2019年4月26日金曜日

作家ノートをいかした実践


 A Writer’s Notebookというタイトルの本の中で、著者のラルフ・フレッチャーは、「作家のような人生を送る最善の方法として『作家ノート』があります」と言い切っています。同じことは、読書家、数学者、科学者、歴史家、市民等のような人生を送るのに読書ノート、数学者ノート、科学者ノート、歴史家ノート、市民ノートは最善の方法と言えます。ピーター・レイノルズ風にいうと「作家っぽい」「読書家っぽい」・・・・人生を送れるようになります。私は、これまでの「ギヴァーっぽい」PLCっぽい」以外に、最近は「学校が抱える様々な問題をハックするっぽい」人生も送り始めています。
 前回、ブッククラブ形式でこの本を読んだ時も、このことについては触れました。ぜひ、あなたもこだわりのある「〇〇っぽい」ライフスタイルを送ってみてください。世の中の見方や行動が確実に変わります。

 今回のハイライトというか一番盛り上がったのは(5人でまだ最初の2章しか読んでいませんが)、子どもたちが日々の生活に追われて鈍感になっているのでは、ということでした。

Aさん英語教室で中高生~大人まで、1週間の内にあった出来事を発表してもらっています。数年前に一人の高校男子がこう言っていました。「僕達は毎日学校に行き、塾に行き、家に帰って、また学校に行き、の繰り返しです。休みの日も1日塾です。毎週、大した変化はありません」私は、「まったく・・・若いのに死んでるみたいな生活だな」と思うと同時に、「それでも絶対何かあるはずだよ、生きていれば。感じていれば」と思いました。それからしばらくして、別の教室で接する子どもたちのほとんどが一週間の出来事を聞いても何があったか思い出せない、いつも自信満々で「何もない」と断言することが多かったのです。今の子どもたちは、小さいころから五感を育むことも、意識することもあまりなく、無味無臭、乾燥地帯で生きている気がしてなりません。
フレッチャーが書いていることを参考に今後のレッスンに活かしたいとは思いますが、「忘れ得ないこと」や「激しく頭の中で繰り返されるような疑問や好奇心や気がかり」を本当に子どもたちがもてているかどうかということや、「でも実際の子どもたちの生活はなー・・・」と不安というか戸惑いというかそんな気持ちも同時進行で感じているところです。でも、チャレンジはし続けます。

Bさん・自分も含めて(子どもたちだけでなく)、自分の中に起こる感覚に鈍感になっている気がしています。「気づかない」「感じない」症候群です。日常に忙殺され、五感がどんどん鈍くなり感性が閉じてしまっているような….。私はWWの実践の中で「身体から立ち上る感覚と言葉をつなげる」ことを大事にしています。そのために、まず五感を敏感にして「感性を開く」トレーニング?が必要なのかなと最近は考えています。感性が閉じちゃっている人に有効な方法として「街を歩くときに、たとえば黄色に注目して黄色があったら『あ!きいろ』『これも黄色』ってやるといいというような話を聴いたことがあります。見慣れた風景の中で見過ごしていた景色に出会う=観察の目を養うということでしょうか。そこにあるものに気づく自分の中にある感情を、五感を通してありありと感じる。そこが「書く」行為の出発点なのかな、と。小さなアリが歩いている風景。小さい頃は飽きずに何時間も追い続け、そこに自分なりの物語を紡いでいたような気がします。

Cさん・でも、鈍感になっているのは、私たちが毎日を見る目がないから? ちゃんと生きていないから? 学校(授業)や家庭が死んでいるから? 生きるとは同じことの繰り返しだから? 本当に毎日が同じで、何も違うことはない生活を送り続けていいわけがないので★、作家ノートやWWの実践を通して、それが明らかになれば、ものすごくおかしいことを私たち大人が子どもたちに対してしてしまっていることを暴き出す材料にはなりますね!! 作家ノートは、それを変えるための起爆剤?

Aさん鈍感になりすぎて変化に気づかない。スマホの画面に集中して周りを見回すことがない。それがどうしたという無関心さ。親以外と話す機会の少なさ。半径5メートルくらいの中で生活しているような視野の狭さ。こういう部分を解決できる、目を覚まさせることができるのがWWだったり、RWだったりするんだろうな、と期待はしていますが、私は学校で指導しているわけではないので、時間が足りません。保護者と協力しながらできるのが作家ノートかなー、と思っています。親や家族にもインタビュー形式で何か話を聞いてメモを取ってくるように宿題を出しています。

Cさん・遊びの仕方なんかとも、関係ありそうですね。それに費やす時間も含めて。★★

Aさん・そうなんですよね。遊び方がわからない、危険なことはまずしない、時間に管理されすぎていて「5時になったら帰る」「6時までに帰る」というきまりに支配されているため、「暗くなる時間の変化」や「肌寒くなる季節の変化」、「どこかの家から夕飯の匂いがしてきたら帰る」みたいな感覚が全くありません。「あー、帰るの遅くなった。叱られるかなー」みたいなドキドキ感もなく、うちの近くの子が遊びに来ていても「6時になったら教えて」とか「今何時?」「もう6時になった?」とか3分おきに聞いてくる、そんなのばかりです。先回りして危険を未然に防ぐ、が赤ちゃん~18歳になるまで続いているような気がして、いつまでたっても自立できない結果になっているような・・・?

Dさん・しかもいろいろなことを記述するというところに価値があるような気がします。ふわふわしたことや心の中で起こっていることを言語化することが子どもたちの中で減っているような気がしています。

Aさん・そうですよね。「言語化する」って大事なのに減っていますよね。そして「単語のみの会話(ライン等で)」でやりとりしていることが大半です。

 おまけ(?)として、作家ノートの体裁や大きさについて・・・・

Bさん・具体的なご相談今年度WWの授業を開始するにあたって、「作家ノート」をどのようなものにするか、悩んでいます。昨年度は「書く場所はどこでも」にこだわって、画板のような固いファイルに用紙を挟むタイプのものを考えました。でも今回この本を読んで、日常生活の中で「いつでも」にこだわりたいという思いがあります。そうすると、常に携帯できるような小さめのノートがいいのかなぁ。ちょっとした気づきやつぶやきをすぐにメモできるようなものがいいなぁと思っています。

Eさん・これから渡すのですが、もう買ってあって、キャンドゥーで三冊百円で買えるB5の大学ノートです。ケチって、半分に裁断しようかと思ったのですが、僕は大きいサイズの方がいいだろうと(『イン・ザ・ミドル』にあるように一行空けて下書きを書くように子どもたちに教えるので、大きい方がよさそうです)そのままのサイズで子どもたちに渡す予定です。ルーズリーフでやっている先生もいましたけれど、普通のノートの方がバラバラにならないでいいかな、自分的にです。小さいサイズとなるとその半分。A5サイズのノートもありかも。
目的にあったデザインがいいですよね。僕だったら、いつでもといっても、メインは授業で、家に帰って子どもたちが書く。それで休日や放課後に外に作家ノートを持ち出すこともあるかもしれないけれど、そこまで意識があれば、手提げやリュックなどカバンに入れて持っていくだろうから、B5の大学のノートでいいかなと思います。

Bさん・「作家的な生活を送ってもいいと考えている大人にも耐えうるか」とありましたが、むしろこの本を普通の?大人が読んだら「作家的な生活を送りたい!」と思うのではないでしょうか。それほど「書く」ことが人生を魅力的にきらきらさせる魔法を持っていると感じさせる本だと思いました。私も「自分の作家ノートを作って本格的に取り組もう!」と決意しました。


★『「読む力」はこうしてつける・増補版』の58~59ページに、「読むことの妨げになっている要因」が8つ紹介されています。①興味・関心やモチベーションの欠如、③読む時間(読むことを楽しむ経験)の欠如、⑤教師による適切なサポートの欠如といっしょに、⑦不十分な基礎知識(や体験)が含まれています。①~⑥および⑧は、リーディングワークショップ(や書くことに関してはライティング・ワークショップ)の導入によってすべて解決しますが、問題は⑦です。これについては、同書に次のように書かれています。「まずは、家庭が子どもたちにどれだけ価値のある体験をさせられるか、また国語以外の教科で、どれだけ意味のある学び、つまり子どもたちが自分のものと思えるような教え方・学び方が実践できるかにかかっています。」
★★この点については、『遊びが学びに欠かせないわけ』に極めて多岐にわたって(歴史学的、考古学的、社会学的、教育学的等の分析を踏まえながら)詳しく書かれていますので、ぜひご一読ください。

2019年4月19日金曜日

「憶える」と「忘れる」

  「記憶」(憶える)について考えることは同時に「忘却」(忘れる)について考えることでもあります。テストのために一夜漬けで勉強したことは、テストが終わると忘れてしまうことが少なくないですが、それはどうしてなのでしょうか? その反面、忘れたくても忘れられない記憶がわたくしたちを悩ませる場合も少なくありません。忘れられない記憶は、人を励ます場合もありますが苦しめる場合も少なくないのです。

 はじめての「一人読み」で心を揺さぶられた時のことは覚えています。小学校2年生の時に学校の図書室で、アンデルセン童話の「みにくいアヒルの子」★を読んだ時のことでした(この記憶自体、わたくし自身何度か人前で話したり、書いたりしているので、その過程でつくり上あげられた可能性も否定できませんが)。「みにくいアヒルの子」の内容に感銘を受けたと言えばそうなのですが、むしろ周囲のアヒルたちに「みにくい」と言われていた主人公が、成長し空に飛び立とうとして、自分が白鳥だったことに自ら気づく、という最後のどんでん返しに不思議な感情(それをアリストテレスは「カタルシス」と呼んだわけですが)を覚えたのです。何か心のなかに「感動」のスイッチが入ったような感じ。

 精神科医・岡野憲一郎さん★★の『精神科医が教える 忘れる技術』(創元社、2019年★★★)には次のように書かれています。



 「あることをしっかり憶え、体に刻み込むと、それをあまり考えなくなるらしい。とすれば、しっかりと憶えることは忘れることにつながるのだろうか? これは矛盾してはいないか?」

 これは非常に重要な疑問です。このような疑問を抱くのは無理もありません。記憶に関するじつにパラドキシカルな部分であり、意識しない記憶-いわば無意識的な記憶が存在するからです。

 ふつう私たちが、ある記憶を呼び起こすとき、意識野にあるイメージを思い浮かべることだと考えがちです。しかし、そもそも記憶とは、自分の役に立つ、しっかり保持されている記憶であっても、たいていは忘れられていて一時的に意識野の外にあり、無意識的になっているのです。それは脳のどこかに格納されてふだんは姿を見せず、必要に応じて引き出されます。

 ただ、記憶のなかには、引き出すつもりがないのに勝手に出てきてしまったり、格納するつもりはないのにされてしまったり、あるいは場合によっては格納したくてもどうしてもそこで居座り邪魔しつづける、というものもあるのです。こうした不完全な格納のされ方によって「外傷記憶」が生まれたりします。(101102ページ)



 わたくしの「みにくいアヒルの子」体験の記憶は、いやな記憶ではないようです。もちろん、ずっと頭のなかの意識野に置いているわけではありませんが、人生ではじめて一人で読んだ記憶として、何度も繰り返し引き出すことができます。思い出したくない記憶にはならなかったようです。

 岡野さんはラリー・スクワイアというアメリカの心理学者の記憶分類法を取り上げ、記憶には「頭の記憶」(陳述的記憶declarative memory)と「体の記憶」(手続き的記憶procedural memory)があり、この二つの記憶がバラバラになると、忘れたくても忘れられない記憶になってしまう(「格納したくてもそこで居座り邪魔しつづける」ことになる)と言い、「あることを体験する、ということは、ひじょうに具体的な記憶の部分と、それにともなった感覚的な部分の記憶を同時に体験することです」(108ページ)と言っています。わたくしの「みにくいアヒルの子」体験で言えば、アヒルの子が実は白鳥の子だったという物語のどんでんがえしの記憶は「ひじょうに具体的な記憶の部分」であり、えも言われぬカタルシスを憶えたということが「それにともなった感覚的な部分の記憶」ということになるでしょうか。確かに「頭の記憶」だけでもないし、「体の記憶」だけでもありませんでした。両者が結びついていたのです。

 もしも「みにくいアヒルの子」のプロットや舞台設定だけを憶え込まされていたら、あるいは、わけのわからない「感動」だけを刷り込まれていたら、きっとこんなふうに幸福な記憶として「みにくいアヒルの子」の読書体験がわたくしのなかに残ることはなかったでしょう。前者の場合、読書の記憶すら残らないでしょうし、後者の場合、おそらく感動した覚えだけはあるけれども、それが何の話だったかは思い出せないでしょう(いたずらに感動したがる人になっていた可能性もあります)。いずれにしても、わたくしの読書個体史に何の足跡も残さなかったでしょうね。そしてこれは『理解するってどういうこと?』でエリンさんが乗り越えようとした事態であると思います。

 岡野さんの言う「頭の記憶」と「体の記憶」のバランスは、読むことの理解においても極めて重要です。



★学校図書館にあった、ディズニー映画になった童話のシリーズの一冊だったと記憶しています。挿絵に助けられながら読みました。

★★はじめて読んだ岡野さんの本は『心のマルチ・ネットワーク-脳と心の多重理論』(講談社現代新書、2000年)でした。「心」は単一のものではなく、多重的なネットワーク構造がそなわったもので、そのネットワークが分断されたときに、多くの問題が生じるという論に衝撃を受けました。

★★★2006年に同じ出版社から刊行された『忘れる技術-思い出したくない過去を乗り越える11の方法』を改題・新装したものだそうです。2019年版では、香山リカさんによる「復刊に寄せて」という文章が冒頭に加わっています。

2019年4月13日土曜日

学年の初めにできるだけ早く達成したいこと  ~本を楽しめない子がひとりもいないようにする

「子どもたちにとって『自分にぴったりあった本』で学年をはじめることができれば最高なのですが、ちょうどぴったりの本を見つけようと教師がどれだけ注意を払っても、なかなかそうもいきません」(ルーシー・カルキンズ 『リーディング・ワークショップ』 171ページ)。

 新学期、リーディング・ワークショップをスタートされた先生もいらっしゃると思います。すぐに子どもたちが、自分の読める本に夢中になるとよいのですが、上の文にあるように、そんなに簡単ではないようです。

 ⇒ 上の文を書いたカルキンズは、上の段落に続けて、少なくとも学年の初めは、「まずは、やさしい本を読みます」と子どもに伝えることで、実際は子どもたちにとってちょうどいいぐらいの本になる、と経験から学んだことを記しています。また、『リーディング・ワークショップ』(173ページ)には、教室の図書コーナーの一部に、難易度で分けたコーナーもつくることも書かれています。『リーディング・ワークショップ』の「自分が読める本で学年を始める」(171~174ページ)をご参照ください。

 ⇒ そういえば、『読書家の時間』(新評論、2014年)に、小学校1年生の教室から、「ぴったりの本を探す前のスラスラ本をどんどん読もう」というミニ・レッスン例(22~23ページ)があります。また、同じく小学校1年生の教室から、「自分にぴったりの本を探すには」というミニ・レッスン例(28~29ページ)もあります。

 選書のサポートは学年の初め、そして年間を通して必要です。以下、子どもたちの選書を助けるためにできそうなことを、日本の教室や文献から、いくつか紹介します。

◆ 退屈そうにしている子どもに気づいたときには、小学校で教える都丸先生は以下を行うそうです。

・その子に合っていない本は、無理に読まなくてよいことを教える。
・教師が一緒に読む。
・教師が一緒に本を選ぶ
・本の難易度が高すぎる場合 → その子にとって読みやすい本(すらすら読める)を紹介する。

<そして、学期が進んで子どものことがわかってくると>

・過去の読書履歴から、その子に合う本を紹介する。
・本の内容自体に興味がもてない場合 → 興味がもてる内容の本を紹介。虫が好きな子には昆虫についての本、野球が好きな子には、野球がテーマの本など。

 さらに選書を助けるために行っていることとして、以下を教えてくれました。

・数ページ読んでみることをすすめる → すらすら読めるかどうかを確かめる。
・読み聞かせをした本の作者が書いた別の作品をすすめる(これは、特に低学年に効果的だそうです)。
・ 朝の会(または帰りの会)に本の紹介コーナーを設定する。  →  教師や子どもたちがおすすめの本を紹介し合うことが日常になる。
・ 作品の背景となる情報を提供する。(作品の舞台、ジャンル、ネタバレしないあらすじなど) → その本への興味を高める。

 このように、都丸先生の教室では、それぞれの子どもについて知ったことも活用しながら、選書のサポートが継続的に行なわれているのが、よくわかります。

◆ リーディング・ワークショップ関連の本で、新学期が始まって少したった頃によいかも?と思ったのは、子どもたちが、自分が使える選書の基準をつくれるように「やさしい本」「ちょうどぴったりの本」「難しい本」とはどういう本なのか(どういう特徴があるのか)を、クラスで話し合って、リストをつくる★というものです。

 ⇒ 子どもたちは、難しい本が、自分を読み手として成長させてくれると思い込んで、読めない本を読もうとすることもあるそうです。ちょうどぴったりの本を、たくさん読むことで、読書家として成長できること、難しすぎる本は、少し先に読めるようになるときまで待つことなども、一緒に伝えてもいいかもしれません。

 また「今読んでいる本を読むのをやめるのは、どういうときか」というリストをつくる★★というのも、あります。こうすると、やめた方がいい本というのは、読んでいて、どのように感じる本なのか、というイメージも具体的にできそうです。

 新学期の慌ただしさの中ですが、以下のアトウェルの言葉を読むと、選書のサポートの大切さを、改めて感じ、選書のサポート頑張らなくっちゃ!と思わされます。

「楽しめない本を読む生徒がひとりもいないようにする、というのが、私の最重要課題。本に満足できないと、私が決して教えたくないこと、つまり読書は退屈だと学んでしまうことになります。満足できない本はやめてもよい、と許可するだけでは不十分で、むしろ、やめることを奨励しますし、時には即時停止命令を出すぐらい」
                (ナンシー・アトウェル 『イン・ザ・ミドル』 148ページ)

*****

★と★★ どちらも、Irene C. Fountas,  と Gay Su Pinnell の Guiding Readers and Writers, grades 3-6 (Heinemann, 2001)より。
143-148ページに、最初の20時間のミニ・レッスン例のリストがあります。この二つのレッスンは、どちらもその中にあります。

2019年4月5日金曜日

新刊案内『宿題をハックする』


 あなたは「宿題」に対して、どんな思いや考えをもっていますか?
 宿題は出していますか? 
その中に、読むことや書くことは含まれていますか?
 それとも、まったく宿題は出していませんか?
 宿題について、学校で同僚たちと話すことはありますか?
 話すことの必要性は感じたことがありますか?
 宿題についての知識や情報を、教師になってから得ていますか?

 日本で宿題が議論されることは、残念ながらほとんどありません。欧米では、「教育というテーマのなかで、宿題ほど議論が多いテーマはないでしょう★」(『「学びの責任」は誰にあるのか』の191ページ)であるのに対して。
 その理由はなぜか、と考えました。
 欧米では、親も教師も、現状維持派、もっと増やす派、はるかに少なくする派、そしてまったくなくす派までが入り乱れて活発な議論が展開されています。議論の中には、研究者も含まれています(高校以外は、ほとんどその学力との関連が見られないという結果が出ています)。
 それに対して、日本では、親も教師も、現状維持派およびもっと増やす派しかいなさそうなので、話題に上る余地はありません。また、学力向上の圧力はアメリカ等の比ではありませんから、より多くの時間を家庭でも勉強に費やすことは、子どもたちが知識を獲得するのにプラスに働きこそすれ、マイナスになることはないと信じられているのだと思います。さらには、研究者も宿題をテーマにして論文を書くという興味もわかないようです。現場や社会の関心やニーズを感じられない状況がありますから、面白いテーマと思えないのでしょう。
さらに翻って考えてみると、学校の中の学びと学校の外の学び(宿題をすることだけでなく、塾に行くことも含めて)がつながっていないはずはありませんから、宿題(や塾)についての議論がほとんどないということは、学校の中での学びについてもほとんど疑問★★も、議論も起こらないことを意味します。両者は、コインの裏表ですから。
 そんな状況がこれからも続いてしまっていいのでしょうか?
 何は大切で、何は大切でないかを見極めて行動しないと、子どもたちにはもちろん、社会に対しても申し訳ないです。私たちが教育という営みにかかわっているのは、まさによりよい学びをつくり出すためであり、その結果としてのよりよい社会をつくり出すためですから。

 宿題はよりよい学びに寄与するのでしょうか?
 その答えは、時と場合によります、です。
 よく練られていれば、寄与しますし、練られていなければ、時間の無駄になるだけでなく、弊害の方がはるかに大きいでしょう。「学ぶことは苦役であり、できるだけ避けた方がいいもの」というイメージをより強固にしているだけですから。
 新刊の『宿題をハックする』は、こうしたことについていろいろ考えさせてくれるだけでなく、生徒たちが学校外で主体的に学ぶ方法を具体的かつ多様に紹介してくれています。ぜひ、ご一読を!


◆ 割引情報
1冊(書店およびネット価格)2592円のところ、
WW&RW便り割引だと     1冊=2200円(送料・税込み)です。
5冊以上の注文は     1冊=1900円(送料・税込み)です。

ご希望の方は、①冊数、②名前、③住所(〒)、④電話番号を 
pro.workshop@gmail.com  にお知らせください。

※ なお、送料を抑えるために割安宅配便を使っているため、到着に若干の遅れが出ることがありますので、予めご理解ください。


★ その理由は、保護者の発言権にあると思います。日本でも数年前からモンスター・ペアレントなどと言われはじめていますが、欧米ではその比ではありません。自分の主張は相手が誰であろうとハッキリ述べる文化があるところでは、議論は沸騰せざるを得ません。また、学校と家庭の役割というか責任のあり方についても、明確なのがいいのか(欧米)、曖昧なほうがいいのか(日本)という違いも根底にあります。
★★ 数年前に「アクティブ・ラーニング=主体的、対話的で、深い学び」が脚光を浴びましたが、すでに葬り去られた感すら漂っています。教科書をカバーする教え方とアクティブ・ラーニングは、真っ向から対立しますから、最初から無理があったと言えます。問題は、それを言い出した人たちがそのことに気づいていないことでした。