピールしたい気持ちも強く、メールの手紙を何度も書き直し、推敲し、完璧に仕上げようとしていました。

そして返事が届くと、生徒たちはさらに意欲を高め、説明や描写をたっぷり盛り込んだ長く丁寧な手紙を書くようになりました――しかも文法・スペル・表記の誤りは一つもありませんでした。

 私はいつも、生徒たちが「ほかの子どもに手紙を書く」ときに強く動機づけられることを実感してきました。市内の子どもたちだけでなく、他都市や海外の子どもたちともつながる方法をたくさん試してきました。

また、生徒たちは政治家、作家、俳優、家族、これから入学してくる生徒など、さまざまな相手に手紙を書くことも大好きでした。亡くなった家族や、今は生活の中にいない家族に宛てて手紙を書く生徒もいました。

手紙には、個人的でありながら形が整っていて、対話を招き、返事を待つ感じがある。 その形式が、子どもたちの筆を自然と動かしていました。

 

情報を伝えるために書くこと

生徒たちを文章に向かわせるもう一つの方法は、「情報を必要としている読み手」、つまり生徒が「教えることのできる相手」を用意することでした。たとえば、かつて生徒たちは鳥インフルエンザのような公衆衛生上の懸念について調べ、誤解を解き、正しい情報を伝えるパンフレットを作成しました。これらは地域で話されている複数の言語に翻訳され、コミュニティーセンターで配布されました。

大人たちはその情報を喜び、生徒たちを称賛しました。生徒たちは、自分が役に立てたこと、価値ある存在だと感じ、知識をわかりやすくまとめて伝えることに強い意欲をもつようになりました。

 

家族の歴史を共有すること

別の課題では、生徒たちは自分たちの出身国や文化的背景にある儀式や伝統について、家族にインタビューしました。その情報をもとに短いエッセイを書き、それらを一冊の本にまとめてコピーし、家族に配布しました。

生徒たちは、自分の文章が家族や文化、伝統を表しているのを見て誇りを感じました。そして、もっと書く力を伸ばしたいという意欲を強くもつようになりました。

 

秘密のスパイス

教師として、私だけしか読まないような作文課題を出すことはほとんどありませんでした。書く課題には必ず「読み手」を設定していました。最低でも、生徒同士が互いの文章を読み合うようにしていました。お互いから前向きなフィードバックをもらうと、生徒たちはまた書きたいという気持ちになったのです。

生徒の書く意欲を引き出す秘密は、実は「読み手の存在」だった――そんな当たり前のことに気づいたのでした。けれど、よく考えれば私自身も同じです。誰かが自分の文章を読んでくれて、その人に影響を与えたり、心を動かしたり、これまでなかった考えや感情を呼び起こしたりするかもしれない――その想像こそが、私を強く書く気にさせます。

もし誰にも読まれないと分かっていたら、私は書くでしょうか。たぶん書くとは思います。書くことは、自分の考えや気持ちを整理する助けになるからです。でも、書き直したり、推敲したりして、ぐちゃぐちゃの下書きを磨き上げることは、おそらくしないでしょう。私がそれをするのは、読み手がいると知っていて、その読み手にちゃんと読んでもらいたいからなのです。

 

 あなたはどのようにして生徒の書く意欲を高めてきましたか? どのような読み手を設定してきましたか? 生徒たちはどのように自分の文章を共有していますか? ぜひ、あなたの実践を教えてください。

 

出典・https://www.edutopia.org/blog/motivating-student-writers-audience-elena-aguilar

(この記事は、『教師のためのアート・オブ・コーチング』の著者エリーナ・アギラさんによって2011年2月18日に書かれた記事です。この記事やhttps://wwletter.blogspot.com/search?q=%E3%82%A2%E3%82%AE%E3%83%A9%E2%80%95の記事から、彼女がコーチになる前は、ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップの実践者だったことが分かります。)

2026年5月16日土曜日

書くための本から学ぶ読むためのヒント

『理解するってどういうこと?』の第9章の後半には「理解することで得られる成果」がまとめられています(表9.1347348ページ)。七つの理解のための方法によって私たちが経験する「成果」が、フィクション・ノンフィクションそれぞれ18ずつ掲げられ、「理解する」ことの何が私たちにとって「いいこと」になるのかということを示してくれます。その最初に掲げられているのは「書くために学ぶこと」。フィクションの場合は「すばらしい作家や詩人たちから学ぶ能力、作家の目で彼らの作品を読み、「作家の技」を自分の作品に取り入れる能力」が得られることが「理解のための方法」を使う「成果」だと書かれています。

 先日読んだチャック・パラニューク(池田真紀子訳)『創作のルール―最初の一行で読者を引きつける技法―』(早川書房、2026年)は、整備工から作家となったパラニュークさん自身が、書くことを通して手に入れた「作家の技」をわかりやすい言葉で余すところなく語った本でした。て読者を引きつけるために何が大切なのかということを、自身の創作経験にもとづいて述べた本です。

この本には、パラニュークさんが師と仰ぐ作家トム・スパンバウアーのレッスンで学んだ言葉が随所に引かれます。スパンバウアーの言葉を引いたあと、パラニュークさん自身のエピソードが語られ、そのうえで「きみがぼくの生徒なら・・・」と続く語り方は、とてもわかりやすいものです。たとえば次のように。


「トム・スパンバウアーは僕らにいつもこう言い聞かせた。「言葉は人間の第一言語ではない」

 きみが僕の生徒なら、きみ自身が毎日使っている、言葉を伴わないちょっとした身ぶりのリストを創りなさいと言うだろう。親指を立てるしぐさ。親指と人差し指で作る“OK”のサイン。思い出そうとして拳を額に軽く打ちつける動作。胸に手を当てたりもするだろう。ヒッチハイカーと同じように親指を立てても、その向きによててゃ「失せろ」の意味になる。(中略)きみが僕のせいとなら、そういうハンドシグナルを最低でも五十種類は挙げよと言うだろう。リストを作ってみれば、どれほど多彩な身ぶりを会話文に挿入できるか、つねに意識できるようになる。」(『創作のルール』33ページ)

 

 「言葉を伴わないちょっとした身振り」を「五十種類」挙げるというのは大変なことですが、これは私たちが意識的にあるいは無意識のうちに使う「身振り」を、自分のものでも他のひとのものでも思いだし、意識することになります。パラニュークさんの「きみが僕の生徒なら」の「生徒」は作家を志望する人ということなのですが、「言葉は人間の第一言語ではない」というフレーズは、作家の卵のための言葉に限りません。もう少し広く、人が人をわかろうとする時にとても大切なフレーズでもあると、私は思いました。このような記述が『創作のルール』の魅力です。「書くために学ぶ」ことではありますが、それはこの世界を「理解するために学ぶ」ことでもあるようです。

 本書中程からの「緊張」という章の冒頭では次のように書かれています。

「未完成のものに耐えられなければならない。書きかけの初稿であれ、登場人物の前に立ちはだかるできごとであれ、書きかけの原稿について、トム・スパンバウアーはよくこう言っていた。「未解決のものと長く向き合えば向き合うほど、それは自ずと美しい解決に向かう」(中略)きみが僕の生徒なら、緊張に対して抱くその居心地の悪さは理解できると僕は言うだろう。だがフィクションを書けば、自分の裁量のもと、しだいに高まっていく対立を体験できる。フィクションを書くことは、現実における緊張や対立に対処する助けにもなる。」(『創作のルール』107108ページ)

 「創作」論ですから、作家志望の読者に向けての言葉です。が、「未解決のもの」と長く向き合うことは、現実に生きていれば誰しもが経験すること。だからこそ、そうすることが「現実における緊張や対立に対処する助けにもなる」というふうに考えることもできます。こういうところは「創作」論にとどまらないと感じるのは私だけでしょうか。未解決のものと向き合ってそれにどのように対処するかに思い悩み「緊張」をおぼえることは、人生ではよくあることです。未解決な問題の解決策を試行錯誤することは、これから先の生き方を幾通りも考えざるを得ないことでもあります。言葉にするかどうかは人によって様々ですが、それは頭のなかでフィクションを書いては消し、書いては消しするようなもの。パラニュークさんの言葉はそのようにいかすこともできます。

 映画化もされた『ファイト・クラブ』や『サバイバー』『チョーク!』等、多くのベストセラーを生み出したストーリーテラーの書いた創作法の本(例に挙げられているエピソードの一つひとつが短い小説のようでもあります!)には、本や文章を理解するためのヒントになるところも少なくありません。

 

 「きみの書くものに、だらだらと当てもなく進み、挙げ句に尻すぼみになってしまう傾向があるなら、僕はこう尋ねるだろう。「きみの時計は何だ?」そして「きみの銃はどこにある?」」(『創作のルール』p.111

 

 パラニュークさんの言う「時計」とは「決められた期限に物語を強制的に終わらせ、その長さを制限するようなあらゆる要素」のことで、「銃」とは「序盤で導入されたあとは隠して、観客が忘れていることを期待する」もので「引き抜かれた瞬間、物語を一気にクライマックスへと押し上げる」もののことで、アントン・チェーホフの「第一幕で登場人物が銃を抽斗に入れたなら、最終幕でかならずそれを取り出さなくてはならない」という言葉に由来するものだそうです。よく「伏線回収」と言われるものに近いです。

「時計」は物語の時間を制限して緊張を高めます。「時計」が示されると読者はいつ何が起こり、どのような終わるのかを予測することができます。先行きに対する期待感とともに物語がどのような舞台で進んでいくのかということに一種の安心感を得ることができるでしょうから、かえって物語に没頭しやすくなります。プレビュー型の映画ではよく見られることです。「銃」の方は序盤で示された後は隠されてどこかの時点で引き抜かれるものですから、読者に「驚き」をもたらすものになります。

パラニュークさんはおびただしいほどの映画や小説の実例を取り上げて「時間」と「銃」を説明していくのですが、自分が読んでいる本や文章について「「時計」は何だ?」「「銃」はどう仕込まれているのか?」と問いかけてみることが、その本や文章を理解するためのすばらしいヒントになるのだと気づきました。書くための本から私が読むために学んだたくさんのことの、ほんの一つです。

 

2026年5月8日金曜日

生徒が読むのを好きになる12の方法

 読むことを好きになる心を育てるには、まず「読む理由」を与え、生徒が本にワクワクできるようにすることから始まります。

 

1.  読んだ体験をふり返る。

私たちは、楽しいと感じたり、価値があると思ったりすることしか続けません。子どもが「学びがあった」「物語に夢中になれた」といった前向きな読みの体験をしたときには、その体験を言葉にできるよう導きましょう。どんなふうに感じたのか、何が良かったのかを考えたり話したりすることで、「本を読むことは自分にとって良いものだ」という実感が心に刻まれ、また読んでみようという気持ちにつながります。

 

2.  オーディオ・ブックを聴く。

オーディオ・ブックには、たくさんのメリットがあります。読むために必要な「機械的なスキル」★はいったん脇に置いて、物語の展開や登場人物、声のアクセントに集中でき、物語の世界に没頭できます。読むことに苦手意識のある子にとっては、これはご褒美のような体験です。年齢に合った本に時々アクセスできるようにする方法としても効果的で、読書への興味を引き出すきっかけになります。

 

3. 読む理由を見つける。

目的が見えないことを、私たちは進んでやろうとはしません。
子どもたちが「なぜ読むのか」を考える機会をつくればつくるほど、読書への主体的な関わりが高まります。私が中学校で教えていた頃、毎年最初の授業で「Why Read?(なぜ読むの?)」という活動をしていました。生徒たちに「読む理由」をできるだけたくさん挙げてもらうのです。これがとても楽しくて、クラス同士で「どちらが多く理由を出せるか」を軽く競わせると、6年生らしいエネルギーが湧き上がりました。出てきた理由は教室の壁に一年中掲示していました。

  →『「読む力」はこうしてつける』の41~45ページ

 

4. 言葉へのワクワクを生み出す。

子どもと一緒に読むとき、毎回ひとつかふたつ「ワクワクできる言葉」を見つけてあげましょう。新しい言葉でも、使ってみたいと思う言葉でも、あるいは使わないかもしれない言葉でも構いません。音の組み合わせが面白かったり、気持ちや場所をぴったり表す言葉を見つけたりする喜びを味わわせます。その言葉を声に出して繰り返し、いろいろな文脈で使ってみる。ただ遊ぶように、楽しむように扱えば十分です。一度の読書で取り上げる言葉は多すぎないように。ひとつかふたつで十分です。読書とは、つまるところ「言葉」の世界なのです。

 

5. 男の子が必要とするものを学ぶ。

私が中学校で読みの指導をしていた頃、マイケル・スミスとジェフリー・ウィルヘルムの Reading Don't Fix No Chevys を読んでから、読む教え方が劇的に変わりました。この本のアイディアを実践すると、男子生徒たちの読むことへの興味と理解が一気に高まったのです。同じアプローチは、私自身の息子を育てる中でも役立っています。要するに、ノンフィクションや実用的な内容のテキストをたくさん提供することです。これが彼らにとって「読んでみたい」と思える入り口になり、実際に息子にも効果がありました。

 

6. 教育的なグラフィック・ノベルを読む。

子どもたちには、教育的なグラフィック・ノベルを含む、さまざまなジャンルの本を提供しましょう。特に人気が高く、非常によく書かれている作品としては、

  • Resistance(ナチスに抵抗したフランスのレジスタンス運動を描いた三部作)
  • Boxers and Saints(ボクサー反乱を描いたジーン・ルエン・ヤンの三部作)★★

があります。私の息子は、これらの作品を何度も繰り返し読んでいます。

 

7. 本を何度も読む。

多くの幼い子どもは、同じ本を何度も読んでもらうことが大好きです。この習慣は、子どもが大きくなってからも続けてよいものです。年長の子どもにも、同じ本を繰り返し読むことを「許可」してあげましょう。そして、再読する中でどんな体験をしているのか尋ねてみます。

  • 今回はどんな新しい発見があった?
  • 前とはどんなふうに見え方が変わった?
  • 今回特に良いと思ったところはどこ?

こうした問いかけが、読む体験をより深く、豊かなものにしていきます。

 

8. 子どもたちの意見を聞く。

子どもたちに、「どうしたら読むのをもっと好きになれると思う?」と尋ねてみましょう。読むことを好きになるプロセスに、彼ら自身を「主体的な参加者」として巻き込むのです。何にワクワクするのか、どんなときに読むのが楽しいと感じるのかを聞いてみると、驚くほど多くのヒントが得られます。実際、次の提案は、私が12歳の息子に意見を聞いたときに出てきたものです。

 

9. 物語について話す。

読み聞かせや一緒に読んでいるとき、途中で立ち止まって「今何が起きている?」と話してみましょう。登場人物について語り合ったり、次に何が起こりそうか予想したり、他の経験や本とつなげたりするのも効果的です。これらは基本的な「理解するための方法」ですが、同時に子どもを物語の世界に深く引き込む方法でもあります。

 

10. 読み方そのものを教える。

私が6年生を教えていた頃、「どうすれば生徒が読むのを好きになるか」をテーマに3年間のアクションリサーチを行いました。その中で意外だったのは、生徒に「読み方そのもの」を具体的に教える必要があるという発見でした。物語の面白さや言葉の美しさ、登場人物の成長、ノンフィクションから得られる知識――それらを楽しむだけでは不十分だったのです。子どもたちは、とても難しいことを好きにはなれません。だからこそ、彼らの読書レベルを把握し、読むスキルの抜けを埋める支援をする必要がありました。

 

11. “読者としての姿を見せる。

教師や保護者は、子どもの前で実際に本を読みましょう。読書について話し、なぜ読むのかを語り、自分の生活や世界と読んだことを結びつけてみせます。読むことが生活を豊かにしていることを、具体的な場面で示すのです。たとえば、レシピを読んで料理を作るとき、家具を組み立てるとき、インターネットで疑問を調べるとき――「読む力」がどれほど役に立っているかを自然に伝えられます。

 

12. 読書に関わるお出かけをする。

図書館へ校外学習に行く(保護者なら週末に一緒に行く)。本屋さんに行って、ただぶらぶらしながら本を眺める。歩きながら、子どもと一緒に「何が目に留まる?」「どのタイトルが気になる?」「どんな表紙が好き?」と話してみましょう。本の裏表紙を読んだり、ページをめくったり、普段行かない棚に迷い込んだりして、読書の世界を「探検」します。宝探しゲームのようにしても楽しいです。

  • 切手収集の本を探してみよう
  • 古代ローマについての本を見つけよう
  • 自分と共通点のある人の回想録を探してみよう

こうした遊び心が、読書への興味を大きく広げます。

 

最後に

あなたの生徒やお子さんにとって、どんな方法が読むことを好きになるきっかけになりましたか。ぜひコメント欄で共有してください。

 

出典:https://www.edutopia.org/blog/12-ways-nurture-love-reading-elena-aguilar

(この記事は、『教師のためのアート・オブ・コーチング』の著者エリーナ・アギラ―さんによって2016年2月12日に書かれた記事です。4月10日の記事の続編的な位置づけです。)

 

★これは、4月10日に紹介した10番目に書いてある「読むスキル」の方です。本に没頭するためにはもう一つの「理解(解釈)のための方法」を使いこなさないと、楽しんで読むができません!

★★ このシリーズ2冊の邦訳はありません。代わるものとして、

・『はだしのゲン』(中沢啓治)

・『マンガで読むナチスの時代』シリーズ 汐文社

・学習まんが 世界の歴史シリーズ(3つぐらいの出版社から出ている)

『マンガ版 100de名著』シリーズ(NHK出版)

・『学習まんが人物館』シリーズ(小学館) などがあります。

2026年5月2日土曜日

本を読むということは本の中身を記憶することではない

  「ジャックと豆の木」のジャックが語り手で、時折『おとなしいめんどり』のめんどりが茶々を入れるかたちで進行していく、レイン・スミスとジョン・シェスカの『くさいくさいチーズぼうや&たくさんのおとぼけ話【新版】』(ほるぷ出版、2019年)という絵本を読んだことがあります。本の扉に「とびら」と大きくひらがなで書かれていたり、「謝辞」が逆さまに印刷されていたり、その後には昔話を換骨奪胎した話が並んでいます(ついでに言うとカバーの背表紙のところには、めんどりがぶつぶつ言う台詞が赤い字で書かれていますが、カバーをとってみると本体の背表紙は絵柄は同じでもめんどりの言葉はありません)。スミスの文もシェスカのイラストもまるで人を食ったようなつくりで、読み返すたびに意外性にうたれます。この絵本を読むということは、同時に自分が知っていた昔話や物語の記憶を振り返りながら、読書や物語についての自分の思い込みや当たり前としていたことを考え直すことになります。

ポストモダン絵本の代表格として論じられることもあるこの本を訳した青山南さんのエッセイ『本は眺めたり触ったりが楽しい』(阿部真理子絵、ちくま文庫、2023年:1997年に早川書房から刊行された『眺めたり触ったり』を文庫化したもの)を読みました。

 青山さんのこの本も『くさいくさいチーズぼうや&たくさんのおとぼけ話』と同じように「読書」についての私の思い込みや当たり前を考え直すきっかけをたくさんもたらしてくれます。私の印象に残った本書のエピソードのいくつかを取り上げてみます。

 

1)読書は著者と読者との共作行為

  米国の作家レイモンド・カーヴァーの「九つの短編と一つの詩」をもとにつくられた映画『ショート・カッツ』を観た後、青山さんはカーヴァー作品を読んだ際の記憶とあまりにも違っていることに戸惑い、この映画をつくったアルトマンという監督の文章を読みます。そのなかの「中身は変更可能なのだ」「問題は、登場人物たちがいったい何者であるか」であり「ピーナッツ・バター・サンドウィッチの作り方の話をしていようが、隣人の殺し方の話をしていようが、話の中身は、この人物たちの感情や行動ほどには、重要ではない」という言葉に出会います(もちろん英語で、でしょう)。この体験を元に青山さんは次のように言っています。

 「本を読むというのは、本の中身を、読んだじぶんの感想に合わせて、デフォルメすることなのかもしれない。中身を忘れても、あるいは間違って記憶しても、それはそれで立派な読書なのかもしれない。/『ショート・カッツ』はカーヴァーとの共作である、とアルトマンはいいきっている。読書とは、きっと、著者と読者との共作行為なのだ。」(『本は眺めたり触ったりが楽しい』177ページ)

 自分が面白く読み終えた本について、その感想を内容も含めて誰かに伝える時のことを思い出してみれば、多くの人が思い当たることなのではないでしょうか。そうでなければ、読んだ本の面白さはおそらく他の人に伝わりません。『ショート・カッツ』も観たことがなく、アルトマンの文章にも触れたことがない私にも、青山さんの言っている読書が「著者と読者との共作行為」だという言葉は強く響きます。

 

2)本を交替で朗読して共有することの意味

  この本の中程では声に出して読むこと(朗読)の意義が少し長く語られます。私も昔読んで印象に残っている『読書する女』のことも出てきて嬉しかったのですが、その部分の終わり近くで、760ページもあるトマス・ピンチョンの『重力の虹』という小説を、室外で80人が40時間かけて順番に朗読する「朗読会」についての「ニューヨーク・タイムズ」誌の記事に触れられていました。青山さんはその記事を書いた編集者の言葉を引用しています。「野外で集団で本を、とりわけ大作を朗読すること」の「良い点」についてです。

 1)読むことがだれの重荷にもならない。

2)作品を外気にさらすことで、作品の毒気が駆除される。

3)読書は陰気な室内活動だという考え方に異議を唱える。

4)現代小説に特有の孤絶の雰囲気が軽減される。

(『本は眺めたり触ったりが楽しい』160ページ)

  トマス・ピンチョンの小説を読み通すことができていない私にとっても、この言葉は新鮮なものでした。80人集めるのは難しいかもしれませんが、時にはこのようにして、ひとりではどうしても難しすぎて読み通すことのできない本を声に出して朗読し、共有することで、「読書」や「本」についての考え方を見直すことができるのかもしれません(まったく文脈は異なりますが、1960年代の日本で作家・椋鳩十が提唱した「母と子の二十分間読書」もこの編集者の言葉通りの特徴をもっていたと思います)。

 

3)読書の記憶違い

  青山さんが一時期ある週刊誌で自分が読んだ新しい本のことを紹介するコラムを担当した時のことも印象に残りました。そのようなコラムを週刊誌に連載することがいかに大変なことかは想像に難くないことです。しかし、そのコラムを書く際に、青山さんは「感動しっぱなしではなくて、自分の心の文脈のなかであわただしくも整理した」ため、取り上げた本ことが「どういう本だったか、わりあいくっきりと頭に浮かぶ」とも言っています。そして次のように述べています。

 「本がおもしろかったとき、そして、その本のことをしばらく覚えていたいときは、ぜったい、他人に話したほうがいい。くわしく話したほうがだんぜんいいが、相手が聞いてくれないときは、おもしろかったよ、と繰り返し言うだけでもいい。でも、そのさいも、どこどこがおもしろかった、と細部にかならず言及する。細部は、一度インプットされると、記憶としてしぶとく生き残るからだ。(中略)もちろん、それでも忘れる。でも、忘れたり、ひょいとおもいだしたりしているうちに、本を読むということは本の中身を記憶することではない、と実感するようになる。」(『本は眺めたり触ったりが楽しい』184ページ)

  いま私も、青山さんの『本は眺めたり触ったりが楽しい』を読んで「おもしろかった」箇所を引用しながら書いています。引用するのは、そこの箇所の青山さんの言葉が私の心に残ったからです。上に引用した文章の「細部は、一度インプットされると、記憶としてしぶとく生き残る」という言葉に共感を覚えたから引用してそれについて書いています。そして実は『本は眺めたり触ったりが楽しい』のなかで印象深かった「細部」とは「読書の記憶違い」についての青山さんのエピソードです。

 青山さんが高校生の頃に、駅から自宅まで帰る途中で雨が降り出して「雨宿り」に立ち寄った「貧弱な」書店で、アンドレ・ジッドの『贋金つくり』の文庫版の上巻を買ったということが本書の177ページには書かれています。それを書いたのが1990年代。ところが2000年代に書かれた「文庫版の追記」では、同じく高校生の時に雨宿りで立ち寄った「貧弱な」書店で偶然出会い購入した本はジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』の文庫版ということになっています。青山さんによれば「なぜ記憶が変貌したのかはわからない」のだが、出会った状況の記憶はそのままに『贋金つくり』が『怒りの葡萄』に「上書き保存」されたのではないかということ。しかもそのいずれもその後の青山さんにとっては大切な小説となったわけで、「体内にしみ込んだと思った読書体験」が鮮明であったと書かれています。

 ジッドの小説もスタインベックの小説も青山さんにとっては「体内にしみ込んだと思った読書体験」を喚起したことは間違いないことです。青山さんは「「高校生」「いきなりの雨」「貧弱な本屋」というアイテムは変わっていない。また、そのときそこで一冊の本に出会ったという事実もまったく変わっていない」と書かれています。いずれの小説も青山さんにとっては生涯でまたとない「出会い」を経験した本であったからこその「記憶違い」で、きっとどちらも真実なのだと思います。いずれも「体内にしみこんだと思った読書体験」をしたからこそ、二つの「現実」が記述されたのではないかと私は思います。「本を読むということは本の中身を記憶することではない」のですから。