2026年6月26日金曜日

二極化する子どもたちの言語環境

(写真は梅雨の北八ヶ岳です。深い苔に覆われて神秘的な空気に包まれます)


 今の子どもたちが生きる世界の言語環境は、大人の想像を超えて激変しています。長年、小学校教師として多くの子どもたちを見守ってきましたが、近年その変化を肌で感じずにはいられません。今日は、教師としての切実な視点から、現在進行形で起きている問題について書き記したいと思います。


(静かな曇り空の白駒池)



無法地帯になるSNSのオープンチャット


 今や、どの学校でもSNSトラブル(主にLINEをイメージしています)というのは目新しいものではなくなりました。都心部、郊外に限らず、どの子どももSNSトラブルに巻き込まれる可能性をもっています。なぜなら、ご存知の通り、子どももスマートフォンを持ち、使っているからです。友達とのやり取りの中で、いい使い方をしていれば、問題になることはありませんが、人間関係の作り方や自己表現の仕方が未熟である子どもたちですから、当然、そのSNS上でトラブルは起きます。それが、1:1の関係で問題がこじれるのであれば、子どもにとっても直接あって謝ったり、問題を解決したりする道が残されているでしょうが、グループチャットのように多数の友達が利用している場になってくると、トラブルは閉鎖的で排他的な空間になり、意図的に人を傷つけようとする無法空間へと変貌してしまいます。そこに、良識を持った経験のある大人は存在しませんから、それは当然のことです。


 高校生の我が子も当然のことながら、SNSを使っていますし、小学校教師という立場上、児童がどのような言葉を使ってSNSの閉鎖空間の中でトラブルを起こしているのか、少しはわかっているつもりです。少し例を挙げてみましょう。


 まず私が目を引くのは、単語、いや、単語でもない文字列です。「すご」「きしょ」「しね」「おつ」「やば」「えも」「えぐ」。2文字で表現されているものを挙げてみました。2文字で限定することはないですが、SNSのチャットの性質上、短文、もしくは単語でやり取りをすることが非常に多いです。たまに長い文章が入っていると思ったら、悪ふざけで何かのコピー&ペーストであったり、または長い文章を打ったことに対して謝罪の言葉が入ったりします。卓球のように即時即応的なやりとりを是とすることが基本マナーとして底通していて、読むことで相手の時間を使ってしまうことはタブーとされている風潮があります。読むことに時間を使って、相手への反応を返すのに30秒かかってしまうことは、強いて言えば、マナー違反なのです。


 また、スタンプや画像なども、学齢の低い子どもたちでも、駆使しています。たとえば、相手を攻撃し、傷つけることの意味を含んだ画像などを、どこからか持ってきて相手に送ったり、「死」を連想させるような画像を送りつけたりする事例もあります。言葉と違って、画面上に占める面積も大きく、視覚的に相手に伝わりやすいので、相手に与えるインパクトもテキスト以上のものがあります。


 言葉や画像の中には、当然のことながら、卑猥な言葉が入り込んできたり、人権上問題のある言葉を意図的に使ったりと、荒れ放題の状況となります。また、設定によっては、グループチャットに相手を無理やり引き込むということも可能です。そのグループに所属したくなく、グループチャットを退出したとしても、第三者に無理やり引き入れられてしまうこともあります。手の込んだやり口になってくると、相手のアカウント名と画像をそのままコピーして、あたかも相手かのような素振りをして、グループチャットに参加することも可能です。


 短文でのコミュニケーションやスタンプや画像、いろいろな設定等、家庭生活や社会生活とはかけ離れたコミュニケーション環境が、子どもが使っているSNSの中にはあります。規範を作る良識のある大人がいなければ欲望や感情が垂れ流しになる場になり、そこに悪意や憎悪が混じることで、人が傷ついていても何も感じないような、自分たち中心の混沌とした空間が形成されることになります。これが、現在のオープンチャットの現状ということになります。


(繁茂する苔たち)



「持たせなければいい」はできるか?


「持たせなければいい」という意見は当然あると思います。保護者同士で連絡先を共有している子ども同士で行うのであれば、親がSNSのやり取りを確認し、経験不足の子どもが発信してしまったことに対して、保護者が直接子どもを指導し、謝罪などの言葉をかけられる環境が整っているのならば、リスクは少ないと言えますし、それができないのならば、「もたせなければいい」という第三者の言葉はごく自然なものです。

 しかし、そう簡単でもありません。家族の形や家庭のあり方が複雑化すればするほど、親と子どもが連絡をとりあう手段は難しくなっていきます。保護者が遅くまで仕事をしなければならない、子どもが遅くまで習い事や塾に行かなければならないなど、家庭や地域によって事情は様々でしょうが、SNSを通じて保護者と子どもがコミュニケーションをせざるを得ない状況がますます増えています。誰からかかってくるか分からない固定電話では不安ですし、保護者も使い慣れているSNSアプリでしたら、子どもにすぐに使い方を教えることできます。こうやって、子どもたちはスマートフォンを与えられ、最初は保護者の指導の下、SNSデビューを果たしていきます。しかし、そんなに忙しい保護者や子どものスマートフォンの使い方を、保護者が手厚く指導することなどできるのでしょうか? 「もたせなければいい」という議論は、インフラ環境として出来上がってしまったSNSを使わせないことであり、生活自体が成り立たなくなってしまうほど、子どもたちの生活に根付いているのです。


(高見石小屋のランプ)




二極化する言語環境


 述べてきたように、SNSを通じた家族や友達同士のコミュニケーションが主体になればなるほど、手には常にスマートフォンが握られている環境が出来上がり、大部分の言葉の学習はスマートフォンから行われることになります。たとえば、現実に、動画サイトから刺激的な言葉を一日に3・4時間以上も視聴する児童がいます。心無い言葉や卑猥な表現などを、何の制約もないまま、一日に3・4時間以上自由に視聴する子どもは、そうではない子どもと全く異なる言語環境に身を置いていることになります。

 しかも、低い学齢の子どもは、周りの子どもたちもみんなそのような言語環境で暮らしていると錯覚します(実際に、地域によっては、生活環境が似たような状況になることもあるでしょう)。つまり、学校生活の中でも、そのような刺激的な言葉を相手に浴びせかけてしまう子どもが出てくることになります。

 しかし、良識ある保護者は、スマートフォンの使用の制限や禁止をしたり、動画サイトを閲覧できないように設定したりと、いろいろな手段を使って、言語環境を守っています。家族や友達同士と直接やりとりをするような顔の見える関係の中で育った子どもは、保護者が特殊な言葉を使うことのない限り、それほど、学校生活から逸脱した言葉を使うことはありません。一般的な保護者であれば、大なり小なりSNSなどの影響を理解していますので、「最初は」子どものスマートフォンの使用に制限をかけています。

 しかし、刺激的な言葉を動画サイトから浴びるように聞いている児童は、何の躊躇もなく、学校生活の中で友達に自分のもっている特殊で「いけてる」語彙を、そのような言語環境にいない児童にぶつけてしまいます。言い放った後は後の祭り。「そんなつもりで言ったわけではなかった」「なんでそんなにひどい言葉を言われたのか分からない」そんな言い分が並ぶことになります。同じ言語環境にいない子ども同士の加害と被害の関係は、同じ言葉でもそれに対する受け取り方が全く違うため、「傷ついた」「傷つけられた」の感覚のズレが関係悪化の引き金として強く働いてしまいます。


 現在の教室に通う児童の言語環境は、保護者の意識やスマートフォンの使用度などによって、二極化、または多様化しています。たとえば、聞くに耐えない動画で獲得した刺激的な言語で育つ子どももいれば、そのような言葉とは触れさせないよう「箱入り娘」のように育てられた子どももいます。そのような全く違う言語を使う者同士、保護者同士で、「傷つけられた」「傷つけられてない」という仲介の役割を担わなければならない先生たちは、手前味噌ながら、本当に大変な立場に立っていると言わざるを得ません。


(奥深い森に苔むす)



責任は誰にあるのか? 責任を持つことができるのか?


 子どものSNSの使用に責任を持たなければならないのは、言わずもがな、その保護者です。ですから、SNSで子どもが相手を傷つけたり、違法行為を行ったのならば、その責任は保護者にあり、保護者が謝罪をしたり、自分の子どもを指導をしたりする責任を負うのは当然のことでしょう。

 しかし、当の保護者はそれを行うことができるのでしょうか? アカウント名と写真から友達の誰かを把握するのは、保護者一人では至難の業です。話したがらない自分の子どもから、全く関係のないキャラクターの写真が貼り付けられている画面を見せられても、保護者が誰が誰だか把握するだけでも至難の業です。また、先ほどから述べているように、使っている言語が保護者とも違う言葉なので、それを読み解くだけでもとても時間と労力がかかる作業になります。聞いたことのない言葉と、意味が分からない表現の様式、画像とスタンプで、オープンチャットの中はぐちゃぐちゃです。

 さらに深刻なのは、保護者自身も他の保護者と繋がりを持っておらず、アクセスができないということです。習い事が一緒とか、そのような理由がなければ、他の保護者と連絡を取る手段は皆無です。個人情報保護という名目で、連絡網はもう20年前から消えました。保護者が集まらない懇談会では、当然そのような役割を担うことはできません。保護者にとっても、親類縁者以外で子どもとつながっている大人は、先生しかいないのです。

 そんななかで、保護者は本当に責任をもつことができるのでしょうか? それ以前に、責任を持つとは、何を指す言葉なのでしょうか? 被害者家庭は、神妙な面持ちで学校に相談に来て、「学校の仕事ではないと理解しているのですが、うちの子が学校に行きたくないと言っているので」とつぶやきます。そして、「大事(警察や弁護士への相談)にしたくない」と加えるのです。

 加害側に立ってしまった保護者はこう言います。「うちも被害者です。うちだって言われてますから。」言葉はその通りで、加害者も被害者も、その一瞬を切り取ればそのような立場になるだけで、オープンチャットの文脈の中では、加害者と被害者が一瞬で切り替わっていく現実があります。傷ついた側が正義とするならば、正義はいくらでも存在してしまうのです。

 しかし、元をただせば、スマートフォンやSNSを手渡したのは、加害者も被害者も保護者です。その保護者たちが、先生を頼って学校に駆け込みます。このSNSトラブルを「大事」にすることなく処理することができるのは、もはや先生しかいません。しかし、この先生も、一歩対応を間違えれば、「いじめを見過ごしている」「加害者側に立っている!」「なぜ個人の問題に踏み込むのか!」となります。

 これがSNSトラブルの構造。先生が潰れてしまいます。 責任は誰にあるのでしょうか? 確実に言えることは、先生に責任はありません。

(森の奥に佇む地獄池)



SNS規制に賛成


 世界の各国が子どものSNS利用に制限をかける動きをとっています。保護者もしっかり見守れない、先生も潰れてしまう、言語はバラバラになり、無法地帯が次々と生まれてしまうこの状況で、私自身も私の家族もSNSを利用していますが、しっかりと賛成の立場を取りたいと思います。


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