2026年8月21日金曜日

道に迷って道を見つける力

    昨年末に山口県下関市の「ねをはす」という本屋さん★の棚の隅で見つけ、気になって購入した、MR・オコナー(梅田智世訳)『WAYFINDING 道をみつける力人類はナビゲーションで深化した』(インターシフト、20211月)という本。400ページ余りの大冊なので時間を見つけて少しずつ読みながら、ようやく読み終えました。

15年程前に勤務先の附属幼稚園長をしたことがあります。3歳児から5歳児までの保育に接するのははじめてでした。「藪漕ぎ」を知ったのもその時です。5歳児(年長)の卒園間際の頃に、園の先生が付き添って、幼稚園の裏山の藪のなかを数人のグループで歩くのです。「藪漕ぎ」はもともと山登りで行われるもの。もちろん毎年無事に園舎に戻ってくるのですが、この活動では「道に迷わせる」ことをあえて行います。ずいぶん乱暴なことを…と思われるかもしれませんが、オコナーの本を読む間、私の頭のなかにはこの「藪漕ぎ」のことが呼び起こされていました。

オコナーの本の表題にあるWAYFINDING(ウェイファンディング)とは何か。この本の後半にティム・インゴルドの定義が次のように引かれています。それによると、「過去の体験をもとに微調整された近くと行動力を持つ移動者が、目標に向かって『手探りで進み』、進行中の周囲の知覚的観察に対応してみずからの動きを絶えず調整する技能」(『道をみつける力』, p283)です。

「道を見つける」ならGPSを使えばいいという意見もあるでしょう。実際、わたくしも上京したときに宿泊先を探すときにはスマホでGoogleマップをよく使います。これはGPSで自分の位置を地図表象上に示して、それwを見ながら最短距離で行く方法です。上の引用文の二重カギ括弧部分「手探りで進み」の感覚はまったくないとこに特徴があります。「進行中の周囲の知覚的観察」がまったくないかと言えばそうでもないのですが、いずれにしても周囲の知覚的観察もGoogleマップの地図表象が前提です。

 『道を見つける力』の143ページから145ページには、進化哲学者のショー=ウィリアムズの「社会的痕跡説」について述べられています。「人類という動物は別の人類や動物の残した痕跡を『読む』ことを覚え、やがてそうした印から過去の出来事の持つ意味を推測するようになった」という考え方のことです。「痕跡」を「『読む』こと」によって「そうした印から過去の出来事の持つ意味を推測する」ようになったというわけですが、その「痕跡を読む能力」(認知過程としては、読んで「推測する」ようになったところが重要だと思います)から「道を示す独自の人工的な記号や象徴」をこしらえ、「身ぶりによる合図や話し言葉」を使うようになり、最終的に「書き言葉」を生み出すわけです。「書物」はそのようにして作られました。「書物」は紙の上に残された「社会的痕跡」です。

 そして、仲間の人間や動物が残した「痕跡のパターン」を視覚的に分析する種は人類だけであり、そのことが「物語を語る知性」となりました。「痕跡」を読むことによって、追跡する者は「痕跡」を残した者の「心と身体のなか」にいるところを想像しながら物語を生み出すのです。そこで求められるのは「自己中心的な自己参照と別の主体の視点から見た他者中心的な感覚」であり、そのような認知システムによって、「罠や落とし穴を仕掛けるときには、想像のなかで自分に置き換えた動物が何を知覚し、どんな精神状態になるのか、その可能性にしたがってすべてを整え」ることになるのです。

 進化哲学者ショー=ウィリアムズの言葉をもとにしたオコナーの考察を踏まえると、理解するための七つの方法の起源はどうやらここのところにあるようです。こうしてみると、エリンさんの言う「理解するための方法」の一つである「推測する」が根源的な「わかる」ための方法であると言うことができるでしょう。「痕跡」★★を読むことで「推測する」ことになりますが、「推測する」ことを引き出すのが、「痕跡」を読みながら「質問する」ことになります。10年ほど前に吉田新一郎さんが翻訳した『たった一つを変えるだけ』の「質問づくり」が有効なのは、学びのなかで「推測する」という方法を学ぶ者にたくさん使わせることになるからだと思います。また、「自己中心的な自己参照と別の主体の視点から見た他者中心的な感覚」によって引き起こされる「イメージを描く」行為も、「推測する」行為の大きな手がかりになるだけでなく、理解するという行為を厚くしていきます。

オコナーの考察はさらに続きます。

 

「この一連の認知的発達は、想起意識の誕生を説明するものでもある。想起意識とは、時間のなかの存在物としてみずからの体験を認識する能力のことだ。想起(オートノエティック)という語は、「知覚する」を意味する古代ギリシャ語を語源としている。この用語は、統合失調症研究の文脈で使われることもある。自分の思考が外部の発生源から来ていると信じる統合失調症患者は、想起失認とされる。1970年代には、著名な実験心理学者エンガル・タルヴィングをきっかけに、想起意識に注目が集まった。タルヴィングは、過去の出来事の記憶であるエピソード記憶を、文脈とは切り離された事実を意識的に引き出す意味記憶とは異なるものとして区別した。タルヴィングに言わせれば、エピソード記憶はいわばシステム内の接着剤だ。それがあるおかげで、主観性、想起意識、そして体験をつなぎあわせ、一貫した自己認識感覚を維持することが可能になる。このエピソード記憶システムがあるからこそ、わたしたちは時間のなかで自分の位置を見定め、過去へ去り、未来へいくことができる「見通す(プロスピー)」または「見晴らす(プロスペクション)」と呼ばれるプロセスだ」(『道をみつける力』, p.144

 

これを読むと理解するための方法の源には「想起意識」の誕生と関わることがわかります。「推測する」は「想起意識」の誕生によって可能になったのです。タルヴィングの説をもとにオコナーは「システム内の接着材」となるのが「エピソード記憶」だとしていますが、「関連づける」という理解するための方法はこの「エピソード記憶」を活用するものです。

「解釈する」「修正しながら意味を捉える」という理解するための方法は、いずれも「時間のなかで自分の位置を見定め、過去へ去り、未来へいくことができる「見通す(プロスピー)」または「見晴らす(プロスペクション)」と呼ばれるプロセス」を支えるものです。いずれも「主観性、想起意識、そして体験をつなぎあわせ、一貫した自己認識感覚を維持する」エピソード記憶を根拠にしています。

オコナーの本はウェイファンディング(道を見つける力)についての本です。人類学的なフィールドワークをもとに、人間にとって重要な道を見つける能力の根源に迫ろうとしています。が、そこで書かれていることは「わかる」ための方法を考える上で重要な示唆をもたらすものばかりでした。

オコナーが引用している、馬術家のダッドリー・パターソンの次の言葉はとても示唆的です。

 

「どこへ行こうが、なんらかの危険が待っている。それが起きる前に、予想できるようにならなきゃだめだ……精神に磨きがかかっていなければ、危険を予想することはできない……精神を磨けば、長生きできる。人生の踏みわけ道が、ずっと遠くまで続く。どこへ行こうが、危険に捕えられる。それが起きる前に、頭のなかで予見できる。どうすれば、そのチエの道を歩けるかって? そうだな、たくさんの場所へ行くといい。そこをじっくり観察しろ。そのすべてを覚えろ。あなたの親戚も、その場所のことを話してくれるだろう。彼らの話すことも、残らず覚えろ。それについて考えろ。そうしなければいけないのは、あなたを助けられるのは、あなた以外にはいないからだ。それをしていれば、あなたの精神は磨かれる。安定して、回復力を持つようになる。厄介事を遠ざけておける。長い道を歩き、長い時間を生きられる。知恵は場所に宿る。けっして干上がらない水のようなものだ。生きるためには、水を飲まなければいけない。そうだろう? 要は、場所にあるものを飲まなければいけないということだ。その場所のことを、すべて覚えないといけないんだ。」(『道をみつける力』, p.165

 

 冒頭に取り上げた幼稚園での「藪漕ぎ」も、パターソンがいうように生きるために必要な「知恵」を手に入れるためのものです。「知恵は場所に宿る」からです。道に迷いながら道を見つけることは、エリンさんの『理解するってどういうこと?』の「理解の種類」にはないものですが、これが人生において大切な「理解の種類」であることは確かです。。

本や文章を読む行為もまた同じではないでしょうか。どこかに答えがあるわけでもない。誰かが教えてくれるわけでもない。自分で「痕跡」を見つけて、それについて考えることで、新しい発見が生まれるわけですし、読むことが面白く思えるわけです。「痕跡」を見つけて、その痕跡について、理解するための方法のどれかを使って考えていくことが、本を読む時の「道を見つける」行為に他なりません。読書行為のウェイファンディング、さらに探っていきましょう!

 

★ねをはす HOTEL BOOK & CAFÉ

 https://neohas.jp/

★★ 本や文章の場合、読者の注目すべき「痕跡」にあたるものが、この「RW/WW便り」の65日(「合い言葉は、ノーティス・アンド・ノート(そこに注目して! そこにちゃんとメモして!)」)、73日(「本(Book)。頭(Head)。心(Heart)」)、88日(「本(Book)。頭(Head)。心(Heart)」)で言及されているビアーズとプロストの「道標」です。

2026年8月14日金曜日

本ブログ2019年1月4日号の質問への答え

 しばらくぶりに『教科書をハックする』を読み返していた時に、このブログの2019年1月4日(https://wwletter.blogspot.com/2019/01/blog-post.html)の記述を思い出しました。

 それは、書く時の(読む時も!!)クリティカル・シンキングの大切さについてです。(「批判的思考」とは訳すべきとは思えない「クリティカル・シンキング」とは、1980年代の半ば以降、2019年の記事を含めて、なんと40年間の付き合いになります!)

 そこでは、最後に「選択をする、拒否する、他のものを使ってみる、はっきりさせる等とありますが、あなたはこれら4つ以外に何か考えられますか?」と投げかけたことを、自分自身過去7年半考え続けていました。

 その答えの一部が、『教科書をハックする』の181ページの「ナショナル・ライティング・プロジェクトは、書くことが分析、統合、評価、および解釈などの高次の思考スキルを発達させること、および理解するためには書くことが影響していると決定的に結論づけました」と書かれているところ(特に、太字の部分)に見出しました。

 これは、ブルームの思考の6段階の高次の思考スキルを指しています。

 そして、同じページに「書くことで思考力と理解力が向上するのはなぜでしょうか? おそらく、紙の上に考えを書き出そうともがくことが、学習者の概念理解の助けになっているのでしょう」とあります。もがく機会を生徒に提供する授業、あなたはどのくらいやれていますか?

 また、「書く力」の向上をめざす全米委員会(The National Commission on Writing)は、「生徒が知識を自分のものにしたければ、細部にこだわり、事実を理解し、生の情報や漠然と理解された概念をほかの誰かに伝えることができる言葉に置換する必要がある。要するに、生徒が学ぶ場合には、彼らは書く必要があるということだ」(同上、182ページ)としています。

 

 さらには、『教科書をハックする』の184ページに書いてある「書くことによって最大限の恩恵を受けるために生徒は、内容について考え、その意味を吟味し、妥当性に疑問をもちます。そのように仲間と共同で作業して、あとで振り返りに利用するためのポートフォリオに書いたものを保存する時間が必要となります」という部分にも引っかかりました。いまいち分かりにくい文章だなと思い、原書に当たって、この部分をいま訳すなら「生徒には、学んだ内容についてじっくり考え、それがどのような意味をもつのかを探り、本当にそうなのかを問い、自分の考えをまとめ、仲間と協力しながら学ぶ時間が必要です。また、書いたものをポートフォリオに保存し、後で見返して学びを深めることも大切です」とした方が文意にあっているとも思いました。

 ここに書いてある、学んだ内容についてじっくり考え、それがどのような意味をもつのかを探り、本当にそうなのかを問い、自分の考えをまとめ、仲間と協力しながら学ぶ時間をもつことを、あなたはどのくらいできていますか? さらには、考えたことをジャーナルないしポートフォリオに収め、後で見返して学びを深めることも、クリティカルな思考には欠かせない方法であることも分かります。

 

 以上は、「あなたが教える際に(このブログでは『読み・書き・聞く・話す』を教える際にですが、他の教科でも同じレベルで重要です!)大切にしていることは何ですか?」という問いに対する追加の(それも暫定的な)回答です。これからも継続的に考え続けます。

 あなたが何か追加したいものを見つけたときは、ぜひ教えてください。

2026年8月8日土曜日

「道標」の見つけ方

先日、朝倉かすみさんの『よむよむかたる』(文藝春秋、2024年)を読みました。70歳を過ぎた高齢者たちが営む読書会(佐藤さとるさんの『だれも知らない小さな国』(講談社)を少しずつ読んで語り合う)を舞台とした小説です。この小説にカイリーン・ビアーズとロバート・プロストの言う「道標」がどのように見つかるか、試みました。

ビアーズとプロストが提案した、本や文章を読んでわかるための「道標」は、「予想外の行動」(読者の期待と登場人物の行為との鋭い対照、それまでの行動やパターンと矛盾)と、「アハ体験」(ある登場人物が、自己・他者・周囲の世界に関する自分の行動や認識を変化させた何かを自覚すること)、「難問(難題)」(ある登場人物が内面でもがかざるをえなくなるような問題)、「賢者の言葉」(年長の、賢い登場人物が、中心人物の人生に関して提供するアドバイスや深い思考に満ちた言葉)、繰り返し(その小説の多くで繰り返し使われる出来事、イメージ、特定の語彙)、回想の場面(物語の進行を中断して、登場人物が回想する場面)、の六つです。『よむよむかたる』には、六つの「道標」★のほとんどが見つかります。
 たとえば、『だれも知らない小さな国』第三章の前半ではじめて作中の〈ぼく〉が〈こぼしさま〉と会話する場面がありますが、『よむよむかたる』の読書会では登場人物の一人(「マンマ」)が「〈こぼしさま〉ってサァ、死んでいくこと、なんじゃないかナァと思ったんだよネ」と言い始めその後自らの解釈を話します。長くなるので引用はしませんが、「マンマ」の言葉は「賢者の言葉」だと考えられます。それを受けて「まちゃえさん」と呼ばれる人物が「ハアッ!」と大声を出して「分かるヨウ。ビンビンくるヨウ」「こんなに分かってんのに、どう分かってるかうまく言えないヨウッ。アーッ切ない」と身をよじるシーンが続きます。ここには「まちゃえさん」の「アハ体験」が表現されている、と私は考えました。また、この小説には一人だけ「やっくん」と呼ばれる28歳の安田という男性が会の世話役として登場します(彼は「作家」でもありますが、なかなか小説が書けないという悩みをもっています)。色々な出来事に出会うたびに安田は自分の過去の記憶を想起する箇所がたくさんあります。ですから「回想の場面」が比較的多く見つかります。「その「回想の場面」はなぜ重要なのか?」という問いを立てて考えてみると、安田と他の人物たちとの明確には描かれていない関係を推論せざるをえません。
このように「道標」に注目することは、本や文章の意味をつくり上げる大切な手がかりになります。しかし、六つの「道標」がどういうものか一通り教えてもらったとしてもそれをすぐに使いこなせるわけではありません。ビアーズらは「道標」をすぐに使えるようになることは無理なので、それぞれの「道標」についてミニ・レッスン★★をした後、たとえば次のようにすればいいと言っています。

「道標、簡単な定義、テクストのなかに生徒たちが探すべき特徴、核となる質問、を書いた模造紙をできるならその学年のあいだ教室に掲示してください。また、道標の生徒用しおりを配布して、読む時には必ずそれを使うようにします。このしおりの表には道標の定義が書いてあるので、生徒たちはそれを見て道標がどんなものだったか思い出すことができます。裏には、道標を見つけたときにページ番号を書き込めるようになっていますから、ノートを使いたくなければこれを使えばいいです。」★★★

 しばらくはこうした「模造紙」をすぐに見ることができるようにしたり、六つの道標がどういうもので、それを見つけたらどういう質問をすればいいかということを簡単に記した「しおり」を作ってそれを生徒たちにもたせるようにすればいい、というわけです。
 それは先程『よむよむかたる』について私がやったようなかたちで、生徒たちが自分で選んだ本や文章を読みながら「道標」に気づけるようにするということです。でも、なかなかうまくいかない場合があるかもしれません。それでも、ちょっとしたヒントを示すと見つけやすくなるでしょう(それが一人読みをする子どもへのサポートになります)。ビアーズらは次のようにも言っています。

「生徒たちが道標を見つけることがうまくなってきたら、見つけたところを見せるようにあまり頻繁に求めない方がいいです。生徒は、見せたくなったら見せにくるものです。とても一般的な問いですが、「あなたはどんな道標を見つけましたか、そして見つけた時に何を考えましたか?」は個人のカンファレンスや小グループか大グループでの話し合いを始めるとてもよいきっかけになります。その後に次のような質問をしてみましょう。「道標の一つではないと考えたけれども、その物語にとって大切だと考えられた場面はどこでしたか?」ここで強調されているのは見つけやすいもののことで、この六つの道標に加えて、どんな読書行為にも起こっていることはほんとうにたくさんあるものです。
 (中略)「予想外の行動」、「アハ体験」、「難問」はもっともよくあらわれます。もしも20ページぐらい読んでもそのうちの一つも見つけられないようなら、ゆったりと考えて、次のように言ってください。「今読んだ部分でこの登場人物は変わった? もしそうなら、その人物の行動や考えが変わり始めた場面はどこか見つけてみよう」と。生徒がその場面を見つけたら、それをしっかり見つめるのです。たぶんそこには、「アハ体験」か「予想外の行動」があります。そこを読み直して「核となる問い」をじっくり考えるように言えばよいのです。
 「難問」については間違えやすいので、生徒たちを助けるために次のように質問しましょう。「登場人物がほんとうに悩んでいると思えたり、誰か他の人に悩みを自分から打ち明けたり、『自分はどうすればいいんだろう』などということを自分で言っているところはなかったかな? そうした問いをよく見てみよう。覚えておいてね。『難問』に気づいたら、そこのところは中心人物がほんとうに悩んでいるところだから、時間をとって自分が抱いた質問を自分の頭で考える必要がある。たぶん、きみも登場人物と同じことを悩んだことがあるよ」と。
 「賢者の言葉」がその本に見つからない場合は、中心人物が他の人物から学んでいるところはないか質問してみるといいでしょう。
 「繰り返し」については、何らかの言葉やイメージや出来事が繰り返し出てくるところがないか尋ねてみるといいでしょう。
 「回想の場面」の場合、生徒たちに、登場人物がしばらくの間何かを思い出しているところを探すように言えばいいです。「回想の場面」を見つけるには、「思い出した」、とか「母さんがいつも話してくれた・・・」とか、「こんな思い出がよく浮かんでくる・・・」とか「覚えている」といった言葉を手がかりにして、その場所に印をつけるように言えばいいです。」★★★★

 生徒が「道標」を見つけるために教師としてどのようなヒントを与え、支援をしていけばいいのかということが具体的に示されています。生徒たちが自分で選んだ本や文章(教師が未読の場合もある)で「道標」を見つける場合の支援の仕方が、六つの道標それぞれの場合について述べられています。実際に『よむよむかたる』を読む私はこのビアーズらのアドバイスを参考にしながら、「賢者の言葉」や「回想の場面」に注目することができました。「難問」は中心人物の安田(「やっちゃん」)の小説を書けないという「悩み」に目を向けることで見つかりました。これはこの小説のテーマにもつながっています。
「道標」はわかるための方法(理解方略)を使うための入り口ですが、とくに共通に学ぶことのできる国語教科書教材を読む授業のなかで、効果的な「道標」の見つけ方を学ぶことができれば、生徒たちが学習内容と課題に迫るためのアプローチにもなるでしょう。そしてもし同じ作品のある箇所について、それが「アハ体験」なのか「難問」なのかということを生徒たちが話し合って、お互い自分の立場を少しだけ修正することになれば、それはその作品について協働して積極的に考えていることになるとビアーズらは言っています。「道標」に注目し書いて考え、お互いのそういうプロセスを知ることができれば、読む面白さを発見する大切な手がかりになるのだということです。知らず知らずのうちに、注意を怠らずに本や文章を読む力を身につけることになるということです。

★Kylene Beers & Robert Probst (2013) Notice and Note: Strategies for Close Reading, Hinemann,
★★ 山元隆春著(2026)『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン―「対話的読み」による自他の理解と自己形成―』(溪水社)の88~102ページには短編小説「ありがと、おばさん」(ラングストン・ヒューズ)を使った「予想外の行動」についてのミニ・レッスンが示されています。
★★★Beers & Probst(2013) p.107『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン』103ページ
★★★★Beers & Probst(2013) p.108-9 『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン』 104~105ページ

2026年8月1日土曜日

詩人の変節 ~高橋順子の詩を読む~

  [時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、今回も、以下の投稿をお願いいたしました。]

 自分の信念がくつがえされた時、詩人はどのような言葉を使うでしょうか。

今回取り上げる高橋順子さん1は、太平洋に面する海辺の町に育ち、海が

大好きでした。海を題材にした詩を書き、34歳で上梓した第1詩集は『海まで』というタイトルでした。

それから30年以上経ち、高橋さんは海が嫌いになります。それは、東日本大震災の津波がきっかけでした。70歳で上梓した詩集『海へ』には、高橋さんが「海が大好きだった」では済まなくなった心境を綴る詩が収められています。そのような高橋さんの2つの時期の詩を読み比べてみたいと思います。

 

 まず、初期に書かれた詩を1編、紹介します。

 

貝殻のみち2

 

ここは埋立地だから

海に向かって歩いてゆくと

貝殻みちになる

白い化石の貝殻を手にあふれさせる

 

九階のベランダに

打ち上げられたように貝殻をならべると

ゆっくりと海の時間が

昼なら昼を 夜なら夜をひたす

 

 

 ゆったりした時間が流れているのを、私は感じます。穏やかな眼差しで海を眺めている詩人の姿を想像します。この頃の自分について高橋さんは、「海は、自分が対するものと言うより、自分と同一化しているんですね。」3と言っています。

 

 

 次に、東日本大震災の後に書かれた詩を1編、紹介します。

 

海を好きだった4

 

海を好きだった

(わたしの第一詩集は「海まで」という)

海が凶暴な力をもっていることは知っていたが

それは海の向こうの海のことだと思っていた

幼かった足うらをえぐる小さくない波の力と砂のつぶを

いまでもわたしの足うらはおぼえている

わたしの海は荒れるときも

防波堤に当たって夢が砕けるように自らを砕き

わたしの夢に侵入することはなかった

三月十一日 東日本大震災が起きた

大津波がわたしの古里にも押し寄せ

中学時代の同級生など十四人が波に呑まれた

これが わたしの海か

これが 海のわたしか

わたしの「海まで」の矢印は 海によってへし折られたことを

分かってゆかねばならない

一カ月後余震の中を古里に行くと

家の庭からも前の道からも

それまでは家並みにさえぎられて見えなかった海が見えた

海が見えた というよりは

海を見なければならなかった というべきだろう

海 青い他界

古里の家には昨日青畳が入った

わたしたちは凪を踏むようにして その上を歩いた

 

 

どうでしょうか。

「これが わたしの海か/これが 海のわたしか」

自分が慣れ親しんだ海とはあまりにも違う凶暴な海の姿。そのような海に対する、そしてそう信じてきた自分自身に対する怒りを感じます。

 続けて、詩人は次のように言います。

 

わたしの「海まで」の矢印は 海によってへし折られたことを

分かってゆかねばならない

 

これが海だなんて思いたくない、しかしこれが現実である。それを「分かってゆかねばならない」というように読み取れます。

 さらに、次のように言います。

 

それまでは家並みにさえぎられて見えなかった海が見えた

海が見えた というよりは

海を見なければならなかった というべきだろう

 

この表現は、まわりくどいと感じます。が、そのまわりくどさが、詩人の心持ちを表しているのでしょう。津波で壊されて更地になった古里の家並みを見ることのつらさを、詩人はこのような言い方で表していると思います。

 そして、詩は次のように締め括られます。

 

海 青い他界

古里の家には昨日青畳が入った

わたしたちは凪を踏むようにして その上を歩いた

 

他界とは、この世とは違う「あの世」(死後の世界)のことです。多くの人びとの命を呑み込んだ海を、詩人はこのような言葉で呼びます。海と自分が一体になって、そこに心をゆだねていた頃の詩人からは、出てこない言葉だと思います。

津波で被害にあった家に、新しく畳が入ります。青い海と青い畳。この「青」は詩人の目にどのように映っていたのでしょう。そして、青畳の上をどのような思いで歩いたのでしょう。

 

「凪(なぎ)」とは、風がやんで波が消え、海の水面が静かになる状態です。詩人の心の中も「凪」の状態になったのでしょうか。あるいは、自分に言い聞かせるように、自分に言い含めるように、思いを秘めて静かに歩いたのでしょうか。私はそのような想像をします。

荒れ狂う津波との対比で、詩の末尾に「凪」という言葉が置かれているところが、とてもいいと感じます。

 

引用した2編の詩を比べてみると、「貝殻のみち」は、言葉が詩的な雰囲気を醸し出していますが、「海を好きだった」は、詩的な雰囲気を排除しています。海が嫌いになったことに向き合い、葛藤し、それを詩として差し出している詩人の姿に、私は感銘を受けます。

 

 

1 高橋順子は、1944年千葉県生まれ。九十九里浜の東端に位置する飯岡町(現在は旭市の一部)に育つ。

2 『高橋順子詩集成』(書肆山田, 19964243ページ

3 「高橋順子詩集成*付録」の三木卓との対談より。

4 『詩集 海へ』(書肆山田, 2014)より

2026年7月24日金曜日

読み手としてのアイデンティティーを育む

 マギーが小学1年生のとき、私は彼女の読み方支援(リーディング・サポート)を担当することになりました。指導が始まったばかりの頃、まずは読者としての彼女を知ろうと、私たちはテーブルに向かい合って座っていました。支援担当の教師として、私は子どもの強みや次のステップを把握するためにいくつかの評価テストを行うのが常でしたが、中でも一番気に入っていた方法は、子どもたち自身が自分のことをどんな読者だと捉えているかを知ることでした。子どもの読書に対する意識(マインドセット)を探るため、私はいつも決まって次の2つの質問をしていました。

  • 読むことに関して、自分の強み(得意なこと)は何だと思う?
  • あなたにとって、本を読むことってどんなこと?(自分はどんな読者だと思う?)

少し雑談をして場を和ませた後、私はマギーを見て最初の質問を投げかけました。「マギー、読むことについて、自分の強みはどこだと思う?」

マギーは目を見開きました。質問の意味を一生懸命に理解しようとしているのが伝わってきます。彼女は困惑した表情で私を見つめました。

「あなたの強みについて少し教えてほしいの。読むことで、自分はこれが得意だなと思うのはどんなところ?」と、質問の意味が分かりやすくなるように説明を加えました。しかし、マギーは肩をすくめるだけでした。

新学期が始まって間もない時期だったので、こうした質問に答えるのが難しいことは予想していました。たいていの場合、日々の指導の中でこうした対話を重ねていって初めて、子どもたちは答えられるようになっていくものだからです。

私は彼女が答えるのをじっと待ちました。どうしても返事が浮かんできそうにない様子だったので、次の質問に進むことにしました。「あなたにとって、本を読むとはどんなこと?」するとマギーは、「この先生、ちょっと頭がおかしいんじゃないかしら?」とでも言いたげな目で私を見つめました。一体全体、何を訊かれているのだろう、という顔です。私は言い方を換えました。「読者としての自分について教えて。」

それでもマギーは、どう答えたらいいのか分からないという様子でした。

「本を読むときの自分について教えてほしいの。どんな本を読むのが好き? どこで読むのが好きかな? お気に入りの本はある? 本や読むことに関して先生に教えておきたいことはある?」と、彼女のことを少しでも知りたい一心で言葉を重ねました。

彼女は言葉に詰まりました。私は焦らせないよう、静かに返事を待ちました。彼女は真剣に私の質問を考えています。私はさらに待ちました。「……ダニーの本と、グッド・ドッグ(いい犬)の本を読むのが好き」と、彼女は少し不安そうな声で答えました。

「犬が出てくる本が好きなのね」と私は推測しました。これから本を選んでいくための、小さな、でも大切な手がかりが得られて嬉しくなりました。

彼女は少しホッとした表情でうなずきました。

こうしたマギーの反応に、私は全く驚きませんでした。子どもたちに初めてこの質問をしたときには、よくある反応だからです。最初のカンファランスはいつも一筋縄ではいきません。「待つ時間」をたっぷり取り、質問を細かく噛み砕いて伝える覚悟が必要だと分かっていました。正直なところ、子どもたち(特に就学したばかりの幼い子たち)は、自分の強みを言葉にしたり、自分の好みを語ったりする機会など滅多にありません。しかし、時間をかけて意識的に言葉を交わしていくうちに、子どもたちはこうした問いに上手に応えられるようになっていくのです。

 

スキルの先にあるもの

教師になりたての頃の私は、子どもの読解力を「学習面」の観点から説明することなら、お手の物でした。さまざまな評価テストや少人数指導、個別のカンファランスを通じて子どもの学習状況を把握し、その進捗を具体的に描き出すことができたのです。「この子の今の強みはここで、次のステップはこれだ」と見極める知識もありました。もちろん、学習面での成長を知ることは大切ですが、それは子どもたちがもつストーリーのほんの一部に過ぎません。学力としての読書について語ることはできても、本当に知るべきことはそれだけではないと気づいたのです。

子どもたちに寄り添って指導を続けるうちに、読むのが得意な子は、単に「読むスキル」が高いだけではないことに気づきました。彼らは自分の「読書の世界」を、より広い視野で捉えているようでした。自分が何に関心があるかを自覚しており、身近に読み仲間と呼べる人がいて、好きな本について生き生きと語ることができました。彼らにとっての読むことは、学校にいる時間だけで終わるものではなかったのです。こうした子どもたちとの出会いを通じて、私は一人の読み手としての「アイデンティティー(「読み手としての姿勢や意識」)」をすくい上げるために、もっと本質的な問いを自分自身に投げかける必要があると学びました。

  • 私は、教室にいる子どもたちがどんな本を好むのかを知っているだろうか?
  • 彼らがこれまで本とどんなふうに関わってきたかを知っているだろうか?
  • 次に読む本を、彼らがどうやって見つけているかを知っているだろうか?

「何ができるか(スキル)」だけでなく、「読み手としてどう生きているか」に目を向ける必要がありました。学校で何を読んでいるかだけでなく、放課後に何を読んでいるかまで想像を広げなければならなかったのです。子どもたちは私に教えてくれました。学習面でのサポートは不可欠だけれど、それだけでは十分ではないのだと。

だからこそ私は、読み手としてのアイデンティティーを育てることが重要なのだと確信しました。

マギーの指導にあたっても、彼女が必要としている学習面でのサポートを行うのは当然です。しかし同時に、これまでの教え子たちが気づかせてくれたように、彼女が「自分は本を読む人間だ」と思えるようになる手助けもしたいと考えました。彼女との日々の対話や学びの場において、私は次の3つの大切な考え方を常に意識するようにしたのです。

 

読み手としてのアイデンティティーを育む対話

私の場合、まずは子どもの様子をじっくり「観察し、耳を傾ける」ことから始めます。子どもたちが何度も繰り返し読んでいる本や、楽しそうに開いている本はどれだろうか。教室に足を運んで、子どもたちが自分のブックボックス(読書箱)にどんな本を選んで入れているかを確かめたり、図書室でどんな基準で本を探しているのかをおしゃべりしながら聞いてみたりします。また、一人で黙々と読むのが好きなのか、友達と一緒に読むのが好きなのかを観察し、家では誰と一緒に読んでいるのかを尋ねることもあります。そうするうちにマギーも少しずつ心を開いてくれ、アイデンティティーを育むときの「お決まりのやり取り」が少しずつ見られるようになっていきました。

私:「あなたって、きっと〇〇なタイプの読み手よね……」 子ども:「うん、私は〇〇なタイプの読み手だよ!」

 

読書コミュニティーとのつながりをつくる

マギーが読み手としての自分について語れるようになったら、次のステップは彼女を「読書コミュニティー(本を通じた仲間とのつながり)」へと繋ぐことです。自分と好みの似ている友達と話す機会をつくるのはもちろん大切ですが、あえて異なる好みをもつ子と話すことも、新しい世界や可能性に気づく素晴らしいきっかけになります。友達と語り合う時間を確保し、著者と繋がり、身近な読書仲間を見つけられるようにサポートすることで、子どもたちは「読み手としての人生」へ向けた第一歩を踏み出せるようになります。私がマギーのような子どもたちを読書コミュニティーへと繋ぐために、よく実践している具体的なアプローチは次の通りです。

  • 子どもたちの「おすすめ本」をクラスの話題の中心に据える
  • 「この本、(クラスの)誰が気に入ってくれそうかな?」と問いかけてみる
  • お気に入りの作品について、ブログを書いたり紹介動画を作ったりする機会をつくる
  • クラスの枠を越えて、学校全体や家庭などへおすすめ本を発信する
  • 著者のウェブサイトやSNSを通じて、作家本人と繋がれるよう手助けする

 

本への架け橋を架ける

子どもたちが自分なりの「読み手としての姿勢や意識=読み手としてのあり方(アイデンティティー)」をつかみ、仲間との繋がりを感じ始めたら、次はいよいよ「ステップアップ(背伸び)」の段階です。これまで触れたことのない新しい作家や本、ジャンルへと橋を架け、世界を広げていきます。教室にやってくる子どもの中には、最初からある程度「自分は読み手/書き手」としてのアイデンティティーをもっている子もいます。そうした子は、幼い頃から読み聞かせをしてもらっていたり、大好きな本が決まっていたりします。本の探し方を知っていて、次に何を読もうか決まっていることも多いものです。だからこそ、マギーのような子どもたちが一歩踏み出し、世界を広げられるようサポートすることが欠かせません。私が子どもたちと本との間に架け橋を架けるために、意識しているアプローチは次の通りです。

  • 「ありのままのあなた」や「これからなりたい自分」を、いつでも温かく迎え入れてくれる本を届ける
  • 「読者としての成長の歩み」が今どの段階にあっても、全肯定して伴走してくれる本を届ける
  • 教室の図書コーナー(学級文庫)の本の並べ方をこまめに変えて、まだ見ぬ本との出会いを演出する
  • 本の「ペアリング」を作る(例:「これが好きなら、次は〇〇がおすすめ!」「物語とノンフィクションの組み合わせ」「この登場人物が好きなら、今度はこのキャラクターに会ってみて!」)
  • 「読み聞かせ」を通じて、子どもたちが自分一人では選ばないような新しい本へと世界を広げる

子どもたちに「文字の読み方(スキル)」を教えることはできても、本当に難しいのは、彼らを「自発的な読み手」に育てることです。読むために必要なスキルや方法を伸ばすことが不可欠であるのは言うまでもありませんが、それ以上に、一人の読み手としてのアイデンティティーを見つけ、育めるよう手助けすることこそが、その後の人生を大きく変える決定打になります★。

学期の後半、マギーの保護者と彼女の成長について面談する準備をしていた頃、私は再びあの質問をしてみました。今度のマギーは目を見開くことも、困惑した顔をすることもありませんでした。読み手としての自信がしっかりと育っているのが見て取れました。

ある日の指導の終わりに、私はマギーに言いました。「読み手としての自分について教えてくれる?」

彼女は弾むような声で答えました。「私、犬と猫……あと、動物の本が好き! エイミー・クラウス・ローゼンタールさんの本も好き。『ジ・オーケー・ブック』★★と『イエス・デイ!』★★★が特にお気に入り!」彼女は一度言葉を区切り、パッと顔を輝かせてこう言いました。「私、本が大好き!」

私たちは、確かな一歩を踏み出していたのです。

 

出典・https://choiceliteracy.com/article/build-reader-identity/

 この記事を書いたキャシー・ミア(Cathy Mere)先生は、オハイオ州で幼稚園年長から小学6年生までの学年を担当する教師として勤務したほか、リテラシー・コーチ(読み書きに特化したインストラクショナル・コーチ)やリーディング・リカバリー(Reading Recovery)教師としても活動してきた。著書に『More Than Guided Reading』がある。

★リーディング・ワークショップとライティング・ワークショップでは、正解的なスキルとしての読み方や書き方を教えるよりも、一人ひとりの読み手や書き手によりよい読み手や書き手になることを教えることが大切と言われます。

★★『The Okay Book』は、Todd Parr作の絵本です。

★★★残念ながら、『Yes Day』の邦訳はありません。エイミー・クラウス・ローゼンタールの本で邦訳があるのは、『おかあさんはね』と『ディアガール : おんなのこたちへ』です。

2026年7月18日土曜日

なぜ人は本を読むのか

  動画もあるしゲームもあるのに、どうして紙の「本」を読む必要があるのか? 読書することの何がいいのか? ―――このように質問されると、考え込んでしまってなかなかうまく答えられません。いいものだから黙って読めばいいのだという類の回答では質問者は納得してくれないでしょう。

難波優輝さんの『本とは何か』(新潮新書、2026年)には冒頭の二つの質問に答えるための大切な考え方が示されています。難波さんは「私たちが本を読む、ということは、本で何かパフォーマンスしている、ということだ」と書いています。読書をパフォーマンスとして捉えると「本」や「読書」のどのようなよさが見えてくるのでしょうか。

『本とは何か』には「物語」「人文書」「ハウツー本」「雑誌」「マンガ」「楽譜とレシピ」など様々なジャンルの「本」を読むことの特徴が細やかに分析されていきます。たとえば「ハウツー本」や「自己啓発本」を読む場合、それは「自分で読み進めている」という感覚が得られることが重要だと難波さんは言っています。

 「他でもない私が本を手にとって読み進めている。その自己コントロール感覚は、自己啓発の際にはよい気分にさせてくれるはずだ。動画を流しているときは、音声や映像が流れていってしまう。それらは「良い言葉」であるのだが、私がパフォーマンスすることで出現する言葉ではない。それらは過ぎ去る。私が本の文字列を追うとき、私がその言葉をパフォーマンスする。それゆえ、自己啓発書が本であることによって生まれるのは、読者の自己効力観のようなものであるかもしれない。」(『本とは何か』93ページ)

  たとえば、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)を読んでいる私は、この本に書かれていることをただなぞっていくだけでなく、自分の頭のなかで納得しながら読んで、コモン君の言動を自分にあてはめながら考えていました。これは自分でこの本のページをめくりながら読むことで起こることです。

 難波さんはその時の「読書する姿勢」に注目します。

 「セザンヌの「読書をする女性」が私は好きだ。これらは、読書の深さ、沈思黙考する人々の姿を描く。その顔はうつむいている。「うつむく」という姿勢に注目しよう。スマホをみているときの姿勢とも、ディスプレイをみているときとも違う、このうつむくという姿勢は、ことのほか、重要である。この姿勢は外界を遮断する。話しかけにくさがある。自分自身も、没入できる感覚がある。そして、何かを深く考えているような、日常の動作とは少し切り離された雰囲気がある。」(『本とは何か』94ページ)

  セザンヌの絵はネットで検索するとすぐに見ることができます。山陽本線の電車のなかで『君たちはどう生きるか』を読んでいる私の姿も、外から眺めると「何か深く考えているような、日常の動作とは少し切り離された雰囲気」をもつ姿であったと思います(それに注目する人はいなかったと思いますが)。セザンヌだけでなく、ルノアールやマネやマティスや黒田清輝、浅井忠など、高名な画家たちが、女性たちの「読書する姿勢」を描いた絵を残していることは、本を読む人間のその読書パフォーマンスの姿が独特の「雰囲気」を醸し出すことに気づいていたと言うことができるでしょう。読書に没頭する姿はまさしく「絵になる」というわけです。そしてこの「孤独性」はインタラクティブですぐに反応が返ってくる「ゲーム」では得られないものだと難波さんは言っています。

 「本の良さは、「孤独性」にある。本は開くと雄弁に語りかけできて、いろいろ命令をしたりして騒がしいけれど、それをすぐに黙らせることもできる。あるいは、本は行為してくるけれど、ゲームのようにはインタラクティブではないし、書き手は遠い場所にいる。この迂遠さ、この本の孤独さ、綴じている=閉じていることは、とてもユニークな経験を与えてくれる。」(『本とは何か』102ページ)

  「綴じている=綴じている」からこそ、「読書パフォーマンス」は「ユニークな経験」をもたらすのですが、それは読者一人ひとり異なるものです。何が書いてあったかという質問の答えには共通性があるかもしれませんが、どのように読んだかという質問の答えはむしろ違ってくる。そこに「読書」を「パフォーマンス」と捉えることの意義があります。

 「他人の感想や解釈をよむとき、私たちは「その人がどう読んだか」というパフォーマンスに注意を向けているのだ。ふだん、自分の読書については「作品を読んだな」しか意識できない。しかし他人の読書となると、私たちは自然と「パフォーマンスの仕方」に注意を向けられる。「え、そんなふうに読んだの!」と驚くことも何度かあったはずだ。つまり、自分自身の読書ではくっついてしまっている「作品」と「パフォーマンス」が、他人の読書パフォーマンスに出会うことで分離されるのだ。(中略)自分一人では見逃していた読書パフォーマンスの可能性を、他人を通して初めて実感できる。だからこそ、私たちは書評を読み、読書会に参加し、友人と感想を語り合うのだ。それゆえ、読書の後の様々な場面での語り合いというのは、たんなるおまけではなく、読書パフォーマンスにとって根本的な営みであり、本を読む楽しみの根源にあるもののようにも思える。」(『本とは何か』3536ページ)

 一人で本や文章を読んでいる時には自分の読み方にどのような特徴があるのかということを意識することはまずありません。その「本や文章」の内容を追いかけているのだと思い込んでいます。難波さんの言葉を借りて言えば、それは「本や文章」(難波さんは「作品」と言っています)と自らの読む「パフォーマンス」が「くっついて」いる状態だということになります。「本や文章」を読んでいる私がある方向で意味づけをしながら読み進めているわけですから、当然それは「本や文章」そのものではありません。「本や文章」を読む私の「パフォーマンス」を分離するようなことはしていません。

 複数の読者が他の人の読みや解釈を知る機会を設けることができれば、難波さんの言う「作品」と「パフォーマンス」を分離することができるのかもしれません。『理解するってどういうこと?』の第4章の表41には「理解のための方法と得られる成果」、あるワークショップでの「私たちは理解することにどのように取り組んでいるか」というエリンさんの質問に対して参加者が答えてくれた「理解のプロセス」と「理解の成果」がわかりやすくまとめられています(『理解するってどういうこと?』140141ページ)。「理解のプロセス」に書かれていることは「読書パフォーマンス」を言葉にしたもので、「理解の成果」はそれが自分にもたらした「いいこと」です。各自の「読書パフォーマンス」はお互いに話をすれば明らかになるのです。そしてその時に自分が使ったツール(理解するための方法)はどのようなものであったかということを共有することができれば、「自分自身の読書ではくっついてしまっている「作品」と「パフォーマンス」が、他人の読書パフォーマンスに出会うことで分離される」という経験をすることができるのです。こうしたことが本を読むことの新しい喜びをもたらしてくれるのだと思います。それが、なぜ人は本を読むのかという大切な質問に対する答えを見つけることにつながるのです。