現代文学理論を柔軟に論じた『文学をめぐる理論と常識』(中地芳和・吉川一義訳、岩波書店、2007年)を著したアントワーヌ・コンパニョンさんの『文学は割に合う!』(本田貴久訳、作品社、2026年)を読みました。「文学」の社会的有用性を多角的に論じたエッセイ集ですが、理解することが人生にもたらすものを考えるヒントに満ちたものでした。
本書第10章の冒頭で、コンパニョンさんはマルセル・プルーストの「恥じることなく、やや悪意をこめながら、あらゆる業界において、文学は、企業の社長たちが言うところの「競争力にある強み」をもたらすのだ」という主張を取り上げています。コンパニョンさんはその「強み」を「レトリュール letrure 」というフランス語で表現しています。「レトリュール」とは「文学的教養」のこと。モンテーニュの「察する読者」(書物のなかにそれまでの自分が思いもしなかった意味を発見する読者)という言葉を手がかりに、本書で探究するのは「『察するレトリュール』、あるいは文学的コンピテンシー」だとされています。
「レトリュール」は「文学的教養」のことですが、それに「察する」が加えられると能動的な意味が出てきます。「察するリトリュール」とは「それまでの自分が思いもしなかった意味を発見する能力」のことです。この概念をもとにすると、幼い頃から様々な物語を読み聞かせてもらったり、自分で読んだりして、人が身につけるのは、本や文章のなかにそれまでには自分が思いもしなかった意味を発見する能力だと考えることができます。この概念は、物語を聴いたり、読んだりすることの人生における意義を考えさせてくれます。
書物のなかにそれまでの自分が思いもしなかった意味を発見する読者になり、そういう「察するレトリュール」を手に入れるために必要なのは何か。
本書の第15章にはコンパニョンさんの14歳の頃の『赤と黒』(スタンダール)の読書体験がそれを教えてくれます。
『赤と黒』のある場面で、ジュリアンは本を夢中になって読んでいるところを父親に見つかり、殴られて、読んでいた大切な本(セント・ヘレナ島に流刑になったナポレオンの言動を書記役が記録した『セントヘレナ日記抄』)は小川に落ちてしまいます。そして父親は「この怠け者め! 製材機を監視すべきなのに、こんなくだらない本を読んでいる場合か? 夜、坊さんのところで時間を無駄にするときに本を読めばいいだろう」となじられます。
コンパニョンさんはこのくだりを読んでいた夜に「わたしはジュリアンの側に立ちました」と述べています。仕事に忙しい人であるこの父親ではなく、下層社会に生まれながらすべてを読書から学んだジュリアンの側に立ったということです。その後の『パルムの僧院』や『リシュアン・ルーヴェン』の読書体験を踏まえて、自らの読書体験が先程触れたプルーストの人生と文学をめぐる意見に大切な。
「文学が本当の人生であるかのように文学に生きるのではなく、モスカ伯爵やルーヴェン氏のように、ジュリアンやファブリスのように、文学であるかのように、小説でも書いているかのように人生をまっとうするということなのです。」(『文学は割に合う!』129ページ)
「文学が本当の人生であるかのように文学に生きる」ことと「小説でも書いているかのように人生をまっとうする」こととは、読者のスタンスとして大きく違います。前者は文学作品のなかに逃避することだと言えるかもしれませんが、後者は違います。読書で得たことを人生の大切な記憶としながら、それを手がかりにこの現実を生きることです。読んでいることが既に唯一無二の人生を送っているということです。本を読むことによって生き延びる経験(lived through experience)をするとはこのようなことを指すのでしょう。そしてこの経験は、エリンさんが「我を忘れて集中し、思考するという経験に没頭し、まわりの世界が消え」「多くのことを学ぼうとして懸命に」なり、「自分の限界を超えようとする」「熱烈な学び」という理解の種類(『理解するってどういうこと?』74ページ)の成果でもあると考えられます。
コンパニョンさんの言う「小説でも書いているかのように人生をまっとうする」とはどういうことか。次のような考察が為されています。
「ようするに、生きるとは自分の人生を書くことです。ここから、多くの自己啓発書に採用されることになる「人生の作者となる、自身を書くAuthoring Life, Self-Authoring」というタイトルが出てくるわけです。「語り」という意味での文学モデルは心理学にあふれるほどあり、「人生」は「書くこと」だLife as authoringと定義します。英語の「書くことauthoring」という語を訳す際には、もともと「作者author」という名詞が動詞となり、それが現在分詞となったこの語を、フランス語で同様の操作をして得られるautheurisationという造語でしか対応させることができません。とにもかくにも、人間の振る舞いはテクストとして、もっと正確に言えば物語として理解されます。そして〈自己self〉、〈わたし〉は、物語の作者による語りによって構成された人工物となるのです。」(『文学は割に合う!』165ページ)
もちろん『文学は割に合う!』では「一見一貫性のある語りだとしても、よくよく吟味すれば、複雑なテクストへと姿を変えないわけではないのです」とも述べられていて、構成された〈自己〉の表面的な一貫性を疑う目をもつことの重要性も語られています。〈自己〉を語る物語の表面的な一貫性を疑いながら「人生の作者となる」ことを後押ししてくれるのが、他ならぬ読書(とくに、文学の)だというのです。
たとえば、プルーストの『失われた時を求めて』に出てくる「コタール博士」という医者は「教養も気配りも品格」もない人物ですが、自分の思い通りにならない事態に遭遇した時に、自らの「恩師」が同様の事態に見舞われた時の記憶を思い出します。彼の発揮した「察するレトリュール」について次のように述べられています。
「「輝かしいキャリアを積んだ」恩師のひとりを思い出し、苦しいときこそ明るく振る舞うことは、人生を演じること、人生を物語や小説、ドタバタ劇のように生きることであり、これこそが教訓です。語り手がある魅力的な女性との会話の機会を逸して落胆したときに、アルベチーヌは「落ち着いて、またいつでも会えるから!」となぐさめまました。人生は繰り返しの連続であり、「またいつでも会える」のです。コタール博士にしても、用心のため左右をよく見てから通りを渡るたぐいの人間ですが、恩師の教訓のおかげで、それなりの出世をはたし、自由になりました。教養がある者は、自らの人生の作者となります。」(『文学は割に合う!』215ページ)
コンパニョンさんの言う「察するリトリュール」とは生き延びる経験を可能にする教養のことです。「コタール博士」のように、それまでの自分が思いもしなかった意味をもたらす「記憶」の源泉です。たとえ本に書かれてあることが虚構であっても、それを読んで得たことは人生を生き延びるための「記憶」になります。しかしそのような教養は単語帳を片っ端から覚えるようなことでは得られません。コンパニョンさんが『赤と黒』を夢中になって読んだような、「熱烈に学ぶ」経験の繰り返しこそが「察するリトリュール」を人が手にするために大切なことなのです。そのようにして、それまでの自分が思いもしなかった意味を発見することができるとすれば、人生は豊かになります。「自らの人生の作者」になることができます。