『理解するってどういうこと?』の第9章の後半には「理解することで得られる成果」がまとめられています(表9.1、347~348ページ)。七つの理解のための方法によって私たちが経験する「成果」が、フィクション・ノンフィクションそれぞれ18ずつ掲げられ、「理解する」ことの何が私たちにとって「いいこと」になるのかということを示してくれます。その最初に掲げられているのは「書くために学ぶこと」。フィクションの場合は「すばらしい作家や詩人たちから学ぶ能力、作家の目で彼らの作品を読み、「作家の技」を自分の作品に取り入れる能力」が得られることが「理解のための方法」を使う「成果」だと書かれています。
先日読んだチャック・パラニューク(池田真紀子訳)『創作のルール―最初の一行で読者を引きつける技法―』(早川書房、2026年)は、整備工から作家となったパラニュークさん自身が、書くことを通して手に入れた「作家の技」をわかりやすい言葉で余すところなく語った本でした。て読者を引きつけるために何が大切なのかということを、自身の創作経験にもとづいて述べた本です。
この本には、パラニュークさんが師と仰ぐ作家トム・スパンバウアーのレッスンで学んだ言葉が随所に引かれます。スパンバウアーの言葉を引いたあと、パラニュークさん自身のエピソードが語られ、そのうえで「きみがぼくの生徒なら・・・」と続く語り方は、とてもわかりやすいものです。たとえば次のように。
「トム・スパンバウアーは僕らにいつもこう言い聞かせた。「言葉は人間の第一言語ではない」
きみが僕の生徒なら、きみ自身が毎日使っている、言葉を伴わないちょっとした身ぶりのリストを創りなさいと言うだろう。親指を立てるしぐさ。親指と人差し指で作る“OK”のサイン。思い出そうとして拳を額に軽く打ちつける動作。胸に手を当てたりもするだろう。ヒッチハイカーと同じように親指を立てても、その向きによててゃ「失せろ」の意味になる。(中略)きみが僕のせいとなら、そういうハンドシグナルを最低でも五十種類は挙げよと言うだろう。リストを作ってみれば、どれほど多彩な身ぶりを会話文に挿入できるか、つねに意識できるようになる。」(『創作のルール』33ページ)
「言葉を伴わないちょっとした身振り」を「五十種類」挙げるというのは大変なことですが、これは私たちが意識的にあるいは無意識のうちに使う「身振り」を、自分のものでも他のひとのものでも思いだし、意識することになります。パラニュークさんの「きみが僕の生徒なら」の「生徒」は作家を志望する人ということなのですが、「言葉は人間の第一言語ではない」というフレーズは、作家の卵のための言葉に限りません。もう少し広く、人が人をわかろうとする時にとても大切なフレーズでもあると、私は思いました。このような記述が『創作のルール』の魅力です。「書くために学ぶ」ことではありますが、それはこの世界を「理解するために学ぶ」ことでもあるようです。
本書中程からの「緊張」という章の冒頭では次のように書かれています。
「未完成のものに耐えられなければならない。書きかけの初稿であれ、登場人物の前に立ちはだかるできごとであれ、書きかけの原稿について、トム・スパンバウアーはよくこう言っていた。「未解決のものと長く向き合えば向き合うほど、それは自ずと美しい解決に向かう」(中略)きみが僕の生徒なら、緊張に対して抱くその居心地の悪さは理解できると僕は言うだろう。だがフィクションを書けば、自分の裁量のもと、しだいに高まっていく対立を体験できる。フィクションを書くことは、現実における緊張や対立に対処する助けにもなる。」(『創作のルール』107~108ページ)
「創作」論ですから、作家志望の読者に向けての言葉です。が、「未解決のもの」と長く向き合うことは、現実に生きていれば誰しもが経験すること。だからこそ、そうすることが「現実における緊張や対立に対処する助けにもなる」というふうに考えることもできます。こういうところは「創作」論にとどまらないと感じるのは私だけでしょうか。未解決のものと向き合ってそれにどのように対処するかに思い悩み「緊張」をおぼえることは、人生ではよくあることです。未解決な問題の解決策を試行錯誤することは、これから先の生き方を幾通りも考えざるを得ないことでもあります。言葉にするかどうかは人によって様々ですが、それは頭のなかでフィクションを書いては消し、書いては消しするようなもの。パラニュークさんの言葉はそのようにいかすこともできます。
映画化もされた『ファイト・クラブ』や『サバイバー』『チョーク!』等、多くのベストセラーを生み出したストーリーテラーの書いた創作法の本(例に挙げられているエピソードの一つひとつが短い小説のようでもあります!)には、本や文章を理解するためのヒントになるところも少なくありません。
「きみの書くものに、だらだらと当てもなく進み、挙げ句に尻すぼみになってしまう傾向があるなら、僕はこう尋ねるだろう。「きみの時計は何だ?」そして「きみの銃はどこにある?」」(『創作のルール』p.111)
パラニュークさんの言う「時計」とは「決められた期限に物語を強制的に終わらせ、その長さを制限するようなあらゆる要素」のことで、「銃」とは「序盤で導入されたあとは隠して、観客が忘れていることを期待する」もので「引き抜かれた瞬間、物語を一気にクライマックスへと押し上げる」もののことで、アントン・チェーホフの「第一幕で登場人物が銃を抽斗に入れたなら、最終幕でかならずそれを取り出さなくてはならない」という言葉に由来するものだそうです。よく「伏線回収」と言われるものに近いです。
「時計」は物語の時間を制限して緊張を高めます。「時計」が示されると読者はいつ何が起こり、どのような終わるのかを予測することができます。先行きに対する期待感とともに物語がどのような舞台で進んでいくのかということに一種の安心感を得ることができるでしょうから、かえって物語に没頭しやすくなります。プレビュー型の映画ではよく見られることです。「銃」の方は序盤で示された後は隠されてどこかの時点で引き抜かれるものですから、読者に「驚き」をもたらすものになります。
パラニュークさんはおびただしいほどの映画や小説の実例を取り上げて「時間」と「銃」を説明していくのですが、自分が読んでいる本や文章について「「時計」は何だ?」「「銃」はどう仕込まれているのか?」と問いかけてみることが、その本や文章を理解するためのすばらしいヒントになるのだと気づきました。書くための本から私が読むために学んだたくさんのことの、ほんの一つです。
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