2026年7月18日土曜日

なぜ人は本を読むのか

  動画もあるしゲームもあるのに、どうして紙の「本」を読む必要があるのか? 読書することの何がいいのか? ―――このように質問されると、考え込んでしまってなかなかうまく答えられません。いいものだから黙って読めばいいのだという類の回答では質問者は納得してくれないでしょう。

難波優輝さんの『本とは何か』(新潮新書、2026年)には冒頭の二つの質問に答えるための大切な考え方が示されています。難波さんは「私たちが本を読む、ということは、本で何かパフォーマンスしている、ということだ」と書いています。読書をパフォーマンスとして捉えると「本」や「読書」のどのようなよさが見えてくるのでしょうか。

『本とは何か』には「物語」「人文書」「ハウツー本」「雑誌」「マンガ」「楽譜とレシピ」など様々なジャンルの「本」を読むことの特徴が細やかに分析されていきます。たとえば「ハウツー本」や「自己啓発本」を読む場合、それは「自分で読み進めている」という感覚が得られることが重要だと難波さんは言っています。

 「他でもない私が本を手にとって読み進めている。その自己コントロール感覚は、自己啓発の際にはよい気分にさせてくれるはずだ。動画を流しているときは、音声や映像が流れていってしまう。それらは「良い言葉」であるのだが、私がパフォーマンスすることで出現する言葉ではない。それらは過ぎ去る。私が本の文字列を追うとき、私がその言葉をパフォーマンスする。それゆえ、自己啓発書が本であることによって生まれるのは、読者の自己効力観のようなものであるかもしれない。」(『本とは何か』93ページ)

  たとえば、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)を読んでいる私は、この本に書かれていることをただなぞっていくだけでなく、自分の頭のなかで納得しながら読んで、コモン君の言動を自分にあてはめながら考えていました。これは自分でこの本のページをめくりながら読むことで起こることです。

 難波さんはその時の「読書する姿勢」に注目します。

 「セザンヌの「読書をする女性」が私は好きだ。これらは、読書の深さ、沈思黙考する人々の姿を描く。その顔はうつむいている。「うつむく」という姿勢に注目しよう。スマホをみているときの姿勢とも、ディスプレイをみているときとも違う、このうつむくという姿勢は、ことのほか、重要である。この姿勢は外界を遮断する。話しかけにくさがある。自分自身も、没入できる感覚がある。そして、何かを深く考えているような、日常の動作とは少し切り離された雰囲気がある。」(『本とは何か』94ページ)

  セザンヌの絵はネットで検索するとすぐに見ることができます。山陽本線の電車のなかで『君たちはどう生きるか』を読んでいる私の姿も、外から眺めると「何か深く考えているような、日常の動作とは少し切り離された雰囲気」をもつ姿であったと思います(それに注目する人はいなかったと思いますが)。セザンヌだけでなく、ルノアールやマネやマティスや黒田清輝、浅井忠など、高名な画家たちが、女性たちの「読書する姿勢」を描いた絵を残していることは、本を読む人間のその読書パフォーマンスの姿が独特の「雰囲気」を醸し出すことに気づいていたと言うことができるでしょう。読書に没頭する姿はまさしく「絵になる」というわけです。そしてこの「孤独性」はインタラクティブですぐに反応が返ってくる「ゲーム」では得られないものだと難波さんは言っています。

 「本の良さは、「孤独性」にある。本は開くと雄弁に語りかけできて、いろいろ命令をしたりして騒がしいけれど、それをすぐに黙らせることもできる。あるいは、本は行為してくるけれど、ゲームのようにはインタラクティブではないし、書き手は遠い場所にいる。この迂遠さ、この本の孤独さ、綴じている=閉じていることは、とてもユニークな経験を与えてくれる。」(『本とは何か』102ページ)

  「綴じている=綴じている」からこそ、「読書パフォーマンス」は「ユニークな経験」をもたらすのですが、それは読者一人ひとり異なるものです。何が書いてあったかという質問の答えには共通性があるかもしれませんが、どのように読んだかという質問の答えはむしろ違ってくる。そこに「読書」を「パフォーマンス」と捉えることの意義があります。

 「他人の感想や解釈をよむとき、私たちは「その人がどう読んだか」というパフォーマンスに注意を向けているのだ。ふだん、自分の読書については「作品を読んだな」しか意識できない。しかし他人の読書となると、私たちは自然と「パフォーマンスの仕方」に注意を向けられる。「え、そんなふうに読んだの!」と驚くことも何度かあったはずだ。つまり、自分自身の読書ではくっついてしまっている「作品」と「パフォーマンス」が、他人の読書パフォーマンスに出会うことで分離されるのだ。(中略)自分一人では見逃していた読書パフォーマンスの可能性を、他人を通して初めて実感できる。だからこそ、私たちは書評を読み、読書会に参加し、友人と感想を語り合うのだ。それゆえ、読書の後の様々な場面での語り合いというのは、たんなるおまけではなく、読書パフォーマンスにとって根本的な営みであり、本を読む楽しみの根源にあるもののようにも思える。」(『本とは何か』3536ページ)

 一人で本や文章を読んでいる時には自分の読み方にどのような特徴があるのかということを意識することはまずありません。その「本や文章」の内容を追いかけているのだと思い込んでいます。難波さんの言葉を借りて言えば、それは「本や文章」(難波さんは「作品」と言っています)と自らの読む「パフォーマンス」が「くっついて」いる状態だということになります。「本や文章」を読んでいる私がある方向で意味づけをしながら読み進めているわけですから、当然それは「本や文章」そのものではありません。「本や文章」を読む私の「パフォーマンス」を分離するようなことはしていません。

 複数の読者が他の人の読みや解釈を知る機会を設けることができれば、難波さんの言う「作品」と「パフォーマンス」を分離することができるのかもしれません。『理解するってどういうこと?』の第4章の表41には「理解のための方法と得られる成果」、あるワークショップでの「私たちは理解することにどのように取り組んでいるか」というエリンさんの質問に対して参加者が答えてくれた「理解のプロセス」と「理解の成果」がわかりやすくまとめられています(『理解するってどういうこと?』140141ページ)。「理解のプロセス」に書かれていることは「読書パフォーマンス」を言葉にしたもので、「理解の成果」はそれが自分にもたらした「いいこと」です。各自の「読書パフォーマンス」はお互いに話をすれば明らかになるのです。そしてその時に自分が使ったツール(理解するための方法)はどのようなものであったかということを共有することができれば、「自分自身の読書ではくっついてしまっている「作品」と「パフォーマンス」が、他人の読書パフォーマンスに出会うことで分離される」という経験をすることができるのです。こうしたことが本を読むことの新しい喜びをもたらしてくれるのだと思います。それが、なぜ人は本を読むのかという大切な質問に対する答えを見つけることにつながるのです。

 

2026年7月10日金曜日

生徒一人当たり5分間のカンファランスのパワー!

書くことを教える教師は、生徒がたくさん書き、しかも意味のあるコメントを受け取ることで書く力が伸びることを知っています★。また、読んでコメントを付けなければならない大量の生徒の文章に埋もれるあの感覚もよく知っています。こうした負担に対処する方法はいくつもあるとはいえ、この紙の山はやはり生徒と向き合う仕事の中で大きな重荷です。

書面でコメントを書く量を減らすために、授業中に生徒一人ひとりとカンファランスの時間をもつことを最初に考えたとき、時間がどれほどかかるのか不安でした。しかし、すでに自分の教室でそれをしていた同僚の助けもあり、思い切って生徒と書くカンファランスを実施したところ、教室のあり方にも生徒の学びにも大きな変化が生まれたので、無理なく効果的に進める方法と、予想していなかったプラスの変化を紹介します。

 

カンファランスの前にすること

 生徒とカンファランスを行う前に、私はまず生徒の作文をざっと読み、個々の生徒の作品には一切書き込みをせず、自分のメモに三つの点だけを記録しました。すなわち、その作文に使っている評価基準での点数、生徒が今回の課題でうまくできていた点、生徒がこれから取り組む必要のある点です。

この作業をしながら、クラス全体に向けて後で短い授業として扱うために、共通して見られた強みや伸ばすべき点についてもメモを取りました。

私は、生徒の作文に何も書き込みをしていない状態のまま返却し、クラス全体として見られた強みと伸ばすべき点について簡単に説明しました。

次に、生徒には配布したプリントの問い★★に沿って自分の作文を振り返ってもらいました。自分の作文に点数を付けるだけでなく、私とのカンファランスで「自分が伸ばしたい点」をいくつかの候補の中から一つ選んでもらいました。この焦点の絞り込みが、カンファランスの時間を効率的かつ効果的にするうえで重要でした。

私は、生徒に対してカンファランスの際の期待事項を説明しました。カンファランスをしている生徒と、順番を待ちながら自分で作業している生徒の双方に向けてです。生徒たちはひたすら書く活動の目的を理解し、すでに自立的な作業時間の基本的な約束事ができていたこともあり、この時間を有意義に使う準備ができていました。

 

カンファランス中にすること

生徒が週の終わりに提出する数日かけて取り組む作文の課題をしている間、私は一人ひとりと5分ずつ個別にカンファランスを行いました。

生徒は作文と振り返り用紙を持って私の隣に座ります。私は事前に作文を読んだときのメモを手元に置き、携帯電話で5分のタイマーをセットしました。

まず、生徒が自分の作文がどの点数に値するのか、そしてその理由を評価基準の言葉を使って説明します。その後、私が付けた点数を示します。多くの場合、点数は近いのですが、もし一致しないときは、生徒が評価基準の理解を深める必要があることがわかります。

次に、生徒は自分の作品の中で、今回のカンファランスで取り組みたい一点を伝えます。作文を参照しながら、生徒が改善できる点について話し合い、生徒はその内容をメモします。タイマーが鳴る前に話が終わらなかった場合は、最後の話題をまとめて終え、必要であれば授業時間外にも来てよいことを伝えました。

 

カンファランスの後にすること

 私は、生徒に修正を加えた作文の提出期限を伝え、クラス全体でカンファランスの進め方について振り返りをしました。生徒は、5分間自分の書くことについて話し合ったほうが、私が作文に書き込んでいたコメントよりもはるかに多くの学びがあったとはっきり述べました。

これまで私は、授業時間外でも書くことについて話したい生徒にはいつでも対応すると伝えていましたが、それを実際に活用する生徒はほとんどいませんでした。ところが、授業内でカンファランスを経験したあとでは、私の申し出を利用する生徒が大幅に増えたのです。生徒は、カンファランスの効果を自分で体験したことで、その後は自分の時間を割いてでも私と話そうとする意欲をもつようになったわけです。

 

授業時間にカンファランスをする価値がある理由

私の授業は平均して30人ほどの生徒がいるため、カンファランスにはかなりの時間が必要です。生徒一人ひとりとカンファランスを行うために、55分の授業を三回まるごと使い、私自身もかなり集中したエネルギーを注ぎました。それでも、その効果は十分に時間をかける価値がありました。

個別に焦点を絞った教え方をすることで、生徒はカンファランスで学んだ内容に注意を向け、実際に書くことに活かそうとする姿勢が強まりました。その結果は、初稿と修正後の作文の点数の差にすぐ表れました。

私は、生徒の作文にこれまで書いてきた短くて読みにくいコメントよりも、はるかに明確にフィードバックを伝えることができました。

生徒は、クラス全体の前では聞けなかった、あるいは聞こうとしなかった書くことに関する質問をすることができました。そのおかげで、私自身も書くことの教え方をどう改善すべきかをより深く理解できました。

生徒とのカンファランスには、思いがけない結果として、クラスの文化が大きく変わるという効果もありました。今振り返れば、生徒一人ひとりと話し、それぞれの必要に耳を傾けることが互いの関係性を良くするのは当然のことですが、教師が日々直面する多くの仕事の中では、数分間のつながりがもつ大きな価値を忘れてしまいがちです。

 

出典・https://www.edutopia.org/article/5-minute-writing-conferences

(この記事の執筆者Jori Krulder先生は20年の経験をもつ高校英語教師で、他の教師との交流を通じて授業への意欲を新たにしてきました。サンディエゴの都市部で4年間英語と読むことを教えた後、北カリフォルニアの農村部の高校に移り、チコ州立大学で教育学の修士号を取得しました。彼女の生徒たちは、よく読み、よく書き、よく話し合います。最終的な目標は、生徒が自立して「理解し」「理解してもらえる」力を身につけることです。

詩や文学、生徒の学び、教師の成長を支えることへの強い関心から、EdutopiaTeaching Channelなどに記事を書き、文学教育の書籍にも章を寄稿しています。)

 

★欧米では、書くことを教える教師(writing teacher)と読むことを教える教師(reading teacher)が別々に存在する場合があります。いずれも、生徒がたくさん書いたり、読んだり、そして書いたり読んだりしていることに的確なコメントを受け取ることで書く力と読む力が伸びる最大の要因であることを理解しているので、ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップを実践している教師が多いです。日本では授業時間内に、生徒たちがひたすら書いたり、読んだりする時間を確保しているでしょうか?

 

★★「作文の振り返りとカンファランスへの準備」のプリントに含まれている質問:

・評価基準で最高点を取るために必要な作文の要素は何ですか。自分の言葉で書いてください。

・自分の作文にどんな点数を付けますか。その点数を選んだ理由を、評価基準の言葉を使って説明してください。

・作文を改善したい点を挙げてください。

・作文の中で、あなたが最も誇りに思う部分はどこですか。理由も書いてください。

・作文の中で、教師に手伝ってほしい重要な改善点を一つ挙げてください。

・修正のための計画は何ですか。(これはカンファランスが終わるまで書かなくていいです)

2026年7月3日金曜日

本(Book)。頭(Head)。心(Heart)。

  6月8日の「合い言葉は、ノーティス・アンド・ノート(そこに注目して! そこにちゃんとメモして!)」で触れたように、ビアーズとプロストは、生徒が理解するための方法を使わざるを得なくなる、本のなかの「道標」として「予想外の行動(対照と矛盾)」「アハ体験」「難問」「賢者の言葉」「繰り返し」「回想の場面」の六つを提案しました。この著者たちは、米国のさまざま地域の学校を訪ねてこうした「道標」を使ったワークショップを行い、本や文章を読むことと理解について、教師たちや子どもたちと議論しました。その経験をもとにまとめたのがDisrupting Thinking(『思考を創造的に破壊する』)という本です★。

 彼女たちは、子どもたちが学年が進むにつれて、次第に自分がなぜ読むのかということを考えず、あるレベルに到達することや試験に合格するためにしか読まなくなる傾向があることに気づきます。読むために適切なマインドセットをもたせる、つまり「何を読むのか」だけでなく「なぜ、いかに読むか」ということをもっと考えさせなければ、活字離れ(aliteracy)が拡大するという危機感を抱きました。読むために適切なマインドセット、とはどのようなものか。
 ビアーズらは「読むことの最終目標」を「私たちが今ある以上のものになることである。今以上によくなることであり、自分のわからないことをわかるようになることである」と考えたのですが、どのようにすればそれを子どもたちに伝えることができるかということを、読むことと理解についてのワークショップを繰り返しながら試行錯誤します。
 子どもたちに「読む時には、本や文章の言語的、知的、感情的な側面について考えてほしい。つまり、責任を持って、積極的に読んでほしい」などと言っても反応がなく、もう少しやわらげて「読むことはあなたを変えられます。世界を広げてくれます。しかし、読む時には、自分の反応について考え、本や文章の内容についても考えなければなりません。そして、これが、あなたを思いやりのある人間にするためにどう役立つか自問自答してください」と語っても、あなたたちはいつまでここにいるのと返され、シンプルに「今日は文章の内容について考え、同時にその内容に対する自分の反応についても考えてください」と言うと、これは評価の対象になる授業なのかと言われる始末。
 こうした子どもたちのやりとり経て、彼女たちは「今日、読む際に、本の中身、頭のなか、そして心のなかについて考えてください」と伝えることにしたのです。ビアーズたちが黒板に、「本。頭。心。」と書いたその後の子どもの様子は次のようなものでした。

「本。頭。心。一人の少年が繰り返した:「本。頭。心」別の生徒が尋ねた。:「頭とは何ですか?」 私たちは「自分に『何にびっくりしたか?』と問いかけてみてください。そうすれば、本のない余蘊いついて考えながら、既に知っていることについても考えることができます」と説明した。彼は頷いて「すごい!」と答えた。別の子どもが「心に関する質問とは何ですか?」と尋ねた。私たちは「『これは私に何を教えてくれたか?』や『これは私の感じ方をどう変えるか?』と試みに自問してみてください」と答える。さらに頷きが返ってきた。私たちは息を飲んだ。
 部屋は静まり返った。私たちが黒板に問いかけ文を書き加えるあいだ。子どもたちはこの三つの言葉を凝視していたのである。そして彼らは肩をすくめて「わかった!」と言った。そこに確かに書かれていた。三つの言葉。本。頭。心。私たちの考えたフレームワークが、子どもたちに、テクストから情報を抽出するだけでなく、もっと深く考える必要があることを思い出させたのである。
フレームワークの本、頭、心とは何を意味するのだろうか? これは、本や文章に注意を払い、それについて考え、そして読むことによってどのように感じたり、どれだけ変化したりしたか(たとえわずかな変化でも)に注意を向ける必要があることを示す、短い簡潔なフレーズである。」★★

「短い簡潔なフレーズ」で読むために必要なマインドセットを子どもたちに伝えることができたというエピソードです。英語で本はBook、頭はHead、心はHeart。読むために必要なマインドセットのことを、彼女たちはこのそれぞれの頭文字を使って「BHHフレームワーク」と名づけました。次のようなものです★★★。

1 「本のなか」に何があるか
・この本は何について書いてあるか?
・その話を語っているのは誰か?
・筆者が私に知って欲しいことは何か?
2 自分の「頭のなか」に何があるか
・何にびっくりする?
・自分が既に知っていたことをこの筆者はどう考えている?
・自分の既に知っていたことに反対したり、賛成したりする部分はどこ?
・自分は何に気づいたか?
3 自分の「心のなか」に何があるか
・自分自身について何を学んだか?
・自分がよくなることをこの本はどのように助けたか?

 「「本のなか」に何があるか」「自分の「頭のなか」に何があるか」「自分の「心のなか」に何があるか」という三つの大きな柱のそれぞれについて「問いかけ文(prompt)」が設けられています。もちろん「本」には、長編物語だけはなく、短編の物語や詩歌も含まれますし、ノンフィクションの本や文章も含まれます。一つひとつの問いかけ文に対する自分の回答をメモして、ペアやグループで出し合って、何を手がかりにそういう答えになったのかを話し合ってみてはどうでしょうか? 「本のなか」に何があるのかということについて話し合っていたのに、いつのまにか「頭のなか」のことを話題にしているということがあるのかもしれません。はじめから「心のなか」に何が生まれたのかを話題にするのが好きな人もいるでしょう。そんなふうに三つの枠組みの境目は重なり合うこともあります。でも、今自分が語っていることは「本」「頭」「心」のいずれの「なか」のことを意識して確かめ合うことで、私たちが「何を」読んでいるのか、「どのように」読んでいるのかということを共有することができます。それが読むために適切なマインドセットを手に入れるということなのです。

★Kylene Beers and Robert Porbst(2017) Disrupting Thinking: Why How We Read Matters, Scholastic. 山元隆春著『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン』(溪水社、2026年)の第3章第2節で論じています。
★★Kylene Beers and Robert Porbst(2017) Disrupting Thinking, pp.62-63山元隆春著『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン』(溪水社、2026年)116~117ページ
★★★Kylene Beers and Robert Porbst(2017) Disrupting Thinking, p.63山元隆春著『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン』(溪水社、2026年)118ページ

2026年6月26日金曜日

二極化する子どもたちの言語環境

(写真は梅雨の北八ヶ岳です。深い苔に覆われて神秘的な空気に包まれます)


 今の子どもたちが生きる世界の言語環境は、大人の想像を超えて激変しています。長年、小学校教師として多くの子どもたちを見守ってきましたが、近年その変化を肌で感じずにはいられません。今日は、教師としての切実な視点から、現在進行形で起きている問題について書き記したいと思います。


(静かな曇り空の白駒池)



無法地帯になるSNSのオープンチャット


 今や、どの学校でもSNSトラブル(主にLINEをイメージしています)というのは目新しいものではなくなりました。都心部、郊外に限らず、どの子どももSNSトラブルに巻き込まれる可能性をもっています。なぜなら、ご存知の通り、子どももスマートフォンを持ち、使っているからです。友達とのやり取りの中で、いい使い方をしていれば、問題になることはありませんが、人間関係の作り方や自己表現の仕方が未熟である子どもたちですから、当然、そのSNS上でトラブルは起きます。それが、1:1の関係で問題がこじれるのであれば、子どもにとっても直接あって謝ったり、問題を解決したりする道が残されているでしょうが、グループチャットのように多数の友達が利用している場になってくると、トラブルは閉鎖的で排他的な空間になり、意図的に人を傷つけようとする無法空間へと変貌してしまいます。そこに、良識を持った経験のある大人は存在しませんから、それは当然のことです。


 高校生の我が子も当然のことながら、SNSを使っていますし、小学校教師という立場上、児童がどのような言葉を使ってSNSの閉鎖空間の中でトラブルを起こしているのか、少しはわかっているつもりです。少し例を挙げてみましょう。


 まず私が目を引くのは、単語、いや、単語でもない文字列です。「すご」「きしょ」「しね」「おつ」「やば」「えも」「えぐ」。2文字で表現されているものを挙げてみました。2文字で限定することはないですが、SNSのチャットの性質上、短文、もしくは単語でやり取りをすることが非常に多いです。たまに長い文章が入っていると思ったら、悪ふざけで何かのコピー&ペーストであったり、または長い文章を打ったことに対して謝罪の言葉が入ったりします。卓球のように即時即応的なやりとりを是とすることが基本マナーとして底通していて、読むことで相手の時間を使ってしまうことはタブーとされている風潮があります。読むことに時間を使って、相手への反応を返すのに30秒かかってしまうことは、強いて言えば、マナー違反なのです。


 また、スタンプや画像なども、学齢の低い子どもたちでも、駆使しています。たとえば、相手を攻撃し、傷つけることの意味を含んだ画像などを、どこからか持ってきて相手に送ったり、「死」を連想させるような画像を送りつけたりする事例もあります。言葉と違って、画面上に占める面積も大きく、視覚的に相手に伝わりやすいので、相手に与えるインパクトもテキスト以上のものがあります。


 言葉や画像の中には、当然のことながら、卑猥な言葉が入り込んできたり、人権上問題のある言葉を意図的に使ったりと、荒れ放題の状況となります。また、設定によっては、グループチャットに相手を無理やり引き込むということも可能です。そのグループに所属したくなく、グループチャットを退出したとしても、第三者に無理やり引き入れられてしまうこともあります。手の込んだやり口になってくると、相手のアカウント名と画像をそのままコピーして、あたかも相手かのような素振りをして、グループチャットに参加することも可能です。


 短文でのコミュニケーションやスタンプや画像、いろいろな設定等、家庭生活や社会生活とはかけ離れたコミュニケーション環境が、子どもが使っているSNSの中にはあります。規範を作る良識のある大人がいなければ欲望や感情が垂れ流しになる場になり、そこに悪意や憎悪が混じることで、人が傷ついていても何も感じないような、自分たち中心の混沌とした空間が形成されることになります。これが、現在のオープンチャットの現状ということになります。


(繁茂する苔たち)



「持たせなければいい」はできるか?


「持たせなければいい」という意見は当然あると思います。保護者同士で連絡先を共有している子ども同士で行うのであれば、親がSNSのやり取りを確認し、経験不足の子どもが発信してしまったことに対して、保護者が直接子どもを指導し、謝罪などの言葉をかけられる環境が整っているのならば、リスクは少ないと言えますし、それができないのならば、「もたせなければいい」という第三者の言葉はごく自然なものです。

 しかし、そう簡単でもありません。家族の形や家庭のあり方が複雑化すればするほど、親と子どもが連絡をとりあう手段は難しくなっていきます。保護者が遅くまで仕事をしなければならない、子どもが遅くまで習い事や塾に行かなければならないなど、家庭や地域によって事情は様々でしょうが、SNSを通じて保護者と子どもがコミュニケーションをせざるを得ない状況がますます増えています。誰からかかってくるか分からない固定電話では不安ですし、保護者も使い慣れているSNSアプリでしたら、子どもにすぐに使い方を教えることできます。こうやって、子どもたちはスマートフォンを与えられ、最初は保護者の指導の下、SNSデビューを果たしていきます。しかし、そんなに忙しい保護者や子どものスマートフォンの使い方を、保護者が手厚く指導することなどできるのでしょうか? 「もたせなければいい」という議論は、インフラ環境として出来上がってしまったSNSを使わせないことであり、生活自体が成り立たなくなってしまうほど、子どもたちの生活に根付いているのです。


(高見石小屋のランプ)




二極化する言語環境


 述べてきたように、SNSを通じた家族や友達同士のコミュニケーションが主体になればなるほど、手には常にスマートフォンが握られている環境が出来上がり、大部分の言葉の学習はスマートフォンから行われることになります。たとえば、現実に、動画サイトから刺激的な言葉を一日に3・4時間以上も視聴する児童がいます。心無い言葉や卑猥な表現などを、何の制約もないまま、一日に3・4時間以上自由に視聴する子どもは、そうではない子どもと全く異なる言語環境に身を置いていることになります。

 しかも、低い学齢の子どもは、周りの子どもたちもみんなそのような言語環境で暮らしていると錯覚します(実際に、地域によっては、生活環境が似たような状況になることもあるでしょう)。つまり、学校生活の中でも、そのような刺激的な言葉を相手に浴びせかけてしまう子どもが出てくることになります。

 しかし、良識ある保護者は、スマートフォンの使用の制限や禁止をしたり、動画サイトを閲覧できないように設定したりと、いろいろな手段を使って、言語環境を守っています。家族や友達同士と直接やりとりをするような顔の見える関係の中で育った子どもは、保護者が特殊な言葉を使うことのない限り、それほど、学校生活から逸脱した言葉を使うことはありません。一般的な保護者であれば、大なり小なりSNSなどの影響を理解していますので、「最初は」子どものスマートフォンの使用に制限をかけています。

 しかし、刺激的な言葉を動画サイトから浴びるように聞いている児童は、何の躊躇もなく、学校生活の中で友達に自分のもっている特殊で「いけてる」語彙を、そのような言語環境にいない児童にぶつけてしまいます。言い放った後は後の祭り。「そんなつもりで言ったわけではなかった」「なんでそんなにひどい言葉を言われたのか分からない」そんな言い分が並ぶことになります。同じ言語環境にいない子ども同士の加害と被害の関係は、同じ言葉でもそれに対する受け取り方が全く違うため、「傷ついた」「傷つけられた」の感覚のズレが関係悪化の引き金として強く働いてしまいます。


 現在の教室に通う児童の言語環境は、保護者の意識やスマートフォンの使用度などによって、二極化、または多様化しています。たとえば、聞くに耐えない動画で獲得した刺激的な言語で育つ子どももいれば、そのような言葉とは触れさせないよう「箱入り娘」のように育てられた子どももいます。そのような全く違う言語を使う者同士、保護者同士で、「傷つけられた」「傷つけられてない」という仲介の役割を担わなければならない先生たちは、手前味噌ながら、本当に大変な立場に立っていると言わざるを得ません。


(奥深い森に苔むす)



責任は誰にあるのか? 責任を持つことができるのか?


 子どものSNSの使用に責任を持たなければならないのは、言わずもがな、その保護者です。ですから、SNSで子どもが相手を傷つけたり、違法行為を行ったのならば、その責任は保護者にあり、保護者が謝罪をしたり、自分の子どもを指導をしたりする責任を負うのは当然のことでしょう。

 しかし、当の保護者はそれを行うことができるのでしょうか? アカウント名と写真から友達の誰かを把握するのは、保護者一人では至難の業です。話したがらない自分の子どもから、全く関係のないキャラクターの写真が貼り付けられている画面を見せられても、保護者が誰が誰だか把握するだけでも至難の業です。また、先ほどから述べているように、使っている言語が保護者とも違う言葉なので、それを読み解くだけでもとても時間と労力がかかる作業になります。聞いたことのない言葉と、意味が分からない表現の様式、画像とスタンプで、オープンチャットの中はぐちゃぐちゃです。

 さらに深刻なのは、保護者自身も他の保護者と繋がりを持っておらず、アクセスができないということです。習い事が一緒とか、そのような理由がなければ、他の保護者と連絡を取る手段は皆無です。個人情報保護という名目で、連絡網はもう20年前から消えました。保護者が集まらない懇談会では、当然そのような役割を担うことはできません。保護者にとっても、親類縁者以外で子どもとつながっている大人は、先生しかいないのです。

 そんななかで、保護者は本当に責任をもつことができるのでしょうか? それ以前に、責任を持つとは、何を指す言葉なのでしょうか? 被害者家庭は、神妙な面持ちで学校に相談に来て、「学校の仕事ではないと理解しているのですが、うちの子が学校に行きたくないと言っているので」とつぶやきます。そして、「大事(警察や弁護士への相談)にしたくない」と加えるのです。

 加害側に立ってしまった保護者はこう言います。「うちも被害者です。うちだって言われてますから。」言葉はその通りで、加害者も被害者も、その一瞬を切り取ればそのような立場になるだけで、オープンチャットの文脈の中では、加害者と被害者が一瞬で切り替わっていく現実があります。傷ついた側が正義とするならば、正義はいくらでも存在してしまうのです。

 しかし、元をただせば、スマートフォンやSNSを手渡したのは、加害者も被害者も保護者です。その保護者たちが、先生を頼って学校に駆け込みます。このSNSトラブルを「大事」にすることなく処理することができるのは、もはや先生しかいません。しかし、この先生も、一歩対応を間違えれば、「いじめを見過ごしている」「加害者側に立っている!」「なぜ個人の問題に踏み込むのか!」となります。

 これがSNSトラブルの構造。先生が潰れてしまいます。 責任は誰にあるのでしょうか? 確実に言えることは、先生に責任はありません。

(森の奥に佇む地獄池)



SNS規制に賛成


 世界の各国が子どものSNS利用に制限をかける動きをとっています。保護者もしっかり見守れない、先生も潰れてしまう、言語はバラバラになり、無法地帯が次々と生まれてしまうこの状況で、私自身も私の家族もSNSを利用していますが、しっかりと賛成の立場を取りたいと思います。


2026年6月20日土曜日

「小説を探す」という行為

  エリンさんは『理解するってどういうこと?』の第7章で「作品構造」に触れて次のように述べています。

 「作品構造は、単語、文、作品全体に現れています。フィクションにおいては、典型的には、何らかの設定場面におかれた登場人物たちと出会い、何らかの対立や争いに見舞われ、そして一連の出来事を経てある種の結末に至ると予測します。いわゆる「物語文法」によって、私たちは予測することができるのです。しかし、もし書き手がフラッシュバック(回想)やファストフォワード(未来へ飛ぶ)といった作家の技を使ったときは、それによって引き押される時間変動のせいで混乱することがあります。これは、出来事は時間順におこるものだということに私たちが日頃から慣らされているためです。また、筋が複雑になればなるほど、予測も少しずつ難しくなっていきます。」(『理解するってどういうこと?』263ページ)

  「予測」が難しくなるということは作品理解の困難さが増すことでもあります。しかし、。「予測」が難しくなるということは、往々にして作中人物の予想外の言動に出会うことになり、そこで立ち止まって考えることは読者が理解するための方法のいくつかを使うチャンスにもなります。

 『ゲームの王国』や『地図と拳』の作者・小川哲さんの『言語化するための小説思考』(講談社現代新書、2026年)を読みました。小説創作技術について書かれた本かと思って手に取ったのですが、理解のためのヒントになる言葉がたくさん見つかりました。

 小川さんのこの本が面白いのは、一貫して小説を作者と読者とのコミュニケーションと捉えているからです。もちろん作家としての経験に基づいて書かれた本なのですが、逆向きに考えてみると、小説に限ってのことではありますが、理解の種類の様々を示してくれた本であると言うこともできるでしょう。

たとえば、本書の「「文体」とは何か?」と題された章で、「情報」の「順番」こそが「文体」を規定すると言い、「「読みやすさ」とは「視点人物と読者の情報量の差を最小化する」ことによって感じられるものなのではないか」(50ページ)と言って、そのように主張する理由を次のように述べています。

「現実世界の僕たちの認知と思弁はひどく主観的で、そのまま文字にしたところで「私」と読者の情報量があまりにも大きく、とてもじゃないが読むに値するものにはならないだろう。そもそも文章は三次元の現実世界(と脳内の思弁)を一次元なリニアな記号に置き換えたものであるので、情報の順番にはかならず恣意性が伴うものなのだが、その恣意性をどう扱うかという点に「文体」の根底が生まれるのではないか。(『言語化のための小説思考』50ページ)

  小説をはじめとした文章は、例外なく「つくりもの」なのですから、「情報の順番」もそれを書く人の判断によります。「視点人物と読者の情報量の差を最小化する」ことで、その小説は多くの読者を獲得したことになるわけです。

 本書後半の「本気で小説を探しているか」という章では、次のように書かれていました。

 「「○○という作品みたいな表現がしたい」とか「△△という言葉を使ってみたい」とか、そういう欲求は、異なる人生を歩んできた個人にしか実現できないはずの「作風」を阻害する要因になり得る。「小説には正解がない」と僕が考えるのは、それぞれの作者が自分の言葉を、自分のやり方を探究していく過程にしか小説は存在しないと思っているからだ。

小説から発生した小説は、小説を超えることができない。 いい小説は、小説を超えた先の何かを与えるはずで、このメカニズムを見つけることが僕にとって「小説を探す」という行為でもある。 とはいえ、読者はそれぞれの解凍プログラムを持っているので、作者が提示した作品が、最初に作者が表現しようとした「人間の認知」と異なるものを喚起することは往々にして起こり得る。 この現象を僕は「誤読」と呼んでいて、多くの人に支持される作品はこの種の「誤読」を誘発する傾向にあると思っている。 「私(作者)の物語」が、「私(読者)の物語」に転換され、作品が読者の人生と結びつき、本来のポテンシャルを超えて受容されていく現象だ(「誤読」を誘発する一つの鍵は、多くの人々の人生に存在しているが、まだ誰も名指ししたことのない体験を言語に圧縮することにあると考えている)」。(『言語化のための小説思考』146ページ)

  本書のもとになった『群像』誌の連載は「小説を探しにいく」と題されていたということです。それだけに「小説を探す」ということは彼の言うところの「小説思考」の核心にあたる行為だと思われます。小川さんにとって「小説を探す」とは「小説を超えた先の何かを与える」「メカニズム」を見つけることです。たとえば夏目漱石の「こころ」に感銘を覚えて、「こころ」みたいな表現がしたいと考えて小説を書くことは、「こころ」という小説を絶えずどこか「正解」として意識しながら書くことになり、その書き手が「自分の言葉を、自分のやり方で探究していく過程」を殺すことになってしまいかねません。

 小川さんの本からの引用文の後半は読者の読書行為について書かれています。 彼が「誤読」と呼ぶ行為は、「こころ」みたいな表現がしたいと考えて書くのとは正反対の営みです。 作者の「物語」を読者の「物語」に「転換」するということは、作品と読者の人生を強く結び付ける営みだからこそ、「まだ誰も名指ししたことのない体験を言語に圧縮する」ことになる、つまり、その人生を送っている読者にしか持ち得ていない体験を言葉で表現するということになるわけです。

小川さんはまた「出力された作品の質でAIが人間と肩を並べ、あるいは先行していく未来は遠くない将来に生じると感じているが、作品から世界に接続していく過程には、現実世界を生きてきた人間の持つ強さが残っている」とも書いています(『言語化するための小説思考』144ページ)。「小説を探す」という行為は、本や文章を自分の人生に結びつけながら、自分にとって大切な意味をつくり出ために大切な、人間的な営みなのです。

 

2026年6月12日金曜日

視覚的な広がりを複合的に楽しめる『大人も読みたいこどもの本200』(マガジンハウス2025年)

最近、図書館から借りて来た『大人も読みたいこどもの本200』(マガジンハウス2025年)は、「教室内閲覧」にして教室に1冊あるといいなと思いました。

まず、全てのページがとにかくカラフルです。レターサイズぐらいの大きめの本なので、持ち運びには重たいですが、ふんだんなカラー写真があるからこそ、その魅力がよくわかる本や情報をたくさん知ることができます。

例えば、以下のような本の紹介には、写真の強みがしっかり活かされています。(おそらく文章だけで説明されても、ほとんどイメージはできないと思います。)

・京都の職人技が可能にしたジオラマ本『360°Book 富士山」(144ページ)

・鏡の仕組みを利用して絵本に虹をかける『ふしぎなにじ』(120ページ)

・美容室アシスタントになって紙で髪を自在にという、工作絵本『ヘアーサロンチョッキン』(123ページ)

・田中達也が見立て、『くみたて』てゆく世界(30-33ページ)

・畳んでも広げても楽しいジャバラ絵本の傑作『魚がすいすい』(131ページ)

・アルファベットが次々に飛び出す、仕掛け絵本『ABC3Dポップアップ見本帖』(148ページ)

また、本に関わる<場所>の情報もあります。

例えば、名作『スイミー』の世界を体験できるという「アクアマリンふくしま」(16-19ページ)や、「絵と言葉の世界を体感」できるという「プレイミュージアム」(74-95ページ) 。

「プレイミュージアム」の中の「エルマーのぼうけん展」の詳しい説明を見ていると、フィクションとノンフィクションがいい形で交差しているように思いました。

つまり、エルマーの冒険に夢中な子どもにとっては、エルマーというフィクションをきっかけに、ミュージアムの「説明文」という、異なるジャンルの文を読めそうです。

「逆も然り」で、この本のカラフルな写真や説明に惹かれて「エルマーのぼうけん展」の記事を読んだ子どもは、エルマーのぼうけんシリーズを読んでみようと思うかもしれません。

加えて、こども図書館船<ほんのもり号>(35-37ページ)や<こども本の森>(38-41ページ)の写真や記事をみていると、本に関わる場所が、休暇中に訪れたい目的地になるかもしれません。

本に関わる場所だけでなく、作家やイラストレーターを含め、特定の本に関わる情報も豊富です。ムーミン/トーベ、『魔女の宅急便』/角野栄子、ショーン・タン/『アライバル』、『ハリー・ポッター』、ヨシタケシンスケ、藤子・F・不二雄、『長靴下のピッピ』、ミャエル・エンデ/『モモ』、『クマのプーさん』、『くまの子ウーフ』等々、パラパラみていると、子どもたちにも馴染みのある本や作家も多そうです。

作家や作品についての説明も、「説明文を先に読んでから、実際の本を読む」、「本を既に読んでいるので、その説明文を興味を持って読む」、そのどちらにも入り口が大きく開いている印象です。

また取り扱っている本の難易度の幅が広いので、「以前、読んだけど読み直してみたい」とか「ちょっと文字は多いけど、"これから読みたい本リスト"に入れておいて、いずれチャレンジしてみたい」等の反応も期待できそうです。

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(おまけ: 私の反応)

私は「子どもの本ベスト〇〇」系を読むのが大好きですが、私が持っているほとんどの本は、カラー印刷ではなく、文字だけで説明されています。小さめ、軽めの本が多く、持ち運びも楽で、そういう本に慣れ、文字情報中心の本の方が心地よい私には、『大人も読みたいこどもの本200』は、読み慣れないタイプの本でした。今回、私にとっては、ジオラマ本やジャバラ絵本を知っただけでなく、馴染みのない本の作り方に触れた時間でもありました。

例えば、『大人も読みたいこどもの本200』には、「贈る絵本を色で選ぶ」ということで、青、赤、黄色、黒のページ(96-99ページ)がありました。「色で絵本を選ぶ」感覚も、「色で絵本を仕分ける」感覚も、私には馴染みのない不思議な基準で、あまりしっくりきませんでした。この「しっくりこない」という感覚を体験できたのも、よかったように思います。

もちろん、文字情報もあるので、十分に楽しめました。ちなみに、青のページの中の一冊『お日さま お月さま お星さま』には、「カート・ヴォネガットの唯一の絵本作品」(96ページ)と説明があり、私はヴォネガットと絵本のギャップに興味津々です。黄色のページには、『アンディ・ウォーホルのヘビのおはなし』(98ページ)が「ウォーホルがイラストレーター時代、顧客であった皮革製品会社のために描いたイラストから生まれた絵本」と紹介されていて、「こんな本もあるんだ、読んでみたい」と思いました。

文字情報が中心の本ガイドによく登場しそうな本も、表紙その他のカラー写真付きで登場しています。表紙の写真がカラーで掲載されていると、すぐに思い出せるので助かります。

比較的長く読み継がれている本も多めで、「『ちいさいおうち』 は、私が小さい時に読んだ本!出版年は1965年!」(170-173ページ)」とビックリしたりもします。

知っている作家や本が出てくると嬉しくて、『ぼくを探しに』が紹介されているところで(195ページ)、『続ぼくを探しに ビッグ・オーとの出会い』があることを付け加えてくれるといいのに」とか、「レオ・レオニの絵本を7冊も紹介するなら(15, 17ページ)、『コーネリアス たってあるいたわにのはなし』も捨てがたいと思うけど」等、勝手な会話(というか、本に対しての一方的な話かけ)も楽しめました。

2026年6月8日月曜日

合い言葉は、ノーティス・アンド・ノート(そこに注目して! そこにちゃんとメモして!)

「大造じいさんとガン」(椋鳩十)の授業(小学校5年生)で、おとりのガンを救うために残雪がハヤブサに立ち向かった場面で大造じいさんが残雪に向けていた銃を下ろしてしまったのはなぜか、いう質問をすることはよくあります。「どうして(なぜ)大造じいさんはそのまま撃たずに、銃を下ろしてしまったのでしょうか?」と。文学作品の登場人物の行動の解釈ですから、必ずしも正解があるとは言えません。また、このようなことを授業で子どもたちに質問しても根拠が見つからないと答えてくれないことが多いという指摘もあります。

 しかし、銃を下ろしたわけですから、大造じいさんが残雪のことを単なる獲物や敵と見なせなくなったことは、この行動からだけでも推し量ることができます。大造じいさんと残雪との関係(もちろん大造じいさん側から一方的ということではありますが)が大きく変わったことを示している箇所と捉えることもできます。ではどうして変わったのだろう、とか、あぁ、そういえば最初の年に釣り針を避けてタニシだけを食べられて大造じいさんはその知恵にうなっていたね、とか、あれこれ考える余地のある部分です。推測(推論)して文章を深く理解するために私たちはそういうことをします。
 先生からの質問ということになると、子どもは身構えてしまいますし、正解は何だろうということが頭から離れません。だから答えにくくなります。しかし、自分でそういう問いをつくることができるような箇所を探して、先ほどのような問いをつくって考えることができれば、それは理解するための方法を使っていることになり、読書家と言われる人がやっていることと同じことをしていることになります。
 理解する行為の研究によって明らかになった、優れた読み手が行う理解するための方法はcomprehension strategiesと呼ばれ、研究者は「理解方略」という言葉にしています。もともとのstrategyという言葉自体が軍事用語なのですが、目的をもったメタ認知的行為を表すのに効果的なので、理解行為についてもこのような言葉が使われました。
 しかし「うまく理解するためにはこんな方法があります」と言われ、それを学んで覚えたとしても、とくに本や文章の理解については、その方法をどこで使えばいいのかわからなければ、理解は深まりません。
 米国のロバート・プロストとカイリーン・ビアーズは本や文章を精読する時に理解するための方法を使うべき箇所のことを精読のための「道標(signposts)」と呼んでいます。本や文章を読む際に読者が丁寧に注意を払った方がいい箇所のことです。Signpostsですから「道路標識」でもいいのすが、短い方がいいので「道標」と訳すことにしました。
「精読はテクストに対する綿密な注意、すなわち読者の重要な経験や思考や記憶、他の読者の反応や解釈、そしてそうした要素の間の相互関係に対する綿密な注意を世簿起こすものでなければならない。これらのうちのどれかにのみ注目して、他のものをおろそかにするのは愚かなことだ。私たちが提案したいのは、どのテクストのどの表現も、不合理なもののだと思って読むということである。私たちが望んでいるのは、たとえば、そのテクストの予想外の要素に気づいて、少し時間をとって書き、慎重に考えて、再読し、分析しということなのである。つまり、丁寧に読むということなのだ。」★
 引用部分の「テクスト」は、「本や文章」と置き換えても意味が通じます。「大造じいさんとガン」を精読するためには、そのきっかけとなる箇所を見つけて、そこで自問してみるとこの作品を丁寧に読むことができるという考え方です。
 ビアーズとプロストは米国の小学生から高校生が授業のなかで読む可能性のある児童文学やYA文学の本を読み返して、精読のための「道標」になる箇所はないかと探しました。条件は、読むスキルが十分でなくあまり熱心でない読者でも見つけることができる、いろいろな本や文章にくりかえし表れる、質問をする・予測する・視覚化する・つながりを見つける・推測する、といった、理解するための方法のどれか一つを実行する手助けになる、です。
 例えば、上記の「大造じいさんとガン」の大造じいさんが銃を下ろした箇所のような、それまでの登場人物の言動とは対照的で矛盾していて、読者の理解や期待を裏切るところを「対照と矛盾(対照と矛盾)」と名づけました。読者にとっては「予想外の行動」となるところでもあります(実際にビアーズとプロストが実例として扱っているのはラングストン・ヒューズの「ありがと、おばさん」という掌編小説です。★★)。
 二人が提案しているのは、「予想外の行動」(読者の期待と登場人物の行為との鋭い対照、それまでの行動やパターンと矛盾)と、「アハ体験」(ある登場人物が、自己・他者・周囲の世界に関する自分の行動や認識を変化させた何かを自覚すること)、「難問(難題)」(ある登場人物が内面でもがかざるをえなくなるような問題)、「賢者の言葉」(年長の、賢い登場人物が、中心人物の人生に関して提供するアドバイスや深い思考に満ちた言葉)、繰り返し(その小説の多くで繰り返し使われる出来事、イメージ、特定の語彙)、回想の場面(物語の進行を中断して、登場人物が回想する場面)、の六つ★★★です。
 ビアーズとプロストの本のタイトルはNotice and Note。即席に訳してみるなら「そこに注目して! そこにちゃんとメモして!」とでもなるでしょうか。原語はとても語呂がいいので、日本語もそれに匹敵するようにしたかったのですがうまくいかず、この文章のタイトルもとりあえずそのまま「ノーティス・アンド・ノート」とします。「ノーティス(注目)」とは特定の何かを優先するということです。どこでもいいというわけではありません。その本や文章を丁寧に読んで深い意味をつくり出すことのできる場所に注目することができれば、精読につながるという主張です。注目すべき箇所がどこか難しく考える必要はない。とりあえず、どんな本や文章でも、六つの「道標」にあたる場所はどこにあるか、考えながら読んでいけばいい。そしてそこに出会ったら、「核となる問い」について自分で考えたことを「ノートする」つまり書き留めていけばよい。二人の本はそのようなことを教えてくれます。
 人から質問されて答えるのなら難問になりかねませんが、自分で探し出して自分で問いを出して考えることで、本や文章の表現を深く探ることになるし、登場人物の言動を改めて振り返ってみることで、気づいていなかった側面に気づいてハッとすることもあります。その小説に描かれた世界の状況がもっと詳しくわかってきます。合い言葉は「ノーティス・アンド・ノート(そこに注目して! そこにちゃんとメモして!)」です!
★Kylene Beers & Robert Probst (2013) Notice and Note: Strategies for Close Reading, Hinemann, p.37 引用箇所は山元隆春著(2026)『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン―「対話的読み"による自他の理解と自己形成―』(溪水社)p.83。
★★ 前掲『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン』pp.88-102参照。
★★★ 同上書p.87 の表「六つの道標と核となる問い」には「道標を見つける手がかり」と見つけたら自問するといい「核となる問い」の例が示されています。