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2020年3月13日金曜日

ドナルド・マレーから学ぶ(その1)

「書かないということはできないから、私は書く」
         ドナルド・マレー (225ページ、1985年)

 ドナルド・マレー(Donald M. Murray)には、「書かない」という選択肢はなかったようです。そして、書き手として、自分自身の書くプロセスも含めて吟味を続け、多くの人に「書くプロセス」を注目させた人でもあります。1972年に発表した「書き終わった作品ではなく、書くプロセスに注目して教えよう」という主旨の短い文(題名はTeach Writing as a Process Not Product)はよく知られています。2006年に亡くなった後も含めても、かれこれ40年近く、書くことの教え方に大きな影響を与え続け、ライティング・ワークショップ関連の本でも、頻繁に言及・紹介されています。ピューリッツア―賞を受賞したジャーナリストでもあり、ニューハンプシャー大学で書くことも教えました。『イン・ザ・ミドル』の著者アトウェルは、研究会で「ドナルド・マレーのプレゼンテーションがあれば、必ずそれに出席しました」(『イン・ザ・ミドル』166ページ)というぐらい、マレーを深く尊敬し、大きな影響を受けたようです。

 ドナルド・マレーの重要な論文などを集めた本 The Essential Don Murray★を、このところ読んでいます。この本は、マレーが亡くなったあと、彼の同僚2名の手によって編集され、2009年に出版されました。副題は Lessons from America's Greatest Writing Teacherですから、「書くことについて、アメリカで最高の教師だったマレーが教えてくれたこと」みたいな感じでしょうか。

 マレーが教えようとしていることに対して私自身の理解を深めたいという思いもあり、この本を中心に、できれば2〜3回に分けて、私なりに紹介できればと考えています。以下、上記の The Essential Don Murray のページ数と、マレーがその本に収められている文を発表した年を、カッコに記載しています。なお、本文の引用は私の「ざっと訳」ですので、もしお気づきの点があればご指摘いただければ、ありがたいです。

 さて、読んでいて、ひしひしと感じるのは、最初に引用した文もそうですが、マレーの書き手としての確固たるアイデンティティです。書くことは単なる仕事ではなくて、天職であり、その天職に招いているのは自分であり、この天職以外には選択肢はない、自分は書かなければいけない(74ページ、1985年)とまで言っています。

 そして、「… 本当の満足は、書くというそのプロセス自体からやってくる」(169ページ、1986年)と、その書くプロセス自体に、時間とエネルギーを割く魅力を見出していたようです。そういえば「… 出版できることは良いことであるが、出版自体は、毎朝、書くための椅子に座るための十分な動機にはならない」(78ページ、1985年)とも言っています。

 書くプロセスを解明し続けたマレーですが、マレー自身、「書く」というプロセス自体にその価値(喜び?・報い?)を見出していた、というのも私には興味深いです。

 その理由の一つとして、書くことによって考え、考えてもいなかった新しい意味が生まれるので、飽きている暇がないのかもしれません。マレーは次のようにも述べています。

「自分が言わなければならないことを発見するために書きなさい。自分が言いたいことを言えるようになるために、それを知っている必要はない。むしろ逆である。言わなければいけないことを知るために書くのである。これが、書くことにおける、際限なく続く魅力である」(165ページ、1986年)

「... 書き手は、多くの時間、何を書こうとしているのかをわかっていないし、これまでに書いたことすら理解していないこともありうる、という事実を正しく認識する必要がある」(125ページ、1978年)

 書くことで考え、書くプロセスを行ったり来たりしながら、新しいもの、予測も意図もしていなかったものが生まれると考えると、教師の立ち位置も変わってきそうです。

 まず、一つの作品について、生徒がこのプロセスを(時には)何度も行ったり来たりするという動機、時間、場が必要となります。

 どうやって? と思います。マレーは「まずは教師が静かにすること」だと言います。教師が話している時は、生徒は書いていないからであり、プロセスについての話を聞いても、実際にプロセスを体験しない限り、プロセスを学べないからです。(3ページ、1972年)

 「生徒は自分の書く題材を自分で見つける。生徒にとっての真理を規定することは、教師の仕事ではない。自分自身の世界を、自分の言語で探究し、自分の意味を発見するのは、生徒の責任である。生徒にとっての真理の探究を、教師はサポートするが、それを指図するのではない」(4ページ、1972年)

 生徒が自分にとっての意味を探究する時間と場を与え、教師は、指図の代わりに、生徒を尊重し、聞き、サポートする、というのは簡単ではありません。『イン・ザ・ミドル』のアトウェルが、初めてライティング ・ワークショップに出合った頃を振り返り、「…生徒にどうやって責任を手渡せばよいのか、見当がつきませんでした。というより、自分が教室をコントロールするのをやめたくなかったのです」と記しています。(『イン・ザ・ミドル』28 ページ)

 「生徒にとっての真理の探究」とは、なんと壮大な、とも思います。でも、自分にとって意味が見いだせない・興味のもてないことを、ある程度、決まった形になるように書かされている限り、マレーが感じているような、書くプロセスがもたらしてくれる魅力を知ることは、難しいのだろうとも思います。そこで期待されていることが大きく異なるからです。マレーの一連の仕事は、書くプロセスの力を生徒に知ってほしい、そして、書くことを教える教師は、それを生徒が体験できるようにすることができる、それを知ってほしいというところにあるように思います。

 他方、マレーは「締切」というような、極めて現実的・具体的なことにも言及しています。

「ライティング・プロセスのための時間と、そのプロセスを終える時間の両方がなければいけない。考え、夢を見て、窓の外を見つめるようなプレッシャーのない時間とプレッシャーのある時間、つまり後者は原稿を提出する締切という時間、この二つ時間が織りなす刺激的な緊張の中で、書き手は(書くことに)取り組まなければならない」(5ページ、1972年)。

 「締切」以外にも、多くの具体的・現実的なトピックが、マレーの本には登場します。一人ひとりを書き手として成長させてくれそうな提言も、教える際への提言も、マレー自身や他の書き手の経験を踏まえて、惜しげなく、具体的に教えてくれています。

 引き続き、マレーが教えてくれることへの理解を、「書く」ことを通して、深めていきたいです。きっとそのプロセスで、私も、当初考えていなかったことを発見できるだろうと楽しみです。

*****
★ The Essential Don Murray を編集したのは、Thomas Newkirk と Lisa C. Millerで、出版社は Heinemannです。

2020年12月4日金曜日

書き手は混沌としたプロセスを何度も通る? 〜「書くプロセス」におけるハッカー?、ドナルド・マレー

  最近、ある本★で、読み書きのつながりを、呼吸(つまり息を吸うことと吐くこと)に喩えていて、その喩えが、どうも私にはしっくりこない、というか、「あることを含めてくれる喩えだと、もっと嬉しいのに」と思いました。

 もちろん、呼吸は生きる上で欠かせませんし、息を吸うことと吐くことの「両方」が不可欠なので、この点からはいい喩えだなと思えます。

 しかし、「呼吸」に喩えてしまうと、「読み書きのつながり」の中にある、「不規則性、同時性/瞬時性」が見過ごされるように感じました。健康的な呼吸は、「規則正しい、一定のリズム」で行われています。しかし、私にとって、「読み書きのつながり」は、ちっとも規則正しくないし、一定のリズムでもありません。

 読んでいて急に思いついてメモしたり、突然書き始めたり、また、書いている時に行き詰まって、ヒントになりそうな本をパラパラめくったりもします。

 さらに、「読むこと」だけを考えても、その読み方も規則正しくありません。いろいろなペースで、行ったり来たりしながら、いろいろな読み方をしています。「書くこと」だけを考えても、同様です。時にはメモも取りつつ、こちらも行ったり来たりしながら、いろいろな書き方をしています。

 落ち着いた、規則的な呼吸では掴みきれない、動的なものが、読み書きのつながりの中にも、読むことの中にも、書くことの中にも、あるように思います。その動的な部分も含めてくれるようないい比喩があるといいな、と思います。何か思いつかれた方はぜひ教えてください!

 さて、前回の投稿では、WWの創設者とも言えるドナルド・グレイヴスが、「国語界のハッカー」として紹介されていました。「ハッカー」の概念を前回の投稿から借りると、WWとも深く関わる「書くプロセスのハッカー」は、もう一人のドナルド、つまりドナルド・M・マレー(Donald M. Murray)だと思います。

 ドナルド・マレーは自身が優れた書き手として、書き手が実際に通るプロセスを観察し続け、それを明らかにしようとした人です(たまたま、もう一人のハッカー?と同じファーストネームです。こちらのドナルドも、このブログで何度か紹介してきましたので、ブログ版の左上に「マレー 」と入力して検索してみてください)。

 優れた実践者アトウェル は、マレーのプレゼンを見て、「また、決められた方法でアウトラインを書いて、下書きから最終稿に直線的に進むという定説が揺さぶられるのもよくわかりました」と記しています(『イン・ザ・ミドル』166ページ)。

 私が上に書いた不規則性、同時性/瞬時性というイメージは、ドナルド・マレーの著作★★から学びました。

 一般に「書くプロセス」と言われると、「書く前の段階→下書き→推敲」と言う段階を経て「完成」と言うイメージを持つ人もいると思います。しかしマレーは、まずこの「書く前の段階→下書き→推敲」と言うプロセスが、一つの作品を仕上げるまでに、何度も何度も何度も通ることを指摘します(一つめの図)。(ブログ版には、以下マレーの書いた図を4つ貼り付けていますので、よろしければ、そちらをご参照ください。Facebook版では文字の説明だけです。)

(9ページ)

 次にマレーは、上のプロセスを何度も繰り返す中で、情報を集めることと、それをつなげること、そして、読むことと書くことを行っていると指摘します。(二つめの図)


(11ページ)

 それから、読むこと、書くこと、情報をつなげること、情報を集めることとの関わりを示すために、読むこと、書くこと、情報をつなげること、情報を集めること、をそれぞれ点線で繋ぎます。(三つめの図)


(15ページ)

 そして、最後の四つめの図では、「書くことは、(読むこと、書くこと、情報をつなげること、情報を集めることの間で)、複雑で、瞬時に起こる相互作用なのだ」と記した上で、この四つが複雑に絡み合っているような図を提示しています。

(15ページ)


 マレーの説明を見ていると、図が進むにつれて、書くプロセスは、読むことを巻き込んだ「混沌としたもの」にすら思えてきます。書き手は、このプロセスを何度も何度も経験しながら、それでも、その中で、自分にとってうまくいく方法を、少しずつ見つけていくのかな、と思います。

 なぜ、こういう不規則性、同時性/瞬時性が気になるかというと、(これは自分への反省も込めて書いていますが)、読み書きを「規則正しい、一定のリズム」で教えてしまいたくなる部分が教師にはあるように思うからです。そして、「読むことを深める良いツール」や「書くことを助ける良いツール」があればあるほど、それを、全員に紹介して、全員に使って欲しくなったりもします。

 そうなると、「今日は付箋を貼る日」とか、「今日は物語の要素を整理する図の空白を埋める日」とかになり、ツールを使うことが目的になってしまう危険すら出てきます。

 「書くプロセスのハッカー」?であるドナルド・マレーの上の図が出てくる本の裏表紙には、以下のような言葉もあります。(私のざっと訳ですみません。)

 「書くことは、本来、才能、やる気、ヴィジョン、語彙力、文体という事柄ではなく、机に座って書くという事なのだ。書き手とは、実際に書く人のことである」 

*****
★ The Literacy Workshop (Stenhouse, 2020). 著者はMaria Walther とKaren Biggs-Tuckerです。

★★ この図は、ドナルド・マレーの重要な論文などを集めた本 The Essential Don Murrayからです。マレーが亡くなったあと、彼の同僚2名の手によって編集され、2009年に出版されました。副題は Lessons from America's Greatest Writing Teacherですから、「書くことについて、アメリカで最高の教師だったマレーが教えてくれたこと」みたいな感じでしょうか。The Essential Don Murray を編集したのは、Thomas Newkirk と Lisa C. Millerで、出版社は Heinemannです。

2020年2月1日土曜日

熱気球が飛べなくなるとき

 ここしばらく、書名に joy (喜び)という単語の入った、書くこと、読むことについての本を読んでいます。前回(1月24日)の書き込み「読書感想文とレターエッセイの違い」ーー特に「レターエッセイを読むことは楽しいのに、読書感想文を読むことは苦痛」という点からも、読む・書く/学ぶ・教える楽しさはどこにあるのだろう? と思います。また、与えられたテキストを、つまらなそうに、集中できずに眺めている学習者を目にすると、「子どもたち一人ひとりが、今読んでいる本の世界に入り込んでページをめくっている(あるいは、ライティングの授業で取り組み中の作品を夢中になって書いている)」という、一見シンプルに見えることの大切さを痛感します。そして、どうすれば、読む・書く/学ぶ・教える楽しさを、少しでも増やせるの?と考えてしまいます。

 さて、書名に joy (喜び)という単語の入った1冊に、ラルフ・フレッチャー(Ralph Fletcher)氏★が2017年に出版した  Joy Write があります。

(★ ラルフ・フレッチャー氏は、2007年に新評論より出た『ライティング・ワークショップ』の共著者の一人です。長年、ライティング・ワークショップの実践と教員研修に関わってきた優れた教育者であるだけでなく、児童文学を中心とした小説や詩も書いています。邦訳されているものとして、いずれも文研じゅべにーるから、『エイボン家の小さなひみつ』や『フライング・ソロ』等があります。『エイボン家の小さなひみつ』は、楽しいなかにも、悲しみとの向き合い方という要素も織り込まれていて、頷きながら読み返した本の1冊です。)

 この  Joy Write という本の中で、フレッチャー氏は、ライティング・ワークショップを空高く舞い上がる熱気球に喩えています。ライティング・ワークショップは、1980年代後半に、従来型のあまり楽しくない作文の教え方(教師が題を出し、子どもが書いている途中で関わることはあまりなく、提出されたものに点数をつけたり間違いを直したりして、終了)とは異なる教え方として登場しました。

 ライティング・ワークショップはとてもシンプルな枠組みです。最初に短く、全員に役立ちそうなことを教え(ミニ・レッスン)、授業の中核は子どもが自分で選んだトピックで書き(ひたすら書く時間、この間、教師はカンファランスでサポート)、最後に短くみんなで集まり(共有の時間)終わります。(詳しくは『ライティング・ワークショップ』および、日本での実践版『作家の時間』をご参照ください。)

 初めてライティング・ワークショップを紹介されたときに、反発していたアトウェルも、葛藤を経て、ある日、恐る恐る?という感じで、ライティング・ワークショップを行うことにします。そして、その後の教室の様子を、以下のように記しています。

 「その結果は、私も生徒も驚くことばかりでした。まず、生徒たちが書きたい題材をそれぞれにもっていたこと。もっと驚くのは、私がお仕着せの課題を新年度の最初から与え続けていたのに、彼らが面白くて価値のある題材を持ち続けていたこと。そして、教室で書くことにも価値があるとわかったこと。書くことを通してできることがたくさんありました。自分にとって大切なことを探求して見つけ出すこと。問いを投げかけること。問題を解決すること。体験の意味を見出すこと。感情を表現すること。そして読者に感動を与え、楽しませ、説得すること。こんなことができたのです。これは本の中の理想郷の話ではありません。本当のことです。そして私の教室で起こっているのです。とてつもない喜びでした。      『イン・ザ・ミドル』29ページ

 こういう教室の様子から、フレッチャー氏の喩えを借りると、ライティング・ワークショップという熱気球が、「主体的な、優れた書き手」をいう目的地を目指して、空高く飛んでいるイメージが浮かびます。

 しかし、2017年にフレッチャー氏が   Joy Write を出版したのは、氏が多くの教室を訪れるなかで、熱気球が飛びにくくなっているという現状に気づいたからのようです。以下、カッコ内のページ数は、Ralph Fletcher 著のJoy Write (Heinemann社より、2017年出版)のページ数です。

 この本の前半三分の一程度では、ここ何年かの間に、米国のライティング・ワークショップが、教師が選んだジャンルや決まったタイプ・形の文章を書かせる部分が増えてきていること、そして、子どもが選択すること、子どもの喜びや楽しみ、夢中になることが減ってきていることを指摘しています。

 こう書きなさいという指示に従って書くように、という指導がなされるようになってくると、子どもは、自分が書いているものが「自分の作品」という気持ちを持ちにくくなります(21-22ページ)。

→ これは、私は感覚としてわかる気がします。学校や州からの要請で「カバーしなければいけないこと」が増えてくると、その対策に直結するような部分が授業のなかに増えていきます。そのようなライティングの目指すところは、「お手本(模範解答)に近いものを効率よく書くこと」になるだろうと、容易に想像できます。そこには、子どもの個性は重視されませんし、子どもが、書く内容、書き方、構成の仕方等を考える余地も、かなり少ないだろうと思います。

 そのような、教師が「お仕着せ」を与える部分一つひとつを、フレッチャー氏は、熱気球に積み込む荷物と考えています。その数が少なければ、熱気球は空に飛びあがり、目的地に到着することもできるでしょう。しかし、それがどんどん増えていくと、ついに熱気球は飛べなくなってしまいます。

 この本の後半三分の二程度は、そういう現状を打開しようとする対抗策として、フレッチャー氏が「グリーンベルト・ライティング」と名付けた、様々な実践例が、教師と子どもの声、および、子どもの作品と共に紹介されています。そして、その実践で紹介されている子どもの文の面白いこと! 思わず、読まされてしまいます。
 
 私が気になったのは、熱気球がどうして飛べなくなるの? という点でした。

 教師の中には、今日のライティング・ワークショップは、過去よりも、教師主導で教える内容がより明確で、効率的だ、と好意的に評価する人もいるそうです。そうであれば、熱気球は飛び続けることができるのでは? と思います。

 しかし、フレッチャー氏は、多くの教師が、自由度があまりないカリキュラムと、書くことが楽しめない子どもが多くいる教室の間で苦労している(37ページ)と指摘しています。

 ちょうど、ドナルド・マレー氏(Donald M. Murray) の本★を並行して読んでいて、熱気球が飛べなくなるのは、ライティングの教室から「書くこと」の本質が抜け落ちてしまうからだと思いました。

 ある意味、「書くこと」の本質が、飛ぶ原動力なのかなと思いました。

 (★The Essential Don Murray という書名で、Thomas Newkirk とLisa C. Millerの編著で、マレー氏の書いたいろいろなものを集めています。Heinemannより、2009年に出ました。以下、カッコ内のページ数はこの本のページ数です。)

 ドナルド・マレー氏は、ピューリッツアー賞も受賞したジャーナリストでもあり、自らの書くプロセスを読者に明示することで、従来型の書くことの教え方に疑問を投げかけ、「書くことの教え方」に大きく貢献した人です。
 
 マレー氏は、書くこととは、言葉を使うことを通して、経験の中に意味を発見し、それを伝えるプロセスであると考えています。そして、このプロセスは描写でき、理解でき、学ぶことができるものだとも言っています(124ページ)。

 この本も含めて、マレー氏は、一貫して、実際に書き手が行っていることを詳しく記して、それを教えることの中に取り込もうとしてきました。

 学校でのライティングの授業を、「決まったジャンルの、決まった形を効率よく書けるようにする」ことにしてしまうと、形の決まったもの以外を書くときに、「実際に書き手が行っていること」が消えてしまいます。そうなると、「書くこと」の授業って、何を学ぶものなのでしょう。

 ライティング・ワークショップでは、米国で広まり始めた時期には、それぞれの子どもが、書くプロセスのなかで、トピックを選び、いろいろな段階を行ったり来たりしながらも、自分にとってうまくいく書き方をさがしながら、読者に伝わるように、書いていく、そうやって「書き手」としてのアイデンティティも培いながら、書き手としてのスタミナもつけていく、そんな時間がふんだんにあったようです。そのような時間は、マレー氏の言葉の借りれば、意味を発見し、伝えるというプロセスなんだろうと思います。

 ライティング・ワークショップ、あるいは、ライティングという名前の熱気球が飛べなくなったときは、フレッチャー氏が言うように、荷物を積み込み過ぎた可能性ももちろんあります。そして、同時に飛ぶ原動力なっているものがちゃんと確保されているかの確認ができると、安心して飛行が楽しめそうです。

2011年7月22日金曜日

修正の大切さとその方法

 WW(作家)の時間は、本物の作家やジャーナリストたちがしているように、題材探し・下書き・修正・校正・出版のサイクルを繰り返し体験していきます。★


          (出典: 『作家の時間』プロジェクト・ワークショップ編著、91ページ)

 このサイクルの中で、何が一番大切か?

 あえて言えば、前回とのつながりだからというわけではないのですが、修正でしょうか。

 これまでの作文教育になれてしまうと、題材探しや出版はそれなりにすんなり受け入れられても、修正の部分が一番受け入れにくい、という先生たちの声を聞くからでもあります。その大きな理由は、これまでの習慣で、下書き=清書の一歩手前の感覚で下書きが存在するので、修正をやりたくない子が多いというのです。その背景には、書き直しはまずい文章をよくする、というイメージが付きまとっているからのようです。(誰も、自分の書いた文章がまずいとは認めなくない?!)もう一つは、校正と混同されていることもあります。

 日本語の「修正」と「推敲」に若干問題があるのかもしれません。修正は「よくない点を改めること」「手を加えて、直し整えること」、推敲は「文章を書いた後、字句を良くするために何回も読んで練り直すこと」と、一般的には理解されています。後者のニュアンスは、すでにできている文章に磨きをかける感じです。ちなみに、「推敲」を和英辞典で調べたところ、re-visionという言葉が出てくるのもありましたが、中心はpolishingや improvementでした。

 私たちは英語のre-visionの訳として「修正」を選びました。Re-visionには、もう一度、自分が書きたいことを見る、作り出す、再発見する、明確にするという極めて前向きな意味が込められています。だからこそ、この過程がとても大切なわけです。しかしながら、日本語の「修正」にはそういうニュアンスが残念ながら弱いというか、ないのかもしれません。

 修正をもう一度、自分が書きたいことを見る、作り出す、再発見する、明確にすることと捉えると、その前の下書きはこれまでよりも肩の力(頭の力?)を弱めて、気楽に書いてもよくなります。何回か繰り返す修正のあくまで下書きですから、あまり文章の流れ(構成)や語句や言語事項などを気にせず、頭に浮かんだことを書き出す段階と位置づけられます。間違っても、清書の一歩手前ではありません。

 自分自身がジャーナリストであり、作家でもあり、そして教育の世界に作家のサイクルを導入した一人でもあるドナルド・マレーは、修正をする際の具体的なヒントとして以下のような点を挙げてくれています。★★
   ・全体を読んで、欠けている部分を探す。
   ・声を出して読み、意味が通じるか確認する。
   ・いい部分は、さらに伸ばす/膨らます。
   ・省ける部分はカットする。短くできれば、それに越したことはない。
   ・読み手が持つであろう疑問・質問を考え、それらに答えているか確認する。
   ・文の流れについては、理解できるようにゆっくりするところはゆっくりし、読み手が作品から目を離さないように飛ばすところは飛ばすようにする。


★ もちろん、すべての題材や下書きを修正したり、校正したり、出版する必要はないのですが。
★★  Donald Murray, Crafting a Life in Essay, Story, Poem、141ページ

2011年7月23日土曜日

マレーの修正の3つの段階

 前回、最後に紹介したマレーの具体的な修正の方法は、全部を一回でやるのではありません。

 彼は、少なくとも3段階に分けてやっているそうです。★


第1段階: 書いている内容のみに焦点を当てる。これだけで、数回を要する。

第2段階: 全体の流れ・構成・順番についての検討。これも、一回のみでは終わらない。

第3段階: 従来は「校正」と呼ばれている言語事項や語句のチェック。読み手にとってわかりやすいことと、読み手の耳にやさしいことが大切なので、この段階では声を出して読むそうです。これも一度だけでなく、数回やるにこしたことはありません。

 もちろん、マレーがしていたとおりを真似る必要はありません。これを参考にして自分にとってのベストの方法を編み出してください(子どもたち一人ひとりが自分のベストの方法を作り出すのをサポートしてあげてください)。


★  Donald Murray, Crafting a Life in Essay, Story, Poem、140ページ

2020年10月23日金曜日

書く指導にとても役立つ『名著から学ぶ創作入門』

先週、ロイ・ピーター・クラークの『名著から学ぶ創作入門』(越前敏弥・国広喜代美訳、フィルムアート社、2020年)を山元さんが読みの専門家として「読む指導」にどう活かせるかを書いてくれていたので、今週は「書く指導」にどう活かせるかを紹介したいと思います。(本のタイトルの通り、それがそもそも目的で書かれた本ですから。実際、書き方を教える現存するプロ中のプロが書くことに関しての名著を紹介しながら書いた本なので、「書き方を教える」際のヒントが満載です!)

名著を紹介している部分は、どれもとてもいいのですが、圧巻は、その後についているエクササイズというかレッスンです。たとえば、

 「『ゼロ稿』を書いてみよう。まず探りを入れる作業なので、完全な文章ではなくていい。ゼロ稿は、自分が何をつかんでいるか、何を知らなければいけないかを教えてくれる」(128ページ)もその一つ。下書きをドンドン書くことを奨励しています。

 「原稿の質を自分では判断できない地点にいずれ達するだろう。そのときには助けを求めよう。ただち、慎重におこなわなくてはならない。励ましてくれる人か、批判してくれる人か、知識のある人に助けを請うように。必要なときに必要な人を選ぶべきだ」(129ページ)は、ピア・カンファランスを奨励しています。しかし、誰でもいいわけではなくて、読むときに選書が一番大事なのと同じように、人選でフィードバックの質も、その結果の文章の質も決まってしまいます。

 この調子で、書き手が大切にすべきアドバイスが満載ですから、ぜひご一読を! 本の値段も300ページを超える内容なのに、2000円+税と、とてもリーズナブルですし、巻末の「ブックリスト」もありがたいです。(それに対して、著者が紹介している40冊以上の本で、訳されている本の少なさに驚きます! と同時に、日本人が書いた本で、この本に類するものを書くことは可能なのだろうかとも考えました。できるとしたら、どんな本があるかどなたか教えてください。)

 もう少し、私が気に入った箇所を紹介します。

・自分の好きなことを書こう。それはすばらしいことだ。その感覚を楽しもう。ただし、推敲中はきびしく自分に問うこと。その華麗な一節や如才ない考えは、本旨に沿うものだろうか。ちがうと思ったら、その表現は取り除こう・・・また別の機会の別の話のためにとっておけばよい。(22ページ) ~ それを可能にしてくれる媒体が「作家ノート」です!

・①この本の適当なページを開く。筆記具と持って、節や章の趣旨とは関係ないと思われる単語やフレーズにしるしをつけよう。

 ②別のページを開く。練習のために、10%を削除しなくてはならないと想定する。削除できそうな部分にしるしをつけよう。

 ③刊行された自分の作品にこのプロセスをあてはめる。それから基準をきびしくして、20%を削除しよう。

 ④最後に、今の自分が書いている原稿の雑然としているところ、弱いところを見つける。だれかに手伝ってもらって、削除した箇所をチェックし、意見が合うかどうかをたしかめよう。(35ページ) ~ これは、このブログでも紹介したウィリアム・ジンサー(William Zinsser)https://wwletter.blogspot.com/search?q=Zinsser をベースにしたエクササイズです。

・文の長さを変えて、心地よりリズムを作ろう。(69ページ)

・目で見える形で考えたり計画したりするのは、ことばを使う人々にとって必要な手段であり、特にプロジェクトの最初には役に立つ。執筆を先に進めるために、作り上げたいものの絵や図を描いてみよう。画家のように描かなくても、棒人間、簡単な図形、矢印、螺旋で事足りる。(88ページ)

・デジタル時代の書き手に特に必要なのは、柔軟性だ。さまざまなメディア・プラットフォームにまたがって、さまざまなマルチメディアの形で、長いものも短いものも含めてさまざまな記事や物語を、速く書いたりゆっくり書いたりする練習をしよう。(96ページ)

 といった具合で、まだ5分の1も紹介できていません(含められなかった中には、このブログで度々紹介してきたドナルド・マレー(https://wwletter.blogspot.com/search?q=Murray)や、https://sites.google.com/site/writingworkshopjp/teachers/osusume に含まれているナタリー・ゴールドバーグの本とそれらからの教訓/エクササイズも含まれています。ぜひ、『名著から学ぶ創作入門』を書く指導のいかしてください。

 なお、最初の(128十129ページの)引用は、アン・ラモットの『ひとつずつ・ひとつずつ―書くことで人は癒される』(パンローリング)からのエクササイズです。

 

2011年3月11日金曜日

1×4 > 4×1

 今日の午後、東北で大きな地震がありました。関東でもかなり揺れたようです。私のところは(東海地方です)は、ゆっくりとしばらく小さな揺れが続きました。小さな揺れですが、怖かったです。震度の高かった地域での被害ができるだけ少ないことを願っています。

*****
 
 今日の「WW便り」は数字の題です。

 普通なら「1×4」と「4×1」はイコールのはずなのですが、書くことにおいてはそうではなさそうです。 

 この前、読んでいた本の中に、「一つの作品に4回取り組むほうが、一回書いて終わりにする作品を4つ書くよりもよい」と書いてあり、なるほどと思いました。つまり、「1×4」のほうが、「4×1」より、いいということです。(→ そこから上の題を思いつきました)。 

 今日は、この言葉から考えたこと、思い出したことをいくつか書きたいと思います。 

○ 『ライティング・ワークショップ』の共著者の一人、ラルフ・フレッチャー氏の作家ノートについてのある本の中に「下手に書く場所」という名前の章があります。

 これはもちろん、意識的に下手に書くという意味ではありません。

 フレッチャー氏によると、ちょうど初めてスキーにトライしたときには沢山転ぶように、書くことにおいても、たくさん転んでもいい場所が必要だということです。

 また、同じ本の違う章の中で面白いエピソードも紹介しています。

 洗濯機に入れる前にシャツのボタンをとめているフレッチャー氏を見て、奥様が「前から聞きたかったんだけど、どうしてそうするの?」と尋ねます。

 「そのほうが、形が崩れないから、ってマリアン(前の妻の名前)が言っていたから」とフレッチャー氏。

 現在の奥様の前で、急に前の妻の名前が出てきた、そのときの感情を、フレッチャー氏は、作家ノートに「汚れたシャツのボタンをとめるーーマリアン」、と数単語だけメモします。

 そして、その数週間後、その数単語の書き込みに戻り、そこから詩を仕上げます。

 最初からうまく書くということを目指すのは無理だし、最初は断片だけ書いて、あとからそこに戻ってもいいということを教えられます。

○ 先週のWW便りでも紹介したドナルド・マレー氏ですが、面白いことを言っています。

 拙い意訳で恐縮ですが、2つ紹介します。

 「多くの教師は、子どもたちがちゃんと文を書けないと嘆く。私は、自分の学生たちが文を書くことを嘆く。(自分の学生たちは)あまりに早すぎる時期に(文を書く)。(文という)形を整えつつ、意味をなおざりにする」

 「上手に書くためには、下手に書くことをしなければいけない。もちろん。下手に書くというのは、きちんと整っているかとか、完全であるかとか、そういういう点において、そうではないということである。というのは、しっかり頭が動いているときには、その思考は、まだ整っていないし、完全ではないからだ」

 つまり、頭がどんどん動いているときには、そのスピードに、文をつくるということはついていけないぐらいだというわけです。

 マレー氏の上の言葉がでてきた章を見ていると、最初から文を書くことはありえない? とすら思わされます。

*****

 フレッチャー氏やマレー氏の本を読んでいると、本当の作家にとっては、1×4ではなくて、4のところの数字がもっと大きい気がしました。

 そして本当の作家にとっては、読者に読んでもらうに耐えるものを書くために、まずは文をつくろうとも思わずに、どんどん思考し、その断片を書きとめ、それに何度も修正、校正両面から、「手を入れる」、これが本当に書くサイクルなんだろうとも思います。

 本当に書く体験をめざすWWの授業では、1×4(以上)というサイクルは存在しても、4×1は存在しないのでは?とも思います。

 1×4 > 4×1は、「本当に書くサイクル」 > 「本当ではない書くサイクル」みたいな気までしてきました。

出典:

「一つの作品に4回取り組むほうが、一回書いて終わりにする作品を4つ書くよりもよい」と書いてあったのは、Mary Sullivan, Lessons for Guided Writing Grades 5 & Up, (Scholastic, 2008) 10ページ。

 フレッチャー氏の「下手に書く場所」という章が出てくる本は Ralph Fletcher, Breathing In, Breathing Out (Heinemann, 1996)  55-57ページ、汚れた洗濯物にボタンととめるエピソードは、17-19ページ。

 マレー氏の上の言葉がでてくるのは、Donald M. Murray, Expecting the Unexpected (Boynton/Cook, 1989)の39ページと46ページ。

2011年3月4日金曜日

こぼれてしまったミルクからアイスクリームをつくる → 作家のサイクルを動かす ためには

 今日のWW便りの題、二つの題を候補としたあと、どちらにしようかと迷いました。

 一つが上の「こぼれてしまったミルクからアイスクリームをつくる」、もう一つが「修正したくなる瞬間」です。

 「こぼれてしまったミルクからアイスクリームをつくる」ですが、これはキャサリン・パターソンという作家が、「修正は大好き。修正以外に、こぼれてしまったミルクをアイスクリームにできるものは、存在しないから」と述べているところから、今日のWW便りの題の候補にしようと思いました。

 キャリン・パターソン氏の、この言葉が紹介されているのは、ドナルド・マレー氏の本の中です。

 ドナルド・マレー氏については、2月18日のWW便りでも紹介していますが、「作家が作家を教える(書き手が書き手を教える)」、「書く過程(プロセス)で関わる」、あるいは「カンファランス」など、まさにライティング・ワークショップの原点にある概念の構築に大きな貢献をした、ライティング・ワークショップ第一世代(?)の一人です。

 さて、「下書きから、ミス(文法や漢字など)を直せば完成」、と思っている子どもたちも多いと思います。

 しかし、「修正」があるからこそ、「こぼれてしまったミルクがアイスクリームになる」ような、大変身が可能なのです。

 でないと、こぼれたミルクはそのまま無駄になり、「作家のサイクル」もそこで終わってしまいます。(「作家のサイクル」、あるいは「書くサイクル」については、『ライティング・ワークショップ』35ページと、82ページの図を見ていただければと思います)。

 今日は作家のサイクルの中の「修正」を機能させる一つの方法として、作家仲間について、書いてみたいと思います。

 ドナルド・マレー氏は、自身のライティング・コミュニティ(作家仲間)について「守っていること/決めていること」があるとし、それを次のように説明しています。

 「私の書きたいという気持ちを削ぐような人には、自分の書いている過程で、共有することはありません。私は、自分のライティング・コミュニティ(作家仲間)から、何か反応を得ると、彼らのおかげで発見できた問題、可能性、いい点などにワクワクしながら、大急ぎで机に向かうのです。自分の作品について、すべきことがあるのが分かり、それを行いたくてしかたがないのです」

 マレー氏の上の文を読んだときに、「修正をしたくなる瞬間」という、今日のWW便りの二つ目の題が浮かびました。

 「下書きから、ミス(文法や漢字など)を直せば完成」(ある意味、こぼれたミルクをなんとかすくって、上の浮いているホコリをとって終わり)と思っている子どもたちに、「アイスクリームをつくること」を教える一つの方法は、修正したくなるようなコメントをくれる作家仲間がつくれるようにすること、だと思います。

 クラスで「いいピア・カンファランスの仕方」、「いいコメントとは?」というリストをつくることはできると思います。

 でも新学期に向けて、まずは教師がそういう仲間を作ることを始めてみる、そして、そこから得たこと(難しさ、楽しさ)に基づいて教えると、もっとインパクトがあるように思います。

 マレー氏も、自分にとって、「修正したくなる瞬間」を生み出してくれる作家仲間が、自分にしてくれていることを具体的に述べています(もちろん、そうではない例も挙げています)。

 マレー氏が本の中で具体例を挙げているように、先生もミニ・レッスンで自分の体験から具体例を挙げると、インパクトとのある、いいミニ・レッスンになると思います。

*****

 ここまで書いて、ちょっと立ち止まってしまいました。いい作家仲間ができても、作家仲間を活用する時間がないと、意味がない、ということに気付いたからです。

 その作家仲間に読んでもらう時間の確保、これも修正の大きな要因だと思います。

→ 今日のWW便り、もう少し早く書ければ、「二つの題のどちらがいいでしょうか?」も含めて、コメントをもらうことができたのに、と自分への反省もこめて、「時間」という要因も言及しようと思いました。

出典:

 上で紹介した本は、 Donald M. Murray の Crafting a Life (Heinemann, 1996)です。キャサリ・パターソン氏の言葉が紹介されているのが、135ページ、ざっとの私訳で紹介したマレー氏のライティング・コミュニティについての説明は123ページです。

追伸: ドナルド・マレー氏の、おそらく唯一邦訳されている本『人生、これからがときめきの日々』(村上博基訳、集英社、2002年)を読みました。これは書くことの教え方についての本ではなくて、マレー氏の回想録です。最初、こんな人生を送ってきた人だったのか、と少し戸惑いましたし、驚きもしましたが、最後まで読み終わって、読んでよかったと思いました。なお、書くことは、まさにマレー氏の一部ですから、当然、随所に出てきていています。

2011年3月18日金曜日

いろいろな言葉があること、そして選択

巨大地震・大津波から1週間が過ぎようとしています。

 被災地の状況、甚大な被害が明らかになっていくなかで、短期でできること、
長期でできることを考え、行動に移していかなければと思います。

そんな中で、言葉のもっている意味と選択ということについて、いくつか考え
ました。

○ 状況は全く違いますが、「困難な中にいるときにも人は言葉を持っている」
ということを考えていて、ある詩集のことを思い出しました。

 This Place I Know: Poems of Comfort という詩集です。題を直訳すると
「私の知っているこの場所~安らぎ、癒しの詩」という感じでしょうか。

 アマゾンに載っている説明によると、もともとは、2001年9月、同時多発テロ
が起こったあとに、安らぎ・癒し、希望をニューヨークの子どもたちに与えよう
として、19世紀から現代の詩人まで、いろいろと集めたようです。

 このような詩は、年代や場所を超えて、多くの人に語ってくれるものがあると
いうことで、それぞれの詩に絵を描くアーティストたちも参加し、そして、18
の詩とそれに合う絵がついたこの絵本のような感じの
詩集がつくられたそうです。

 WWは、書き手が書き手を教えていく授業と言ってもよいと思いますし、読み書
きのつながりも大切にされています。

 言葉の持つ力を知っている人たちがいるから、この詩集ができたのだなと
思いました。

 また一つの詩でなくて、いろいろな詩が集められているのもいいなと思いまし
た。子どもそれぞれに反応も思いも違うだろうと思うからです。

○ そんなことを考えていて『綱渡りの男』という絵本も思い出しました。同時
多発テロが起こらなければ、この絵本をつくられなかったのではないかとすら思
えます(アマゾンには、「とりわけ感動的なのは、本書の最後を飾る絵――
フィリップと彼の渡り綱によってつながれた、今や『
記憶の中』の存在となった
ツインタワーのイメージ」と書かれています)。

 書くということ一つをとっても、それぞれに、詩、絵本と、いろいろな表現方法があるとも思
いましたし、その選択を子どもたちが持っていることも大切だと思います。

 そして子どもたちにとっても、いろいろなメンター・テキストになりうるもの(メン
ター・テキストも一人一人違うと思います)に触れることも大切だと思います。

 WWの中で の「選択がある」ということは、書く題材だけでなくて、書き方(ジャンル)もメンター・テキストの選択においても、そうである、と改めて思います。

 (メンター・テキストについては 2010年9月17日と10月1日のブログをご参照ください)。

○ ここ何回かのWW便りに紹介したドナルド・マレー氏の書いた、直訳すると
「ひとりの書き手が書くことを教える」(原題:
A Writer Teaches Writing)と
いうような題になる本を最近読んでいました。

 その中に、以下のような文がありました。ざっと訳の拙訳で申し訳ありません
が、2カ所、紹介します。

 「どのクラスも、いろいろな生徒がいて、その多様性がチャレンジでもあり喜
びでもある」

 「書くことは、世界を理解する一つの方法であり、私たちの多様な理解を共有
することによって、私たちが匿名性と孤立から抜け出す一つの方法である」



出典など:

This Place I Know: Poems of Comfort という詩集の説明は、以下のアマゾン
のサイトで、(上で説明したよりも)もう少し詳しく書かれています。
http://www.amazon.com/This-Place-Know-Poems-Comfort/dp/0763628751/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1300430778&sr=8-1


『綱渡りの男』(モーディカイ・ガースティン著、川本 三郎訳、小峰書店
2005年)の説明は以下で見れます。

http://www.amazon.co.jp/綱渡りの男-YOU-絵本コレクション「Y-」-モーディカ
イ・ガースティン/dp/4338202041/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1300431832&sr=1-1-
catcorr

(→ もし、実話をもとにしたすぐれた絵本を生涯10冊選べと言われると、私の
場合、この絵本は入るように思います)

マレー氏の本情報は以下です。

Donald M. Murray, A Writer Teaches Writing (revised second edition)
Thomson, Heinle, 2004.


上の言葉が載っていたのは、それぞれ、245-246ページ、246ページです。

2011年7月15日金曜日

「締切りの活用」と「修正は繰り返し」 

 今日のWW便りは、「締切りの活用」と「修正は繰り返し」です。 

 まずは「修正は繰り返し」から、書きます。 

 WWで教えながら、私の教えている生徒の多くは、「提出して終わり」、つまり「第1稿がほとんど最終稿」で、今までの作文の授業を過ごしてきたんだな、と感じることが、けっこうあります。 

 さて、このWW便りでも何度か紹介しているドナルド・マレー氏は、修正とは、書く過程に存在する、ある一つの独立した部分ではないことに、あるとき、気付いたと、言います。 

 そうではなくて、修正とは、(その後に)校正する価値がある文(つまり、読んでもらうのに耐えうるもの)ができるまで、必要なだけ「何度も何度も繰り返す」という、(書く)過程だ、と考えています。

 もちろん、その「何度何度も繰り返す」過程の中で、そのとき、そのときで、「情報を集める」、「計画する」、「発展させる」など、修正の方法や修正の焦点が異なります。 

 マレー氏は、修正の過程で、生徒が自分に尋ねてみるといいのでは?というチェックリストも紹介してくれていますので、そこから修正の焦点・方法を、いくつか紹介します。 

○ 情報は十分か。
→ もしそうでなければ、「情報を集める」ことが必要 

○ 一つのことを語っているか。「この文は何を意味するの?」という質問に答えられるか。 
→ もしそうでなければ、(構成を)「計画する」ことが必要。

○ 読者が満足できるように情報を提示できているか。 
→ もしそうでなければ、今ある情報を「発展させる」ことが必要。

***** 

 さて、修正の大切さが分かっても、実際に「書く」ことを行わなければ、どこにも行き着きません。 

 WWでは、自分の作品を、どのジャンルで書き、どのくらいの長さにし、どのくらい時間をかけて仕上げるのか、というのは、書き手である子どもたちの選択にゆだねられることが多いです。

 この選択を活かして、子どもたちは自分の取り組みたい題材に力を注ぎつつ、書き手として成長していきます。

 その中で、絶対的に大切なのが、当たり前のように聞こえるかもしれませんが、「書く時間」です。

  『ライティング・ワークショップ』の中では、書くことの第一人者であるドナルド・グレイヴスに向かって、「もし、1週間に一度しか書く時間がとれないとしたら、どのように教えるべきでしょうか?」と尋ねた教師に対して、グレイヴスが以下のように答えたことが紹介されています。

 「週に一度しか教えられないのであれば、やめたほうがよいですね。<中略> 週に一度の授業では、子どもたちは書き手にはなれません」 

 実は、私のWWの授業は週に一度しかないのです(教える学年があがってくると、私のように、週に一度しか時間が確保できない先生もいらっしゃるのではないでしょうか?) 

 そして、書き手としての自分を考えたときに、書き手として自分がなかなか成長できないのは、やはり書く時間が少ない、ということに尽きるように思います。 

 私の生徒にしても、私にしても、書き手として成長できるかどうかのカギは、書く時間の確保だろうと思います。

 生徒の場合は週に一度しか授業時間が取れないという問題。 私の場合は、日々の忙しさに取り紛れてしまい、なかなか継続的に書く時間が取れないという問題。 

 さて、どうしましょうか。 

 まずは、書き手としての自分(教師)が、解決策を考えて、それを試してみる必要があると思います。 

 そのための一つの方法は、「締切りを設けて、締切りを活用する」ということだろうと思います。 

 締切りというのは、WWになじまないように思われるかもしれません。 もちろん、「全員が今週は下書き、来週は2章まで書く、さ来週は構成、その次の週が校正」というような、一律の締切りは、WWではまず使われないと思います。 

 しかし、それぞれの書き手が、「書く時間を確保」するために、それぞれに自分の生活の中に締切りを設けて、それを活用する、ということは、私はWW的にも、「あり」だと思っています。 

 上で紹介したマレー氏は、「たとえば、1日で(あるいはある時間で)○ページ書く」というような「締切り」を自分に課すのをやめたときに、自分は書くことをやめてしまう、ともいっています。

 また締切りというのは、「最終原稿」を仕上げる日だけではありません。

 「最終原稿を○月○日までに仕上げる」ということは、毎日の生活の中ではむしろ見えにくい印象を持ちます。 マレー氏の文を読んでいると、毎日の生活の中で見えにくい締切りを持つよりも、(その目標に向けて、まずは)「毎日○ページ書く、毎日○時間書く」というような、「毎日の生活」の中で目に見える締切りがないと、「書く時間」の確保にはつながらないということではないか、と私は思いました。

 最終の締切りだけを生徒に提示しても、前日に慌てて仕上げようとするだけで、日常的に書く時間が増えることにはつながらないのかもしれません。それと同じなのだろうと思います。

  「先生も皆さんも書き手です。書くことの大変さや苦労も一緒に乗り越えていきましょう」というメッセージが、『ライティング・ワークショップ』にでてきます。

 このメッセージを子どもたちに伝えられるように、まずは教師が、自分の生活のなかで書く時間を増やすために、この夏、日々の生活の中に、目に見える締切りを設けることを、試してみるのはいかがでしょうか?

出典:

Donald M. Murray の A Writer Teaches Writing, Revised Second Edition, (Thomson, 2004)で、修正は繰り返しについては56-58ページ、締切りについては52ページに書かれています。

『ライティング・ワークショップ』(ラルフ・フレッチャー、ジョアン・ポータルピ著、新評論、2007年)より、ドナルド・グレイヴスの上で紹介した言葉が出てくるのは19-20ページです。「書き手として一緒に」という上の言葉が出てくるのは43ページ。42-43ページでは、教師が子どもと一緒に書く、教師が書く姿を見せることの大切さが強調されています。

2020年3月27日金曜日

「生徒の目」をサポートする「聞く目」 〜ドナルド・マレー(その2)

 ピューリッツアー賞も受賞している優れた書き手であったドナルド・マレー★は、大学で書くことを教え始めた当初、学生の作品に丹念に書き込み、いかに入念に書き込んでいるのかを、同僚に見てほしいと思ったぐらいだったそうです。マレーにとっては、学生の書いたものに書き込むことは、容易い、楽しい作業だったようです。(158ページ、1979年)

 しかし、「いかにそれが楽しいものであっても、責任ある教師として、生徒のものである学びを教師が行なってはいけない。私が書き込むのであれば、それは自分の書いたものに対してであり、生徒の書いたものに対してではない」(161ページ、1979年)と、マレーは思うようになります。また、マレーの学生への関わりかたも、「学生が自分の書いたものをどんどん良い下書きにできるような方法で、自分で自分の書いたものに反応できるようにする」(160ページ、1979年)ことへとシフトしていきます。

 英語を教える私は、学生の書いた英語の間違いを直し、必要と思われるコメントもたくさん書き込んできました。朱を入れ過ぎて、学習者の意欲をそいでしまったこともあります。マレーとは異なり、私の場合は、直したり、コメントを書いたりするのは「容易い、楽しい作業」ではありません。辞書その他を調べたりして勉強もします。書かれている情報に首を傾げながら整理しようとすると、時間も手間もかかり、きりがありませんし、何でこんなわかりにくいものを出すの?とカリカリしたりもします。

 「教師が頑張りすぎると、結局、学んでいるのは、生徒ではなくて教師だよ」と耳にすることもありますが、自分が添削した経験を考えると、実感としてよくわかります。しかし、教師の添削についての私の理解は、これまで、「教師の労は多いけど生徒の学びは少ないから、あまり効率がよくない」という、ごく単純なものだった気がします。

 でも、マレーの本を読んでいると、「効率がよくない」だけでなく、おそらく教師の善意からとはいえ、「生徒の書いたもの」を「教師のもの」にしてしまうという問題を考えさせられます。マレーは「無責任にも、生徒の書いたものを誠実に直すことで、生徒の作品の推敲も教師がしてしまう」ことに気づき、一見、親切そうに見えるものの、それは破壊的であることを示唆しています(マレー、1969年、140ページ)。

 とはいえ、マレーも、いくつかの出来事を経て考えた結果、提出されたものに書き込むのをやめたときには、かなり葛藤したようです。校正すべき綴り等の間違いもありますし、中には焦点が定まらないもの、構成ができていないもの、書き手の声がないものなどもあります。(161ページ、1979年)

 「書き手の学生が、何を言いたいかをまだ見つけていないのに、どうやって教師は、書き手の書いた言葉を変えるのか? 書き手は、まだ自分が何を強調したいのかがはっきりわかっていないのに、どうやって教師は句読点を打てるのか? 書き手は、読者が誰なのかまだ決めていないのに、どうやって教師は語調・言葉遣いに疑問を投げかけるのか?」とマレーは自分に問います。(161ページ、1979年)

 また、マレーは、教師や編集者が、書き手の最初の下書きに書き込むことがあり、その問題にも言及しています。最初の下書きを書いた段階では、書き手はまだ自分が伝えたい意味を見つけられていないことが多いです。ですから、その段階で他者が行う修正は、その書かれたものはこういう意味だろうと考える、その他者自身の思い込みから来ている、そして、書き手が意味を作り出すということを書き手から奪ってしまっている、とマレーは指摘します。(89ページ、1981年)

 「自分が書く題材を見つける」ことも「その題材を書くことで自分の思考を形成すること」も、それぞれの書き手にしかできない、と考えるマレーですが、もちろん、放任しているわけではありません。

 例えば、マレーは、生徒の責任の一つとして、題材を探すことをあげていますが、「教師は、他の書き手たちがどうやって題材を見つけているのかを示す。どのように視点を定めていくのか、どのように認識するのかを、示すこともできる。でも、生徒の世界を生徒の目で認識することは、教師にはできない」(140ページ、1969年)というように、教師ができること、できないことをはっきりさせています。

 マレーは自分のカンファランスを振り返った論文のタイトルに「聞く目」(the listening eye)という言い方を使っています。(157ページ、1979年)

 この表現を見て私なりに思ったのは、次のことです。おそらく、マレーは、プロの書き手として、修正できる点を山のように見つけられる「鋭い目」で生徒の作品を見ることができる。でも、その目を使い始めたとたん、それは生徒の作品ではなく、マレーの作品になってしまうので、その自分の目を使わない。そうではなくて、「生徒の目」で、まだこれから生徒が見つけ出していく意味を見ようとする。そのためには、カンファランスでも、教師が話す前に、生徒に聞くことが必須。

 書くことを学ぶ教室で、それぞれが自分の考えを作り出し、それをお互いに読む(出版する)ことの価値。マレーはそこに以下のような可能性を感じているのかもしれません。

「民主主義は、それぞれが自分の言葉に責任を持っている、様々な声が混じっているところから築かれる。賢明な国語の教師が歓迎するのは、一人ひとりの生徒が、それぞれの書き方で、それぞれの関心を表現する中で生まれる声、相反する多様性があるいろいろな声である」(140ページ、1969年)

*****
★ドナルド・マレー(Donald M. Murray)については、3月13日の書き込みで紹介していますので、ご参照ください。なお、本文中の引用は、マレー自身が自分の書いた論文等を選んで作った本、Learning by Teaching: Selected Articles on Writing and Teaching(Boynton/Cookから1982年に出版)よりです。上に記載したページ数はこの本でのページ数、出版年は、最初に出版された年を記しています。引用の場合は、私のざっと訳ですので、お気付きの点があれば教えていただけますと、ありがたいです。

2024年9月13日金曜日

グレイヴスが考えるリーディングでの読者(reader's audience)

  リーディングにおける教師の役割は、ライティングにおいてもそうであるように、子どもたちの様々な解釈や、意味をつくりだそうという「下書き」をしている子どもたちの試みに、耳を傾けることだ。

                                              ーードナルド・グレイヴス(197ページ)(★1)

 アメリカでのライティング教育の大御所?の一人、ドナルド・グレイブス氏 (Donald H. Graves) が、40年近く前に、ライティングではなくて、リーディングについて論じた「The Reader's Audience」(★1)を最近、読みました。「なぜ、グレイブス氏がリーディングを論じるのか?」と、最初、意外な気がしました。

 その背景にあるのは、1980年代、アメリカでライティング・ワークショップが実施されていた教室の多くで、リーディングの授業になると、子どもたちが本を選ぶこともできない、教師主導の授業が多かったということがあります。『イン・ザ・ミドル』の著者、アトウェル氏もその一人で、当時、ライティング・ワークショップをスタートしたものの、「リーディングに時間になると、私は教室の前に立って一方的に教えていました」(『イン・ザ・ミドル』38-39ページ)という状態でした。

 この時期、ライティング・ワークショップがうまくいき始めた教室で、教師たちは、その成功の要素から、読みと書きのつながりを考えたり、リーディングに活かせることは何かを模索し始めます。グレイヴス氏も、氏がライティングにおける読者について考えたことを出発点にして、リーディングについて論じています。

 ライティング・ワークショップでは、書き手それぞれの「声(voice)」を引き出し、育てていこうとしているのに対し、多くのリーディングの教室で、読み手一人ひとりの「声(voice)」やそれぞれの解釈の余地が少ないことに警鐘を鳴らし、それぞれの「声(voice)」のある読み手を育てるためにどうすればいいのかを考えています。つまり、グレイヴス氏は、ライティングにおいてのみならず、リーディングにおいても、子どもたちが自分の「下書き」や「テキスト」を創出しているというスタンスで、リーディング教育を考えているという印象を受けました。

 グレイヴス氏は、リーディングにおける「読者 (audience)」(★2)を多面的に考えています。教師やクラスメイトは、読み手の外側にいる読者 (external audience)です。よくある弊害は、教師が自分の外側にいる読者 (external audience) として、最重要になる場合です。そうなると、子どもたちは、一人ひとりが、それぞれに本から得られるものを見つけようと努力するのではなく、教師の解釈に一致しようとしてしまいます(197ページ)。

(→ ライティングにおいても、読者が教師しかいないと、子どもたちは、教師が喜ぶことを、教師から高い評価が得られるように書こうとするのに似ている、と思いました。)

 グレイヴス氏は、1980年代、若き日のアトウェル氏がブースベイ学校で、生徒たちと、読んだものについてノートを使う手紙形式のやりとりを実践したこと(★3)も紹介しています。グレイブス氏が実践の中で注目したのは、アトウェル氏が、読むことに苦労している子どもに対して、アトウェル氏がまだ読んでいない本を読むようにした事例でした。教師の解釈が確立する前に(子どもが教師の解釈を知る前に)、その子どもが、自分の「声(voice)」や解釈を作り出すことができる、としています(197-198ページ)。

→ 読むことに苦労している子どもに対しては、私は「読みやすく」なるように事前のサポートが肝心!と思ってしまいます。ただ、そのサポートが、子ども自身が、そこから意味をつくり出そうとする部分を損なうほど「手厚く」なっていないか、このことは注意していく必要があるように思いました。

 自分の外側にいる読者 (external audience) として、クラスメイトはどうでしょうか。

 2024年8月17日の投稿「沈黙と対話」の中でに登場する事例で、クララ先生は、ジャスミンの質問に対する答えをすぐには発言させずに、意図的に生徒たちに「沈黙」の時間を与え、「ときには、質問にすぐに答えようとしない方がいい。その代わり、しばらくのあいだ頭のなかに漂わせておく」(★4)と黒板に書いたことが紹介されています。この時の投稿によると、この日の授業は「ジャスミンという生徒の質問によってとても大切な局面を迎え」という、とてもクリティカルな質問だったようです。「クララ先生はジャスミンの素晴らしい質問が出された後、意図的に生徒たちに「沈黙」の時間を与え、考えさせながら『ルビー・ブリッジス物語』を「ひたすら読む時間」へといざなっていきました」という対応が紹介されています。

 → このような沈黙があることで、テキストから何が得られるのかを、それぞれの子どもがそれぞれに見つける助けになると思います。

 → 逆に、教師がこの質問について生徒の前でたくさん話して、すぐに答えさせてしまうと、深く考えずに同調したり、流される子どもも出てくるかもしれません。

 グレイヴス氏は、教師が、子どもたちそれぞれに、読んだものや書いたものを共有できるようにすると、読みにおいても解釈の共同体(interpretive communities)が生まれる、としています。解釈の共同体の中で、子どもたちは自分の「声」に耳を傾けるより、むしろ、他の読み手の声に耳を傾けすぎる傾向があり、ある種の「集団思考」が生まれることもある。そのような中での、教師の役割は「本の選択、読書の過程、テキストの解釈において、それぞれの個性を強調すること」としています(198ページ)。クララ先生は「沈黙」を使うことで、それぞれの子どものテキスト解釈の余地を作り出していることを感じます。

 解釈の共同体として、クラス全体や教師が決めた小グループ以外に、子ども自身が自分が読んだものを「誰に」シェアするのかを、子ども自身が選ぶ場合もあります。グレイヴス氏は、この「子どもが、シェアする人を選ぶ」ことに大きな可能性を見出しているようです(198ー199ページ)。 

 教師やクラスメイトは、外側の読者(external audience) ですが、読者の中には、内側の読者(internal audience) つまり読み手自身 (other self) もいます。書き手も自分とたくさん対話するように、読み手にとっても、自分(other self) との対話は大切です。そして、自分(other self)という読者(audience) も多面的です。これまでの読み手としての歴史も関わるでしょうし、著者を自分の中にイメージして、その著者と対話することもあります(196-197ページ)。

 読み手としての成長には、自分という多面性のある読者との対話の余地も必要ですし、外側の読者との関わりも必要です。その第一歩は、教師だけというような「限られた読者」から、読み手自身も含めて、多面的な読者の役割に目を向けることなのかもしれません。

*****

 グレイヴス氏の「The Reader's Audience」が掲載されているのは、Breaking Ground: Teachers Relate Reading and Writing in the Elementary Schoolという本で、22名の教育者が寄稿しています。その中には、ドナルド・グレイヴス氏 (Donald H. Graves) とともにライティング教育を牽引したドナルド・マレー氏 (Donald M. Murray)、『イン・ザ・ミドル』の著者のナンシー・アトウェル氏( Nancie Atwell)、アトウェル氏をライティング・ワークショップに導くきっかけとなったスーザン・ソウア氏  (Susan Sowers) なども含まれています。

 1980年代について、アトウェル氏は、「多くの国語教師にとって高揚感に満ちた時期」で「ドナルド・グレイヴスやドナルド・マレーのおかげで、多くの教師が、こう教えるべきだと言われていたそれまでのやり方を捨てて、生徒自身が自分の伝えたいことを表現できる道を拓いていた」(『イン・ザ・ミドル』 22ページ)と述べています。この本からも、教師たちが考え続けることで、教師が前に立って一斉に教えるだけのリーディング授業から、新しい地平を切り開かれつつある、というエネルギーを感じます。

 なお、この本のタイトルですが、当初、「ライティングとリーディングを理解する」「読み書きのつながり」「読み書きのスパイラル」など、ドナルド・マレーであれば「タイトルではなくて、ただのラベルだね」と却下するようなものしか候補になかったようです。編者たちが話しているときに、その一人が「この本に登場する教師たちはまさに新しい地平を開拓してきているね(breadking new ground)と言ったことで、タイトルが決まったそうです(ixページ)。

*****

★1 

Breaking Ground: Teachers Relate Reading and Writing in the Elementary School. Heinemann より1985年に出版。

★2

「The Reader's Audience」という題名で、ライティングで、audienceを(書き手に対する)「読者」と書いてもあまり違和感を感じないのですが、リーディングで(読み手に対する)「読者」と訳すとわかりにくい印象も受けますが、名案がありません(💦)。「他者」とするとニュアンスがズレる印象もあります。何かご助言があればぜひ! グレイブス氏はリーディングにおける audienceには、自分の内側にある多面的な other self と、外部のaudience として、教師と、クラスメイトと、読み手が自ら選んだ audience があるというような説明をしています(196ページ)。

★3

これについてアトウェル氏は『イン・ザ・ミドル』(290-291ページ)の中で、当時、「書くことで本についての対話をすれば、生徒が読み手としても批評家としても成長できるのではないか」と考えて実践したこと、ただ、「全員の生徒と毎週やりとりをしようとすると、その用紙が山のようになり、疲れ切ってしまいます」と、その負担にも言及しています。この時の実践を発展させていったのがレター・エッセイです。

★4

2024年8月17日の投稿「沈黙と対話」をご参照ください。板書については『理解するってどういうこと?』323ページが参照ページとして記されています。