2024年3月22日金曜日

特別支援学級の作家の時間で子どもたちのベースキャンプを守る〜弘前大学の先生方の訪問記より〜

(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)


特別支援学級から見る卒業式の景色


 先日、春の風が吹く中で、本校でも6年生が笑顔で証書を受け取り、笑顔で卒業していきました。

 実は、心の中は笑顔と言い切れるものではありません。特別支援学級の子どもたちに限らず、中学校への進学というものは、強い不安を感じるものです。中学校ではどんな環境が待っているのか見通しが持てず、「先生は厳しいかもしれない」「勉強は難しいかもしれない」と憶測だけの噂話に翻弄されます。小学校でも、3月は卒業式の練習が立て続けに入り、何をするにも「小学校生活最後」という言葉で終わりを意識させられます。私が受け持っている子どもたちも、不安を強く表してしまう子がいました。学校では気丈に振る舞えるのですが、その反動で家で感情的な行動をとってしまうのです。ひときわ感受性の高い子どももいて、卒業に漂う寂寞とした空気を敏感に感じとってしまいます。

 特別支援学級は、家庭との情報共有も通常学級と比べて丁寧に行いますので、学校での「がんばり」が子どもの生活のどこで新たな歪みを生じさせているのかも把握し、「がんばり」の程度を調整していきます。「今回は1時間だけにしようか」と卒業式の練習を短く切り上げるような支援を行っていきます。例えばある子は、卒業式の練習に参加できてしまうからこそ、あとで精神的疲労の蓄積で爆発してしまうため、教師の支援の下、「がんばり」の程度を調整するということです。一方で、卒業という時期だからこそ積める経験や得られる感情もあり、それらが子どもたちを育てるまたとない機会にもなります。ですから、その子にあった取り組み方への調整を支援者は行っていくことになります。

 そんなこんなで、かれらは無事に卒業していきました。


 特別支援学級に在籍する子どもたちが卒業していく姿は、その子のこれまでの物語が凝縮されています。特別支援に在籍はしているが、交流級担任が呼名をする子ども。支援級担任が入退場に寄り添い、けれども、証書授与は(ステージの陰でサポートされながら)自分の力で受け取る子ども。このような卒業式へのそれぞれの向き合い方は、これまでの支援者がどのようにその子どもの支援を行ってきたのか、そのスタンスが顕在化しています。特別支援学級在籍児童のなかでも、それぞれに適した形で卒業していき、良い卒業式だと思いました。


弘前大学付属小学校の先生方の「作家の時間」授業参観


 卒業式よりも前の2月某日、弘前大学付属小学校の先生方が授業の参観に来てくださいました。弘前大学の宮﨑充治先生とは、以前お勤めされていた桐朋小学校で行われていたブッククラブで幾度かお会いし、久しぶりの再会となりました。また、同付属小学校の今先生と小田桐先生は、校内でも作家の時間や読書家の時間を導入しようとしてくださっているそうです。学力差のある複式学級で作家の時間にチャレンジしてくださっていて、私が行っている4年生・6年生の特別支援学級での作家の時間と教室の実態が似ています。何か学びの種がお互いに共有できたら良いと思い、ご見学していただくことになりました。


 この日の作家の時間で、子どもたちは最終出版に向けて原稿を完成させたいと思っています。本当は2月が最後の出版の予定だったのですが、大介くん(以前のブログにも登場しています)が「自分の作品をもっと出版したい!!」と懇願し、私の方が折れたので、目まぐるしい3月にも出版することにしました。年間4回の出版が5回になりました。

 出版はその頻度が多ければ多いほど、原稿が書けていないことに対する子どもの不安や、原稿を全員揃えなければならない支援者の圧力を、軽減することができます。1年に1回の出版でしたら、「〇〇さんが提出していない!!提出させなくちゃ!!」といったことを心配してしまいますが、月に1回程度出版していると、特に全員揃っていなくても、今回できた作品を紹介するスタンスになるので、提出できていない子に無理に催促する必要がなくなります。ですから、その分手間はかかってしまいますが、支援者にも子どもにも安心な作家の時間をつくることができます。


すべて会話文と擬音語の作品


 ミニ・レッスンは、私が前から気になっていた地の文と会話文の書き分けです。動画の影響が大きくて、どうしても会話文だけの物語展開になってしまう子どもが何人かいます。もともと自分以外の視点に立つことに困難さのある子どもたちですから、以前にも取り扱ったことがあるのですが、なかなか身につきません。

 エリック・カールの『はらぺこあおむし』と同氏といわむらかずおさんとのコラボ作品『どこへいくの? To See My Friend!』を用意しました。前者はもちろん地の文と会話文の両方が書かれています。後者は会話文だけで進んでいく絵本です。6年生は地の文と会話文をかき分けることができるので、こちらも教材として用意しました。

 ミニ・レッスンの内容は、宮﨑先生が書いてくださった訪問記が詳しいので、引用します。


宮﨑先生の「冨田学級訪問記」より


 はじめは「ミニ・レッスン」だ。教室の前にはモニターがあり、そこの箱状のベンチに座ってみんなが集まる。この日のミニ・レッスンは会話文と地の文について、2冊の絵本と子どもたちのこれまでの作品を使って、「だれが、なにを言ったのか」ということに焦点づけて行われた。子どもたちの作品はロイロノートに納められ、それがモニターに映し出される。

 その中で、篤志くんの作品に焦点があてられた。篤志くんの作品は絵と文で構成されているが、一部は冨田先生と一緒に文章化していっている。その物語の中に登場人物たちが武器で闘うシーンがあった。篤志くんはそのシーンを「バシッ、ぎゃー、ドス」といったように擬音語だけで表現する。冨田先生はそのページに対して、「これはだれが何でどうしたの?」といったように、動作主とその擬音を結び付けようとしている。篤志くんに冨田先生は「このまえ、だれが何をしたって書いたら、みんなから分かりやすくなったって、言われたよね」と誘いかけるが、篤志くんはそうした表現方法になかなか同意していないようだった。しかし、篤志くんが語り始めるとどの擬音がだれが、どの武器をつかった時の音なのか。彼の頭の中には物語のすべてが入っている。

 冨田先生が用意した2冊の絵本の一つは、エリック‧カールの『はらぺこあおむし』。こちらには語り手がいて、(子どもたちから「ナレーター」という言葉でした。)はらぺこあおむしの行動をその視点から語っていく。もうひとつの絵本は「 」はついていないものの、会話文で物語がすすんでいくものであった。(冨田注 『どこへいくの? To See My Friend!』です。)冨田先生は後のふりかえりで、どちらの表現方法もいいんだよということを伝えるために、この2冊を用意していたという。

 私は、篤志くんはあえて「擬音語」だけで表現しているのかもしれないと感じた。地の文が入ると、スピード感が落ちるからだ。一方、冨田先生は主語をいれることによって、文章技法としての「ナレーター」による語りを教えているというよりも、ナレーター=語り手という物語を俯瞰して語る人という認識の仕方を提示しているように思えた。物語と小説の違いはこうした語り手、客観的に自己を対象化する存在の有無にある。このレッスンは文章技法のレッスンのようだが、認識方法のレッスンなのではないだろうか。

 ここで、ミニ・レッスンは公開カンファランスのように映る。つまり、篤志くんの作品をとりあげ、それを直接の指導の対象にしているかのように見えるがそうではない。篤志くんの作品を通して、全員に冨田先生は語りかけている。そして、ミニ・レッスンにおいて、教師は提示するが技法の選択は子どもに委ねられる。冨田先生が2冊の本を用意したのはその配慮だろう



子どもが今味わっている技法を楽しむことができる時間を十分につくる


 非常に深い分析でありがたいことです。

 篤志くんは十分に能力はありますが、自分の表現とは違う技法を習得するレディネスはできていません。篤志くん自身の特性もありますし、篤志くんのこだわりでもあります。宮﨑先生の推察の通り、篤志くんはこの表現方法ができる喜びを感じとっている最中なのかもしれません。

 たとえば、幼児期の絵画表現において、スクリブルや頭足人などの特有の表現がありますが、それが稚拙だからといってスクリブルや頭足人を書く喜びを味わう時間を十分に設けず、学童期の技法を教え込むことで作品の質を引き上げようとする指導行為は、子どもに関わる専門家として間違った指導であるように思います。大きな白紙に、クレパスやサインペンで自分の腕の動きと呼応した美しい線を走らせるスクリブルは、心の解放や能動的に環境に働きかける楽しさなど、様々なよい影響があるでしょう。その子の発達段階はスクリブルを求めている可能性があります。決して良い作品を生み出したいわけではなく、良い描き手を育てたいのです。それと同じような状況が、擬音語だけの文章を書く篤志くんの中にある可能性を私は見ていました。

 けれども、篤志くんの書き手としての成長を俯瞰して見た時、その種は蒔いておきたいところです。そこで今回のミニ・レッスンを用意しました。篤志くんが強制と感じてしまうと、大変貴重な学習意欲が減退してしまう可能性があるので、無理強いはしないようにしました。その匙加減は、篤志くんと私たち支援者のこれまでの経緯により調整をしています。



大介くんの目覚ましい成長



 この後、「ひたすら書く」の中での私のカンファランス、大介くんの作家の椅子による共有がありました。


「大介くんが自分の意思で書き始めるまで 特別支援学級の作家の時間」へのリンク

https://wwletter.blogspot.com/2023/12/blog-post_22.html


 以前上記の投稿で記した大介くんは、目覚ましい成長を遂げ、今では6年生の友達に自分の作品を音読してもらって作家の椅子を行うまでになりました。大介くんが友達に読んでもらう理由は、彼が極度に「表現することへの不安」「他者評価への不安」を感じやすいということが挙げられます。それでも、友達が読んでくれている声や友達が自分の作品を楽しみ声を上げる様を、廊下から教室を覗くことで楽しんでいるという、一風変わった共有の状況が生まれています。こちらについては、またいつかどこかでまとめたいと思っています。



「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」


 その後、宮崎先生、今先生、小田桐先生とで、作家の時間のベースにあるものをご説明したり、弘前大学付属小で行われている作家の時間の様子などを伺ったりするような、ワークショップの学習会を開きました。

 その中で、宮﨑先生は次のように振り返ってくださいました。


宮﨑先生の「冨田学級訪問記」より


 竹内常一は、「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」と、子どもの居場所の在り方の変遷について述べているが、冨田学級は傷付き冨田注 そういった子もいれば、そうではない子もいます。)をもった、人からの否定的な視線にさらされ、自分を肯定的にとらえることができない彼らを受容するという機能、つまりは避難所としての機能を持ち、ここに居ていいんだという心理的安全性を確保される。その上で、表現を通じて、相互に承認される。承認されることで子どもはそこを居場所だと感じる。承認をされて、ここが居場所だという「オーナーシップ」がもてると、子どもたちは「集団で」、あるいは「個々に」企みはじめる。教室は企みのためのベースキャンプとなるのである。

 一般級では「評価」が求められ、「計画的」な授業が求められる。特別支援学級はそういう意味では今の教育の「エアポケット」なのかもしれない。

 しかし、冨田先生が「評価」していないのではない。「評価」は一般的に、子どもを数値化、ないしは文章の中に押し込める。それは子どもや教師のためではなく、第三者のために「客観的」(ほんとうに客観的かどうかは問われず)に評価するのである。

 冨田先生は子どもに沿いながら、多面的に、多様に、「アセスメント」をしている。本来、教育的な評価とは子どもを励まし、どこにいるかを示し、自分自身が自分のことを評価できるようにするものであろう。

 冨田先生は、アセスメントを通して、その子にそって「計画」をさぐっている。こうした力はおそらく「単元開発」の中で培われた教材=教育内容、あるいはそれを支える学問‧文化への深い洞察もあるだろう。また、特別支援で求められる障害理解や認知の理論も支えになっているのではないかと推察する。しかし、それよりも、目の前にいる子どもの「現し」をどう読みとるか、それをおもしろがっている冨田先生がいて、それが子どもたちを自立的な学習者になるよう励ましているように感じた。



コンフォートゾーンとなる「ベースキャンプ」をつくる


 過分な言葉を頂き恐縮ですが、評価(アセスメント)をして子どもの「居場所」をつくることについて言及してくださり、その部分を引用しました。


 自尊感情を回復させることも私たちの大きな役割の一つです。系統主義的に教科書会社や教師が立案した計画通りに資質、能力を身につけさせていく動線に乗ることができなかった子どもたちが、より経験主義に寄った学習環境に身を置くことで、基本的自尊感情を回復させていくことができるのが、特別な教育課程を編成することができる特別支援学級の強みであるように思います。

 しかし、ご存知の通り、子どもたちは、評価の刃にさらされることが多く、それにより傷ついています。数字はもちろんのこと、文章でもその可能性があることは宮﨑先生のご指摘のとおりです。

 一方で、数字や記号では測れない人間味のある学習評価を行えば、子どもは、嬉しくなり、やる気になり、次のマイルストーンを見つけることができるものです。適切な自己評価、温かな他者評価、心理的安全のもとで交わされる相互評価で、自分の表現を受容し、自分のペースでさらに高みを目指すことができるはずなのです。わたしたち支援者は、子どもを傷つける評価を、子ども理解から次の成長へつなげる評価へと取り戻さなければなりません。


 「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」という言葉を教わりました。少しずつ、自分の身を守る役割から、冒険へ旅立つ前の準備を整える役割へと、教師の役割が変化しています。コンフォートゾーンがあってこそ、つぎのストレッチゾーンにチャレンジすることができるということでしょう。その子なりの自己実現への旅へと踏み出せるように、私たち特別支援の教師は、子どもたちの「ベースキャンプ」を刃のような評価などから守らなければならないのかもしれません。



 文章が長くなってしまい、弘前大学付属小の今先生や小田桐先生のご感想を紹介することができませんでした。また、次の機会にご紹介できればと思います。


新江ノ島水族館のサカサクラゲ



2024年3月16日土曜日

つながることで変化し続ける


 『理解するってどういうこと?』第7章でエリンさんは、パブロ・ネルーダの詩や文章を読むことによって、日常の暮らしのなかで「自分がどれほどたくさんのことを見逃しているのかということに気づかされ」たと書き、ネルーダが「自分の人生の変わりゆく風景を明らかにしたかったのだと思」ったと書いています。そして次のように言っています。

「パブロ・ネルーダの文章がどれほど私に衝撃をもたらしたのかということについて、もしも子どもたちに話さなければ、お気に入りの作家たちによって子どもたちが同じように影響を受けることなど、望むことができるでしょうか? もしも、時間とともに私たちの感情や考えや知識が変わることや、それらがこの世界にある力の影響を受けていることについて、子どもたちに話すことがなければ、理解するとはどういうことなのかの本質を子どもたちはどうやって手に入れられるでしょうか? もしも私たちの行動が前向きの変化に向かうための力となる可能性をモデルとして示さなければ、子どもたちが自分たちの現実を変化させるために自分で考えて、判断して、行動するよう期待することなどできるでしょうか? すべてが変化し続けること以上に確かなことはありませんし、そのことを理解すること以上に大切なこともありません。」(『理解するってどういうこと?』247ページ)

 エリンさんがネルーダの詩「スプーンのほめ歌」から受けた「衝撃」はどのようなものであったか。エリンさんは「スプーン」一つ取り上げるだけで、人と世界の歴史と現在への想像力を発揮する言葉をネルーダが紡ぎ出していることにおどろき(サプライズ)を覚えています。スプーンがこのかたちになったのはなぜか、とか、スプーンがなければ私たちの暮らしはどうなっていたのか、とか、そういうことを平易な言葉で表現するネルーダの詩には私もハッとさせられますが、そのこと以上にこの詩にして「衝撃」を覚えたというエリンさんのものの見方にも、私はおどろき(サプライズ)を覚えます。

 そうしたサプライズを喚起してくれる本を読みました。小池陽慈さんの編んだ『つながる読書―10代に推したいこの一冊―』(ちくまプリマー新書、2024年)です。この本の第1部には〈読み書きのプロ〉が書いた〈10代〉に向けて〈推したい〉本の紹介文(本書では〈プレゼン〉と呼ばれています)が14編収められています。それぞれの紹介文の前には、紹介者と小池さんとの対話が収められ、第2部には第1部の紹介文をめぐる小池さんと読書猿さんとの対談があり、さらに第3部では第1部の筆者が他の筆者の紹介した本を読んで書いた文章が収められる、という凝った構成になっています。

 第1部の14のプレゼン(紹介文)は、いわば〈10代〉に向けてのブックトークで、想定されている聞き手がとても明確です。小池さんの「はじめに」には「本という「扉」」という副題が付けられていますが、これは本書第2部の対談が終わった後に読書猿さんが発した「ある本を開くことは、それを「扉」のように開き、その本の「向こう側」の世界へ通じる入り口を開くことである」という素敵な言葉から借り受けた言葉だそうです。そして、14のプレゼンはその「扉」を聞き手が押して開く〈後押し〉になっています。

 『つながる読書』の〈後押し〉は二重三重になっています。第2部の読書猿さんと小池さんの対談では、第1部の14のプレゼンの読書論的意味が掘り下げられていて読み応えがありますが、ここでは第3部「つながる読書」から一つ取り上げます。

 小川洋子さんの『物語の役割』(ちくまプリマー新書、2007年)を取り上げた渡辺祐真(スケザネ)さんの10番目のプレゼンについて書かれた、安積宇宙さんの文章は次のように閉じられています。

「私は、物語の受け取り手としての自分の役割は、物語を読んで感じた気持ち、浮かんできたさまざまな想像を大切にすることなのではないかと思います。とても悲しいことに、アンネは日記を書いた後にナチスによる虐殺の中で殺されてしまいました。だけど、日記を読んだ私は彼女の人を信じる心を受け継ぎたいと感じました。それはまさに、アンネの「わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること!(一九九四年四月五日)」という願いを叶えることなのではないかと思います。そして、アンネの心を引き継ぐというのは、ユダヤ人であろうとも、パレスチナ人であろうとも、殺されていい人はいないと、行動することでもあると感じています。物語の役割を考えることで、物語を読む大切さを、改めて感じられました。ありがとうございました。」(『つながる読書』281ページ)

 閉じられています、と書いてしまいましたが、書き写しながら訂正しなければならないと思います。直接には『物語の役割』のプレゼンターである渡辺さんに宛てられたこの文章は、しかし、これを読む私にも向けられているわけですから、開かれています。渡辺さんは『物語の役割』を、それ以外の小川さんのいくつもの文章を引いて、〈物語の役割〉を10代に伝わる言葉で書いておられるのですが、安積さんは自分も『物語の役割』を読みながら、そのなかに登場する『アンネの日記』の自身の読書体験にも触れています。私も以前読んだ『物語の役割』や最近読んだ津村記久子さんの『水車小屋のネネ』(朝日新聞出版、2023年)のことを思い出しながら、お二人の言葉を受け止めていました。また、『つながる読書』に小川洋子が文章を寄せておられるわけではありませんが、小川さんも登場しているように錯覚して思わず読み返してしまったのも不思議なことです。

 小池さんは『つながる読書』の「おわりに」で次のように述べています。

「誰かが書いた一冊の本。それを読んだプレゼンターの方が、感想やそこから喚起された思いをご自身の言葉で語る。それを聞いた読書猿さんや私が、各々の感想を抱く。そうしてその二人のやりとりのなかで、さらなる言葉や思考が紡がれていく。

 私は、こうしたことこそ、本当のもの持つ豊かさだと思うんです。

 こうしたこと――つまり、同じ一冊の本から、さまざまな思いが、さまざまな言葉に載せられて、織りなされていくこと。一冊の本や、あるいはその紹介に触発され、考えたり思ったりすることは、人によってそれぞれ違い、多様であるということ。その多様な思いが、また交差し、絡み合い、新たな言葉を生み出していくということ。

 こうしたありようこそが、〈本の素晴らしさ〉そのものである、と。」(『つながる読書』293294ページ)

 小池さんの言う「〈本の素晴らしさ〉」を『つながる読書』という本そのものが体現していると思います。〈つながる〉ことは読者が「変化し続ける」ことでもあります。この本の「おわりに」の後に収められた詩人の草野理恵子さんの「特別寄稿・どこにも落ちているものはなーんだ?」から伝わってくるように、「変化し続ける」ことの〈素晴らしさ〉を教えてくれる本でもあります。

2024年3月9日土曜日

共同授業者としての本 〜[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸](★1)

「多様な本に溢れている」教室。ーーーリーディング・ワークショップでも、ライティング・ワークショップでも、事例を見ていると、多様な本が活用されていることをよく感じます。

 多様な本の活用において、「絵本等の中から書き手の足跡を学ぶこと」と「絵本等から外の世界を学ぶこと」という二つの方向があるように思えることにも、興味を感じています。

 前者、つまり絵本等の「中から」学ぶことは、絵本をメンター・テキストとして、作家が行った工夫や技を見つけるような学びです。メンター・テキストという言葉は、ここ15年ぐらい? 耳にする回数が増えました。「メンター・テキスト」という言葉を題名に含む本も、多く出版されています。「子どもたちにできるようになってほしい書き手ができる技や工夫」を念頭において、教師は選書をしていきます。

 他方、後者、つまり「絵本等から外の世界を学ぶこと」については、絵本の読み聞かせや対話的読み聞かせを通して、生徒たちが自分や社会について学び、世界を広げたり、その中で自分のできることを考えたりということに主眼があるように感じます。絵本は、教師一人では提供できない世界観を教室に持ち込む「共同授業者」(★2)という位置付けで捉えられることもあります。

 今日の投稿は、そういう世界観を広げるという点から、教室の図書コーナーや教師自身が読む本について考えます。

 2023年8月11日の投稿「選択という扉の向こう側にある世界〜[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]」で紹介したビショップ氏(Rudine Sims Bishop)の比喩をよく思い出しますが、どのような内容、テーマで、誰が」書いた本を選ぶのかが問われるように思います。氏は多文化児童文学の観点から、多数派ではない人たちが主人公になっている本の少なさ、また、本に登場しても、否定的なイメージで描かれたりすることに警鐘を鳴らしています。

 ビショップ氏は、本は世界を見せてくれる[窓]であり、読者が想像力を働かせて[ガラスの引き戸]を通り抜けて本の中に入るとその世界の一部になることができる。[窓]である本は光線のあたりかたによって、[鏡]にもなり、読者の人生や経験の一部を映し出してくれると、説明してくれました(★1)。今から30年以上も前の1990年のことです。

 [鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]は、30年以上時間が流れた現代でも、とても有効な枠組みだと思いますし、アメリカの図書館の司書や教師の指針にもなっているようです。

 図書館司書のフィリップス氏(Jaenie Phillips)は、[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]に関連して、Great School Partnership という団体のブログに2022年8月に投稿(★3)し、この枠組みを実際にどのように、自分に応用したのかを記しています。

 この投稿によると、フィリップス氏は15年前に自分の読むものを、この枠組みを使って見直したそうです。白人である氏は自分が読んでいるものの大半は、自分の[鏡]となる本、つまり白人によって、白人について書かれている本だと気づきます。そこで、自分の読む本の少なくとも50%は、非白人の人によって書かれている本を読むという目標を設定します。この目標を毎年、達成していく中で、これまで読むことのなかった多くの素晴らしい作家の本を読むことになり、自分とは異なる人種の登場人物の立場で考えることで、自分も成長したと述べています。

 また、フィリップス氏は、2018年に出版された児童書を見ると、約27%が動物を主人公としていて、この数字は、白人でない登場人物の本を全て合わせた割合よりも高い数字であると指摘しています。つまり非白人の子どもたちにとっては、自分の人種的アイデンティティの[鏡]となる本が少なく、白人の子どもたちは、自分と異なる人種的アイデンティティを持つ人たちについて学ぶ機会が少ないまま過ごしていることになります。

  自分の[鏡]となる本が教室の中や、社会に溢れている場合、上記のフィリップス氏のように、最初は意識的に自分の読書生活を見つめて何らかの目標を設定しないと、狭い世界にとどまってしまう危険性があることは、自分自身を見ていて、よくわかります。

 リーディング・ワークショップや対話的読み聞かせが積極的に行われている教室の事例などから、アメリカの教室にいる様々な子どもたちの[鏡]になるような本を知ることができ、私もそれらを少しずつ読むようになってきました。しかし、例えば、アメリカ社会での移民の子どもたちや家族が主人公のストーリーを読む時、対岸の出来事として読んでいるところもあります。

 日本の教室や社会にある多様性ーーー例えば、日本在住の外国ルーツや難民の人たちが書いた、あるいは日本にいるLGBTQや障がいのある人が書いたお薦め本は?と言われても、さっと提示できません。読んだ本を思い出して、ようやく「そういえば」という感じです。私の場合、読んでいる絶対数が少ないことが大きいです。

 自分の成長に必要であるからこそ、[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]という枠組みを通して、定期的に自分の読書生活を振り返っていかなくては、と思います。

*****

(★1)

以下の情報は、2023年8月11日の投稿でも紹介しましたが、下に記すURLでPDFが読めます。PDFの最後には次のように出典が記されています。

Source: By Rudine Sims Bishop, The Ohio State University. "Mirrors, Windows, and Sliding Glass Doors" originally appeared in Perspectives: Choosing and Using Books for the Classroom. Vo. 6, no. 3. Summer 1990. 

http://www.rif.org/us/literacy-resources/multicultural/mirrors-windows-and-sliding-glass-doors.htm

また英語ですが、著者が語っている90秒ぐらいの動画を見つけました。

https://www.youtube.com/watch?v=_AAu58SNSyc

(★2)

Layers of Learning: Using Read-Alouds to Connect Literacy and Caring Conversations (JoEllen McCarthy, Routledge 2020年)のなかで、「私たちの住んでいる世界について、考え、可能性を見出し、真実や時には厳しい現実を明らかにするのを助けてくれるような、「教師の共同授業者」(16ページ) と書かれています。

(★3)

https://www.greatschoolspartnership.org/mirrors-windows-and-sliding-glass-doors-a-metaphor-for-reading-and-life/

2024年3月1日金曜日

「メタ認知」って何?

 これまでいい授業と捉えられてきたのは、教師が事前に教材(ほとんどの場合は、教科書教材)研究をしっかり行い、それを踏まえて考えた指導案(あるいは、指導書)通りに授業を展開することです。

 読み(例えば、物語・短編や説明文)の指導の場合、最初に、特定の教材を扱う目的(ねらい)が提示されます。次に、タイトルや作者の肩書や背景等からどんな内容(あるいは、テーマ)が書かれているのか予想します。実際に読んだ後には、何が書かれているか要約することを求めます。この事例のなかだけでも、目的を明確にする、予想する、要約する、の読む際に大切な方法が三つ扱われています。

しかし、この授業でそれらの方法は教師が生徒に投げかけて、教師の指導の下に生徒たちは従って考えているだけで、自分たちが主体的に考えてはいません。この種の授業では、メタ認知を使っていませんし、生徒が主役となって学ぶ(自分の責任で何をどう考え、そして選択する)機会も提供していません。すべては教師によって、事前にベストのシナリオが描かれており、生徒たちはそれにお付き合いするだけです。

 このような教師主導の授業ばかりをしていると、メタ認知=自分が主役となって学ぶ(自分の責任で何をどう考え、そして選択する)力は身につきません。いくら教師が努力しても、下の表の右側の状態に生徒たちをとどめてしまいます。しかし、求められるのは左側です。

 左側を実現する効果的な方法の一つ★★が、リーディング・ワークショップ(読書家の時間)です。

 すでに、上の事例で紹介したように、読む際に使う方法は表4(出典は、『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』の81ページ)にあるような方法★★★です。違いは、これらを教師主導で扱い(生徒は、言われたとおりに使い)続けるのか、それとも生徒がそれらを自ら選択して使いこなせるように学ぶのか、です。

 ちなみに、表4では、三つのレベルで分けて整理してありますが、実際に読む時は、読む前・読んでいる間・読んだ後に使う方法としても分類可能です。そのほうが、生徒たちにとっては自然に受け入れられると思います(というよりも、実際に使っている生徒たちが、それを指摘してくれるはずです)。なお、方法は読む前・読んでいる間・読んだ後の複数に分類されるものもあるのでご注意ください。

 読むことの事例で紹介してきましたが、同じことは書くことでも、話す・聞くでも言えますので、「教材を教師主導でこなす授業」から「生徒が選択しながら学ぶ授業」への転換を図る参考にしてください。★★★★

 

I Think, Therefore I Learn!以外に、メタ認知に関しては、『「考える力」はこうしてつける』『言葉を選ぶ、授業が変わる!』『「学びの責任」は誰にあるのか』がおすすめです。選択のない(選択を提供しない)なかで、メタ認知というのは難しい気がします。逆に言えば、強制(ないし従順・服従・忖度)とメタ認知は相性が悪く、ほとんど思考停止をもたらすだけかもしれません。★★★★★

★★他の効果的な方法は、『ようこそ、一人ひとりを大切にする教室へ』『一斉授業をハックする』『教科書をハックする』『教育のプロがすすめる選択する学び』などで紹介されていますので、ぜひ参考にしてください。また、『「考える力」はこうしてつける』は、メタ認知と振り返りの関係を分かりやすく説明したうえで、メタ認知を取り入れた授業づくりを紹介していますので、ぜひご一読を!

★★★これらについて詳しくは、『「読む力」はこうしてつける』と『理解するってどういうこと?』を参照してください。これらが欧米でも知られるようになったのは、1990年代の半ば以降です。どのようにしてこのようなリストになったのかというと、ある研究者たちが、自称「優れた読書家」数百人に、読んでいる時に使っている方法を出してもらい、それを整理しただけなのです。その意味では、教室のなかでも同じことができてしまいます!

★★★★最後まで書いてきて、一方で読む(書く、話したり・聞いたりする)際に使う効果的な方法が身につく形でどれだけ授業は行われているのだろうかという疑問とは別に、扱う内容と同じか、それ以上に大切なhttps://bit.ly/3XZmfbhSELhttps://wwletter.blogspot.com/2023/02/sel.html)は身につけなくてもいいのだろうかとも考えてしまいました。いったい、これらはいつどこで身につけるのでしょうか? 誰もがスマホを持っているいま、教科指導で押さえることが求められているもののほとんどは、教科書で扱うこと自体に疑問が噴出しているなかで。

★★★★★今回の書き込みをブログに貼り付ける前に最終的な読み返しをしている時に、ここの文章を読んでいて思い出したのが『教育のプロがすすめる選択する学び』でした。まさに、選択を提供する授業とメタ認知は相性がいいのです! 本のタイトルにあるように、この本はいかに選択を生徒に提供するかが書かれた本です。目次を見ると、第4章のタイトルが今はやりの「生徒に学び方を教える」です(「学び方を学ぶ/身につける」=メタ認知と言えるでしょう!)。

 この章のなかから、最も大切だと思った部分を以下に貼り付けます。(少し長くなりますが、大事なことが書かれているので訳注も含めて紹介します。)

メタ認知のスキルを身につける

 「魚を与えれば一日生かすことができるが、魚の捕り方を教えれば一生生きることができる」という諺を聞いたことがあると思います。メタ認知スキルを教えるということは、魚の捕り方を教えることの教育版と言えます。それには、生涯を通じた学習者になるために必要となる、自己認識、振り返り、正直な自己評価のスキルを身につけることが含まれています。★注・この三つをテーマにしているよい本があります。『増補版「考える力」はこうしてつける』です。多様な方法が紹介されていますので、ぜひ参考にしてください。また、ブログ「PLC便り」の二〇一八年一二月二三日号でも「メタ認知」を特集していますし、左上の検索欄に「メタ認知」を書き込むことでほかのたくさんの記事も読めます。

今日の学校では、慌ただしいペースで次から次へと活動が移り、自らの学びを振り返ることもなく★注・ここ4~5年ぐらいは、授業の最後に行う「振り返り」がブームになっています。しかし、残念ながら生徒が自分の学び方を学ぶようには組まれていません。単に形式として、振り返りのシートが渡されて、それを埋めるだけになっています。生徒には選択が提供されていませんから、ほとんどの場合、無駄な時間になっています。振り返りを活かすヒントは、『SELを成功に導くための五つの要素』の第3章「自己を見つめる」を参考にしてください。★、いま行っていることだけに注意を向けさせて生徒をこのうえなく忙しくさせています。しかし、教師が選択肢を提供さえすれば、学びのパワーとコントロール(学びの責任)が生徒と共有されることになるので、生徒のメタ認知スキルはいっそう重要性を増すことになります。逆に言えば、生徒はメタ認知のスキルを身につける機会を必要としているということです。あるいは、前出(23ページ)のジュディー・ウィリスが言うように、「(まだ)自覚していないものを自覚する」ことが求められているのです。

 ほかのすべてのスキルと同じように、メタ認知も教えられ、練習でき、そして身につけられるのです。あなたは、生徒たちが学習者としての自分を知り、役立つ学習方法を把握し、そして自らの学習を改善するために、自己認識を活用することで行動ができるように助けることができるのです。

もちろん、選択肢を与えることは、メタ認知のスキルを高めるためのよい手段になります(とくに、第6~8章で紹介している「選ぶ-やってみる-振り返る」という枠組みを使った場合)。「選ぶ」と「振り返る」の二つの段階が、生徒たちにとってはメタ認知を練習するために最適なものだからです。じつは、これらの段階から最大限の効果を得るために、あなたが生徒たちにメタ認知スキルを教えて、サポートする方法はほかにもあります。(同、125~6ページ)

 なお、最後の「メタ認知スキルを教えて、サポートする方法」としては、実演する(「考え聞かせ」をする)、オープンエンドの質問をする、振り返りジャーナルを書いてもらう、正直な自己評価をしてもらう、発達の最近接領域(ZPD)について教える(https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=ZPD)、成長マインドセットを教え、促進するなどが含まれており、この章で紹介されています。

2024年2月23日金曜日

比べてみれば違いが見える お互いの「作家の時間」の学びの姿

 軽井沢風越学園で先生をしている澤田さん(あすこまさん)とずいぶん昔から仲良くさせていただいていて、「作家の時間」の実践の話や学校にまつわるあれこれ、おすすめの本(私にとってレストランのおすすめメニューのような、澤田さんのブログです。)など、情報交換をしています。先日も、長野県の池の平湿原や浅間山の外輪山で雪をかき分けながら、一緒に山行をしてきました。澤田さんと振り返り話をしながら山道を歩いていると、澤田さんと僕の「作家の時間」のスタンスには違いがあることがいつも分かります。


雪を纏った浅間山


⚪︎一人ひとりの表現する力をつける「作家の時間」


 澤田さんの「作家の時間」は、子どもたちに「表現する力をつける」ためにあります。ここでいう力とは、単純に上手に表現できることばかりではなく、意欲的に自己表現を楽しむことも含まれます。澤田さんは、自身が小学生の頃から、自分で小説を創作して、自分自身を書くことで表現することを楽しんで育ちました。言葉の中に、自分の未だ見ぬ断片を見つけ、言葉の中に、自身の表しきれない思いを込めてきました。

 澤田さん自身のなかで柱となっているのは、自分は国語教師であるという矜持です。風越学園に赴任する前は国立中高一貫校の国語の先生をされていました。国語という教科を見つめ続け、その可能性を信じ、それを最大限に発揮しようと努力を積み重ねています。国語についての知識や技術、経験をストイックに修練させて、国語学習に関するアイデアの引き出しを増やし、整理整頓された紅茶屋さんの引き出しのように、ずらりと学習材がストックされています。私はその圧倒的な量に、ただただ嘆息し、彼の背後にあるこれまでの時間を思い描いて、尊敬をしています。

 澤田さんの「作家の時間」は、その経験と目の前の子ども(もしくは、子どもたち)の学習に合致する国語を選び出し、ウィットに富んだデコレーションをして提供します。窓に詩を描く実践などは、澤田さんの姿勢が表れた清々しい風景だと思います。澤田さんのこれまでの国語に対する向き合い方によって、そのような豊かな学びの情景が立ち現れます。

窓からの景色に詩を描く


https://askoma.info/2024/01/27/10000


 そして、読み書きの共同体を作り、まずは自分が率先して学ぼうとする姿勢をモデルとして、そのエネルギーで共同体のメンバーである子どもたちを巻き込んでいきます。自分自身が言葉を楽しむことで、言葉の楽しさや言葉のある生き方の素晴らしさを、自身の活動をもってして伝播させていくのです。

 澤田さんは本当に国語が大好きなのです。アフター登山の楽しみの一つ、ソフトクリームの山頂を切り崩しながら、ぽやっと呟いていました。「作家の時間の教師という仕事は天職である」と。


⚪︎子どもを認めるためにある「作家の時間」


 一方で、僕の「作家の時間」の主眼は、「子どもを見る」ことにあります。ここでいう見るとは、子どものことを知ることでもあり、これまでの子どもを認めることでもあります。僕は、特別支援学校と保育士の両親をもち、その仕事場を垣間見ることで、「子どもって、本当にいろいろな子がいる」ことを見てきました。大学では、発達障害と診断され学校で上手く馴染めずに苦しむ子どもたちの遊びの場を作ったり、彼らの家庭教師をしたりすることで、いろいろな子どもたちの表情を見てきました。

 僕の中で目指しているものは、「子どもの専門家」なのだと思います。絵を通して、遊びを通して、子どもの発達を見る専門家がいるように、僕は、子どもたちの学習を通して、子どもを見ようとします。例えば、「なぜこの子は、文字を書かないで話して表現することに拘るのだろう」と考え、その子が一番エネルギーが発揮できる学習環境を作ろうとします。また、その子が「にゃんこ大戦争」が好きと言えばアプリをダウンロードし、「カラピチのもふくん」が推しと言えばYouTubeをチェックします。(もちろん、その子たちの熱量には到底かないませんが。)そして、「カラピチ」や「にゃんこ」のチャンネルから、その子の良さが発揮できる学習を展開することができないかを考えます。子どもの内側から、子どもがどんな世界を覗いているのかを、僕も一緒に見たいとできるだけ努力をします。

 残念ながら、国語に関しての知識で、澤田さんと比肩することは到底できません。しかし、澤田さんも認めてくれるように、僕自身の「作家の時間」は「子どもの見ている景色を見る」ツールとして、大きな力を発揮するように思います。


⚪︎分かち合えない「作家の時間」を分かり合う


 澤田さんとは、膝まで雪に埋もれながら山道を歩いて、同じ教室という場所に立ちながら、全く違う景色を見ていることを何度も確認し、お互いに「分かち合えない空間」があることを理解します。お互いにそこだけは譲り合わないのが、あとで振り返っても笑えてくるほどに可笑しくなります。けれど、僕自身も国語という分野について少しでも研鑽を積もうと、澤田さんの今年の実践から自分ができそうなものがないかを考えますし、澤田さん自身も「もう少し子どもに興味をもとうかなー」と振り返るそうです。

 それと同時に、僕たちがお互いに共感することも多くあります。例えば、「子どもに(促すことも含めて)教えること」と「子どもの今を認めること」とが、時に教師にとってアンビバレントな状態になり、自分自身を苦しめることがあるということです。僕たち教師は、右手に理想を、左手に現実を握りしめて、右へ左へ徘徊しながら、子どもにとって本当に良いこととは何かを探し続けています。それが、澤田さんはより右に、僕はより左に、軸足の重心が傾いただけであって、どちらにとっても「作家の時間」は、有効に働くのだろうと思います。


⚪︎「作家の時間」の姿を学び合う

 

 実践者の数だけ、「作家の時間」の姿があるように思います。正しい形はないですし、自分の積んできた経験でしか呼び起こすことができない「作家の時間」があります。まずは、「作家の時間」を行う先生方が、自分自身の「作家の時間」を俯瞰して見ることができるように、お互いの実践を擦り合わせることが必要になるでしょう。そのような場を提供できたら、本当に良いと思います。


⚪︎澤田さんの新刊出ます


 澤田さんは4月下旬に、中高生向けの「書くこと」の入門書、『君の物語が君らしく 自分をつくるライティング入門』を刊行予定です。軽井沢風越学園での「作家の時間」をもとに書かれた本だそうです。ぜひご覧ください。



山行の記録はこちらになります。



2024年2月17日土曜日

翻訳論を理解のために「翻訳」してみる

  山本史郎さんの『翻訳論の冒険』(東京大学出版会、2023年)の第9章では関連性理論(特定の情況を背景とした発話者の「意図」と関連づけながら発話の「意味」を説明する理論)を使いながら「翻訳論」が論じられていて、大変面白く読みました。山本さんは「明意」(言語表現どおりの意味)と「暗意」(暗に意図されているもの)という概念を使いながら次のように述べています。

〈人間は発話された文の明意から、その時々の想定の中で推意を行って暗意に到達する。この暗意こそが「発話の意味」であり、それに達するのが人間の「理解」であるということになる。その際、計算がもっとも適切な形で(すなわち頭脳的コストが必要以上にかからずに)できるような情報・状況(すなわち関連性のもっとも高いもの)が選び出されることになる。〉(『翻訳論の冒険』107ページ、下線は原著のまま)

 これは、誰かが書いたり、話したりしていることを「理解」する上でも重要な考え方であると思います。理解するということは、相手の話している言葉の表層だけを把握することではありません。文章や話のなかにその言葉や言い回しがなぜ選ばれているのか、その表現を選んだ著者や話者が何を伝えようとしているのかということを考えていくことです。
 『理解するってどういうこと?』の第5章にある「読み・書きを学ぶ際の主要な構成要素」(表5・2)では三つの「表面の認識方法」と三つの「深い認識方法」が示されています。私はこの三列の上下が対比の関係になっていると考えます。「構文の領域」(表面の認識方法)と対になっているのは「優れた読み手・書き手になる領域」(深い認識方法)です。二つの説明の部分を下に引用します。

〈構文の領域―単語、文、段落、本や文章全体のそれぞれのレベルで言語構造を理解し(たいていは聴覚的に)、使用する(表2・3dを参照)。〉
〈優れた読み手・書き手になる領域―読んだり学んだりしたさまざまなアイディアに伴う多彩な経験。意味の共有と応用。話したり、書いたり、描いたり、演じたりといった手段を通して意味を組み立てること。特定の目的と聞き手・読み手に向けて書く。他の人とやりとりしながら考えたことを修正する。優れた読み手と書き手の習慣を使ってみる。〉
(ともに『理解するってどういうこと?』167ページ)

 もちろん、意味を共有したり応用したりすることが大事だからと言って、「表面の認識方法」をまったく無視してしまっては「深い認識方法」が使えるようになる手前で理解することを諦めてしまうことになるかもしれません。だからと言って「表面の認識方法」に時間をかけすぎてしまうと、自分たちが読むものがいかなる意味をもつのかということ自体に無関心になってしまいます。大切なことは、エリンさんも言っているように「深い認識方法」「表面の認識方法」のバランスをとることです。「構文の領域」を学んでいる場合でも〈少なくとも指導時間の半分は、深い認識方法の指導にあてるべきです。すなわち、指導時間全体のなかで深い認識方法の指導にあてられる時間の割合を劇的に増やすべき〉(『理解するってどういうこと?』175ページ)だということになります。
山本さんの本には、エリンさんがこのようにいう根拠になるようなことが次のように述べられています。

〈すべて発話というものは、心に浮かんでいること、すなわち心の中に成立している表示(英語で言えばthought)を、言語による表示に展開する行為であるからだ。つまり、「思い」を言語化するプロセスは本質的に「表示の表示」であるということになり、これはすなわち「解釈的な」プロセスにほかならないのである。〉(『翻訳論の冒険』115ページ)

 たとえば「構文の領域」を学ぶことの繰り返しでは、「発話」の表面的な言語表現そのもの(明意)を捉えることが「意味」を捉えることだというふうに、学習者は考えてしまうのではないでしょうか。そうなってしまうと、読むことや理解することの面白さを実感することはかなり難しくなります。だからこそ、山本さんの言うようにすべての「発話」は、「「思い」を言語化するプロセス」であり、「「解釈的な」プロセス」だということを認識することが必要になってきます。英語の授業や国語の古文・漢文の授業で「口語訳」をする場合に、山本さんの言っていることを意識できるかどうかということはとても重要です。
 山本さんは「翻訳」について次のように言っています。

〈翻訳とは、任意の言語による表示(原テクスト)から遡って著者の心に生じている表示を翻訳者の心に再現し、それを別の想定の集合を持った人間に対して、別の言語を用いて表示するテクスト(訳テクスト)を作る行為である。その場合、原テクストと訳テクストは同じ命題を共有しているという意味で、類似の関係にある。〉(『翻訳論の冒険』132ページ)

 吉田新一郎さんとやりとりしながら『理解するってどういうこと?』の翻訳作業を通してやろうとしたことも、おそらくこういうことだったのではないかと思います。「著者の心に生じている表示」を「翻訳者の心に再現」しながらつくられたのがこの本の「訳テクスト」です。辞書を引いて英語を日本語に置き換えるのではなく「翻訳」するということは、山本さんが言うように、原著者の「発話」をも「「解釈的な」プロセス」から生み出されたものとして「理解」することなのだと思います。エリンさんも「優れた読み手・書き手になる領域」を論じた部分の最後で次のように言っています。

〈私が、「最後の章のあらすじを書き出してみましょう」などと提案することはけっしてありませんが、「その作者なら考えたかもしれない別のいくつかの終わり方をみんなで論じましょう」という提案ならするかもしれません。その小説の終わり方について、その作者ならこう考えたかもしれない、いや、そう考えるはずがないということを、1時間ばかり話し合う素敵な時間をみんなで過ごすことができるからです。このように討論したり、話し合ったりするとき、私たちは、優れた読者なら自然に、かつ本当に活用している優れた読み手・書き手になる領域を使うことで、他の人たちのものの見方を通して各自の理解を高めたり深めたりしているのです。〉(『理解するってどういうこと?』183ページ)

 山本さんがご自身の「翻訳」についての考えをまとめた言葉(翻訳論)と、ここでのエリンさんの言葉(理解論)が見事に響き合っていると思うのは私だけでしょうか。あるいは、私がまだ山本さんの言葉をきちんと理解できていないところがあるのかもしれません。しかし、山本さんの『翻訳論の冒険』は「理解とは何をどうすることなのか」という問いについて考える多くのヒントに満ちており、理解についての私の考え方を深めるように背中を押してくださる本でした。理解とは何かを考えるために、私の言葉でそれを「翻訳」してみようとする勇気を与えていただきました。

2024年2月10日土曜日

「引きちぎって、ゴミ箱に捨てた本 〜強い印象を与えた本、何度も読み直す本など」

「Sさんは本を完読したことを後悔した。明け方まで寝付けず、早起きすると机の上の『女の一生』を両手でつかむと真ん中で引きちぎり、すぐゴミ箱に投げ捨てた。本棚に置いておくのも気分が悪かったのだ」(『古本屋は奇談蒐集家』★1 287ページより)

 今日は3名の本好きの人たちが書いてくださった「強い印象を与えた本」の紹介です。それは、上記の迫力あるSさんのエピソードから、「本って、こんなに強い印象を人に与える」ことができるものなのか、と思い、他の人たちに強い印象を与えた本について知りたくなったからです。また上のエピソードから、本は「最も忍耐強い協力者」(★2)という言葉も思い出しました。以下の紹介でも、「引きちぎる」までは行かなくても、「思わず途中で閉じてしまった/閉じたくなった」本も登場しますし、「10年に1度位のペースで読み返している」本も登場します。

1)【最初は、『読書家の時間』の執筆メンバーで、本が大好き、そして野球少年/球児だった都丸先生から、「自分の人生になくてはならない野球の本について」の紹介です。今、手元にあるのは平成11年発行の11版だそうです。】

 子どもの頃から現在に至るまでずっと野球が好きなので、野球の技術に関する本や野球マンガを数多く読んできました。そんな野球好きの自分が、野球に関する本の中で最も影響を受けた一冊です。

『野球のメンタルトレーニング』

ハーベイ・A・ドルフマン,カール・キュール 著

白石 豊 訳

大修館書店

原題は THE MENTAL GAME OF BASEBALL 

 自分がまだ高校球児だった頃に、野球部顧問の先生に借りた本です。野球の専門書ですが、投げる、打つ、走るといった技術についての本ではありません。野球選手のメンタル面に焦点を当てた本です。初版は平成5年。なぜ先生が本書を貸してくださったのかは分かりませんが、当時の自分は精神面の弱さがプレーに影響しており、それを見兼ねてのことだったのかもしれません。

 この本から学んだことは、よいイメージをもつことがよいパフォーマンスにつながること、困難な状況でも考え方や態度を変えることで、解決の糸口が見つけやすくなること、恐怖心を乗り越える方法、失敗から学ぶこと、学ぶ(自分を変える)ことの重要性などです。

 メンタル面の強さがあり、常によいイメージをもっている選手の方が満足のいく結果を残すことができる。実際にプレーする中で、身をもって体験したため、自分にとってなくてはならない一冊になりました。今、手元にあるのは平成11年発行の11版です。いつ購入したかは忘れましたが、これまでに何度も読んでいます。読み返す度に、自分にとって大切なことを発見できる本です。

 今回読み直して印象に残ったのは、野球殿堂入りしたカール・ヤストレムスキー(ボストン・レッドソックスで1967年に三冠王)が語ったことです。

「僕は今でも、バッティングのことを考えない日はない。これまで一度だって、これでもうバッティングがわかったなんて思ったことがないもの。みんなもっと自分に正直にならなきゃいけないんじゃないだろうか。僕だって三振したり凡打してしまうこともしょっちゅうだけど、工夫に工夫を重ねるしかないじゃないか。変わることを怖がっているようじゃあ、とても一流にはなれないね。」

 野球に関することだけでなく、自分の仕事や生き方につながるヒントをもらえる本なので、今後もページを開く機会があると思います。

2)【次は、本ブログで特別支援学級での作家の時間の実践などを投稿し、『読書家の時間』や『社会科ワークショップ』の著者である冨田先生です。紹介してくださった三冊は、いずれも「思わず本を閉じてしまった/閉じたくなった」ことがあるそうです。本は読み手を本の中に引き込みながら、時には、簡単に読み続けられない思いにさせることも、よくわかります。】

 僕は『神々の山嶺』(夢枕 獏、集英社文庫)と言う本にとても強い印象を受けたことがあります。今でも登山が好きなのはこの本の影響もあるかもしれません。フランスでは相当影響が大きかったらしく、アニメ映画も大人気だったそうです。遭難をして、怪我をしながら救助を待つシーンなどが危機迫るように感じられ、思わず本を閉じてしまったこともありました。山の遭難の恐怖を感じるとともに、命ギリギリのところまでチャレンジするかっこ良さも同時に感じた本です。

 窓際のトットちゃんの映画も話題になっていますが、私としては『トットちゃんとトットちゃんたち』(黒柳 徹子、田沼 武能、講談社青い鳥文庫) も非常に印象に残っています。教師になって間もない頃、電車の中で読みながら思わず本を閉じてしまいました。世界の貧困の苦しさ、自分がいかに恵まれた環境で育っているのか、突き刺さるようなメッセージで、世界の貧困のために何かできることはないか、考えました。

 最後に『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ、岩波書店)も、思わず読みたくなくなって閉じてしまった本の一つです。そして1時間後、必ずまた本を開いてしまいます。バスチアンがファンタージエンのモンデンキントに呼ばれて物語の中に入っていったシーンや、アトレーユとバスチアンがどんどん記憶を失ってしまうシーンなどは、思わず本を閉じたくなってしまうような気持ちだったことをよく覚えています。この本は10年に1度位のペースで読み返している本です。もうそろそろまた読まないと。

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→ 冒頭で紹介した『古本屋は奇談蒐集家』に登場する、『女の一生』を引きちぎって捨てたSさんが、『女の一生』を読んだのは、高校時代、大学入試に失敗した後です。その後、人生経験を積み重ねる中で、「一生のトラウマであり、自分を縛り付けてきた『女の一生』をもう一度読んでこそ、その本からやっと解放されると考え」て、その本を新たに購入します。「読もうとすると手が震えた」そうですが、読んでみると、以前とは全く違う感情が生まれたそうです(『古本屋は奇談蒐集家』290-291ページより)。『はてしない物語』を10年に一度ぐらい読み直す冨田先生も、次回読まれる時、どういう違う感情が生まれるのかな?とも思います。

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3)【次は本ブログに時々投稿をお願いしている吉沢先生です。準備段階のメールのやり取りで、一番最初に思い浮かんだのは『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル、新版 みすず書房 2002年)だったそうです。「でも、紹介するとなると、『そりゃあそうでしょう』という気になります。私が紹介するまでもない。有名すぎるし、あの本を読んで衝撃を受けない人っているのでしょうか」ということで、『夜と霧』は、吉沢先生の紹介リストから落ちました。最終的に選ばれた以下の三冊のうち、『「フクシマ」論』と『力なき者たちの力』は、「こんな機会でもなければ、人にはあまり薦めない種類の本」だそうです。】


開沼博『「フクシマ」論―原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社、 2011年)

原発が立地する地域(原子力ムラ)の人たちは、原発の危険にビクビクしながら暮らしているのか、というとそうではありません。「そりゃあ原発で働けるのが一番だ」「原発は危ないっていうけど、気にしてもしょうがない」というのが大勢です。では、放射線の危険性を主張する反対運動の考えは間違っていて、原発を推進する行政、官僚のやり方が正しいのか、というとそういうわけでもない。----では何が問題なのか。

原子力ムラと原子力を推進する「中央」の行政・産業界。この関係を、抑圧するものと抑圧されるもの、または加害者と被害者、といった二項対立で見ようとすると見落としてしまう現実があるのです。それは、ムラと「中央」を仲介する、「地方」行政の存在です。「地方」行政は、「中央」の意向を汲んで、自発的に寄り添おうとしていくのです。それが人々の暮らしを支え、戦後の経済成長を支えてきたのです。

私にとって衝撃だったのは、このような関係性がシステムとして仕組まれているということです。「科学技術が未来を切り開く」「経済成長が社会を豊かにする」という価値観を共有することで、国民みんなでそのシステムの支えてきたのです。

片田敏孝『人が死なない防災』(集英社新書、2012年)

 著者は、学校で津波被害のための防災講演会をする時、子供たちの目の前で、ハザードマップを破り捨てるところから話を始めるそうです。「え!」と思うかもしれませんが、「ハザードマップを信じるな」というのが、著者の主張です。東日本大震災では、このハザードマップゆえに、津波は到達しない(だろう)とされていた地域の人々が逃げ遅れて亡くなりました。被害が起きてから、「行政は何をやっているのだ!」と怒っても意味がないのです。人間の想定には限界がある。自然は人間の想定を超える、というところに立つ必要がある、と著者は言います。

 

ヴァーツラフ・ハヴェル(阿部賢一訳)『力なき者たちの力』(人文書院、2019年)

 著者は劇作家ですが、冷戦下、共産主義政権によるチェコスロバキアで抵抗を続け、ビロード革命を成功に導いた中心的人物の一人で、革命後、初代の大統領に選ばれました。著者は、私たちを縛っている社会体制を「ポスト全体主義」と名付けました。これは、どこかにいる悪魔が独裁権力を振るっている社会ではありません。「精神的・倫理的な高潔さと引き換えに、物質的な安定を犠牲にしたくない」という人々の欲望につけこむ形で、高度な監視システムと個人の生を複雑に縛るルールをいきわたらせる社会だ、と言います。国民一人一人が、大勢の流れに逆らわないことで、安定した暮らしをしたい、そのためには自分の尊厳を捨てても仕方がない、という意識が、全体主義を支えてしまう、と著者は言います。私たち一人一人の意識を問うという意味で、この本も大きな衝撃でした。

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 おまけで、最後に私も二冊紹介します。

 一番、最近、強い印象を与えてくれた本は、この年末年始で読んだ『アルジャーノンに花束を』です。有名な作品にもかかわらず、題名しか知りませんでしたので、かなり最後の方まで「どう終わるのだろう」と思いながらページを繰っていました。途中で自分の感情が揺さぶられ、でも、その揺さぶられる中で自分の中にある偏見に気付くこともありました。

 読み終わってまず思ったのは、「私にとってはこのタイミングで読めてよかった」でした。最近の自分の個人的な経験が、この本に惹き込まれたり、この本と対話するのを助けてくれたのがよくわかったからです。

 知的障害の人に対して知能指数と高めるための手術を行うというトピック等、ジャンルはSFになるようです。SFは私はあまり得意ではありませんが、それでも十分に楽しめました。読んでいる途中で、この本の場合、もし、読み終わる前に、書評やあらすじなどに触れてしまうと、読む楽しみが半減しそうな気がして、「絶対、見ない!」と決めて、最後までドキドキしつつ読みました。

 なお、私が読んだのは地元の図書館で借りた1975年にBantamから出版された版(英語)で、それを見ると最初の出版は1959年のようです。最初に出版されて60年以上! この間、邦訳も[新版]が出たりといくつかのバージョンがあるようで、かなり長く読み継がれている本です。

 二冊めは、『イン・ザ・ミドル』(ナンシー・アトウェル、三省堂 2018年)。翻訳に関わった本であり、翻訳したのは第3版です。最初に読んだのが第2版。全部を何度も通読する、というよりは必要に応じて、折に触れ、あちらこちら開いてきました。第2版は、私の書き込みが多すぎて読みづらくなり、新しく購入して、二冊もっているぐらいです。著者はライティング/リーディング・ワークショップの優れた実践者の一人ですが、ライティング/リーディング・ワークショップの具体的な方法だけでなく、著者自身の失敗から学んだ、教える側の論理と学ぶ側の論理のギャップなど、私にとってはいつも「学ぶことはどういうこと?」と、問いかけてくれる本です。今、同じ著者の 『The Reading Zone 』(★3) の第2版を読み直しているのですが、子どもたちが教室で「ひたすら読む様子」に圧倒されます。そういえば、今回、吉沢先生が紹介リストから落とした『夜と霧』は、私はアトウェルの教室の子どもたち(中学校1、2年の年代)が読んでいることがきっかけで、初めて読みました。

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★1 『古本屋は奇談蒐集家』ユン・ソングン (著), 清水 博之 (翻訳) 河出書房新社 2023年

★2 『なぜ、学んだものをすぐに忘れるのだろう?』(フランク・スミス(著)、橋本直美ほか(監修、翻訳)大学教育出版 2012年の44ページに以下の文があります。

「著者は、どんなに子どもに甘い両親と比較しても、子どもたちや幅広い世代の読書にとって、最も忍耐強い協力者であると言えよう。学習者が一七回続けて物語を読みたくても、難しい文章をとばしても、頻繁に間違った解釈をしても、ある部分に戻り続けても、著者は決して異議を唱えることはない」

★3 The Reading Zone: How to Help Kids Become Passionate, Skilled, Habitual, Critical Readers (Scholastic Professional) 2016年 第1版の著者はアトウェル (Nancie Atwell)、この2版は同じ学校の教師であり、アトウェルの娘でもあるAnn Atwell Merkel との共著