2026年6月20日土曜日

「小説を探す」という行為

  エリンさんは『理解するってどういうこと?』の第7章で「作品構造」に触れて次のように述べています。

 「作品構造は、単語、文、作品全体に現れています。フィクションにおいては、典型的には、何らかの設定場面におかれた登場人物たちと出会い、何らかの対立や争いに見舞われ、そして一連の出来事を経てある種の結末に至ると予測します。いわゆる「物語文法」によって、私たちは予測することができるのです。しかし、もし書き手がフラッシュバック(回想)やファストフォワード(未来へ飛ぶ)といった作家の技を使ったときは、それによって引き押される時間変動のせいで混乱することがあります。これは、出来事は時間順におこるものだということに私たちが日頃から慣らされているためです。また、筋が複雑になればなるほど、予測も少しずつ難しくなっていきます。」(『理解するってどういうこと?』263ページ)

  「予測」が難しくなるということは作品理解の困難さが増すことでもあります。しかし、。「予測」が難しくなるということは、往々にして作中人物の予想外の言動に出会うことになり、そこで立ち止まって考えることは読者が理解するための方法のいくつかを使うチャンスにもなります。

 『ゲームの王国』や『地図と拳』の作者・小川哲さんの『言語化するための小説思考』(講談社現代新書、2026年)を読みました。小説創作技術について書かれた本かと思って手に取ったのですが、理解のためのヒントになる言葉がたくさん見つかりました。

 小川さんのこの本が面白いのは、一貫して小説を作者と読者とのコミュニケーションと捉えているからです。もちろん作家としての経験に基づいて書かれた本なのですが、逆向きに考えてみると、小説に限ってのことではありますが、理解の種類の様々を示してくれた本であると言うこともできるでしょう。

たとえば、本書の「「文体」とは何か?」と題された章で、「情報」の「順番」こそが「文体」を規定すると言い、「「読みやすさ」とは「視点人物と読者の情報量の差を最小化する」ことによって感じられるものなのではないか」(50ページ)と言って、そのように主張する理由を次のように述べています。

「現実世界の僕たちの認知と思弁はひどく主観的で、そのまま文字にしたところで「私」と読者の情報量があまりにも大きく、とてもじゃないが読むに値するものにはならないだろう。そもそも文章は三次元の現実世界(と脳内の思弁)を一次元なリニアな記号に置き換えたものであるので、情報の順番にはかならず恣意性が伴うものなのだが、その恣意性をどう扱うかという点に「文体」の根底が生まれるのではないか。(『言語化のための小説思考』50ページ)

  小説をはじめとした文章は、例外なく「つくりもの」なのですから、「情報の順番」もそれを書く人の判断によります。「視点人物と読者の情報量の差を最小化する」ことで、その小説は多くの読者を獲得したことになるわけです。

 本書後半の「本気で小説を探しているか」という章では、次のように書かれていました。

 「「○○という作品みたいな表現がしたい」とか「△△という言葉を使ってみたい」とか、そういう欲求は、異なる人生を歩んできた個人にしか実現できないはずの「作風」を阻害する要因になり得る。「小説には正解がない」と僕が考えるのは、それぞれの作者が自分の言葉を、自分のやり方を探究していく過程にしか小説は存在しないと思っているからだ。

小説から発生した小説は、小説を超えることができない。 いい小説は、小説を超えた先の何かを与えるはずで、このメカニズムを見つけることが僕にとって「小説を探す」という行為でもある。 とはいえ、読者はそれぞれの解凍プログラムを持っているので、作者が提示した作品が、最初に作者が表現しようとした「人間の認知」と異なるものを喚起することは往々にして起こり得る。 この現象を僕は「誤読」と呼んでいて、多くの人に支持される作品はこの種の「誤読」を誘発する傾向にあると思っている。 「私(作者)の物語」が、「私(読者)の物語」に転換され、作品が読者の人生と結びつき、本来のポテンシャルを超えて受容されていく現象だ(「誤読」を誘発する一つの鍵は、多くの人々の人生に存在しているが、まだ誰も名指ししたことのない体験を言語に圧縮することにあると考えている)」。(『言語化のための小説思考』146ページ)

  本書のもとになった『群像』誌の連載は「小説を探しにいく」と題されていたということです。それだけに「小説を探す」ということは彼の言うところの「小説思考」の核心にあたる行為だと思われます。小川さんにとって「小説を探す」とは「小説を超えた先の何かを与える」「メカニズム」を見つけることです。たとえば夏目漱石の「こころ」に感銘を覚えて、「こころ」みたいな表現がしたいと考えて小説を書くことは、「こころ」という小説を絶えずどこか「正解」として意識しながら書くことになり、その書き手が「自分の言葉を、自分のやり方で探究していく過程」を殺すことになってしまいかねません。

 小川さんの本からの引用文の後半は読者の読書行為について書かれています。 彼が「誤読」と呼ぶ行為は、「こころ」みたいな表現がしたいと考えて書くのとは正反対の営みです。 作者の「物語」を読者の「物語」に「転換」するということは、作品と読者の人生を強く結び付ける営みだからこそ、「まだ誰も名指ししたことのない体験を言語に圧縮する」ことになる、つまり、その人生を送っている読者にしか持ち得ていない体験を言葉で表現するということになるわけです。

小川さんはまた「出力された作品の質でAIが人間と肩を並べ、あるいは先行していく未来は遠くない将来に生じると感じているが、作品から世界に接続していく過程には、現実世界を生きてきた人間の持つ強さが残っている」とも書いています(『言語化するための小説思考』144ページ)。「小説を探す」という行為は、本や文章を自分の人生に結びつけながら、自分にとって大切な意味をつくり出ために大切な、人間的な営みなのです。

 

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