ドナルド・マレー (225ページ、1985年)
★ The Essential Don Murray を編集したのは、Thomas Newkirk と Lisa C. Millerで、出版社は Heinemannです。
最近、ある本★で、読み書きのつながりを、呼吸(つまり息を吸うことと吐くこと)に喩えていて、その喩えが、どうも私にはしっくりこない、というか、「あることを含めてくれる喩えだと、もっと嬉しいのに」と思いました。
もちろん、呼吸は生きる上で欠かせませんし、息を吸うことと吐くことの「両方」が不可欠なので、この点からはいい喩えだなと思えます。
しかし、「呼吸」に喩えてしまうと、「読み書きのつながり」の中にある、「不規則性、同時性/瞬時性」が見過ごされるように感じました。健康的な呼吸は、「規則正しい、一定のリズム」で行われています。しかし、私にとって、「読み書きのつながり」は、ちっとも規則正しくないし、一定のリズムでもありません。
読んでいて急に思いついてメモしたり、突然書き始めたり、また、書いている時に行き詰まって、ヒントになりそうな本をパラパラめくったりもします。
さらに、「読むこと」だけを考えても、その読み方も規則正しくありません。いろいろなペースで、行ったり来たりしながら、いろいろな読み方をしています。「書くこと」だけを考えても、同様です。時にはメモも取りつつ、こちらも行ったり来たりしながら、いろいろな書き方をしています。
落ち着いた、規則的な呼吸では掴みきれない、動的なものが、読み書きのつながりの中にも、読むことの中にも、書くことの中にも、あるように思います。その動的な部分も含めてくれるようないい比喩があるといいな、と思います。何か思いつかれた方はぜひ教えてください!
さて、前回の投稿では、WWの創設者とも言えるドナルド・グレイヴスが、「国語界のハッカー」として紹介されていました。「ハッカー」の概念を前回の投稿から借りると、WWとも深く関わる「書くプロセスのハッカー」は、もう一人のドナルド、つまりドナルド・M・マレー(Donald M. Murray)だと思います。
ドナルド・マレーは自身が優れた書き手として、書き手が実際に通るプロセスを観察し続け、それを明らかにしようとした人です(たまたま、もう一人のハッカー?と同じファーストネームです。こちらのドナルドも、このブログで何度か紹介してきましたので、ブログ版の左上に「マレー 」と入力して検索してみてください)。
優れた実践者アトウェル は、マレーのプレゼンを見て、「また、決められた方法でアウトラインを書いて、下書きから最終稿に直線的に進むという定説が揺さぶられるのもよくわかりました」と記しています(『イン・ザ・ミドル』166ページ)。
私が上に書いた不規則性、同時性/瞬時性というイメージは、ドナルド・マレーの著作★★から学びました。
一般に「書くプロセス」と言われると、「書く前の段階→下書き→推敲」と言う段階を経て「完成」と言うイメージを持つ人もいると思います。しかしマレーは、まずこの「書く前の段階→下書き→推敲」と言うプロセスが、一つの作品を仕上げるまでに、何度も何度も何度も通ることを指摘します(一つめの図)。(ブログ版には、以下マレーの書いた図を4つ貼り付けていますので、よろしければ、そちらをご参照ください。Facebook版では文字の説明だけです。)

先週、ロイ・ピーター・クラークの『名著から学ぶ創作入門』(越前敏弥・国広喜代美訳、フィルムアート社、2020年)を山元さんが読みの専門家として「読む指導」にどう活かせるかを書いてくれていたので、今週は「書く指導」にどう活かせるかを紹介したいと思います。(本のタイトルの通り、それがそもそも目的で書かれた本ですから。実際、書き方を教える現存するプロ中のプロが書くことに関しての名著を紹介しながら書いた本なので、「書き方を教える」際のヒントが満載です!)
名著を紹介している部分は、どれもとてもいいのですが、圧巻は、その後についているエクササイズというかレッスンです。たとえば、
「『ゼロ稿』を書いてみよう。まず探りを入れる作業なので、完全な文章ではなくていい。ゼロ稿は、自分が何をつかんでいるか、何を知らなければいけないかを教えてくれる」(128ページ)もその一つ。下書きをドンドン書くことを奨励しています。
「原稿の質を自分では判断できない地点にいずれ達するだろう。そのときには助けを求めよう。ただち、慎重におこなわなくてはならない。励ましてくれる人か、批判してくれる人か、知識のある人に助けを請うように。必要なときに必要な人を選ぶべきだ」(129ページ)は、ピア・カンファランスを奨励しています。しかし、誰でもいいわけではなくて、読むときに選書が一番大事なのと同じように、人選でフィードバックの質も、その結果の文章の質も決まってしまいます。
この調子で、書き手が大切にすべきアドバイスが満載ですから、ぜひご一読を! 本の値段も300ページを超える内容なのに、2000円+税と、とてもリーズナブルですし、巻末の「ブックリスト」もありがたいです。(それに対して、著者が紹介している40冊以上の本で、訳されている本の少なさに驚きます! と同時に、日本人が書いた本で、この本に類するものを書くことは可能なのだろうかとも考えました。できるとしたら、どんな本があるかどなたか教えてください。)
もう少し、私が気に入った箇所を紹介します。
・自分の好きなことを書こう。それはすばらしいことだ。その感覚を楽しもう。ただし、推敲中はきびしく自分に問うこと。その華麗な一節や如才ない考えは、本旨に沿うものだろうか。ちがうと思ったら、その表現は取り除こう・・・また別の機会の別の話のためにとっておけばよい。(22ページ) ~ それを可能にしてくれる媒体が「作家ノート」です!
・①この本の適当なページを開く。筆記具と持って、節や章の趣旨とは関係ないと思われる単語やフレーズにしるしをつけよう。
②別のページを開く。練習のために、10%を削除しなくてはならないと想定する。削除できそうな部分にしるしをつけよう。
③刊行された自分の作品にこのプロセスをあてはめる。それから基準をきびしくして、20%を削除しよう。
④最後に、今の自分が書いている原稿の雑然としているところ、弱いところを見つける。だれかに手伝ってもらって、削除した箇所をチェックし、意見が合うかどうかをたしかめよう。(35ページ) ~ これは、このブログでも紹介したウィリアム・ジンサー(William Zinsser)https://wwletter.blogspot.com/search?q=Zinsser をベースにしたエクササイズです。
・文の長さを変えて、心地よりリズムを作ろう。(69ページ)
・目で見える形で考えたり計画したりするのは、ことばを使う人々にとって必要な手段であり、特にプロジェクトの最初には役に立つ。執筆を先に進めるために、作り上げたいものの絵や図を描いてみよう。画家のように描かなくても、棒人間、簡単な図形、矢印、螺旋で事足りる。(88ページ)
・デジタル時代の書き手に特に必要なのは、柔軟性だ。さまざまなメディア・プラットフォームにまたがって、さまざまなマルチメディアの形で、長いものも短いものも含めてさまざまな記事や物語を、速く書いたりゆっくり書いたりする練習をしよう。(96ページ)
といった具合で、まだ5分の1も紹介できていません(含められなかった中には、このブログで度々紹介してきたドナルド・マレー(https://wwletter.blogspot.com/search?q=Murray)や、https://sites.google.com/site/writingworkshopjp/teachers/osusume に含まれているナタリー・ゴールドバーグの本とそれらからの教訓/エクササイズも含まれています。ぜひ、『名著から学ぶ創作入門』を書く指導のいかしてください。
なお、最初の(128十129ページの)引用は、アン・ラモットの『ひとつずつ・ひとつずつ―書くことで人は癒される』(パンローリング)からのエクササイズです。
○ 『ライティング・ワークショップ』の共著者の一人、ラルフ・フレッチャー氏の作家ノートについてのある本の中に「下手に書く場所」という名前の章があります。
これはもちろん、意識的に下手に書くという意味ではありません。
フレッチャー氏によると、ちょうど初めてスキーにトライしたときには沢山転ぶように、書くことにおいても、たくさん転んでもいい場所が必要だということです。
また、同じ本の違う章の中で面白いエピソードも紹介しています。
洗濯機に入れる前にシャツのボタンをとめているフレッチャー氏を見て、奥様が「前から聞きたかったんだけど、どうしてそうするの?」と尋ねます。
「そのほうが、形が崩れないから、ってマリアン(前の妻の名前)が言っていたから」とフレッチャー氏。
現在の奥様の前で、急に前の妻の名前が出てきた、そのときの感情を、フレッチャー氏は、作家ノートに「汚れたシャツのボタンをとめるーーマリアン」、と数単語だけメモします。
そして、その数週間後、その数単語の書き込みに戻り、そこから詩を仕上げます。
最初からうまく書くということを目指すのは無理だし、最初は断片だけ書いて、あとからそこに戻ってもいいということを教えられます。
○ 先週のWW便りでも紹介したドナルド・マレー氏ですが、面白いことを言っています。
拙い意訳で恐縮ですが、2つ紹介します。
「多くの教師は、子どもたちがちゃんと文を書けないと嘆く。私は、自分の学生たちが文を書くことを嘆く。(自分の学生たちは)あまりに早すぎる時期に(文を書く)。(文という)形を整えつつ、意味をなおざりにする」
「上手に書くためには、下手に書くことをしなければいけない。もちろん。下手に書くというのは、きちんと整っているかとか、完全であるかとか、そういういう点において、そうではないということである。というのは、しっかり頭が動いているときには、その思考は、まだ整っていないし、完全ではないからだ」
つまり、頭がどんどん動いているときには、そのスピードに、文をつくるということはついていけないぐらいだというわけです。
マレー氏の上の言葉がでてきた章を見ていると、最初から文を書くことはありえない? とすら思わされます。
*****
フレッチャー氏やマレー氏の本を読んでいると、本当の作家にとっては、1×4ではなくて、4のところの数字がもっと大きい気がしました。
そして本当の作家にとっては、読者に読んでもらうに耐えるものを書くために、まずは文をつくろうとも思わずに、どんどん思考し、その断片を書きとめ、それに何度も修正、校正両面から、「手を入れる」、これが本当に書くサイクルなんだろうとも思います。
本当に書く体験をめざすWWの授業では、1×4(以上)というサイクルは存在しても、4×1は存在しないのでは?とも思います。
1×4 > 4×1は、「本当に書くサイクル」 > 「本当ではない書くサイクル」みたいな気までしてきました。
出典:
「一つの作品に4回取り組むほうが、一回書いて終わりにする作品を4つ書くよりもよい」と書いてあったのは、Mary Sullivan, Lessons for Guided Writing Grades 5 & Up, (Scholastic, 2008) 10ページ。
フレッチャー氏の「下手に書く場所」という章が出てくる本は Ralph Fletcher, Breathing In, Breathing Out (Heinemann, 1996) 55-57ページ、汚れた洗濯物にボタンととめるエピソードは、17-19ページ。
マレー氏の上の言葉がでてくるのは、Donald M. Murray, Expecting the Unexpected (Boynton/Cook, 1989)の39ページと46ページ。
リーディングにおける教師の役割は、ライティングにおいてもそうであるように、子どもたちの様々な解釈や、意味をつくりだそうという「下書き」をしている子どもたちの試みに、耳を傾けることだ。
ーードナルド・グレイヴス(197ページ)(★1)
アメリカでのライティング教育の大御所?の一人、ドナルド・グレイブス氏 (Donald H. Graves) が、40年近く前に、ライティングではなくて、リーディングについて論じた「The Reader's Audience」(★1)を最近、読みました。「なぜ、グレイブス氏がリーディングを論じるのか?」と、最初、意外な気がしました。
その背景にあるのは、1980年代、アメリカでライティング・ワークショップが実施されていた教室の多くで、リーディングの授業になると、子どもたちが本を選ぶこともできない、教師主導の授業が多かったということがあります。『イン・ザ・ミドル』の著者、アトウェル氏もその一人で、当時、ライティング・ワークショップをスタートしたものの、「リーディングに時間になると、私は教室の前に立って一方的に教えていました」(『イン・ザ・ミドル』38-39ページ)という状態でした。
この時期、ライティング・ワークショップがうまくいき始めた教室で、教師たちは、その成功の要素から、読みと書きのつながりを考えたり、リーディングに活かせることは何かを模索し始めます。グレイヴス氏も、氏がライティングにおける読者について考えたことを出発点にして、リーディングについて論じています。
ライティング・ワークショップでは、書き手それぞれの「声(voice)」を引き出し、育てていこうとしているのに対し、多くのリーディングの教室で、読み手一人ひとりの「声(voice)」やそれぞれの解釈の余地が少ないことに警鐘を鳴らし、それぞれの「声(voice)」のある読み手を育てるためにどうすればいいのかを考えています。つまり、グレイヴス氏は、ライティングにおいてのみならず、リーディングにおいても、子どもたちが自分の「下書き」や「テキスト」を創出しているというスタンスで、リーディング教育を考えているという印象を受けました。
グレイヴス氏は、リーディングにおける「読者 (audience)」(★2)を多面的に考えています。教師やクラスメイトは、読み手の外側にいる読者 (external audience)です。よくある弊害は、教師が自分の外側にいる読者 (external audience) として、最重要になる場合です。そうなると、子どもたちは、一人ひとりが、それぞれに本から得られるものを見つけようと努力するのではなく、教師の解釈に一致しようとしてしまいます(197ページ)。
(→ ライティングにおいても、読者が教師しかいないと、子どもたちは、教師が喜ぶことを、教師から高い評価が得られるように書こうとするのに似ている、と思いました。)
グレイヴス氏は、1980年代、若き日のアトウェル氏がブースベイ学校で、生徒たちと、読んだものについてノートを使う手紙形式のやりとりを実践したこと(★3)も紹介しています。グレイブス氏が実践の中で注目したのは、アトウェル氏が、読むことに苦労している子どもに対して、アトウェル氏がまだ読んでいない本を読むようにした事例でした。教師の解釈が確立する前に(子どもが教師の解釈を知る前に)、その子どもが、自分の「声(voice)」や解釈を作り出すことができる、としています(197-198ページ)。
→ 読むことに苦労している子どもに対しては、私は「読みやすく」なるように事前のサポートが肝心!と思ってしまいます。ただ、そのサポートが、子ども自身が、そこから意味をつくり出そうとする部分を損なうほど「手厚く」なっていないか、このことは注意していく必要があるように思いました。
自分の外側にいる読者 (external audience) として、クラスメイトはどうでしょうか。
2024年8月17日の投稿「沈黙と対話」の中でに登場する事例で、クララ先生は、ジャスミンの質問に対する答えをすぐには発言させずに、意図的に生徒たちに「沈黙」の時間を与え、「ときには、質問にすぐに答えようとしない方がいい。その代わり、しばらくのあいだ頭のなかに漂わせておく」(★4)と黒板に書いたことが紹介されています。この時の投稿によると、この日の授業は「ジャスミンという生徒の質問によってとても大切な局面を迎え」という、とてもクリティカルな質問だったようです。「クララ先生はジャスミンの素晴らしい質問が出された後、意図的に生徒たちに「沈黙」の時間を与え、考えさせながら『ルビー・ブリッジス物語』を「ひたすら読む時間」へといざなっていきました」という対応が紹介されています。
→ このような沈黙があることで、テキストから何が得られるのかを、それぞれの子どもがそれぞれに見つける助けになると思います。
→ 逆に、教師がこの質問について生徒の前でたくさん話して、すぐに答えさせてしまうと、深く考えずに同調したり、流される子どもも出てくるかもしれません。
グレイヴス氏は、教師が、子どもたちそれぞれに、読んだものや書いたものを共有できるようにすると、読みにおいても解釈の共同体(interpretive communities)が生まれる、としています。解釈の共同体の中で、子どもたちは自分の「声」に耳を傾けるより、むしろ、他の読み手の声に耳を傾けすぎる傾向があり、ある種の「集団思考」が生まれることもある。そのような中での、教師の役割は「本の選択、読書の過程、テキストの解釈において、それぞれの個性を強調すること」としています(198ページ)。クララ先生は「沈黙」を使うことで、それぞれの子どものテキスト解釈の余地を作り出していることを感じます。
解釈の共同体として、クラス全体や教師が決めた小グループ以外に、子ども自身が自分が読んだものを「誰に」シェアするのかを、子ども自身が選ぶ場合もあります。グレイヴス氏は、この「子どもが、シェアする人を選ぶ」ことに大きな可能性を見出しているようです(198ー199ページ)。
教師やクラスメイトは、外側の読者(external audience) ですが、読者の中には、内側の読者(internal audience) つまり読み手自身 (other self) もいます。書き手も自分とたくさん対話するように、読み手にとっても、自分(other self) との対話は大切です。そして、自分(other self)という読者(audience) も多面的です。これまでの読み手としての歴史も関わるでしょうし、著者を自分の中にイメージして、その著者と対話することもあります(196-197ページ)。
読み手としての成長には、自分という多面性のある読者との対話の余地も必要ですし、外側の読者との関わりも必要です。その第一歩は、教師だけというような「限られた読者」から、読み手自身も含めて、多面的な読者の役割に目を向けることなのかもしれません。
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グレイヴス氏の「The Reader's Audience」が掲載されているのは、Breaking Ground: Teachers Relate Reading and Writing in the Elementary Schoolという本で、22名の教育者が寄稿しています。その中には、ドナルド・グレイヴス氏 (Donald H. Graves) とともにライティング教育を牽引したドナルド・マレー氏 (Donald M. Murray)、『イン・ザ・ミドル』の著者のナンシー・アトウェル氏( Nancie Atwell)、アトウェル氏をライティング・ワークショップに導くきっかけとなったスーザン・ソウア氏 (Susan Sowers) なども含まれています。
1980年代について、アトウェル氏は、「多くの国語教師にとって高揚感に満ちた時期」で「ドナルド・グレイヴスやドナルド・マレーのおかげで、多くの教師が、こう教えるべきだと言われていたそれまでのやり方を捨てて、生徒自身が自分の伝えたいことを表現できる道を拓いていた」(『イン・ザ・ミドル』 22ページ)と述べています。この本からも、教師たちが考え続けることで、教師が前に立って一斉に教えるだけのリーディング授業から、新しい地平を切り開かれつつある、というエネルギーを感じます。
なお、この本のタイトルですが、当初、「ライティングとリーディングを理解する」「読み書きのつながり」「読み書きのスパイラル」など、ドナルド・マレーであれば「タイトルではなくて、ただのラベルだね」と却下するようなものしか候補になかったようです。編者たちが話しているときに、その一人が「この本に登場する教師たちはまさに新しい地平を開拓してきているね(breadking new ground)と言ったことで、タイトルが決まったそうです(ixページ)。
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★1
Breaking Ground: Teachers Relate Reading and Writing in the Elementary School. Heinemann より1985年に出版。
★2
「The Reader's Audience」という題名で、ライティングで、audienceを(書き手に対する)「読者」と書いてもあまり違和感を感じないのですが、リーディングで(読み手に対する)「読者」と訳すとわかりにくい印象も受けますが、名案がありません(💦)。「他者」とするとニュアンスがズレる印象もあります。何かご助言があればぜひ! グレイブス氏はリーディングにおける audienceには、自分の内側にある多面的な other self と、外部のaudience として、教師と、クラスメイトと、読み手が自ら選んだ audience があるというような説明をしています(196ページ)。
★3
これについてアトウェル氏は『イン・ザ・ミドル』(290-291ページ)の中で、当時、「書くことで本についての対話をすれば、生徒が読み手としても批評家としても成長できるのではないか」と考えて実践したこと、ただ、「全員の生徒と毎週やりとりをしようとすると、その用紙が山のようになり、疲れ切ってしまいます」と、その負担にも言及しています。この時の実践を発展させていったのがレター・エッセイです。
★4
2024年8月17日の投稿「沈黙と対話」をご参照ください。板書については『理解するってどういうこと?』323ページが参照ページとして記されています。