2025年7月18日金曜日

見えないものを見えるようにする工夫

  読書猿さんの『ゼロからの読書教室』(NHK出版、2025年)は、分厚い本を読むのに苦しんでいる「女の子」と「フクロウ博士」の対話で進む本です。読者になるためにどういうことが必要になるかを教えてくれます。。二部構成ですが、その第1部「本となかよくなるために・・・・・・しなくてもいいこと、してもいいこと」は、本の読み方についての大変わかりやすい説明です。その第1部の12回の対話の見出しは「全部よまなくてもいい」「はじめから読まなくてもいい」「最後までよまなくてもいい」「途中から読んでもいい」「いくつ質問してもいい」「すべてを理解できなくてもいい」「いろんな速さで読んでいい」「本の速さに合わせてもいい」「経験を超えてもいい」「小説なんて読まなくていい」「物語と距離をおいていい」「小説はなんでもありでいい」となっています。「本の読み方12箇条」というような名前をつけて、目のつくところに貼っておきたくなる言葉ですね。

たとえば「途中からよんでもいい」には、読書感想文をどうすればいいかたずねる「女の子」に対して、「フクロウ博士」は次のように言っています。夏目漱石の『こころ』が取り上げられています。

「そうじゃ、答えを探すべき問いが「先生はなぜ死のうと思ったのか?」に決まったら、文章を読んでいき、その答えになりそうなもの、答えそのものじゃなくともヒントになりそうなものを見つけたら、付箋を貼るなりして、読み返せるようにしておく。この印をつける読み方を刻読というのじゃよ。あとから読み返すのは、文字どおり再読という。」(『ゼロからの読書教室』38ページ)

 「刻読」という言葉は私もはじめて知りましたが、今この原稿を書く際にも『ゼロからの読書教室』の該当ページに付箋を貼っています。なるほど刻みつけるように「しるし」をつける読み方です。もちろん見通しもなく「しるし」を付けても、どうしてそこに付箋を貼ったのかということが後でわからなくなってしまいます。「フクロウ博士」の言葉で大切なのはまずその本を読みながら「答えを探すべき問い」をもつというところです。その問いがあれば「答え」や「ヒント」になりそうなところに注目することができるようになります。その本を「再読」する際の目印になりますね。

 もう一つ「いろんな速さで読んでいい」のところには「楽しみのために読むなら、本が用意してくれた順序とスピードに乗っかって読むのがいい」という「フクロウ博士」の言葉があります。みなさんはそういう「本が用意してくれた順序とスピード」に注目して読んだことはありますか。これは目から鱗でした。「フクロウ博士」は「速い淳に言うと、《説明》《場面》《描写》の3つじゃ」と言います。「フクロウ博士」は主にフィクションを扱っていますが、これらはいずれの文章の働きで、ノンフィクションでも同じです。

 《説明》は「作品と読者の「隔たり」を一足飛びに結びつける」、《場面》は「本の中と外、つまり物語の時間と読み手の時間をちょうど同じにシンクロさせる」と「フクロウ博士」は「女の子」に明快に《説明》します。小学校国語教科書の「定番」になっている「ごんぎつね」(新美南吉)の六つの《場面》のことを思い浮かべてください。もし《場面》の切替がなければ「物語の時間」と「読み手の時間」はかなりズレてしまいます。《場面》の切替があるから「ごんぎつね」の読者は物語の作中人物の言動についていくことができるのです(《場面》が切り替わる間の登場人物の行動を想像することもできます)。そして《描写》は「たんさんの言葉で細かく詳しく伝える」もの」で、そうなると「本が用意してくれたスピード」はとても遅くなるか、ほとんど進まないと言うのです。

 確かに「フクロウ博士」の言う通りで、「女の子」だけでなく、読者である私も「なるほど」と納得しました。そういう「速さ」の違いを意識するのと、意識しないのとでは読み方にかなりの違いが生まれそうです。「物語論(narratology)」という研究分野がありますが、「フクロウ博士」はその専門家たちが言ってきたことを「女の子」にわかるように、そしてそれが日頃使うことのできる「読み方」になるようにしています。さすが知恵の象徴と言われる鳥です。

 『理解するってどういうこと?』の第7章に様々な「作品構造」(原著ではText Structure)について書かれています。「フクロウ博士」が言っていることは「表71 読み・書きを学ぶ際の主要な構成要素」(262ページ)のうち「フィクション」のところに挙げられていることがらです。「フィクション」の特徴のなかに「場面」がありますし、「作家の技」として「説明」「行動」「対話」や「後の展開の暗示・並行して描かれるストーリー」「フラッシュバック(回想)とファストフォワード(未来へ飛ぶ)」が挙げられています。そして、エリンさんは次のように言っています。

「実際に自分が読んでいる作品の構造を「見る」ことはできませんが、構造はその本の輪郭をかたちづくっています。優れた読者たちは、作品を読み進むにしたがってその構造を感じ取り、そうして得た感覚をもとに効果的な予測を立てることができます。再び家屋建築の例を使って言うなら、ダイニングルームから別の部屋へと歩いている人がいたとすれば、典型的な家のレイアウトからすると、その向かう先は寝室よりもキッチンである確率が高いでしょう。フィクションでは、登場人物や舞台設定について書いてあることから、当然その後には何らかの対立や衝突があらわれるだろうと予測することができます。読者がその作品構造を「見る」ことはありませんが、それを感じることはできます。「聞く」と言えるかもしれません。作品構造の指導とは、この見えないものを見えるようにして、読者がその文章自体の内容と構造をツールとして、理解を深め、自らの思考を変更し、これまで持っていた知識や考えや感じたことを修正するために使うことができるようにすることです。」(『理解するってどういうこと?』261263ページ)

 「フクロウ博士」の言葉は、見えない「作品構造」を「女の子」に見えるようにしてくれます。構造が見えれば(聞ければ)、読者は自分が感じていていたその本のよさを言葉にすることができるでしょうし、そのプロセスで自分がそれまで持っていた「知識や考えや感じたことを修正する」ことになります。その本の「見えないものを見える」ようにして、その本のどこが自分に大切であるか分かったという「喜び」を味わう読みの生まれる条件を「フクロウ博士」いや読書猿さんの『ゼロからの読書教室』は教えてくれるのです。

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