2020年4月24日金曜日

休校中の今、こんな課題/プロジェクトはどうですか?

 アメリカの歴史の先生が考えたアイディアで、すでに12か国語に翻訳されて実践されているそうです。
 高校の歴史の課題としてつくられたものですが、このブログで紹介するのは十分に国語の課題としても適しているからです。
 出したのは3月です。その時点で、年度が終わるまで(アメリカの学校は6月が年度末)生徒たちが学校に来ることはないと思ったそうで、その間に、しっかりと歴史的な思考を身につけてもらうために、家にいる生徒たちにやってもらうべきことを考えて作り出されたのがこの課題です。
 このプログの読者は、①これをほぼそのまますることも、②対象や教科に応じて、必要なところを変更して実践することも、さらには③これをヒントに、まったく別のことをすることも可能です。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200422-00000027-kobenext-sociという旧来のスタンスではありません!)

コロナウィルスで休校中にジャーナルふうの課題
〇 あなたの日々の観察が、未来の人々の大切な一次資料となります。なので、フィクション(物語を書くの)ではなく、本当のことを正直によく考えて書いてください。また、細かい点も大切にしてください。

〇 あなたの役割は、コロナウィルスによって身近な地域や、国や世界がどのように変わっているのかを観察し、記録に残すことです。毎日、あなたがニュース、友達、家族、そして地域で見聞きすることを、動画、文章、詩、スケッチ、あるいは他の方法で記録してください。その際、以下の問いが、あなたの観察や考えの助けになるかもしれませんが、そのすべてに答える必要はありません。また、そこには書かれている以外の問いを自分で設定して取り組むことはとてもいいことです。この「日々の記録(ジャーナル)」は登校する時に提出してもらいます。

〇問い
1.国や自治体が今日言った/宣言した/実施したことは何か?
    ・それに意味を感じたか?
    ・あなたの暮らしに影響はあるか? どんな?
    ・あなたの家族はどう反応したか?
2.あなたの近所でまだ開いているものは? 閉ったものは?
3.あなたの近所はどう見えるか? 人々は歩いているか?
4.あなた、家族、国、世界にとって昨日と比べて、今日違うことは?
5.貧富の差、特権、人種問題や違いなど、地域、国、世界レベルで表れた事例で今日気づいたことは?
6.人を介して、ニュースで、ソーシャル・メディアで、あなたに希望/不安/恐怖を感じさせるようなことが今日あったか?
7.あなたの家族が持っていなくて(あるいは、十分になかったり、入手できる可能性も低いもので)、必要なものは?
8.あなたや家族が持っていて、他の人が持っていないものは?


オマケ・ 今自宅で過ごす人たちがテレビをつけると、ほぼコロナ関係の報道で一色なのですね(私は、テレビを見ないので知りませんでした。今日、腰が痛くて接骨院に行って知りました!)。そこで思いついたのは(上記の③に相当)、自分、家族、地域を明るくするニュースづくりです。「マスコミがこんなニュースばかり流していたら、ますます暗くなりますね」という私の感想に、「でも、いまはそういうニュースしかないでしょう!」という医院のオウナーの反応は、至極当然と思いました。それなら、明るいニュースづくりに挑戦してみては、と思ったのです。上で紹介したヤフー・ニュースに登場する有名人たちも、ぜひコロナウィルス関連のツイートや発言はできるだけ控えて、「明るい」とは言わないまでも、世の中の人を別な方向に向ける話題の提供をお願いしたいです。


2020年4月17日金曜日

書くことで「読む」がlifeを照らし出す


 本を読まなくなった、読めなくなったと感じることは少なくないことです。いまはちょっと読みたくないという時もあるでしょう。そういう時、自分に何が起こっているのか。いや、そういう時であっても、目は文字を追っているものです。

 逆に、本に夢中になって読み終えると、その本の内容を無性に誰かに語りたくなることもあります。語ろうとするなら、その本の内容をぐっと自分にひきつけなくてはなりません。そうでないと、語ることはできない。本について語るということは、半分以上自分について語ることなのです。

 エリンさんも『理解するってどういうこと?』の7章で、ノーベル賞詩人パブロ・ネルーダの不可解な死後につくられた追悼文集に寄稿された、エドゥアルド・ガレアーノという作家のエッセイと、それを読んだ後で自分がノートに書いた文章を引用しています。彼女はその時のことを次のように振り返っています。



 その夜私は大きな助成金の申請書を書くはずでした。翌日が申請書の締め切り日で、その準備のために何時間も集中する必要があるとわかっていました。しかし、この本に誘いこまれて読み終えると、私はこの文章をかかないではいられなかったのです。この文章を読んでいるあいだの自分の思考を忘れたくなかったからです。申請書作成の責任感は頭の片隅に押しやって、音楽をかけ、ガレアーノと自分自身の言葉に没頭しました。後悔などしていません。結局、助成金の申請書も書き上げ、自分の思考を書き上げる時間も手に入れましたが、それから6年経ってみると、私の宝物になったのは、後者のほうでした。何年もあとになってネルーダについてこうして書くなど思ってもいませんでしたが、ガレアーノのエッセイとこのノートを読み返して、この詩人についてより深く理解することができたのです。(『理解するってどういうこと?』280ページ)



 申請書の作成を急がなければならない夜に、エリンさんが自分のノートに向き合ったのはなぜか。ガレアーノの味わい深い文章との交流のなかで生み出されたもの、つまり、ガレアーノの文章と自分とのあいだのやりとりでうまれたworkが、それをどこかに書いておかないと永遠に消えてしまうからです。そして、エリンさんは書くことでそのやりとり(work)を頭のなかに刻みました(そして、実はここのところを訳すときに、私も同じエリンさんと同じ思いを追体験したように思われました。勘違いかもしれませんが)。

 これは読む行為にとってとても大切なことです。この時、ガレアーノの文章から自分のつくり出した意味をエリンさんは丁寧に言葉にしています(ガレアーノの文章の四倍か五倍ぐらいの長さです!)。これは、理解の種類の一つ「私たちの思考を変化させること」の一つの実践であり、書くことによって、ネルーダとガレアーノの対話に参加し、自分の過去を振り返りながら、互いの痛みを共有する「人間らしい感情」に思いをはせるのです。共感をうみだすために自分の考えを変化させ続けるという理解の姿が描かれています。

 最近になって読んだ読書論のなかに、エリンさんと同じ心の動きをあらわす言葉を見つけました。若松英輔さんの『本をよめなくなった人のための読書論』(亜紀書房、2019年)です(以前このブログで若松さんの『種まく人』を取り上げたこともあります)。どこを開いても珠玉のような言葉が並んでいる本ですが、上に書いたことを考えていた私の目に次のような言葉が飛び込んできました。



 本を読めないとき、無理に読もうとしてもなかなかうまくいきません。そんなときは書くことから始めるとよいかもしれません。そうやって、ひとたび離れた読書との関係を取り戻していった人を私は、何人も知っています。

 「読む」ことと「書く」ことは呼吸のような関係です。読めなくなっているのは、吐き出したい思いが、胸にいっぱいたまっているからかもしれません。

 息を深く吐けば、自然に深く吸えるようになります。気分が落ち着かないとき、深呼吸をすると、ふと視界が開けるように感じることもあります。このことは「読む」ことと「書く」こととのあいだにも起こります。(『本をよめなくなった人のための読書論』3334ページ)



「うまく」書く必要はない。ただ、書けばよいのです。ほかの誰にも見られることはありません。少しずつ、内なる「書く人」を目覚めさせていきましょう。(中略)読む人と書く人が同時に働くとき、私たちは、読むだけの人の目にはけっして映ることのない、新しい意味を感じ始めます。(同上、37ページ)



エリンさんが書いていたことの意味をわかりやすく私に教えてくれる言葉です。エリンさんも、おそらく、ネルーダの詩を読み、ガレアーノの詩を読んだだけで、その「新しい意味」がうまれることはなかったのではないでしょうか。彼女もまた書くことで自らの「内なる「書く人」」を目覚めさせて、「新しい意味」を発見したのです。若松さんは「書くとは、思いを相手に伝えることでもありますが、自分のなかにあって、自分でも気がつかない思いを感じ直してみることです」(4041ページ)とも言っています。「自分のなかにあって、自分でも気づかない思い」――エリンさんがノートに書くことで発見したのはそのような「思い」だったのではないでしょうか。だからこそ、ネルーダという詩人についての「深い理解」が生み出されたのです。



「読む」とは、今日まで生きてきたすべての経験を通じて、その日、そのときの自分を照らす一つの言葉に出会うことにほかなりません。(『本をよめなくなった人のための読書論』78ページ)



「読む」をこのように考えていくことができるなら、「読む」がlife(人生)にとって意味のある営みだと思われるのではないでしょうか。若松さんの本には、エリンさんの本と同様、読むことや理解することについてのこのように「たしかな」言葉が溢れています。


2020年4月10日金曜日

リーディング・ワークショップの魅力

世界中の人々にとって「当たり前」は当たり前。そんな中で、当たり前を壊すって怖すぎる。みんなに認めてもらえないかもしれないから。でも、小さなことでも「当たり前」を壊していかないと世界は変わらない。じっくり色んなものを見て、感じてみたら、それは当たり前じゃないってことに気がつけるはず。

「小さなことでも『当たり前』を壊していかないと世界は変わらない」。ドキリとする指摘だと思いませんか? 私たち自身を省みて、「当たり前」に囚われて思考停止に陥っていることがどれだけ多いことでしょう(教科書、宿題、学習指導要領、部活動、学校行事、評価……数え上げたらキリがない!)。『学校の「当たり前」をやめた。』(工藤勇一著・時事通信社)という本も話題になったように、「当たり前」を疑う目は教師である私たちがぜひ持ちたいものです。
 さて、冒頭のこの文章を書いたのは……、実は中学生です。本ブログですでに紹介している佐藤可奈子さんのリーディング・ワークショップの実践の中(https://wwletter.blogspot.com/2019/11/blog-post.htmlhttps://wwletter.blogspot.com/2019/11/rw.html)で、授業を体験した中学生が書いたレター・エッセイの中の言葉です。リーディング・ワークショップの実践からはこんな言葉が生まれるのですね。そこで、佐藤さんの実践をご一緒に見ながら、リーディング・ワークショップ(以下RW)の魅力を追体験してみましょう。

 <上の書き出しも、以下に続く本文も、日本の国語界で画期的ともいえる佐藤可奈子先生の実践(+提供してくれた資料)を、新潟青陵大学短期大学部の峰本義明先生がみごとにまとめてくれたものです。少し長くなりますが、十二分に読み応えがありますので、最後までお付き合いください。>

1RWで子どもが変わる

 この生徒はピーター・レイノルズの『そらのいろって』(主婦の友社)という絵本をRWの授業で読み、次のことに気づきました。

この本からは「当たり前を壊すこと」「じっくり見て感じること」についてかかれている。クラスで大きな絵を描くことになった主人公のマリソルが担当するのは「そら」。でも青い絵具はなかった。毎日「そら」を見上げるマリソルは、そらは青いだけじゃないということに気がつき、カラフルな「そら」を描く。そんなマリソルから、「当たり前を壊すこと」「じっくり見て感じること」の大切さを学んだ。

 この記述の後で、この生徒は冒頭に引用した文章を続けるのです。生徒は「当たり前」を壊すことの怖さを十分理解していながらも、世界にあるいろいろなものが「当たり前」のものではないことに気づき、そこから「当たり前」を壊すことの必要性を見出しています。
 『そらのいろって』という絵本を、もちろん私も読みました。ピーター・レイノルズらしいウイットに富んだ内容だと感じました。しかし、この生徒ほどの解釈には至りませんでした。こうした解釈を中学生から引き出すことのできるRWという実践は素晴らしいと思いませんか。

 佐藤さんの実践を通して中学生が書いたレター・エッセイには他にも素晴らしい内容のものがあります。それらを読むと、RWの可能性を大きく感じさせてくれます。と同時に、短大の授業でRWを実践している私にとっては、レター・エッセイの威力を見直させるものでした。なお、レター・エッセイとはRWの実践の中で、生徒が読んだ本の内容や自分の解釈などについて、教師やクラスメイト宛に手紙の体裁で書くものです。読書感想文やレポートとは違い、対象を明確にした文章を書くという相手意識を持つことで、自分の考えをより親密に書かせることができるように思います。
 佐藤さんはある生徒が『島 よくある物語』(アルミン・グレーダー著、飛鳥新社)という絵本を読んで書いたレター・エッセイに注目します。

私は「島」という本に9という評価をつけた。この本は、実際にヨーロッパで起こっている難民に対する行動や言動を描いた物語だ。この本を読んで疑問に思ったことは、なぜ『服すら着ることのできない、とても苦しい思いをしている男』を助けるために立ち上がった漁師を非難する結果になったのか、ということだ。

 この内容について、佐藤さんは「思いついた問いについて、とりあえず書き出した感あり」と評価しています。実際、生徒本人が「どうしたらいいか」と助けを求めたのも注目するきっかけになったのかもしれません。そこで、佐藤さんはこの生徒に、絵本を再読して質問づくりを行うよう、アドバイスしました。生徒は20以上の質問を作ったそうです。そして、レター・エッセイも書き直しました。

私は「島」という本を読んだ。評価は10をつけた。この絵本は、海から流れて島に来た一人の男の島での生活を中心とした本だ。この絵本は絵の描き方が独特だ。例えば、男を裸で登場させているところだ。なぜこのような描き方なのか。私は至ってシンプルなことだと考えた。作者がこの男を裸に、つまり貧乏にしたかったのは、他の国や島に来た人(難民)は何も持っていないし、何もその島のことはわからないし、とても苦労をしていることを表現するために、そうしたのだと思う。

 生徒は再読することによって、本への評価を高くしました。この生徒は、絵本を読み直して質問を作ることによって、絵本への理解をより深くできたのではないでしょうか。そして、絵本の描き方に注目するようになった点について、佐藤さんは「生徒が本当に興味を持った問いだと感じる。問いを自分の知識と関連づけて推測して説明している。言葉は足りないが生徒の真剣さが伝わる」と評価しています。
 このように、生徒の読解力を深め、「関連づける」「推測する」などの、優れた読み手が使いこなしている「理解のための方法」★を練習させるような指導を、通常の一斉指導の授業で実現できたでしょうか。生徒自身の興味・関心に基づく選書と、一人ひとりの現状を理解して課題を与え励ます個別指導を基本とするRWだからこそ可能なことだと考えます。

 佐藤さんのRWの教室では、作文活動(すなわちライティング・ワークショップ)に勤しむ生徒の姿も見られます。上に引用した文章を書いた生徒は、『おじいちゃんがおばけになったわけ』(KF・オカーソン、あすなろ書房)と『フリードリヒばあさん』(ハインツ・ヤーニッシュ、光村教育図書)の2冊の絵本を読んで内容に触発され、詩を創作しました。「書きたくて仕方がなくなった」と生徒は言っているそうです。
また、読むことが苦手なある生徒は、ネット上のキャラクターを用いた妄想をノートに書いていて、それをきっかけにある作品を創作しました。生徒は教師からの声かけや、途中の原稿をクラスメートに読んでもらってフィードバックをもらい、作品を3回書き直したそうです。本人は作家気分で大満足だったそうですし、教師を「編集長」と呼ぶそうです。こんな授業って、素敵ですね。
 さらに、この生徒は詩を作りたいと申し出たそうです。これに対して佐藤さんは中原中也の詩の本を渡したり、図書館の書架での詩集の位置を教えたりされました。その結果、生徒は次の作品(1稿目)を書いてきました。

「三分あれば十分」

Eさんは語る  三分あれば十分と
三分で物事を解決できる
三分でみんなを理解させる
三分で戦は止まる

Eさんが語った 三分あれば十分と
三分で過去を消せる
三分で今を消せる
三分で今を消せる

Eさんが語っていた 三分あれば十分と
三分で風邪を治す
三分で重病を治す
三分で寝てしまう

だからEさんは寝て語る  三分あれば十分と
だけどEさんは語った後  三分で起きるのに失敗した

僕が語ってしまった 三分あれば十分と

 この生徒は、テストの成績はあまり良くないそうです。しかし、この作品を読むと、いかにテストが生徒の一面しか測定していないかがよく分かります。人は基本的に自ら学ぼうとする力がある、その力を引き出す適切な指導環境に置かれた人はその持てる力を発揮する、ということを確信できる。佐藤さんの実践に見られる子どもたちの姿はそんなことを強く思わせます。

  <フェイスブックの続きは、ここから>

2RWで教師も変わる

 上記のレター・エッセイは、同時にそれに接してきた佐藤さんの授業に対する考えや姿勢を変えていったことが読み取れます。
 ある生徒は次のように書きました。「その他のキャラクターも様々な特徴を持っており、話の進め方、口調が一人ひとり異なっているため、どの人の話を聞いていても、おもしろいと思えた」。これに対して佐藤さんは、「生徒は『聞いていても』と記述しています。つまり、生徒は登場人物の声を『聞いている』のです。読んでいるというよりは『聞いている』という感覚になっている。映像化できている証拠だと思います」と述べます。生徒がその読解作業の中で「イメージを描く」という理解のための方法を用いることができていると評価しています。
 また、別の生徒が「僕はノーマンのひとつの言葉に納得してしまったことがある。それは「日本人は何万という人数の中国人を斬り殺したのだから、原爆が投下されてもおかしくない。」この言葉に、僕は日本人以外にも苦しんでいる人がいることを知った」と書いたのに対して、佐藤さんは「納得した根拠の提示と初めて知ったことの提示であって、理由づけの説明になっていないので、ここは生徒の考えを整理する手助けの必要性を感じます」と述べています。レター・エッセイの記述内容から生徒の現状を把握し、この生徒が必要とする指導の方針を考察しています。
 さらに、別の生徒は3冊の絵本を読んで「この3冊に共通することは、主人公が絵を描いていること。考え方が変化していく様子を描いているところだ」と書いたことに対して、佐藤さんは「比較して検討している。スキルを使いこなしている」と述べています。「比較する」という理解のための方法の使用に関して、生徒が習熟していることを評価しています。
 これらのレター・エッセイを読んでの佐藤さんの反応を見ると、生徒の成長に対する気づき、個々の生徒に適した指導方針の考察、生徒のスキル習熟の度合いに対する評価などを佐藤さんがしていることがわかります。それらのことに、もし従来の一斉指導の授業を行なっていたとしたら、教師は気づき、実行することができたでしょうか。一斉指導では生徒一人ひとりの姿を教師が確認することができません。同じ授業を受けても、生徒一人ひとりの受け止め方は違います。それは、我々自身が学校の生徒だった時、身をもって経験していたことでしょう。しかし、一度教室の生徒席から教壇へと立場が変わった時、私たち教師は生徒の一人ひとり受け止め方が違うという当たり前の事実をいとも簡単に忘れます。そして、生徒がより理解できるはずだという盲目的な確信のもとに一斉指導の方法を磨き上げ、授業を名人芸へと仕立て上げるのです。

 しかし、RWに取り組むと、教師の役割が劇的に変わります。教師は授業の「主役」ではなく、生徒の「伴走者」に変わります。先の生徒の言葉を借りるなら「編集長(者)」となります。生徒自身が自ら学びを進めていく、そのサポーターとなるのです。これは、アクティブ・ラーニングを推奨している学習指導要領の求める教師の姿とも合致することです。
 佐藤さん自身もRWの実践を振り返って、「この授業をやらないで教室で教え込むのは、教師の用意した課題と基準に到達できるかできないかを、毎時間テストされているようなものだと思います。つまり、何も読み方、書き方を教えないでテストしているようなものです」とコメントしています。また、佐藤さんの実践を見学した指導主事は「このレター・エッセイに、学びがつまっている。これだ!と思う」と絶賛しています。
 これらの気づきを教師にもたらすのがRWという実践の凄さだと思います。子どもが自ら学びに向かい、自分自身を再構築していく姿を目の当たりにして、教師自身が教えられていき、自らの授業観・教育観の変容を促され、これからの社会が求めている教師へと自然と成長していきます。RWは子どもだけでなく、それに取り組む教師をも変容させていくものだと言えるでしょう。

3.子どもと教師の変容を促すRWの授業計画

1)プレ実践と本格実践

 上記のようなRWを佐藤さんはどのように計画して実践していったのでしょうか。その取り組みで注目すべき第一は、大規模な試験的実践を行ったことです。佐藤さんはまず、2018年度1月〜3月の20時間にわたり、中学2年生2クラスにRWを試験的に実施しました。その際、以下のものを準備したそうです。

 ・試作の「読みたいリスト」
 ・「読書記録」
 ・「RWの目的」
 ・「レター・エッセイの作成」

 この辺り、ナンシー・アトウェルの『イン・ザ・ミドル』で、彼女が授業開始前に用意した内容を彷彿させるものがありますね。この中でも試作の「読みたいリスト」というのが良いと思います。ここには、後で見直してより良いものにすることが前提になっています。初めての授業実践には不安がつきものです。ましてやRWを実践している人は周りにほとんどいないでしょう。その中で新しい挑戦をしていくために、まずは試作の教材を作り、後で改訂していくのは必要なことです。そして、そもそも教師が自分で教材を作り、それを通して教えるのが本来の姿なのでしょうね。教科書やその他の既成の教材を教えることに慣れっこになっている現代の教員にとって、RWの実践を通して、手探りで教育活動を行なっていくことは、難しいでしょうが必要なことです。
 この実践の後で、佐藤さんはRWの本格的な実践に取り組みました。それが中学3年生4クラスに対して2019年度8月〜10月にかけて行なった1315時間の実践と、12月〜2月にかけて行なった30時間の実践です。驚くのは、この2回目の実践は中学3年生の12月〜2月という、高校受験を間近に控えた時期だということです。しかも30時間と、今までで一番多くの時間をかけた実践です。
 この「挑戦」を支えたのは、前年度に行った試験的実践での手応えだったのではないでしょうか。佐藤さんによると、実践後の生徒アンケート結果では、RWへの肯定的評価が85%あり、読み書きへの抵抗感が9割ほど改善の方向にあったそうです。そして、「生徒が自ら取捨選択、試行錯誤しながら本と向き合う姿に感動」したとのことです。これだけの手応えを感じれば、たとえ3年生や受験時期であってもRWを続けたい、と願ってしまうでしょう。私もRWを短大の授業で実践しているので実感するところですが、RWを始めると学生が嬉々として本を読むのです。そして、学期の終わりには「こんなに長い本を読み切ったのは初めてだった」「初めて1冊の本を読み通した」という感想を書く者が毎年必ず出てきます。そのたびに、様々にうまくいかないことはあっても、RWをやって良かった、来年も頑張ろう、という気持ちになるのです。
 RWの実践にあたってプレ実践を行うことは、本格的実践のための準備を整えたり、ノウハウを身につけたりするために大切なことですが、同時に教師のモチベーションを高めるのに役立ちます。RWに取り組む教師がおそらく等しく得ることは、子どもたちが読書を通して笑顔になることです。読書を通して子どもが成長する姿を実感できるのが、RWの醍醐味の一つです。

2)授業の目標と評価の一体化

 佐藤さんは2018年度と2019年度に合わせて3回の実践を行ったわけですが、それぞれの目標は以下の通りでした。
 プレ実践
1 既習のスキルを活用して、スキルを習う前の読書とは違う読書体験をする。
2 読書記録をとることで、自分の好みや傾向を知る。
3 本を点数評価することで、他者との違いや共通点に気づく。
4 レター・エッセイを書くことで、読んだことに対する自分なりの考えをもつ。

1回目
1 既習のスキルを活用して、スキルを習う前の読書とは違う読書体験をする。
2 読書記録をとることで、自分の好みや傾向を知る。
3 本を点数評価することで、評価の視点を体験し、自己認識を高める。
4 レター・エッセイを書くことで、読んだことに対する自分なりの意味を作ることができる。

2回目
1 既習のスキルや表現技法を意識して、各自がこれまでより深い読書体験をする。
2 読書記録をとることを通して、自分の好みや傾向を知る。
3 自己選択した本を読み、点数評価することを通して、評価の視点を体験し、自己認識を高め、自己評価できるようになる。
4 レター・エッセイを書くことを通して、読んだことに対する自分なりの意味を作ることができる。
5 自己をメタ認知できるようになる。セルフ・ブランディングにつなげ、表現者として読み書きを楽しめるきっかけをつかむ。

 当然のことながら、目標は前回の実践での反省を踏まえ、深化、改善しています。そして気付くことは、RWを通して子どもたちの様々な力を伸ばそうとしていることです。これはすなわち、子どもたちは様々な力を様々な方法で評価されることを意味しています。人間は様々な能力を持っており、それは様々な場面で活用されます。その能力を評価する際に、ペーパーテストという一つの指標だけですべてが測れるはずがありません。これは、先に引用した佐藤さんの授業でのある生徒の姿からも伺うことができます。この実践では、いくつかの目標が掲げられています。そうした複数の目標は通常の授業でも設けられるものでしょう。しかし、それらに対応する評価方法も多様なものが用意されるべきです。佐藤さんの実践にはそれがセットされています。
 その中で注目される一つは子どもたちが「自分の好みや傾向を知る」ことです。これは選書の能力を子どもたちにつけさせることも含むでしょう。RWWWを円滑にドライブする原動力は「自分が好きな本を読む」「自分が好きな題材について書く」ことです。これらをさせるためには、そもそも自分はどんな本が好きなのか、自分はどんな題材について興味を持っているのか、を自覚できなければなりません。そして、この能力は現代の子どもたちが最も弱いものです。探究学習を行わせる際、最も悩み、時間がかかるのが、自分が探究するテーマを探すことです。同様にRWでも、自分が読みたい本を探すことが最も難しく、RWのスタート当初は一番時間をかけるべきことです。このことについて目標に明確に掲げ、また、それを生徒たちが各読書記録の記述を通して一人ひとりの状況を理解し、サポートすることで形成的評価を行う、という仕組みがこの授業では設定されています。これはとても大切なことであり、RWの授業を行う際には十分に考えておくべきことです。
 次の注目点はレター・エッセイを書くことで、生徒が読んだことに対する自分なりの意味を作ることを掲げていることです。これは「解釈する」という理解のための方法の伸長を目指すものでしょう。これを促すために、佐藤さんはプレ実践での財産を活用しています。プレ実践では(おそらく)佐藤さんお一人で2クラスに対して実践されたのでしょう。しかし、3年生になり本格実践を行う際には、もう一人の同僚と一緒に学年全体で取り組んでいます。その際、プレ実践でRWを経験した生徒が初めて経験する生徒の支援者となるよう働きかけています。また、プレ実践でのレター・エッセイを初めての生徒の見本として示しています。こうしたプレ実践で得た財産を活用して、新たにRWを経験する生徒をサポートしているのです。もちろん、先にレター・エッセイに対する教師の反応の実際を示したように、レター・エッセイへの教師からのフィードバックが生徒への形成的評価となり、生徒の意欲をさらに引き立てています。佐藤さんも授業を振り返って、「レター・エッセイのフィードバックを受けて、もっとうまくなりたいという声が多数寄せられた」としています。教師や生徒同士の支援やフィードバックが良い評価となって、生徒の意欲を高め、ひいては理解のための方法の伸長につながっていく様子が伺えます。RWは学習者の読む過程に入っていって、学習者を支援する活動です。その中では形成的評価が自然と行われ、それが学習者の能力伸長に役立ちます。
 3番目の注目点は、2回目の目標に掲げている「自己評価」「自己をメタ認知」という点です。上記に示した教師のフィードバックを行なっていく上で、課題となるのが「人数の壁」です。RWは読書する一人ひとりに寄り添い、適したアドバイスを行なっていきます。カンファランスと呼ばれるこの学習者一人ひとりとの対話の時間は、RWの時間で教師側が行う教育活動の要になるものです。しかし、日本の教室には40人前後の生徒がいます(欧米の学校やナンシー・アトウェルの学校との大きな違いがここにあります)。生徒一人とのカンファランスを2分間だけと設定しても、単純計算で80分間が必要です。そこで必要となるのが、生徒同士のカンファランス、つまり「ピア・カンファランス(ピア・フィードバック)」です。教師が生徒一人ひとりと話をするのも大切ですが、それと同じくらい重要なのが生徒同士でお互いにフィードバックし合うことです。生徒同士のフィードパックが教師のフィードバックと同じくらいの効果を上げるという研究結果もあります。この生徒同士によるピア・カンファランスを行わせるのに不可欠なのが、自分で自分の活動を評価する力、自分自身をメタ認知する力です。自己評価・メタ認知の力はRWに限らず、子どもたちが自立した読書家・文章家・大人となるためにも不可欠なものでしょう。佐藤さんの実践はこの自己評価力・メタ認知力を高めることを目標とし、また評価しようとしています。事実、RWWWには自己評価力・メタ認知力を高めるのに効果的な活動が含まれていると思います。

3)実践研究的授業の大切さ

 佐藤さんの実践には他にも様々な工夫があります。読み返しや書き直しの推奨、RWに乗ってこない生徒への対応、ルーブリックの作成と修正、絵本の活用、受験時期に対応するために読み書きと受験勉強の使い分けを生徒に委ねること、などなど、実にユニークで配慮に満ちた工夫を重ねています。これは、学年の同僚教師と二人でTT授業を行うなど、身近に相談できる相手がいることが大きいと思います。と同時に、ともかくもRWという不安も多いけれども可能性を感じる教育活動に飛び込んでみよう、という実験マインド、チャレンジ精神が大きいと感じます。教科書はどうするのか? 生徒個別の対応は? テストはどうする? などなど、RWを始めようとすると不安に思うことはたくさん出てくるでしょう。しかし、冒頭に引用したように「当たり前を壊すって怖すぎる。みんなに認めてもらえないかもしれないから。でも、小さなことでも『当たり前』を壊していかないと世界は変わらない」という思いを第一にするならば、心配するよりもチャレンジしてみようという思いになるのではないでしょうか。そして、心配していた多くのことは、実は我々教師の思い込みにすぎず、いろいろな解決法があるのだということがわかります。特に、子どもたちの姿からその解決を得ることができるでしょう。
 佐藤さんはFaceBookの創業者マーク・ザッカーバーグの「完璧を目指すより、まずやってみよう」という言葉にならってRWを始めたそうです。その過程の中で、支えてくれる人にも出会いました。「幸運だったと思う」と佐藤さんは言われます。しかし、もしかしたらそれはRWに取り組もうとする人が皆経験することではないでしょうか。子どもたちの成長のために努力するならば、特にそれが読書という、多くの人が関心を持つ行為に関わるものであるから、力を貸してくれる人は必ず現れるような気がします。私も、RWWWの授業を実践していく過程で、勤務先の大学の図書館司書の方々から大きなご支援をいただいています。
 佐藤さんは「授業者が多くの手立てをもっている必要があると感じました。授業者の修業が必要です。司書さんの手助けも必要で、RWのチームを作って授業ができることが理想です。回数を重ねていくことで、授業者も生徒と共に成長していきます。教科書を教えることに意味がないことが実感できます」と述べています。授業者に要求されるものがあることも、チーム授業の必要性も、授業者と生徒の成長も、教科書を教えることの意味のなさも、みな、RWの実践に取り組み、生徒からのフィードバックを受け、授業を改善していったからこそ見えてきたものでしょう。
 これは実践研究の手法と同じだと思いました。実践研究はまず仮説を立て、それを検証する授業を計画し、実践してフィードバックを得て、それを分析することで新たな知見を得ます。私たちの授業は、実はすべてがそうした性格を持つべきものではないでしょうか。出来合いの教材を用い、誰が考えたのかわからない教授法を真似て授業をしたところで、目の前の子どもたちを動かすことはできません。自分が関わる目の前の子どもたちを育てるために、教師自らが考え、挑戦し、検証し、改善する(PDCAサイクルそのものですね)。そんな教育活動が私たちには必要だと考えます。
 RWは(そしてWWも)、私たち教師を教育の原点に立ち返らせてくれる活動だと言えるのではないでしょうか。

★ 「理解のための方法」は、この記事にたびたび登場する「人が読む際に理解するために使っているいくつかの方法」のことです。詳しくは、それらを分かりやすく紹介している『「読む力」はこうしてつける』と『理解するってどういうこと?』を参照ください。
  また、佐藤先生が実践する際に、特に参考にしていた本は、『イン・ザ・ミドル』を筆頭に、『リーディング・ワークショップ』『読書家の時間』『ライティング・ワークショップ』『作家の時間』『一人ひとりをいかす評価』『教育のプロがすすめる選択する学び』『成績をハックする』『教育のプロがすすめるイノベーション』だったそうです。

2020年4月3日金曜日

「この世界を愛する新たな理由」を見つける




  エリンさんの『理解するってどういうこと?』には次のように書かれています。



表面の認識方法にあまりにも時間をかけすぎた指導をするあまり、深い認識方法による意味づけの指導がなされないとどういうことが起きるか、私たちの皆が目撃してきました。そのような指導を受けた子どもたちはロボットのように読みがちで、読みながら無意味な書き換えを行い、自分たちが読んでいるものが意味をなしているか、確かめながら読むことはまずしません。こういう子どもたちはまた、読み・書きの全体的な過程にも無関心になってしまいます。そして、読み・書きは退屈だと嘆いたり、読むのは嫌いだと言ったり、あまりに長すぎると文句を言ったり、しなくてもいいことをいろいろしたり、そして読み・書きのできが悪いという悪循環に陥っていくことがあまりにも多いのです。こうして、さらに表面の認識方法の指導を受けることになり、いつまでも同じことが繰り返されていくのです。(『理解するってどういうこと?』174ページ)



 このような事態は珍しくありません。むしろ多いと言ってもいい。私たちは読むということに、どのような考えで臨んでいけばいいのか。このことを教えてくれるのが、広く読まれた『プルーストとイカ―読書は脳をどのように帰るのか?―』(小松淳子、インターシフト、2008年第1刷、2020年第9刷)の著者、メアリアン・ウルフです。彼女の近著『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳―「深い読み」ができるバイリテラシー脳を育てる―』(大田直子訳、インターシフト、2020年)にも読書と脳との関係についての含蓄のある考察があります。



読むという行為は、人間が自分自身から解放されて他人に移入し、そうすることで、本来なら知ることがなかったり憧れや疑念や感情をもつ別の人になるとはどういうことかを悟る、特別な場所なのです。(『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳』、63ページ)



ウルフの使っている「移入」という言葉は詩人のジョン・ダンからの借り物です。しかし、それはウルフがダンの描き出す世界にしっかりと「移入」できていたからこそ、借りることができたのだと思います。「他人に移入」して、「本来なら知ることがなかったり憧れや疑念や感情をもつ別のひとになる」ことこそ、ウルフの考える「深い読み」の条件なのです。

 ウルフの言う「別のひと」になることは、日常生活でなかなか経験することができません。というか、不可能です。だから読むという体験は現実体験を超えます。「他のひと」になるという体験が起こりうるのが読書体験のむずかしさでも、面白さでもあります。



私が読むのは、この世界を愛する新たな理由を見付けるためであり、同時にこの世界を離れるためでもあります―――自分の想像を超えたところ、自分の知識と人生経験の外にあるものを垣間見て、そしてときに詩人のロルカのように、「とても遠くまで行って、昔の子どもの魂を取りもどせる」、そういう空間に入るためでもあります。(同前書、142ページ)



これもまた、ウルフが繰り返し言っていることですが、そう簡単なことではありませんね。でもどうして「この世界を離れるため」に読むのでしょうか。「この世界を愛する新たな理由」ってどういうものなのでしょう? そのことを教えてくれる文章がありました。



教師や親はできるかぎり、子どもたちが自分の背景知識を読むものと結びつけるように導き、他人の立場への共感を引き出し、推論をして、自分自身の分析や熟考や洞察を表現し始めるように、質問をします。(同前書、233ページ)



このような質問を出されると、本や文章を表面的に認識しただけでは、おそらく答えることはできません。対象の構造を掘り下げながら、自分自身をつくり上げたものを見つめ直し、自分自身を読み、解釈し、分析するという行為が伴ってきます。ウルフはそれが「深い読み」を育てるための道だと言うのです。「この世界を愛する新たな理由」を見つける道です。

もちろんこれは紙媒体の本を読むときだけに限りません。ウルフの研究は、対象とするメディアが何であれ「深い読み」を導く条件を明快に示してくれます。重要なことはデジタルな読みでも、紙の本の読みでも変わらず重要だということです。デジタル・ネイティブなどと呼ばれている世代に、紙の本だけが大事だと言って済ますわけにはいかないし、大人たちもデジタルな読みを避けて通るわけにはいかないという前提で考えられているので、説得力があります。別に、読む対象が紙だからいいとか言っているわけではないのです。



危うくなるのを防ぐために、子どもの画面で読み始めたらすぐに「対抗スキル」を教えます。とくに重きを置くのは、スピードではなく意味を求めて読むことの重要性、多くの成人の読み手が行っている単語で見当をつけるジグザグの斜め読みを避けること、読みながら自分の理解を習慣的にチェックする(話の筋の順序や「手がかり」を確認し、記憶を詳しく話す)こと、印刷で学んだものを同じ類推と推論のスキルをオンラインのコンテンツにも展開する戦略を学ぶことです。(同前書、238ページ)



 デジタルの時代に、紙の本を読むことにどのような意味があるのか。これは、今後ますます重要になってくる問題です。「スピードではなく意味を求めて読む」、「斜め読みを避ける」「読みながら自分の理解を習慣的にチェックする」の三つのことは、まさしく深く理解するために、優れた読み手が採用している方法でもあります。「あぁ、面白かった!」とか「とても充実していた!」と思うとき、私たちはこの三つのどれかをやっているのだと思います。「オンラインのコンテンツ」に対してこういうことができればすばらしいと私は思うのですが、むしろ往々にしてその逆のことをやっていることが多いものです。ウルフが言うことの逆とは、「スピード重視!」「斜め読みばかりする」「自分の理解を振り返るようなことは思いもよらない(時間のムダ!)」です。情報を手に入れることに限って言えばその方が効率がいいのかも知れませんが、深い理解は望めそうにもありません。

 あれっ?? この、ウルフが大事だということの正反対のことって、冒頭に取り上げたエリンさんの「表面の認識方法にあまりにも時間をかけすぎた指導」の特徴ととても似ていませんか? ウルフの言う「深い読み」のきっかけはエリンさんの言う「深い認識」を誘うことと強く重なっています。