2018年11月23日金曜日

あなたはいったい誰に向けて(何のために)話していますか?



『言葉を選ぶ、授業が変わる!』ピーター・ジョンストン著を読み直しています。翻訳前から数えると、もう20回目ぐらいですが、読むたびに新しい発見のある本です。

 この本の売りの一つは、教師が投げかける問いというか、発する言葉です。
 それが、実際に小見出しにもなっているぐらいです。
 全部で50弱あります。(その各小見出しの中にもいくつかの投げかけ/問いかけが紹介されているので、全部を合わせると、200近くになるかと思います。正直のところは定かではありません。数えていませんから。しかし、それほど教師によるいい投げかけ/問いかけの見本が見られる本です。)

 この本のメールでのブッククラブを終えたときに、共訳者の二人に次のような情報提供をしました。「長田さんが日本語訳を試みていた教師の投げかけ/問いかけを、①クラス全体が対象のもの、②特定の個人対象のもの、③いずれとも特定できないもの=両方と解釈できるものに分けて数えてみたら、①が16、②が18、③が15でした」
 すでに読まれていた方は、どのような場面をイメージして読まれていたでしょうか?
 まだ読まれていない方(や、再度読んでみようと思う方)は、どの質問は誰を対象に発せられたものかに注意して読んでいただき、その判断の結果を、ぜひ下のコメント欄か、pro.workshopgmail.com宛にお送りください。

 数字はほぼ同数ですが、この結果から通常の授業よりははるかに個人対象の投げかけが多いことが分かります。これは、使われている事例の多くがライティング・ワークショップ(WW)とリーディング・ワークショップ(RW)を実践している教師たちの授業を著者が観察したり、引用したりしていることからも当然と言えます。要するに、カンファランスという授業中の3分の2の時間を教師が費やしている実践だからです。これを常にしていると、当然、クラス全体への投げかけ方も変わっていきます。より生徒に届くというか、一人ひとりを大切にした会話が展開することになります。★
ということで、著者本人は、こういう投げかけが出てきた背景についてはこの本ではまったく語っていませんが、上のような歴然とした事実があります。

この投げかけ方が、授業/クラスの雰囲気づくり(本の裏表紙には「healthy learning communities(健全な学習コミュニティー)」をつくり出すの)に大きく貢献しています。さらには、知識やスキルをもった子だけでなく、caring, secure, actively literate human beings(思いやりがあり、不安をもたず、主体的で学問のある人間)を育てるのに。
日本の学校の3本の教育目標は、思いやる子、考える子、元気な子です(ないし、これら3つのバリエーションです)が、それらが実践されているかというと、大きな疑問です。はっきり言って、それを実現するための方法を持ち合わせていません。日本の目標というのは往々にして永遠に達成しないもの(つまり、夢ないし希望のレベル)のようなのですが、この本を含めてWWやRWの実践者たちはcaring, secure, actively literate human beings/ literal citizens for a democratic societyや、agency(主体者意識)をもった子どもたちや、自立した学び手・考え手(strategic thinkers)を育てることを実践しています。
主には、この本で紹介されているような投げかけ、healthy learning communityをつくって共に学び合う授業をすることや、一人ひとりが独自に作家のサイクルや読書のサイクルを回せるようにすることを通して。http://wwletter.blogspot.jp/2010/05/ww.html
ちなみに、上記の資質は、テストで測れる能力には含まれていないので、教育政策にかかわる官僚や政治家、マスコミ、保護者、教師、研究者から軽視ないし無視されがちな部分かと思います。テストで測れるものよりも、はるかに重要であるにもかかわらず!!

★ 一斉授業の場合よりは、教師が意図するメッセージが生徒たちに届くようになることを意味します。この辺のことを別な切り口で体験できるエキササイズがあります。演劇家で教育者でもあった竹内敏晴さんが紹介してくれていたものです。興味のある方は、私が体験したのを『会議の技法』の100~103ページで紹介したものを参照してください。そこでは、会議の中での発言/発表に引きつけて書いていますが、授業中の教師の発言もまったく同じです!



2018年11月17日土曜日

「わかる」とは「待つこと」




  『河岸忘日抄』や『めぐらし屋』など、語り手や登場人物のなにげない日常の舞台から書き起こして、展開の意外性とわかりやすくも巧みな文体で読者を巻き込む小説を世に送り出している堀江敏幸さんに、『いつか王子駅で』という作品があります。たまたま、仕事で、京浜東北線の「王子」や「東十条」に立ち寄ることがよくあったので、この小説も、タイトルにひかれて読みました。お気に入りの一冊です(先の二冊と同じで、新潮文庫所収)。

 神奈川の桐光学園で各界を代表する7名がおこなった生徒向けの講義の内容を収めた『続・中学生からの大学講義3 創造するということ』(ちくまプリマー新書、201810月)に、堀江さんは作家・フランス文学者として、『いつか王子駅で』の創作過程に触れた20ページほどの「あとからわかること」という文章を寄稿しています。

 もともと『書斎の競馬』という一風変わった文芸雑誌から依頼された連載であったことや、連載タイトルを決めてほしいと急に言われ、ちょうど聞いていた楽曲がビル・エヴァンズの『いつか王子様が』だったので、『いつか王子駅で』というタイトルにしたことなど、おもしろく読み進めていたところ、次のような言葉がありました。



 『いつか王子駅で』を文庫本にするとき、何年ぶりかで全編を読み返してみました。

 すると、書いた当時は気づいていなかったことがわかってきたのです。(113ページ)



 おっと、と思いました。作家自ら自作を読み返して思い当たった「わかる」「わからない」問題。堀江さんは「わかる」ということはこういうことかもしれないと、二つのことを書きます。一つは「あのときにこういう書き方をしたのは、こんな経緯で、こういうふうに感じていたからだろう」と「問い直したくなること」です。堀江さんのこの文章自体がその「問い直し」の実践です。

 もう一つは「どのようにして作品ができあがったのか、自分でもわからないという事実を確認できること」です。



 にもかかわらず、作品は、確実にそこにある。これはどういうことか、ずっと考え続けています。あとから考えて、わかるか、わからないか。それは、振り返って新しい疑問をどう自分にぶつけ、積み重ねていくか、模索の繰り返しです。(114ページ)



 作家自らが自作の推敲に触れた言葉です。創作過程の一コマだと考えればそれで済んでしまいそうですが、そうではありません。よく考えてみると、ここで行われているのは自作についての「読み」や「解釈」です。本や文章を「わかる」「わからない」ということも、基本は同じです。堀江さんが言うように「終わりがない」ところも、創作と同じ。「読み」や「解釈」にも終わりはありません。そういう目で彼のこの文章を読み進めると、本や文章を読んで理解する際にも起こることばかりが書かれているということに気づきます。こんな素敵な一節に出会いました。



 皆さんの先輩が書いた作品を読むと、何か自分のではない力がふっと乗り移って、その瞬間言葉にしないと永遠に失われてしまう感情や光景を逃さずに書いたな、と感じられるものがあります。ジャンルは問いません。短歌や詩、小説や評論、何にでも起こり得ます。こうした状態は長続きしないかもしれないし、二度と還って来ないかもしれません。けれど、逃さなかった言葉が目の前にあるとき、それは書いた人だけの言葉ではなく、それを読んでいく読者の、みんなの言葉になるのです。/言葉にみんなの気持ちが乗り移ったとき、その言葉が光り始める。そういう言葉に出会うために、僕は書く仕事だけではなく、読む仕事もたくさんやらせてもらっています。(120ページ)



 自作の解説だと思って読んできた文章だったのですが、いつしかわたくしは、けっしてそれにとどまらない広がりと励ましを感じていました。読み書きすることは、そのことにとどまらないで、もっと大きな読み書きの共同体に属することだということを、上の文を書き写しながら、稀代の読み手でもあるこの作家の言葉に気づかされ、ハッとしました。堀江さんには『本の音』(中公文庫、2011年:単行本は晶文社刊、2002年)などの書評集もたくさんあります。「理解すること」と書くことが密接に結びついているのです。



 僕はどんな人や物に対しても、かならずおもしろいところがある、と思ってしまう人間です。本に対してもおなじです。九割方だめでも、一割の良質なノイズを見出そうとする。すると、楽しくなるんです。つまらない、趣味に合わないといってすぐ閉じるのではなく、何かハッとするノイズが見つかるかもしれないと信じて、はじめから順に、飛ばさないで、最後まで読むんです。つまり、待っているんです。読むことも待つことだし、書くことも待つことなんです。(123124ページ)



 「あとからわかること」は、作家が創作の過程について述べた文章だと思って読み始めたのですが、このように「理解する」「わかる」についての秀逸な見解を満載した文章でもあります。「わかる」こともまた「ノイズ」を聴き取りながら「待つ」ことなのだと、深く肯かざるを得ません。「良質のノイズ」を見出そうとしながら、言葉に耳をすます…『理解するってどういうこと?』の第4章「アイディアをじっくり考える」で探究される「沈黙を使う、深く耳をすます」という「理解の種類」です! エリンさんも「待つ」人なのです。これも「あとからわかること」の一つ。






2018年11月10日土曜日

大好きな絵本『てん』から再考する「勇気づけ」という、かかわりかた

 大人にもお薦めの、私の大好きな絵本の中に、『てん』★(ピーター・レイノルズ著、谷川俊太郎訳、あすなろ書房)があります。
 日本の教室でのライティング・ワークショップの実践を描いた『作家の時間』(プロジェクト・ワークショップ編、新評論)の「最初の10時間で行なったミニ・レッスン例」の5時間目のミニ・レッスンで、『てん』を、なかなか書き出せず、迷っている子への勇気づけに使っています。『てん』を読み聞かせた後で、先生が次のように言います。

 「作家の一番大切な仕事の一つは、何を書くかを決めるということです。何を書くかっていろいろ迷うよね。そんなとき、この本のワシテみたいに一歩踏み出してみれば、いろんなアイディアが生まれてくるかもしれないよ。ワシテのように勇気を出していろんな作品にチャレンジしてみてね。もし、迷ったり困ったりしたことがあったら、先生にも相談してね! では、今日も楽しんで作品を書きましょう!」(『作家の時間』34ページ)

 実は、私は「勇気づけ」というテーマで『てん』という絵本を考えたことがなかったので、初めてこの箇所の原稿を読んだときに少し驚きました。

 最近、読んだ心理学の本『人間関係が楽になるアドラーの教え』(岩井俊憲著)★★の56ページに、「相手が他者に活力を提供できる」ようになることは「勇気づけの最終的な目標」だと書かれていて、『てん』と勇気づけが、初めて自分の中でつながりました。

 つまり、『てん』で先生がワシテに行った勇気づけが、最終的に、ワシテが他の男の子に対して行った勇気づけにつながっていきます。勇気づけという「モデルを示し体験させる」ことで、その「モデルで示されたことを生徒が自分のものにしていった」とも理解できます。 
 
 そんなこともあり、勇気づけ、という概念が気になって、上記の本の「人間関係は『勇気』から始めよ」という題の、2章を読み直しました。心理学が専門ではない私の、不十分な理解ですが、興味を持ったこと・考えたことを、以下、いくつか記します。

・「勇気=困難を克服する活力であり、勇気づけとは『困難を克服する活力を与えること』」。これは「向こう見ずな豪胆さとは違う」(どちらも54ページ)。

・人間関係において、勇気づけは、①相手の自己肯定感を高められる、②相手との信頼感を高められる、③相手が他者に活力を提供できる(55~56ページ)。

⇒ 上の③から連想する、ワシテの成長プロセスについては、「WW/RW便り」を月に2度くらい書いているShinlearnさんが、2010年5月25日に、「私の好きな絵本」というタイトルで、「ギヴァーの会」というブログで詳しく書いています。
https://thegiverisreborn.blogspot.com/2010/05/blog-post_25.html)

⇒ このブログから、「教師が行っている、いい問いかけ/投げかけ」がないと書けない子どももいること、その「クリティカルな投げかけ」が先生から発せられたことによって、ワシテには点を描くという自分のビジョンができたこと、展覧会で発表するチャンスを得たあとに次の子に提供するようになったこと、というプロセスで起こっていることが、よくわかります。

・ 具体的にどうするのかの中に、「ダメ出し」の反対の「ヨイ出し」が書かれていました。これは「相手の長所に目を向けて、良い行為であると言葉に出して伝えること。ヨイ出しは見返りや服従を求めない(『人間関係を楽にするアドラーの教え』76ページ)。

⇒ 「うまく書けているところをほめて書き手を育てる」(『ライティング・ワークショップ』70~71ページ)を思い出します。

⇒ アドラー心理学では「勇気づけ」と「褒める」ことは別物で、褒めることはむしろ人間関係をダメにする(69~71ページ)となっています。「人間関係をダメにする褒めること」ではなくて、この本で言うところの「ヨイ出し」にするためにも、「ほめる」ことよりも「具体的に良い点を良いと指摘する」ことに主眼を置くように注意しようと思います。

・「ダメ出し」は最悪の手段(76ページ)。相手のダメなところを指摘することは、人から困難を克服する力を奪う「勇気くじき」になる(82ページ)とも書かれています。

⇒ 私は、日々のいろいろな場面で、どうも「できない点の指摘」のほうが得意なので、反省です。

⇒ とはいえ、ワークショップでは、できない点を学習者自身が理解し、それに向かって取り組めるようにすることも大切です。それを「勇気くじき」につながる「ダメ出し」しないためにできることは、まだ自分のなかで整理しきれていません。相手との関係性や相手への理解、と言ってしまうと簡単な気はしますが。。。もう少し考えます。
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 なお『人間関係が楽になるアドラーの教え』によると、自分を勇気づけられないひとは、自己肯定感が低いらしく、自分を勇気づける四つのルールとして、以下が説明されていました。項目のみ、記しておきます(57~61ページ)。
① 「目的志向」で生きる
② 「建設的な人」を目指す
③ 笑いを取り入れる
④  楽天主義でなく、楽観主義になる
 普段、あまり心理学の本を読むことがないのですが、勇気づけという点から教室を眺めてみると、結局は「自分を変える・成長させる」という点がセットになっている気がします。

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 余談ですが、『てん』はこの1冊で完結していますが、続編的に読める絵本が、このあと2冊続きます。『てん』の最後に出てきた男の子が、『っぽい』(なかがわちひろ訳、主婦の友社)の主人公となり、『っぽい』にでてきた女の子が、『そらのいろって』(なかがわちひろ訳、主婦の友社)がの主人公になります。どちらもお薦めです。


★★「勇気づけ」という概念に興味を持ったのは、「ライティング・ワークショップ実施中。生徒にどう働きかけるかという問いをめぐって」という題の、あすこまさんのブログの書き込みの中で、以下の文を読んだことが、きっかけです。

 
「アドラー心理学では、問題行動を起こす人のことを「勇気をくじかれている」状態と捉え、それを四つのステージ(注目、権力闘争、復讐、無気力の)に分けて考えるんだそう(詳しくは下記の本などをごらんください)」
(https://askoma.info/2018/09/16/6899)



2018年11月2日金曜日

みんなが書く日


ここ一か月ぐらい、National Day on Writing(10月20日)関連のニュースを、書くことや英語関係のネット情報では見ることが多かったので驚きました。
これを、グーグルで翻訳すると「書く国民の日」と出ました。分からなくはありませんが、なんか政府が決める国民の休日の名前みたいです。私なら、「みんなが書く日」ないし「みんなで書くことをお祝いする日」と訳したいところです。

これはアメリカの、「日本国語学会」的なところが運営しています。https://whyiwrite.us/
(日本の学会にも、がんばってほしいので、書きました!!)
このホームページには、それに参加する方法などを含めて、書くことに関係する情報がいろいろ提供されています。

この間に私が見た中でもっとも気に入ったのは、いくつかのいい絵本を出していて有名なジャクリーン・ウッドソンの動画メッセージです。

その内容だけを打ち出したものが、下です。
My equation is reading equals hope times change. This month, it’s writing equals hope times change. When we write we can change the narrative. We can change the narrative of the world. We can change our own narrative. We can create a more community-based narrative as we share our stories. And all of that is so important to impacting a greater good.
上記の英語を、グーグル翻訳を基に、少し分かりやすいように手を入れてみました。
「私の方程式は、読書=希望×変化です。今月は、書くこと=希望×変化です。私たちが書く時、ナラティブ(物語)を変えることができます。私たちは世界のナラティブを変えることができるのです。私たち自身のナラティブを変えることもできるのです。私たちがストーリーを分かち合うとき、よりコミュニティーベースのナラティブを作り出すことができます。 そしてこれらすべては、社会のより大きな利益に影響を及ぼすのに重要なのです。」

とても、パワフルなメッセージだと思いませんか?
日本の国語教育では、「書くこと」をこのように捉えているでしょうか?
(彼女は、読むことも、書くことも、「希望×変化」と捉えています!)
日本の作家たちの中には、それを感じる人もいますが、国語関係者にも、ぜひ同じような姿勢をもってほしいものです。そして、先生たちはもちろん。

書くことを祝うアプローチは、『作家の時間』の中で紹介されています。
第3章の「共有の時間」、および第8章の「出版」です。
今回の「みんなが書く日」ないし「みんなで書くことをお祝いする日」は、138~139ページで紹介されている2時間続きで行われた「作家の日」の実践に近いです。

日本の教育実践にまだ欠けているのは、子どもたちがとても好きなこの「祝う」というアプローチです。
「学びの原則」(https://projectbetterschool.blogspot.com/2012/03/plc_18.html)の一つに含まれていますから、子どもたちがよく学べるようになることは確実です。

いまは、「作家の時間」と「読書家の時間」の算数・数学、理科、社会に応用するプロジェクトも展開していますが、この祝うアプローチは、とても効果的であることが証明済みです。「数学者の時間」だと、一人ひとりの子どもがつくり出した問題を出版するや、それを互いに解き合う日という感じになります。子どもたちは、教科書やドリルの問題よりも、自分たちが考えてつくり出した問題の方が何倍も好きです! もちろん、つくる過程では、単に解くのとは違ったことをいろいろと考える必要があります。ましてや、良問とクラスメイトに言ってもらえるものにするには!!(これまで、日本で行われてきた算数・数学、理科、社会の実践に、このように祝うアプローチは含まれていたでしょうか?)


★ この「祝うアプローチ」を中心に据えると、子どもたちがあまり(まったく!?)歓迎していない既存の読書週間や読書感想文も、かなり違ったものになると思いませんか? 主催団体には、ぜひ転換していただきたいものです。