2026年1月31日土曜日

飾り気のない素朴なことばに打たれる ~中野鈴子の詩を読む~

[時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿をお願いしました]

 今回の投稿でどんな詩を紹介しようかと考えながらアンソロジーを読んでいて、ふと、中野鈴子さんの詩に目が留まりました。高校生の時に国語の授業で中野重治を知り、何編か小説や詩を読みましたが、妹の鈴子さんのことは知りませんでした。何年か前に、中野鈴子という詩人を知り、心を揺さぶられたことを思い出しました。洗練された表現があるわけでもなく、ただ自分の身に起こった出来事を素朴な言葉で述べているだけなのに、ずしんと私の心に響いてきたのです。

 次の詩です。

 

花もわたしを知らない1
                 中野 鈴子
春はやいある日
父母はそわそわと客を迎える仕度をした
わたしの見合いのためとわかった

わたしは土蔵へかくれてうずくまった
父と母はかおを青くしてわたしをひっぱり出し
戸をあけて押し出した ひとりの男の前へ

まもなくかわるがわる町の商人が押しかけてきた
そして運ばれてきた
箪笥 長持ち いく重ねもの紋つき
わたしはうすぐらい土蔵の中に寝ていた
目ははれてトラホームになり
夜はねむれずに 何も食べずに
わたしはひとつのことを思っていた
古い村を抜け出て
何かあるにちがいない新しい生き甲斐を知りたかった
価値あるもの 美しいものを知りたかつた,

わたしは知ろうとしていた

父は大きな掌(て)ではりとばしののしった
父は言った
この嫁入りは絶対に やめられないと

とりまいている村のしきたり
厚い大きな父の手

私は死なねばならなかった
わたしはおきあがって土蔵を出た
外はあかるかった
やわらかい陽ざし
咲き揃った花ばな

わたしは花の枝によりかかり
泣きながらよりかかった
花は咲いている

花は咲いている
花もわたしを知らない
誰もわたしを知らない
わたしは死ななければならないt                          
誰もわたしを知らない
花も知らないと思いながら

 

何年かぶりに読み返してみて、やはり、いい詩だなと思いました。作者は実業学校を卒業し、二度の見合い結婚をしたのは大正末期から昭和の初期だと推測されます。親の意向で望まない見合いをさせられることの多い時代でした。そのような時代に生きる作者の悲しみが、まっすぐに私の心に響いてきます。


何がそうさせるのでしょうか。私は、次の4つのことに注目したいと思います。

 

一つ目は、「~は・・・した/しなかった」「~は・・・だった/ではなかった」

という語り口です。

 

わたしは土蔵へかくれてうずくまった

 父は大きな掌ではりとばしののしった

それは事実をそのまま差し出す語り口です。比喩をほとんど使わず、飾らずに淡々と語っています。

 

二つ目は、一つ目と関係していますが、感情について説明していないことです。

 

父は言った
この嫁入りは絶対に やめられないと

「つらい」「悲しい」「いやだ」「腹がたつ」などの、感情を表す言葉を使っていません。出来事をそのまま置いていく。そのことで、作者の感情の重みがストレートに読み手に伝わっていくように思います。

 

 三つ目は、自分の欲求を、ためらうことなく表出する、力強い言葉です。

 

古い村を抜け出て
何かあるにちがいない新しい生き甲斐を知りたかった
価値あるもの 美しいものを知りたかつた,

 

「私は~したい」ということを、明快に言い切る姿勢に、私は作者の芯の強さを感じます。世間は何と言おうと、自分の望みを引っ込めることはしないのです。

 

 四つ目は、第六連から第八連で表現されている、「花」との対比です。「外は明るかった」「やわらかな陽ざし」「咲き揃った花」。いずれも、明るい、前向きのイメージを伝えています。その言葉に対して、作者の「死ななければならなかった」という暗く悲痛な思いが対比されています。花が美しく、世界が明るければ明るいほど、作者の心の中の叫びは、悲痛なものとして伝わってきます。

 

 作者は諦めてはいない、と思います。「花もわたしを知らない」というフレーズを繰り返しながら、その場に立っています。

 

 

中野鈴子は、の1909年(明治39年)、福井県で生まれました。小説家で政治にも携わった中野重治の妹です。実業学校を卒業後、郷里で二度、見合い結婚をしますが、二度とも離婚し、23歳で、兄を頼って上京し、プロレタリア運動の影響を受けて詩や小説を発表しました。

時代背景は違いますが、飾り気のない素朴な言葉に私は打たれます。多くの人に知ってほしい詩人の一人です。★2

 

1 高橋順子編 『現代日本女性詩人85』 新書館, 2005

2 中野鈴子の詩は、『中野鈴子全詩集』『中野鈴子著作集』という形でまとめられていますが、いずれも絶版です。ただ、いくつかの詩は青空文庫で読めます。また、中野鈴子の詩を朗読しているサイトがあり、YouTubeで見ることができます。

 

2026年1月23日金曜日

壊す手間が必要? ~A Iによるフィードバック

 最近、ライティング・ワークショップでの、AIによるフィードバック例(★1)を目にすることがあり、個別化された具体例に感心しつつも、「あれ? ここは指摘なし?」と驚いた点もありました。A Iによっては、子どもの書いたものを書き直してしまうものもあるそうですが、今回、見たA Iの例は、「子どもの書いたものを褒める。子どもの代わりに修正することも、子どもの代わりに書くこともしないで、子どもができることを提案して、励ます」ことができるようにしたそうです。また、AIのフィードバックを子どもが受け取る前に、教師がそれを見て修正・変更できるということで、AIの関わり方について、慎重に注意深く考えられているようです。しかしながら、肝腎な要が抜けているような、落ち着かなさも感じました。

 AIがフィードバックをしている例は、教師が「子ども風に」書いた「この日曜日、私は家族と一緒に公園に行きました」から始まる数行の文に対してです。公園に行った後、滑り台まで走って行って、先に滑りたかったのに、押しのけられて、手すりにぶつかり、泣きだしてしまった等の描写が続きます。 

 私が落ち着かない気持ちになったのは、以下の二点からです。 

 一点目は、「この日曜日、私は家族と一緒に公園に行きました」という書き出しについて、何の助言もないので、肩透かしをくらった気がしました。この最初の文では、その後に、公園で楽しいことが起こるのか、とんでもないことが起こるのかなど、何もわかりません。次の文も競争して走っていくことにしたと言う説明です。「前触れ」というか、読者にとって「次が気になる」「続きを読ませてしまう」ような何かを、もう少し加えると、もっと良くなるのに、と思ってしまいます。

 二点目は、AIが「思ったこと」をしっかり伝えていたことでした。全体として、ポジティブなトーンで、まず、AIが「気に入った」点を伝えて、褒めてくれます。それから、よりよくするために、「会話」「小さな行動」「考えたこと」「感情」などで、詳細な情報を加える等ができることを提示します。さらに、その選択肢を実際に使う例として、元の文を踏まえながら、「例えば、滑り台で先に滑りたかったのに、押しのけられて滑れなかった時に、考えたことや感じたことを加えることもでき、そうすることで、臨場感が出る」ことも示唆されています。そして「情報を加えられる箇所を探してみよう、読み直して、書き直すことで、あなたの書いていることが、これから、どのように発展して、今よりさらにワクワクするものになっていくのか、待ち切れないです!」と締めくくるのを読むと、あまりに見事で、私は、逆に、ある種の気持ち悪さを感じて、思わず引いてしまいました。

  フィードバックの対象となっている元の文を読まずに、AIのコメントだけを読むと、教師が書いた的確な指摘のようです。でも、元の文を読むと、凡庸な書き出しが見落とされ、そして、感情のないAIが、「温かい」トーンで「思ったこと」を伝え、一つのポイント(この場合は、詳細を書き加える)を指摘し、今後の成果に「期待」して、励ましていることが、分かります。

 書き出しが指摘されていないのは、現時点では、教師とA Iとの間の、情報量の差が大きいのが理由だと思いました。教師の個別フィードバックや教師の個人カンファランスでは、教師は、これまでに教えてきたミニ・レッスンの内容、その子の現時点での到達度、書き手としての個性や創造性も踏まえて、現時点で教えるべきことを一つか二つ選択しているからです(★2)

 二点目のA Iによるポジティブかつ人間が書いたようなトーンについては、おそらく対象となる子どもの年齢が意識されているからだと思いつつも、私は「苦手」でした。そして、「ロボットが人に似てくると好感度が上がってくるものの、人間に近づきすぎると不気味さを感じる」という、ロボット工学者が指摘した「不気味の谷」(3)とは、こういうことだと、実感できた気がしました。

  個人の好みによる部分も大きいとは思いますが、A Iが、無味乾燥に、間違いや選択肢を指摘してくれる方が、私には心地よい距離感があり、提供される情報を取捨選択して、扱いやすい気がします。

 そのまま子どもに丸投げできそうなトーンの文で届くと、完成度が高すぎて、現時点では、AIは、教師と比べると、ごく限られた情報しか持っていないことを忘れてしまいそうです。感心してしまって、いざ、それを「活用しよう」と思うと、使いたい情報を抜き出すために、「そのままで使えそうな文章」を一旦「壊す」という余分な手間がかかりそうな気がしました。

 忙しい教師にとっては、完成度の高いA Iのフィードバックを「メイン」にして、必要な調整だけを加えれば、時間の節約になりそうに見えます。でも、A Iに「メイン」を任せられるという確信が持てる時代が来るまでは、私は「不気味の谷」に居続けるのかもしれません。

*****

1 

2025116日に配信された Unit of Study Office Hours Featuring Writing というビデオの中で、13:05頃にAIのフィードバックの画面が出てきて、このAIの性質やどのように活用できるかなどが説明されています。動画のURLは、このシリーズ(Unit of Study Office Hours)に登録すると送られてきます。

 

2 

書き出しが見落とされていたので、思い出したのが、『イン・ザ・ミドル』で、主張文というジャンルの書き出しを扱った、個人カンファランスの例でした。主張文というジャンルの書き出しのパターンで、以下が記されています(275ページ)。

エピソード:問題の本質に関わるエピソードから始める。

引用:引用句から始める。

ストーリー仕立て:読者が架空の現場にいるように想像させる書き出しから始める。

告知:事実や強い主張を述べる一文から始める。

描写:場面の描写から始める。

ニュース:最新の話題から始める。 

 教師による子どもへの主張文のカンファランスでは、その子の書き出しが、事実と地名が列挙されているだけで説得力がないことに気づいた教師が、「今書いているのだと、『誰が何をどこで』という書き出しで、読者は引き込まれないよ」(『イン・ザ・ミドル』264ページ)と指摘し、ミニ・レッスンで扱った、主張文における、いろいろな種類の書き出しに触れつつ、子どもの選択肢を広げています。その結果、子どもは、上記から「ストーリー仕立て」を選び、カンファランス後の文章は、格段に読者を惹きつけるものに改善されています。短いカンファランスですが、教室での学びの厚みというか、教師がもっている(教えたきた)情報の蓄積の価値を感じます。

 

3 

不気味の谷については、以下のような説明を見つけました。

「不気味の谷という概念を初めて提唱したのは、ロボット工学者の森政弘氏だ。1970年に森氏が書いた「不気味の谷」というエッセーによると、人々は、人間のような性質を持ったロボットに好感を抱くが、あまりに人間に近づきすぎると逆に不気味さを感じるようになるという(この部分が、谷に当たる)。しかし、それを通り越して人間とほぼ区別がつかないほど似てくると、再び好感が持てるようになる」

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC276AO0X21C23A0000000/ 

2026年1月17日土曜日

他者を理解する方法としての「読む技法」

  『理解するってどういうこと?』の第7章でエリンさんは「ノンフィクションの構造」に触れながら次のように書いています。

 〈子どもたちがノンフィクションを読んでいるときには、ノンフィクションの基本構造を使って書かれているものを理解したり、予想させたりすることを系統立ててしていませんし、ノンフィクションを書く場合にも、ノンフィクションの構造についての知識を応用する機会はほとんど提供していません。〉(『理解するってどういうこと?』265ページ)

  こう書いたすぐ後の部分でエリンさんは「しかし私は、今の状況にほんの少しの修正を加えるだけで、多くの子どもたちがノンフィクションでも大きな進歩を遂げられると確信しています」とも言っています。

 「ほんの少しの修正を加える」ための工夫とはどのようなものなのでしょうか。伊藤氏貴さんの『読む技法―詩から法律まで、論理的に正しく理解する―』(中公新書、2025年)は多様なジャンルの文章(テクスト)を取りあげながら、その「ほんの少しの修正」の具体的なあり方を提案しています。

たとえば、「法令の文言」を読む際に、その文言自体のみを忠実に読もうとする「文理解釈」が行き詰まってしまいがちだと指摘して、それを乗り越えるために「文言を超えて読もうとする方法」として行われている「論理解釈」について次のような説明があります。

 〈書かれた文章はそれ自体独立しているように見えるかもしれない。だが、そこには必ず書き手がおり、それが読者に読まれることで意味を持つ。文章を挟んで書き手と読者とが対峙する状況で、文言そのものに拘泥しすぎず、両者をスムーズに結びつけるための読みが論理解釈ということである。これは法令にかぎらず、あらゆる文章にあてはめられる。〉(『読む技法』66ページ)

  ここから読むことは、読者が筆者の「意図」を捉えようとして文章とやりとりすることであるという考え方を捉えることができます。伊藤さんはこのような考え方から、「他者の意図を汲む」ことが読む目標だと言っています。『読む技法』は多彩なジャンルの文章の読み方についての本なのですが、このような考え方に貫かれているという点で、他者理解の仕方が示された本でもあります。

 村上陽一郎「自己の解体と変革」、日本国憲法、岡倉天心「茶の本」を取りあげながら理解するための「読む技法」の基本を提示した後、佐藤春夫「愚者の死」と与謝野鉄幹「清之助の死」の比較読み、芥川龍之介「蜜柑」と梶井基次郎「檸檬」に共通する構造の把握、〈ナラトロジー〉を駆使した芥川龍之介「藪の中」の解釈、など魅力的な論述が行われてます(ぜひ『読む技法』を手に取ってその実際に触れてください)。

それぞれの文章(テクスト)が具体的に読み解かれていく八つの講義を聴講しているような思いで読みましたが、多くの発見がありました。「読む技法」を使いながら、文章の書き手の「意図」との対話的なやりとりをどのように進めていけばいいのかということが、例文に即してわかりやすく示されているために、それぞれの文章(テクスト)の一読者として、既知のことがらとの関連づけが誘われたからだと思います。それは、「読む技法」をどのように使っていけば作者との対話的関わりを営むことができるのかというその手続きを、伊藤さんが丁寧に物語っているためでもあります。

エリンさんも、「ノンフィクションを読む際の障害」と「ノンフィクションをしっかり読めるようにするには」という二つの表にノンフィクションの教え方を整理していますが(この二つの表も伊藤さんの言葉を使えば「読む技法」を述べたものだと考えることができると思います)、その後に次のように述べています。

〈子どもたちにフィクションを読むときとは違った方法でノンフィクションを読むように教えたときは長持ちします。それは、子どもたちが教室を巣立ってから後にも長く使うことができるツールですし、私たちが想像もできないような難しいノンフィクションを読み、情報を理解する時に活用できる方法です。ノンフィクションの構造と障害について学ぶことは、多様な種類の理解に役立ちます。〉(『理解するってどういうこと?』277ページ)

  『読む技法』で伊藤さんが具体的かつ丁寧に示してくれたのはそのような「ツール」や「方法」を使っていかに作者の「意図」と対話をするかということでした。伊藤さんの本の副題には「詩から法律まで、論理的に正しく理解する」とありますが、エリンさんもまた、とくに子どもが「ノンフィクション」の読み・書きの教え方に足りないのは、「論理的に正しく理解する」方法やツールをしっかりと教えてこなかったから、その読み・書きの営みが豊かなものになっていないのだと言っているのです。『読む技法』はこの問題を克服するための手がかりを与えるものだと思います。

方法やツール(伊藤さんの言う「読む技法」)を教え・学ぶことは、わたくしたちがこの社会で生きるために必要な「多様な種類の理解」につながるのです。『読む技法』で述べられていることを身近なテクストの読みに応用してみると、それまで気づかなかったテクストの意味が見えてきます。それを他の人と語り合うことも重要だと考えました。ともすればつまらない、わかりにくい、面白くないと敬遠されてしまいがちな「読むこと」の「今の状況」に、「ほんの少しの修正を加える」ための多くのヒントを伊藤さんは贈ってくださったのです。

2026年1月9日金曜日

『教師のためのアート・オブ・コーチング』の著者のエリーナ・アギラーという人について

  エリーナさんが、教師になったのは1994年のことです。

 当初、教師になるつもりはなかったそうです。大学院に進むために、お金がなかったので学校で代用教員になり、それで教えることの楽しさに開眼してしまったそうです(そして、大学院に行くことはやめました!)。

 彼女がなったのは、英語(日本での国語)の先生です。彼女がどこかで書いていたり、語っている記録を見出すことはできませんでしたが、1990年代は、彼女が先生をしていたカリフォルニア州も含めて全米で普及しつつあったのがリーディングとライティング・ワークショップ(RWWW)なので、大なり小なり影響されていた、ないし実践していたことは想像がつきます。(彼女がつくり出したトランスフォーメーショナル(変革)コーチングとの関連性についてはあとで触れます。)

 自分にとって、教えることは楽しくてしかたがなかったのですが、生徒たちが彼女に尋ねた質問の一つは、なんと「先生は来年もここにいますか? 学年の終わりまで残りますか?」でした。彼女は「もちろん残るよ」と答えましたが、生徒たちは「多くの先生はそうじゃないんです」と言ったのです。そこで彼女は、教師の離職率の高さ、そして教師が抱える圧倒的な負担やストレス、燃え尽きの問題をすぐに理解しました。これは、1990年代の半ばないし後半のことです。

 教師になって最初の数年間、彼女もコーチングを受けたそうです。「それは、とても技術的で、授業の指導法に焦点を当てたものでした★1。しかし私が本当に必要としていたのは、『このすべてプレシャーをどうやって乗り越えるのか』、つまり感情や日々の圧倒的な負担をどう扱うかというサポートでした」と回想しています。

それから約15年後★2、私は自分が設立に関わった学校でコーチになりました。そこで私たちが特に懸念していたのは、やはり教師の高い離職率でした。私が開発したコーチングの方法は、ある意味で私自身が教師時代に受けたコーチングを土台にしています★1。つまり、授業改善や生徒のエンゲージメントに焦点を当てるインストラクショナル・コーチング★3の要素を含みつつ、直感的に「信念」や「あり方」に関するコーチングを始めたのです。なぜなら、そこにこそ燃え尽きやストレス、圧倒的な負担感、そして感情についての対話が生まれるからです。感情は美しく、前向きで励みになるものですが、同時に困難も伴います(引用は、https://www.youtube.com/watch?v=mjrEfCJgO0w の動画より翻訳。その動画ではインタビューされているエリーナさんを見ることもできます)。

 さて、このブログの読者にとっての関心事であるRW&WWとエリーナさんが実践している変革コーチングの親和性についてですが、次の表のようにまとめられます。

テーブル

AI 生成コンテンツは誤りを含む可能性があります。

 この表は、https://projectbetterschool.blogspot.com/2015/03/blog-post.html にある表の一番右側と共通性が多いと思いませんか?

 また、『教師のためのアート・オブ・コーチング』に付けられた解説「アメリカを中心にした欧米諸国におけるコーチングの歴史とその普及の経緯」の424ページで紹介されているもう一つの表(出典は、Responsive Literacy Coaching: Tools for Creating and Sustaining Purposeful Change, by Cheryl Dozier, 2006, Stenhouse Publishersの11ページ)を見ると、コーチが柔軟に個々の教師にニーズに応えながら(教師が同じことを対生徒で行うことと対比しながら)学びをつくり出す理論的な枠組みが示されています。

 これら3つの表から読みとれることは、日本の授業と教員研修が、まだそのような形では行われている割合は極めて少ない、ということです。

 理想的には欧米各国のように各学校にコーチを配置することですが★4、過度期には、管理職、指導教諭、主幹教諭、教科主任や学年主任などが、コーチング・スキルを身につけて若手教師を中心に同僚にコーチングをしたり、ピア・コーチングをしたりすることが現実に考えられるし、求められています。

 インストラクショナル・コーチングが始まったアメリカの歴史を振り返ると、出発点はRWWWの普及だったことは間違いありません。その成功によって、優れた実践者をコーチとして採用して普及を図ったのです。その成功が、次の段階では算数・数学を中心に他教科やICTなどのコーチにも広がりました。

 すでに表に示したように、RWWWとコーチングの間にある親和性は大きく、授業で日々カンファランスをしていた優れた教師たちの多くが、優れたコーチになっていきました。その意味では、RWWWを実践するということは、いいコーチになるための準備もしていると言えるわけです★5。逆に言えば、RWWWの実践をしていないでコーチになることのハードルは、かなり高いと言えるでしょう。練習の量がものをいいますから!

 

★1 彼女もコーチになった当初は、行動だけに焦点を当てて教師をコーチングしていたそうです。しかし、それでは数か月後には元に戻ってしまうことが多いと彼女は指摘しています。例えば、協同学習を導入することに同意して、何度も練習して実践できるようになったのに、何か月後かにその先生の教室を訪ねてみると、「なぜ生徒が列に並んでいるのか」「なぜ教室が静まり返っているのか」といった場面に出くわします。そこで彼女は「静けさ」や「生徒の発言」に関する教師の信念を掘り下げる必要性に気づいたそうです。その信念が選択にどう影響し、生徒にどう作用するのかを理解することが、真の変容につながるからです。

 この点は、授業にそのまま応用できてしまうと思いませんか? 教師ががんばってたくさんの知識やスキルを詰め込んでも(あるいは、生徒本人がそれらを一時的に詰め込んだとしても)、残念ながら、それらが生徒たちの中にあまり残らないことを誰もが知っています。

それでは、定着する学び、生徒であれ教師であれ、心底理解して、変容する学びはどのようにつくり出すことができるのでしょうか? 少なくとも現在、日本で行われている教員研修や授業は、そのことをほとんど考えずに行われていると言えないでしょうか? 要するに、「ごっこ遊び」レベルの研修であり、授業が続き、リアルな当人たちが使いこなせるレベルの研修や授業ではないということです。

 https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/12/blog-post_21.html および

https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/12/abd.html を参照ください。

★2 彼女が、コーチとしての取り組みを始めたのは2003~4年ごろという情報もあるので、15年後ではなく、10年後が正しいかも? 『教師のためのアート・オブ・コーチング』は彼女のコーチとしての約10年間の経験をまとめたものであり、コーチになったばかりの人(2003~4年当時の自分)が知っておきたいことをまとめた本です。

★3 これについては、『インストラクショナル・コーチング―授業と学校を変革する教師の最強パートナー』ジム・ナイト著、図書文化、2026年2月刊行予定を参照ください。

★4 https://projectbetterschool.blogspot.com/2024/09/blog-post.html

   https://projectbetterschool.blogspot.com/2024/04/blog-post.html

★5 それと比べて、日本でいいと評価される授業を教室で実践し続けることは、必ずしもいい研修会や協議会等での講師になることは保証していません。依然として、「話した(教えた)のに、覚えてないの」的なアプローチが主流ではないでしょうか?