エリンさんは『理解するってどういうこと?』の第7章で「作品構造」に触れて次のように述べています。
『ゲームの王国』や『地図と拳』の作者・小川哲さんの『言語化するための小説思考』(講談社現代新書、2026年)を読みました。小説創作技術について書かれた本かと思って手に取ったのですが、理解のためのヒントになる言葉がたくさん見つかりました。
小川さんのこの本が面白いのは、一貫して小説を作者と読者とのコミュニケーションと捉えているからです。もちろん作家としての経験に基づいて書かれた本なのですが、逆向きに考えてみると、小説に限ってのことではありますが、理解の種類の様々を示してくれた本であると言うこともできるでしょう。
たとえば、本書の「「文体」とは何か?」と題された章で、「情報」の「順番」こそが「文体」を規定すると言い、「「読みやすさ」とは「視点人物と読者の情報量の差を最小化する」ことによって感じられるものなのではないか」(50ページ)と言って、そのように主張する理由を次のように述べています。
「現実世界の僕たちの認知と思弁はひどく主観的で、そのまま文字にしたところで「私」と読者の情報量があまりにも大きく、とてもじゃないが読むに値するものにはならないだろう。そもそも文章は三次元の現実世界(と脳内の思弁)を一次元なリニアな記号に置き換えたものであるので、情報の順番にはかならず恣意性が伴うものなのだが、その恣意性をどう扱うかという点に「文体」の根底が生まれるのではないか。(『言語化のための小説思考』50ページ)
本書後半の「本気で小説を探しているか」という章では、次のように書かれていました。
小説から発生した小説は、小説を超えることができない。 いい小説は、小説を超えた先の何かを与えるはずで、このメカニズムを見つけることが僕にとって「小説を探す」という行為でもある。 とはいえ、読者はそれぞれの解凍プログラムを持っているので、作者が提示した作品が、最初に作者が表現しようとした「人間の認知」と異なるものを喚起することは往々にして起こり得る。 この現象を僕は「誤読」と呼んでいて、多くの人に支持される作品はこの種の「誤読」を誘発する傾向にあると思っている。 「私(作者)の物語」が、「私(読者)の物語」に転換され、作品が読者の人生と結びつき、本来のポテンシャルを超えて受容されていく現象だ(「誤読」を誘発する一つの鍵は、多くの人々の人生に存在しているが、まだ誰も名指ししたことのない体験を言語に圧縮することにあると考えている)」。(『言語化のための小説思考』146ページ)
小川さんの本からの引用文の後半は読者の読書行為について書かれています。 彼が「誤読」と呼ぶ行為は、「こころ」みたいな表現がしたいと考えて書くのとは正反対の営みです。 作者の「物語」を読者の「物語」に「転換」するということは、作品と読者の人生を強く結び付ける営みだからこそ、「まだ誰も名指ししたことのない体験を言語に圧縮する」ことになる、つまり、その人生を送っている読者にしか持ち得ていない体験を言葉で表現するということになるわけです。
小川さんはまた「出力された作品の質でAIが人間と肩を並べ、あるいは先行していく未来は遠くない将来に生じると感じているが、作品から世界に接続していく過程には、現実世界を生きてきた人間の持つ強さが残っている」とも書いています(『言語化するための小説思考』144ページ)。「小説を探す」という行為は、本や文章を自分の人生に結びつけながら、自分にとって大切な意味をつくり出ために大切な、人間的な営みなのです。
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