[時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿をお願いしました]
今回の投稿でどんな詩を紹介しようかと考えながらアンソロジーを読んでいて、ふと、中野鈴子さんの詩に目が留まりました。高校生の時に国語の授業で中野重治を知り、何編か小説や詩を読みましたが、妹の鈴子さんのことは知りませんでした。何年か前に、中野鈴子という詩人を知り、心を揺さぶられたことを思い出しました。洗練された表現があるわけでもなく、ただ自分の身に起こった出来事を素朴な言葉で述べているだけなのに、ずしんと私の心に響いてきたのです。
次の詩です。
花もわたしを知らない★1
中野 鈴子
春はやいある日
父母はそわそわと客を迎える仕度をした
わたしの見合いのためとわかった
わたしは土蔵へかくれてうずくまった
父と母はかおを青くしてわたしをひっぱり出し
戸をあけて押し出した ひとりの男の前へ
まもなくかわるがわる町の商人が押しかけてきた
そして運ばれてきた
箪笥 長持ち いく重ねもの紋つき
わたしはうすぐらい土蔵の中に寝ていた
目ははれてトラホームになり
夜はねむれずに 何も食べずに
わたしはひとつのことを思っていた
古い村を抜け出て
何かあるにちがいない新しい生き甲斐を知りたかった
価値あるもの 美しいものを知りたかつた,
わたしは知ろうとしていた
父は大きな掌(て)ではりとばしののしった
父は言った
この嫁入りは絶対に やめられないと
とりまいている村のしきたり
厚い大きな父の手
私は死なねばならなかった
わたしはおきあがって土蔵を出た
外はあかるかった
やわらかい陽ざし
咲き揃った花ばな
わたしは花の枝によりかかり
泣きながらよりかかった
花は咲いている
花は咲いている
花もわたしを知らない
誰もわたしを知らない
わたしは死ななければならないt
誰もわたしを知らない
花も知らないと思いながら
何年かぶりに読み返してみて、やはり、いい詩だなと思いました。作者は実業学校を卒業し、二度の見合い結婚をしたのは大正末期から昭和の初期だと推測されます。親の意向で望まない見合いをさせられることの多い時代でした。そのような時代に生きる作者の悲しみが、まっすぐに私の心に響いてきます。
何がそうさせるのでしょうか。私は、次の4つのことに注目したいと思います。
一つ目は、「~は・・・した/しなかった」「~は・・・だった/ではなかった」
という語り口です。
わたしは土蔵へかくれてうずくまった
父は大きな掌ではりとばしののしった
それは事実をそのまま差し出す語り口です。比喩をほとんど使わず、飾らずに淡々と語っています。
二つ目は、一つ目と関係していますが、感情について説明していないことです。
父は言った
この嫁入りは絶対に やめられないと
「つらい」「悲しい」「いやだ」「腹がたつ」などの、感情を表す言葉を使っていません。出来事をそのまま置いていく。そのことで、作者の感情の重みがストレートに読み手に伝わっていくように思います。
三つ目は、自分の欲求を、ためらうことなく表出する、力強い言葉です。
古い村を抜け出て
何かあるにちがいない新しい生き甲斐を知りたかった
価値あるもの 美しいものを知りたかつた,
「私は~したい」ということを、明快に言い切る姿勢に、私は作者の芯の強さを感じます。世間は何と言おうと、自分の望みを引っ込めることはしないのです。
四つ目は、第六連から第八連で表現されている、「花」との対比です。「外は明るかった」「やわらかな陽ざし」「咲き揃った花」。いずれも、明るい、前向きのイメージを伝えています。その言葉に対して、作者の「死ななければならなかった」という暗く悲痛な思いが対比されています。花が美しく、世界が明るければ明るいほど、作者の心の中の叫びは、悲痛なものとして伝わってきます。
作者は諦めてはいない、と思います。「花もわたしを知らない」というフレーズを繰り返しながら、その場に立っています。
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中野鈴子は、の1909年(明治39年)、福井県で生まれました。小説家で政治にも携わった中野重治の妹です。実業学校を卒業後、郷里で二度、見合い結婚をしますが、二度とも離婚し、23歳で、兄を頼って上京し、プロレタリア運動の影響を受けて詩や小説を発表しました。
時代背景は違いますが、飾り気のない素朴な言葉に私は打たれます。多くの人に知ってほしい詩人の一人です。★2
★1 高橋順子編 『現代日本女性詩人85』 新書館, 2005刊
★2 中野鈴子の詩は、『中野鈴子全詩集』『中野鈴子著作集』という形でまとめられていますが、いずれも絶版です。ただ、いくつかの詩は青空文庫で読めます。また、中野鈴子の詩を朗読しているサイトがあり、YouTubeで見ることができます。
