2023年11月18日土曜日

新しく学んだことを既知のことに関連づける「マルジナリア」

 『理解するってどういうこと?』の第5章には「読み・書きを学ぶ際の主要な構成要素」として「さまざまな認識方法」が掲げられています(『理解するってどういうこと?』167ページ)。読み手が流ちょうに読むのを助ける一連のスキルと方法は「表面の認識方法」ですが、読み手が自分の理解を拡張して応用するための理解を助ける一連のスキルと方法は「深い認識方法」と呼ばれています。このうち「深い認識方法」には「意味づけの領域」「関連づけの領域」「優れた読み手・書き手になる領域」の三つの領域があるとされています。

 本を読んでいて新しい知識にめぐりあった時には嬉しいものです。しかしその新しい知識を「深くわかった」と実感する時に私たちのなかでは何が起こっているのでしょうか? それは、新しく学んだことが自分の既に知っていることと関連づけられた時ではないかと思います。そのようなことが起これば、自分の既に知っていることはかたちを変えざるを得ません。自分が既に知っていたことが間違っていたと思える場合すらあります。そのように揺さぶられるからこそ、新しい知識を「深くわかった」と実感するのではないでしょうか。

 私は、そういう意味で、『理解するってどういうこと?』に記されている理解の仕方の中心になるのは、「深い認識方法」の「関連づけの領域」ではないかと考えています。エリンさんは次のように言っています。

「関連づけの領域とは、説得力を持って書かれた文章を読むあいだ、活性化された私たちの頭のなかで働いている認識過程のことです。子どもの頃から読んできたいろいろな本についての消えない記憶を残してくれて、表面の意味以上の書かれていないメッセージ(ある本や文章を書くときに作家が考えていたであろうさまざまなアイディア)をじっくり考えた初めてのときのことを、思い出させてくれる領域です。(中略)関連づけの領域は、私たち一人ひとりの解釈をつくり出し、読む意欲をかき立てる、エンジンのようなものなのです。また、新たに学んだり発見したりしたさまざまなアイディアを取り入れることで、自分が既にもっていた知識や、もともと持っていた考え方や、感情や意見を作り直してくれます。」(『理解するってどういうこと?』178ページ)

 では、「関連づけの領域」を発動させるにはどうしたらいいのでしょうか。そんなに簡単なことでないように思われます。どうすれば新しく学んだことを既知のことに関連づけることができるのでしょうか。

 以前取り上げた『記憶のデザイン』(筑摩書房)の著者山本貴光さんに『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』(本の雑誌社、2020年)という著書にはそのためのヒントたくさんあります。「マルジナリア」とは、山本さんによれば、本の余白(マージン)に書き込まれたもの、のことです。いわゆる「書き込み」ですね。『マルジナリアでつかまえて』はこの「マルジナリア」の諸相を多彩に知らせてくれる本です(『本の雑誌』に連載された記事がもとになっています)。

「文章とは、書く側からいうと、読者の脳と記憶に探りを入れて、そこにあるものを意識にのぼらせてしまう一種のハッキングの技法みたいなものだ。これを読む側から見れば、誰かが書いた言葉の組み合わせを目から脳に文字通り体に入れて、なにが生じてしまうかを自分の体で実験しているようなものである。なにそれコワイ!コワイが楽しい!!

 念のためにいえば、そのつどの読書は一度しか生じない。同じ川に二度入れないのと同様である。マルジナリアとは、そうした出来事の観察記録でもあるのだ。」(『マルジナリアでつかまえて』57ページ)

 読者自身の頭のなかで行われる「関連づけ」を具体的に自分が「観察」できるようにしてくれるのが「マルジナリア」であるというわけです。「そのつど」の読んで気づいたことが言葉や記号や絵図として残されるのです。そしてその「マルジナリア」を私たちは再読することもできます。

 そんなことは読書ノートやジャーナルに書けばいいではないかと思われるかもしれません。実際私もそうすることは少なくないですが、時間をとっていささか構えて書くことになります。それに対して、「マルジナリア」は読んでいる本自体をノートやジャーナルにしてしまうものでもあります。

 『マルジナリアでつかまえて』には、古今東西の、自分の読んでいる本をノートやジャーナルにしてしまった人々のことが、その人々の実践のありようを示す写真とともに、柔軟でわかりやすい文体で紹介されています。漢文訓読すらも「マルジナリア」だと言われると、漢文学習が少し違ったものに見えてきて、これも中国文に対する深い理解のための「関連づけの領域」だったのだと思えてくるから不思議です。多彩な「マルジナリア」の姿については是非本書を手に取ってご覧下さい。

『マルジナリアでつかまえて』の最後のあたりに「マルジナリアことはじめ」という章があります。山本さんの経験をもとに「マルジナリア」をどのようにつくるのかということがわかりやすくまとめられています。「書き込み」については次のように述べられています。

「書き込みにもいろいろありますが、線を引くのはその一つ。中学や高校の教科書などで重要な箇所に選を引いたりした経験があるかもしれません。ページにたくさんの文字が並ぶなかで、「ここは重要」という箇所を浮かび上がらせるためのマーキングですね。

「重要」な箇所ばかりでなくてもよいと思います。私の場合、「気になるところ」ぐあいの意味で線を引くことが多いです。ここは気になる、あとでもう一度戻ってきたい、なんだろうこれは?といった具合です。基本的には、「あ、ここ線を引きたい」と感じたら気持ちの赴くままに引けばよいわけです。もちろんなんらかのルールを設定して運用するのもありです。」(『マルジナリアでつかまえて』255ページ)

 「あ、ここ線を引きたい」という箇所で、おそらく「関連づけ」が起こっているはずです。読者の既知の情報が揺さぶられています。そこのところが「マルジナリア」をつくる意義でもあると思います。この引用のすぐあとの部分で、ついつい線を引きすぎてしまうことがよくあると述べられていますが、その場合は、線を引いた部分のなかでとくに大事なところをマーカーペンなどでマーキングするとも書かれています。これもなるほどと思いました。大事なところのさらに大事なところが絞り込まれていきます。

では読んでいる本の余白にどのようなメモを山本さんはしているか。


 「・要約:込み入った内容を簡単にまとめる

・換言:込み入った内容を自分なりにパラフレーズ

・意見:読んで思い浮かんだこと、アイデアなども

・疑問:書かれていることへの疑問

・調査:他の文献やネットなどで調べたこと

・原文:翻訳書などで原文の表現がどうなっているか」(『マルジナリアでつかまえて』257ページ)

 

こうなると、かなり詳しく読んでいる自分の思考や記憶をその本の内容と関連づけて言葉にすることになります。「要約」も「換言」も「意見」も「疑問」も、既知のことと関連づけるからこそうまれ、意味をもつことになります。山本さん述べるところの「マルジナリア」が「関連づけの領域」を発動させ、活性化させると私が考えるのもこのためです。こういう営みが理解の「エンジン」となることは言うまでもありません。そして、山本さんはこんなことも言っています。

「こうしたマルジナリアを眺めていると、ものを読むとはいったいどういう営みなのだろう、といまさらながら不思議な気分にもなってくる。もう少し言えば、私たちは一冊の本を読み終えたりできるのだろうか。開くつど新たな発見や疑問が湧いてくる本があるとしたら、その本を読み終わる日は来るのだろうか。

ボルヘスに、開くたび違うページが現れる「砂の本」という短篇があったのを思い出す。実は、どんな本も「砂の本」なのかもしれない。それにほら、余白に書き込みをすると、そのつど違うページになるのだしね。」(『マルジナリアでつかまえて』179ページ)

菅啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』(ちくま文庫)を想起させる言葉です。「そのつど違うページになる」からこそ、「マルジナリア」が記された本や文章は、その読者にとってかけがえのない宝物であると言うこともできるでしょう。読み終えることができないからこそ、その本について、世界について、自分について深く知るためのプラットフォームになるのだと思います。

 

 

2023年11月11日土曜日

子どもたちが自分でジャンルを選択する創作活動 〜先生の先を行く生徒たち?

 「自分が何について書きたいのか」よりも、「自分がどういうジャンルで書きたいのか」の方に心を惹かれる、そんな子どもたちの姿を教室で見ることはありますでしょうか。例えば、ファンタジーを書き続ける子どもは、「ファンタジー」というジャンルが持っている力に惹かれているのかもしれません。自由な世界を作り出し、現実ではあり得ない方法で登場人物を活躍させることができるという、このジャンルの特性から、力を得て、ファンタジーを書き続けているのかもしれません。また、ビデオゲームのガイドを書くことが好きな子どもは、友だちに自分の知識を伝えられることが楽しいのかもしれません。最近読み始めた本『Craft and Process Studies: Units That Provide Writers with Choice of Genre』(3ページ)の中に、上記のような内容を見つけ、たしかに、あるジャンル/タイプの持つ力を見つけてしまった子どもはいるだろうなあと思いました。

 ある4年生の教室でも、自分の書きたいタイプの作品について尋ねると、「パロディ」「(出版されているものの)続編」「実際にあるテレビ番組の自分なりのエピソード」等々が出てきて、先生が「それは自宅で書いているの? それとも学校で?」と尋ねると、子どもたちは「自宅で」と答えるという場面があります(2ページ)。教室外で、教師の知らないところで、実は子どもたちは、熱心な書き手だった、ということもあるようです(3ページ)。そして、自分がのめり込むジャンル/タイプの作品を作り出すことに時間も忘れて熱心に取り組むにもかかわらず、そのような創作活動は、「教室の学び」の中には存在しないように感じる子どももいるようです。「意見文」「回想録」「詩」「フィクション」など、「ジャンル学習」でジャンル別に単元を組んでいても、子どもたちが興味のあるジャンルを全て取り上げていくのは不可能ですから、そこに入らないジャンルは「学習ではない」と感じてしまうのかもしれません。

 この本の著者のグラヴァー氏(Matt Glover)は、「子どもたちが自分でジャンルを選択する」ことを取り入れるメリットとして、以下の6点を記しています(6ページ)。

・本当の目的と読者を選ぶことを後押しする

・子どもたちが、ジャンルの概念をより理解できるようになる

・その分野での学びを加速させ、深める

・書き手としてのアイデンティティを強める

・ジャンル、トピック、読者、目的の4つを一緒に活用する

・生徒を書き手として理解するための大切な情報を教師が知ることができる

 上記で挙げた中の下から二つめ「ジャンル、トピック、読者、目的の4つを一緒に活用する」の好例が紹介されていました。5年生のジェレミー君です。先生がカンファランスで、「読者は誰を考えているの?」と尋ねたとき、以下のような答が返ってきました(15ページ、以下の説明も、全て15ページより)。

 「猫を家族に迎え入れた時のことを書いている。書き終わったら、複写して、猫の保護施設の人に渡すつもり。そうすれば猫の保護施設の人が、そこに来た人に僕の話を渡せるので、猫を家族に迎え入れようと思う人が出てくるかもしれない」

 先生は、カンファランスで読者を決めることについてサポートしようと思っていたようですが、ジェレミー君は先生の遥か先を行っていたようです。

 グラヴァー氏は、猫を家族に迎えた話であれば、あらかじめ単元として予定されている「回想録」というジャンル学習の時に書くこともできる、しかし、「回想録」のような、あらかじめジャンルが指定されている単元の場合、他のジャンルの可能性を考えることはできないことを指摘しています。

 子どもたちが自分でジャンルを選択できる場合、いろいろなジャンルを頭に浮かべながら、自分が伝えたいこと(題材、目的)と読者に最適と思えるジャンルを選択できる、つまり、トピック、目的、読者、ジャンル全てを、統合的に考えられるというのは、大きなメリットになりそうです。

*****

 まだ、この本の全体像は見えてこないのですが、ミニ・レッスンの定番で出てきそうなクラフト(作家が使える技)やプロセス(さまざまな書く段階)の中でも、多くのジャンルに共通するトピックは多く、題材の選択だけでなくジャンルの選択をどのように加えたり、位置付けたりするのかを引き続き考え、また紹介できればと思っています。

★1

Matt Glover著

Craft and Process Studies: Units That Provide Writers with Choice of Genre

Heinemann社より 2020年


2023年11月3日金曜日

「観点別評価」の三つの観点には、問題がある!

 今回は、前回と前々回の記事への異なる視点からのフィードバックを書きます。

 まずは前回の記事から。

 記事の後半部分には訪問者二人の感想が紹介されており、その最後に これからどのように他者の視点を意識したり,社会のニーズに応える文章の書き方を獲得していくのか,そのプロセスについて,次はまたお話をうかがってみたいと感じています」と書かれています。

前者の「他者の視点」については、その後に実践者がフォローしていないことから分かるように、ライティング・ワークショップでは一切問題になっていないからです。というか、ライティング・ワークショップのアプローチほど、読み手を意識して書く練習をするものはありません。「書きたいことを書く」と同じレベルで大切にしているのが、「目的をもって書く」「設定した対象に届く文章を書く」だからです。相手に届かなければ/相手が面白がってくれなければ、届くまで/面白がってくれるまで書くようになります。それを実現するために、「作家の椅子」という仕掛けがあったり、読者からのフィードバックが大切にされています。書いている途中の仲間にアドバイスをもらうことも、頻繁に行われています。

このことによって、渡辺さんが授業参観の主な目的に設定していた「学びのなかで起こる子どもたちの内的変化」も、かなり起こっています。

それが読み取れる事例が、『増補版・作家の時間』で紹介されています。第11章の「1年間の子どもの成長~作文が大嫌いだった粕谷君」です。4月に粕谷君が書いた文章と年度末の3月にクラスの発表会で彼がみんなに紹介した文章(そして、その間に彼のなかで起こった変化が、明らかです。

いま教育界では、「活動」が重視されています。それも、教材研究を念入りにした教師が事前に考え抜いた「活動」が。それがあたかも、教師がすべきことと理解する風潮が濃くあります。全国の附属学校を含めて研究校での研究発表は、その線上で行われています。しかし、そうした取り組みが周辺の学校に普及することは、ほとんどありません。考え出した先生しかやれませんし、子どもたちにとっては、どんなに教師ががんばったところで、活動はやはり「やらされ感」の濃いものですから。生徒が自分から主体的に、自立的(「自律」ではありません!)に取り組む類のものではありません。

しかし、粕谷君の事例だけでなく、渡辺さんたちも見た今回のクラスの子どもたちも、授業中だけでなく、授業以外でも考え、書き続ける子どもたちが増えるのがライティング・ワークショップです。子どもたちは、自分が本当に表現したいことに出会えば、時間なんか関係なくなります。休み時間、昼食時、放課後、家に帰ってからも、考え、そして書き続けます。それが読み手に伝わることを念頭に入れて。これは、「活動」とはまったく次元の異なるものです。「自分事」のレベルもまったく違います。

 こうしたプロセスにより、子どもたちは単に書くことが好きになるだけでなく、そこでのクラスメイトや読者とのやりとりを楽しむようになり、書くスキルを磨き、書く力をつけ、そして学校を卒業してからも書き続ける素地を身につけています。(これらのどれだけを作文教育は実現できているでしょうか?)

 

後者の「社会のニーズ」については、実践者自身がブログの最後で5行にわたって、とても誠実に考えています。しかし、このテーマに関しては、参観者と実践者の継続的な対話を期待したいところです。何しろ、この問いを投げかけた責任が参観者にはありますから。

私がこの点について紹介できるのは、http://wwletter.blogspot.com/2023/02/sel.html です。特に冒頭の部分を読まれて、あなたはどのような感想をもちましたか?

もう一つは、『イン・ザ・ミドル』の29~30ページに書いてあることです。これを含めて第1章「教えることを学ぶ」はぜひ読んでみてください。

子どもたちはみな、ストーリーをもっています! それも、価値あるストーリーを。

それを吐き出すチャンスを与えていないのは、教科書をカバーすることこそが大事に仕立て上げている、現行の教育制度です。あまりにも、「銀行型の教育」をやり続けることに忙しく(ちなみに、この「預金型教育」に対置する形でパウロ・フレイレが提唱しているのが「探究型教育」でした)! この転換が実現しない限り、無駄な努力と時間を浪費するだけの教員研修と授業が続くことが約束されています。

このような一人ひとりの生徒の書くことを含めた学びを大切にした実践がまとめられている本が、『一人ひとりを大切にする学校』デニス・リトキー著ですので、おすすめです。学校のあり方を根底の部分で考え直すための視点が網羅されています。その一つは、評価(エキシビション、ポートフォリオ、ナラティブ)です。テストや成績である限りは、授業も「探究型」ではなく「預金型」をすることを義務付けているわけですから。両者は、コインの裏表の関係にあります。

 前々回の記事では、八田幸恵・渡邉久暢著『高等学校 観点別評価入門』が『理解するってどういうこと?』との関連で紹介されていました。

 引っかかったのは、その「観点別評価」=「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」のことです。

 多くのまじめな先生たちが、それを真に受ける形で苦労されているのを見てきました。それは、単元を計画したり、評価/成績をつける際に、それら三つに「無理やり」合わせようとすることによって起こり続けています。

 教育の目標イコール評価は、扱う教科領域が何であれ、通常は知識・技能・態度で表されるものではないでしょうか。それら三つによって教師はカリキュラムを考えて教え、生徒たちは身につけるのが望ましいものとされています。

 しかし、現在の学習指導要領で求めている「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」という三つの観点は、それとのズレがあります。

 このズレを、文科省はどのように考えているのでしょうか?

「思考・判断・表現」は、すべて技能に含まれます。そうなると、「知識・技能」の技能に含まれているものは、文科省は何と捉えていて、研究者や現場の先生たちは何と理解しているのでしょうか?

 残るもう一つの「主体的に学習に取り組む態度」も、最初に登場した時から問題であり続けています。私が最初にそれを聞いた時に思ったのは、その9割がたは教師★の授業評価であって、生徒が示せる態度は「いいところ」1割ぐらいではないか、というものでした。通常、生徒たちは、自分が興味をもてそうにない教科書教材や、教師がよかれと思って用意した教科書以外の学習材ないし活動に参加させられる形で授業が展開するのですから。(そこに「自立」が入る余地はほとんどなく、教師は生徒の「自律」を願う程度です。)

 このような大きなボタンの掛け違えがあるなかで、観点別評価にこだわり続ける意味はあるのでしょうか?

評価(および評定/成績と、その裏返しとして生徒たちが身につけるべきもの)ということでは、(ボタンを掛け違えている)日本産の評価本と、本物の評価を志向している海外の評価本の「比較読み」をおすすめします。

・『一人ひとりをいかす評価』キャロル・トムリンソン著

・『理解するってどういうこと』エリン・キーン著

・『成績をハックする』スター・サックシュタイン著

・『聞くことから始めよう!』マイロン・デューク著

・『成績だけが評価じゃない』スター・サックシュタイン著

・『テストだけでは測れない!』吉田新一郎著

・『イン・ザ・ミドル』(特に、第8章)ナンシー・アトウェル著

 

★教師に言わせると、9割がたは「それは、教科書の責任でしょう」となるかと思います。それほど、教科書というシロモノは大きな問題を抱えています。『教科書をハックする』を参照ください。

2023年10月28日土曜日

教室に本物の編集者さんがやってきた 特別支援学級の作家の時間

(すべての子どもの名前は仮名です。エピソードや児童の特性などにも、ある程度の加工を加えています)

 あまり季節の変化を感じさせないTシャツばかりの子どもたちでも、上着を羽織って登校する姿が多くなってきました。私が担任する特別支援学級の子どもたちは、一部の活発なアウトドア派を除き、まったりと教室で「作家の時間」をしたり、教室のテーブルコーナーでおしゃべりをしたり、休み時間はインドア志向が強いのですが、それぞれの過ごし方で休み時間を過ごしています。

 先日、図書文化社の渡辺さんと村田さんが「作家の時間」で学ぶ子どもたちの様子を参観しにきて下さいました。お二人は、「作家の時間」と「特別支援」の両方に興味を持っていただき、ご連絡をいただきました。教育に関する発信をしていただいていますが、お話によると、なかなか現場を直接ご覧になる機会も少ないとのこと。それではということで、都内からはるばる横浜の郊外までご来校いただきました。

 今、ノンフィクションのユニットをひとまず区切り(ノンフィクションを書き終えたい子はまだ書いています)、フィクション作品の制作に取り組んでいます。ご見学いただいた日のミニ・レッスンは、「ファンタジーの入り口」の話。『めっきらもっきらどおんどん』(長谷川摂子作 ふりやなな画 福音館書店)を題材に、現実の世界から突然ファンタジーの世界に切り替わる時のポイントについて、考えました。千と千尋の神隠しの「トンネル」と同じという話も出て、よく理解できている子もいます。まだ子どもたちは、フィクションを書き始めたばかり。構想を練っている段階で、物語の概略を作るために有効な作家のテクニックだと思い、取り上げてみました。

作品作りは一進一退の大介くん

 今年度が始まって半年ほどの間、イラストしか描かなかったり、描いても恥ずかしくてすぐに捨ててしまう3年生の大介くん。失敗やうまくいかないことへの不安から、人の目を気にしすぎたり、少しうまくいかなかっただけで捨ててしまったり、なかなか継続できませんでしたが、オリジナルキャラクターの「大チュウ」を創作したことで、彼の中で少しずつ変化が生まれていました。(2023年9月22日の投稿にも登場)

 なんと、タブレットで描いた「大チュウ」を印刷して欲しいと、私に頼んできたのです。これは、前回もらったクラスメイトの保護者からのファンレターがもう効果を発揮したのでしょうか。 私は早速、カラーで3枚印刷しました。1枚は家庭用、もう1枚はお気に入りファイル用(自分の好きなものを蓄積できるポートフォリオ リンク先の生活科ワークショップのお宝ポートフォリを参照)、そして、それとなく教室の壁面掲示板に貼っておく用の3枚です。

 今日はなんと、文字とイラストの両方が書ける原稿用紙に絵と字を描いているではありませか!!もう3年様子を見ている私からすると、これは奇跡です。大介くん自身が決めたものを、誰からも指示をされずに取り組んでいるなんて。しかも、字も絵も書いています。本当に素晴らしいことです。私は、「大介くんの作品、楽しみにしているよ」と声をかけるだけで、特に何も支援をせずに、自分の作品作りをすることにしました。あまり大袈裟に褒めて、プレッシャーになってしまうことを避けたかったからです。

 しかし、授業後、これまで以上にしっかり書けている大介くんの原稿用紙の束が捨てられていることに気がつきました。ショック…。やはり、理想が高すぎるのか、人の目を気にしすぎているのか、難しい局面です。一応、ゴミ箱からこっそりその束を拾っておきました。

 子どもの成長は一進一退。また、ゆっくり慌てずに、文字で自分を表現する楽しさを味わえるように、あの手この手で促していこうと思います。

ここぞとばかりに自分の作品をPRする康太くん

 5年生の康太くん(2023年8月26日の投稿にも登場)は、動画クリエイターやイラストレーターのような仕事に就きたいと考えています。今日は雑誌のプロの編集者さんである渡辺さんと村田さんが来ると聞いて、朝から自分の作品のPRをしたいと気合いが入りっぱなしです。お二人が教室に入るや否や、テーブルコーナーに誘い込み、自分のこれまでの動画作品や作家の作品を見せ、将来のために自分を売り込んでいます。素晴らしい行動力!! これは将来、本当に大物になりそうですね。

 もちろん、この日の作家の椅子は、康太くんが名乗り出ました。康太くんは、アニメや漫画のように人物のセリフや行動のみの記述になってしまい、場面の設定への記述や情景の描写を書き込むことができずにいましたが、前回のカンファランスで「天気」「風」「温度」などで、人物の心情を表現するテクニックを教えました。「任せといて!!」という感じだったので、康太くんならやってくれると思っていましたが、本当に恐ろしいほど理解が早いです。お城に他国の兵隊が攻め込んで、王子様が亡くなり、ペットが飼い主を亡くして途方にくれる様子を、セリフを少なくして表現し、ショート・ストーリーに仕立て上げました。康太くんはこれを、2日間ほどで仕上げてしまうので、すごいです。(気分屋で多動傾向が強く、かつては教室で学ぶことができませんでした。一つのことを熟考することは苦手で、インスピレーションと瞬発力で、一瞬にして作品を形にします。余った時間は好きなことをしています。)

 編集者のお二人にもしっかりPRできて大満足の康太くん。将来本当にお仕事をすることがあるかもしれません。

時間割変更してでも作家の時間を欲しがる紀之くん

 この日の作家の時間も、「ミニ・レッスン」「ひたすら書く」「作家の椅子」と進み、授業が終わって帰りの支度を始めています。3年生の紀之くんは将来、作家になりたいそうです。独特の世界観をもち、これまで読んだことのないストーリーを作ります。今は、2時間後、4時間後、8時間後の未来から来た主人公と現在の主人公が一緒に難しい宿題を協力して行う長編作品(100ページ以上に及びます)を執筆中です。

 その紀之くんが時間割ボードのところに来て、もう一人の担任の高木先生に、文字通り口角泡を飛ばして訴えています。「明日の国語を4時間目にズラしてください!!交流があって、作家ができません!!」私と高木先生は目配せをして、国語の時間を移動させることにしました。

 紀之くんは普段はとても穏やかですが、一つにこだわると頑固な職人さんのようにとことん突き詰めるタイプです。もうこうなると、紀之くんを説得するのは困難であることは、私たち担任には分かっていました。同時に、私たちは嬉しくもありました。一人ひとりの興味関心に寄り添える特別支援学級の学習といっても、これほど子どもたちが自分で設定した目標を達成したいという意欲に溢れる姿を見られるのは、それほど多くないものです。紀之くんの自分らしく学びたいという気持ちを発露させたこの行動は、私たちにとっても嬉しいものでありました。

編集者から見たライティング・ワークショップの感想

 さて、昼休みから5時間目の作家の時間、帰りの会の様子を見ていただいた渡辺さんと村田さんには、この子どもたちの姿はどのように映ったのでしょうか? 後日感想をいただくことができました。

村田さんからいただいた感想

 今回、特別支援学級でのライティング・ワークショップの授業を1時間見学しました。この実践の教育的考察は私にはできませんが、取り組みをみた感想を述べたいと思います。私は編集者をしていますが、この仕事のなかでいちばんの苦難は原稿がこないことです。ただしこれも避けては通れない生みの苦しみ、きっと寝る間も惜しんで原稿と向き合っているのだろう、とこれまで自分を納得させてきましたが、実はそうでもなかったのかも知れません。

 ライティング・ワークショップをみてみると、子どもたちは自分からあれを書きたい、これを書きたいと手を挙げます。書いているあいだはもの凄い集中力で、見学者には見向きもしません。できあがったら発表して友だちに感想を聞き、「おもしろかった」と答えると「どこが? 具体的には?」と聞き返すのです。書くことへの強い意欲、そしてよりよい作品づくりへの貪欲さを感じました。授業のおわりには、「もっと書く時間をくれ」と先生に時間割変更の交渉までこなしてしまいます。

 自分が抱いていた作文授業のイメージとはあまりにも違っていて戸惑いっぱなしの1時間でしたが、ものを書くという知的活動を子どもたちが存分に楽しんでいる姿が印象的で、いまも目に焼き付いています。これが「生みの喜び」なのだと思い知られました。私がお願いしている原稿が待てど暮らせどこないのは、そういうことかと反省した次第です。

 最近は出版界隈にも生成AI旋風が巻き起こっていますが、これからは文章作成も校正もなんでもAIがやってくれるそうです。子どもたちが大人になる頃には、人間が文章を書く必要がない時代になっているかも知れません。だからこそ、喜びであれ苦しみであれ、知的な生産活動をこれからも全力で楽しんでいってほしいと思いました。(村田さん、ありがとうございました)

渡辺さんからいただいた感想

 いつ授業が始まるのかな? 作文の授業とうかがっていたのに,子どもたちがまずは自由にお絵かきするところから始まったことに,戸惑いを感じました。しかし,そのうちに子どもたちは,絵に合わせて,ぐんぐんとストーリーを書き始めました。

「これは,いわゆる読解や作文の学習とはまったく異なるぞ」ということが,だんだん感覚を通して私にも理解されはじめました。

「好きなことだから,楽しかったことだから,そのことを自分は書きたい」「一生懸命書いたから,それがみんなにも伝わっているかを確かめたい」「書くのが好きだから,もっと上手くなるための意見やリクエストがほしい」,こういったシンプルな願いが原動力になって子どもたちの活動が進んでいくのです。そして,読み手の「もっと続きが読みたいな」「○○さんの世界をもっと知りたいな」という反応が,さらに書き手を鼓舞していきます。

「真正の学習」とはこういうことか,と頭で考えるよりも先に納得が生じました。本の編集を仕事にしている端くれとしても,この活動には「ものを書くということの本質」がたくさん詰まっていることを感じました。

 特別支援教育の教室で実践されているということで,ひとりひとりの子どもの様子にあわせた学習上の工夫もたくさんありましたが,私がいちばん感動したのは上記の点です。「好きなことだから,楽しかったことだから,そのことを自分は書きたいのだ」という自分中心の原動力からスタートした子どもたちが,これからどのように他者の視点を意識したり,社会のニーズに応える文章の書き方を獲得していくのか,そのプロセスについて,次はまたお話をうかがってみたいと感じています。(渡辺さん、ありがとうございました)

感想を頂いて

 村田さんの「生みの喜び」は、私たち大人が忘れかけている感覚かもしれません。「プレイフル」「メイカー」「ティンカリング」など、学習者中心の学び方と根底を同じくする大切な感覚なのだと思います。これを投げ出してしまっては、学ぶことは「よくできた偽物」にすり替わってしまうかもしれません。

 渡辺さんの「社会のニーズ」についての投げかけは、私自身も自ずと思考を巡らせてしまうような問いを頂いたと思っています。特別支援学級の子どもたちにとって、「社会のニーズ」とはどのような形に見えているのか。また、私たち特別支援学級の教師にとって「社会のニーズ」に応える国語とは何なのか、そもそも、学校とは「社会のニーズ」とどのように相対して行けば良いのか。これについては、またの機会に考えていきたいと思います。

(写真は雲取山への登山道で見つけた巨大なカラカサタケ)



2023年10月21日土曜日

子どもたちの遠い未来の姿を見据える

 

子どもの遠い未来の姿を見据える

 

八田幸恵・渡邉久暢著『高等学校 観点別評価入門』(学事出版、2023年)は、現在の学習指導要領で求められる「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」という三つの観点に即した「観点別評価」について、具体的な事例に基づきながら丁寧に書かれた本です。が、本書「まえがき」によると、「観点別評価」の仕方についての「ノウハウを伝達すること」をねらったものではなく、「現行の「観点別評価」をいかに教育評価の理念に沿って実施できるか、その方針を示すこと」を目的とし、「読者一人ひとりが自身の評価観を構築することに寄与すること」をめざした試みです。

「観点別評価」についての本ですが、著者たちの試みの中心は、どのような「理解」をすることができる人として生徒を成長させていくかということにあります。なるほどと思い、読み進めながら大事だと思ったところに付箋紙を貼っていきましたが、付箋紙だらけになってしまいました。

たとえば八田さんと渡邉さんは「教科で育てるべき資質・能力を階層的に捉える」ことを主張しています。

 「そもそも資質・能力を階層的に捉えるとは、それぞれの層は質的に異なっているのであり、基礎となる層が形成されても発展の層が形成されているとは限らないと考えるということです。すなわち、個別具体的な知識を暗記している(「知っている・できる」)からといってその教科における重要な概念を自分の頭で理解している(「わかる」)とは限らない、重要な概念を自分のあたまで理解している(「わかる」)からといって実生活・実社会の文脈において使いこなせる(「使える」)とは限らないということです。」(『高等学校 観点別評価入門』57ページ)

 「「知っている・できる」レベルであれば、発問と答えを繰り返す一問一答式の言葉による教え込みの授業でも形成できるかもしれません。また評価方法に関しては、多肢選択式、穴埋め問題、正誤式といった伝統的な評価方法で評価できます。/一方で最も深いレベルである「使える」レベルの学力は、言葉で教えられるだけではなく、実際に自分で経験してみないと形成されません。たとえば論証の妥当性という視角からテキストを批判する資質・能力は、いくら教師が言葉で「主張-論拠-根拠」を教えて、対象となっているテキストの主張部分や論拠部分を指し示してみたとして、それだけで生徒が論証を捉え妥当性を検討できるようにはなりません。実際に生徒が自分で論証の骨格を抜き出してみたり、様々な反論を読んでみたり、自分で論証を意識して書いてみたりする経験を積み重ねることで、じわじわと形成されていくものです。「テキストを批判するとはどういうことか」といった深いレベルの理解は、最終的には言葉を超える「ピンときた」経験や「身体で掴んだ」経験に依存するものであり、言葉による伝達や指示には限界があります。したがって評価方法に関しても、実際にパフォーマンスさせてみるような評価方法が求められます。」(『高等学校 観点別評価入門』5960ページ)

 「階層的に捉える」とは、「知っている・できる」レベルと「わかる」レベル」、「使える」レベルの違いを見極めることでもあります。「知っている・できる」ことでも「わかる」レベルにあるとは限らない、そして「わかる」レベルにあっても、「使える」とは限らない、ということでもあります。「知っている・できる」「わかる」レベルは、『理解するってどういうこと?』の41ページにある「表22b 多様な理解の種類(私たちが生活のなかで経験すること)」を知ること、そして「使える」レベルは347349ページの「表91 理解することで得られる成果」を言葉にすることだと言っていいかもしれません。

「表74 ノンフィクションをしっかりと読めるようにするには」(『理解するってどういうこと?』274276ページ)には「効果的な指導法」として、「ノンフィクションのさまざまな構造」や「ノンフィクションの障害」を教えたり、そのために必要な「用語」を教えたりすることが挙げられていますが、それは「知っている・できる」「わかる」レベルのことだと考えられます。しかし、それらを「使える」レベルにするためには「ノンフィクションの構造や障害を示して説明できるようになるべき」だとされ、「ひたすら読んだり、書いたりする時間に、自分が読んだり書いたりしているノンフィクションの理解を促進するために、その文章構造や障害をどれだけ認識し、使いこなしているかをカンファランスしたり、仲間と話し合うように指導」することが必要だとされています。その過程で、八田さんたちの言う「じわじわと形成されていくもの」について、エリンさんは次のように言います。

 「子どもたちがフィクションを読むときとは違った方法でノンフィクションを読むように教えたときは長持ちします。それは、子どもたちが教室を巣立ってから後にも長く使うことができるツールですし、私たちが想像もできないような難しいノンフィクションを読み、情報を理解するときに活用できる方法です。ノンフィクションの構造と障害について学ぶことは、多様な種類の理解に役立ちます。ノンフィクションを読みこなすツールは、理解のための7つの方法と同じく、新しい情報を自分のものにする際に使いこなしてほしい方法です。使いこなすことで、子どもたちは自分の考えや態度を変え、新しい知識に基づいて行動し、世界に参加して行くことになるのです。」(『理解するってどういうこと?』277278ページ)

「ひたすら読んだり、書いたりする時間」に読んだり書いたりしたノンフィクションを「カンファランス」したり「仲間と話し合う」ことで「子どもたちが教室を巣立ってから後にも長く使うことのできるツール」「私たちが想像もできないような難しいフィクションを読み、情報を理解するときに活用できる方法」を身につけ「使いこなす」ことが目指されているのです。子どもたちの未来の姿を見据えるまなざしがあります。

わたくしが、八田さんと渡邉さんのこの本のなかでとくに感銘を覚えたのは次のような箇所ですが、これらの言葉の奥にエリンさんと同じまなざしを感じます。

 「筆者たちは自己評価の核心を、「世界をこのように理解することができた自分」をつくりだし、また「これから世界をこのように追究し、世界をこのように変えていきたい自分」をつくりだすという点に求めます。そしてこのような自己評価を、子どもの全体的・継続的な発達を支援する個人内評価の最も有効な手段であると考えます。」(『高等学校 観点別評価入門』37ページ)

「どのような評価方法が望ましいのかだけを考えるのではなく、どんな大人になってほしいのか、大人になるためになぜこの教科を学ぶのか、高校卒業後に大部分の知識・技能を忘れてしまったとしても生徒の中に残っておいてほしいこの教科固有の理解や見方・考え方は何か、そのためにどの時点でどのような理解が確認できればよいのか、その理解(目標)をできるだけ直接的に評価できる評価方法は何かと考えるべきです。」(『高等学校 観点別評価入門』120ページ)

八田さんと渡邉さんも、教科で学んだことが、「子どもたちが教室を巣立ってから後にも長く使うことのできるツール」や「私たちが想像もできないような難しいフィクションを読み、情報を理解するときに活用できる方法」を身につけ「使いこなす」ことができるようになることを学習指導と学習評価のとくに大切な目標としていることを、とても大切なことだと思います。エリンさんが「ノンフィクションの指導法」について言っていることと、八田さんと渡邉さんが「評価方法」について言っていることとの間にこうした共通点を見ることができるのも、ともに、子どもがどんな大人になってほしいのかという、遠い未来を見据える確かなまなざしをもっているからなのではないでしょうか。

2023年10月14日土曜日

「一つの場面」に立ち止まる 〜私の絵本の読書体験から〜

◆ 時々投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿をお願いしました。

 五味太郎さんの『絵本をよんでみる』★1という本があります。自作以外の13冊の絵本を取り上げ、私はこんなふうに読んだ、ということを編集者の小野明さんと対談形式で語っている本です。その中で、ユリー・シュルヴィッツの『よあけ』の一場面にふれています。五味さんは、高校時代に山での焚き火について豊富な経験があります。そして、この絵本の「このたき火を見るだけで、ぼくにはこの本を読む価値がある」と言います。

 絵本の中の一つの場面に魅せられる。私にも同様の経験があります。読み進めていって、ページをめくった途端、ハッと息を飲んだり、「あっ」と声をあげそうになる。そこの絵に見入って思いを巡らせる。何度その絵本を読み返しても、その場面で立ち止まって考えたくなる。新たな疑問が湧いたり、自分の体験を思い出す。そんなふうに「一つの場面」で立ち止まる、そんな読み方があって良いと思います。
 
 そのような場面をほかの人と分かち合うことは楽しいものです。高校生の教室で絵本を取り上げて読んだ時は、「この絵本で、一番印象に残った場面(ページ)はどこですか?」という質問をしていました。生徒たちの選ぶ場面はいろいろです。なぜその場面を選んだかを聞いていくと、そこに自分を投影しているのがわかってきます。それを出し合うことで、お互いのつがなりが生まれ、絵本への理解も深まります。

 今回は、私が立ち止まった「一つの場面」という視点から、3冊の絵本を紹介します。

▶︎ ジェイン・ヨーレン『月夜のみみずく』★2

 冬の夜更け、女の子がお父さんと一緒に、みみずくを探しに森に出かけていく話です。
風のない静まり返った中を、雪を踏みしめながら歩いていきます。松の森に着くと、お父さんは「ほうーほう、ほ・ほ・ほ ほーーーう」と呼びかけますが、みみずくは現れません。さらに森の奥へ歩いていきます。暗い森の中にある空き地に着くと、お父さんは再び呼びかけます。「ほうーほう ほ・ほ・ほ ほーーーう」
 すると、やまびこのように、みみずくの鳴き声が聞こえてきます。再びお父さんは呼びかけます。すると、木の影からみみずくが現れます。お父さんが懐中電灯で照らす中、大きなみみずくを、女の子とお父さんが見つめています。
 そしてページをめくると、見開きいっぱいに描かれた、目を見開いたみみずくの姿。

「1分間かしら
 3分間だったかしら 
 ああもう 100分くらいに おもえたわ
   あたしたち じっと みつめあった」

 この場面に、女の子とお父さんは描かれていません。みみずくだけです。あたかも、絵本の読み手である私が、実際にみみずくと向き合っているように感じます。くりっと大きな目。茶色に毛の混じったからだ。木の枝を使っている足の爪。

 このページにたどり着くまでに、12の場面が描かれています。ページをめくりながら、みみずくはいつ現れるのだろう、なかなか出てこないなあ、などという思いにとらわれていました。じれったいような、ワクワクするような気持ちでした。そして、やっと目にするみみずくの姿なのです。

 一つの鳥の姿を、このような思いで待ち望んだことはありません。こんなふうに仔細に鳥の姿を見たこともありません。みみずくは夜行性だと言われますが、夜、目は見えるのだろうか? 暗い中でどうやって獲物を取るのだろうか。寒くないのだろうか? いろいろな疑問を思いつきます。自分は、みみずくのことを何も知らないのだなあ、と気づかされます。雪を踏みしめながら森の中を歩いた体験を思い出します。気温が下がって、表面が硬くなったところを歩くと、シャリッ、シャリッという音がします。遠くで、鳥の鳴く声が聞こえたりします。学生時代に山登りをしていた体験が、ふっと思い出されたりしました。

▶︎ モーディカイ・ガースティン『綱渡りの男』★3

 かつて、ニューヨークにあった、並んで立つ二つの超高層ビルの間を綱渡りした男の物語です。そのビルは、今はなき世界貿易センターのツイン・タワーです。フィリップ・プティというフランス人の大道芸人が、完成間際のツイン・タワーに惹かれるところから話は始まります。二つのビルの間を綱渡りしたいと考えたプティは、計画を練り、友人たちと実行に移します。工事現場の作業員に変装してビルに入り、夜になるのを待って屋上に上がります。そして、綱をつけた矢を40メートル離れたもう一方のビルの屋上に向けて放って綱を渡し、重たい綱を友人たちと力を合わせて引っ張り上げます。
 綱を張り終えたところで、夜が明けます。8メートル半もあるバランス用の棒を持って、綱の上を歩き出すフィリップ。綱の上にいる彼を、地上にいる人々が見つけて大騒ぎになり、警察官が屋上に駆けつけます。1時間ほど綱の上で大道芸を披露したフィリップは、無事、綱を渡り終えます。彼は逮捕され、裁判所に連れて行かれます。裁判官は、街の子どもたちのために公園で綱渡りをするように、と言います。フィリップは喜んでそれを実行します。
 
 そして、次のページ。見開きの左側のページには、「ふたつのタワーは、いまはもうありません。」という言葉が書かれ、右側のページには、ツイン・タワーのない街並みが描かれています。ツイン・タワーのあったところには空があるだけです。
 「えっ」と私は思いました。そうか、フィリップが綱渡りをしてから何年も経って、ツイン・タワーがテロリストの攻撃を受けて崩壊した9・11の事件があったのだ、ということに思いあたります。
 あの朝、ニュースをやっていたテレビの画面が突然切り替わり、ビルに飛行機が衝突し、そしてビルが崩れ落ちる様が映し出されました。ニュースが流れ続けました。多くの犠牲者が出ました。「テロへの報復」が叫ばれました。それに対して反対する声もありました。今から22年も前のことです。

 さらに次のページをめくると、ツイン・タワーが幻のように描かれた最後の場面になります。次の言葉が書かれています。

「でも、人々の記憶のなかには、ふたつのタワーは、空にきざみつけられたように、くっきり残っています。1974年8月7日、フィリップ・プティがタワーのあいだを歩いた、あのすばらしい朝のことも。」

 この絵本は、9・11の記憶を刻むために書かれたのだと思います。そして、犠牲になった多くの人たちを追悼し、かつて存在したツイン・タワーのことを思い返すときに、フィリップ・プティの綱渡りがあったことも知っておいて欲しいと著者は願っているのでしょう。
 私は、大道芸とツイン・タワーとの対比ということを考えます。多くの人たちが犠牲になったことは悲惨なことですが、その事件に至るまで、ツイン・タワーは輝かしい米国の社会の象徴だったのではないでしょうか。経済力を背景にした米国の威信をかけた存在であり、それが米国の誇りでもあった。だからこそ、テロリストの標的になったわけです。それに対して、フィリップの成し遂げた行為は、「芸」でした。それは、国家の威信とかとは対極にあります。世界一の貿易の拠点となるビルを作ろうという意図で作られたツイン・タワーに対して、二つのビルの間の空間を綱渡りしたら面白そうだ、という一人の大道芸人の発想。この「芸」に打ち込む人のこの発想は、とても大切なものだと考えます。

▶︎ ショーン・タン『セミ』★4

 背広を着た一匹のセミが人間と一緒で会社で働いています。データ入力の仕事をこなしています。会社のトイレに行かせてもらえず、12ブロック離れたところまで仕事を中断して行かなければなりません。そしてそのたびに給料が差し引かれます。人間が帰った後も、残業をして仕事を終わらせますが、感謝されることはありません。会社の人間はセミを嫌っていて、いじめたり、暴言を吐きかけたりします。それでも文句も言わずに17年間、勤めます。定年の日が来ても、セミは「机を拭いていけ」と言われるだけで、送別会も、握手もありません。
 やるべき仕事がなくなり、お金もなく、帰る家もないセミは階段を屋上へと登っていきます。屋上の縁に立つセミ。すると、背中が割れて、中から羽を持った赤いセミの成虫が出てきて、空に飛びます。

 そして次のページをめくると、そこには、空を飛ぶセミのが何十と描かれています。空を飛び交うセミ。そして、次のページに最後の言葉が記されています。

「セミ みんな 森にかえる。
 ときどき ニンゲンのこと かんがえる。
 わらいが とまらない。」

 この本に出会った時、セミの飛び交う絵と、最後の言葉に大きな衝撃を受けました。
「一匹のセミ」対「それをいじめる人間たち」というところから、一挙に、「世界にいるおびただしいセミ」対「この人間社会」というところへ、自分が引っ張り出されたような感じでした。

 「わらいが とまらない」とはどういうことでしょうか。私はかつて高校3年生のクラスでこの本を取り上げてブッククラブをしたことがあります。その中で、「わらいがとまらない、ってどういうことだと思いますか?」という質問を投げかけました。
 一つの意見は、いじめられていた会社から解放されて嬉しかったのだろう、というものでした。やっと、森に帰れる、自然の中に戻れるのが嬉しくて笑ったのだろう、ということです。
別の意見としては、会社から解放されて、かつて自分をいじめていた人間たちを笑っているのではないか、というものがありました。
 私は次のようにも考えます。人間のひどさを笑っていると共に、セミをいじめている人間たちも組織の中で働かされているかわいそうな存在なのだ、という意味で笑っているのではないか、という考えです。
 セミは赤い色をしています。会社に勤めている場面は、一面が灰色で描かれていたとの対照的です。赤という色に命を感じます。それに対して、灰色は生気のない世界とかじられます。
 私の自宅のそばに公園があって、夏になると、セミのジージーという鳴き声でいっぱいになります。この絵本に出会って以来、そのセミの声が「セミが人間を笑っているような声」にも聞こえてくる、そんな気になることがあります。


★1 五味太郎・小野明『絵本をよんでみる』リブロポート, 1988年発行。
★2 ジェイン・ヨーレン著、工藤直子訳、ショーエンヘール絵『月夜のみみずく』偕成社, 1989年発行。原作は Jane Yolen, illustrated by John Schoenherr, Owl Moon, Philomel, 1987.
★3 モディカイ・ガースティン著、川本三郎訳『綱渡りの男』小峰書店, 2005年発行。原作はMordicai Gerstein, The Man Who Walked Between the Towers, Square Fish, 2003.
★4 ショーン・タン著、岸本佐知子訳『セミ』河出書房新社, 2019年発行。原作は Shaun Tan, Cicada, Hoddar Children’s Books, 2008.

2023年10月6日金曜日

プロの作家やノンフィクション・ライターやジャーナリストたちがしていることで、生徒たちも書く時にできること/すべきこと

    声を出して読む

 まずは、自分が書いた文章を「声を出して読む」です。

 それだけで、よく書けているところや、長すぎたり、意味が取りづらかったりして、修正が必要なところがわかります。さらに、どうすれば、分かりやすくしたり、よりインパクトを与えたりするにはどうしたらいいかに気づけることも。

 「声を出して読むことで、書いている時には気づけなかった細かい点に気づける」という人もいます。

 さらには、声を出して読むことで、自分が書いた文章のリズムを感じたり、つくり出したりすることもできます。

 また、大学生を対象にした調査では、声を出さないで読むよりも、声を出して読む方が、5%ではありますが、誤字脱字などのケアレスミスに気づけることも明らかになっています。 

 下書きを書いた後(清書する前)の修正の段階(https://wwletter.blogspot.com/2012/01/blog-post_28.htmlを参照)で声を出して読むと、自分が書いている文章のトーン(響き、読み手への伝わり具合)、文章構成、リズムなどに気がつくことができます。

 ここまで紹介してきた「声を出して読む」以外の方法として、効果的なものには、

    しばらく間を置く

   書くことは大変なことなので、そのトピックについて話す

   自分への期待値を下げる

 ②の「しばらく間を置く」は、書いたものとは異なることをすることで、その内容について考えない時間を確保することです。(そのためには、並行していくつかの作品に取り組んだ方がいいことも意味します! 一つの授業時間内よりも、次の時間の方がいいぐらいですから。さらには、数日時間をおくぐらいが。)目や頭を、その作品から離すことで、戻った時にフレッシュな(他人の)目で作品を読めるようになります。

 ③は、書くことが特に億劫な人には効果的です。書く代わりに話してもらって、それを録音すればいいのです。書くのは嫌いでも、話すのは好き(得意)という人は結構いますから。こういう時にこそ、一人一台を有効に活用してください。間違っても、億劫がっている生徒に原稿用紙を埋めさせて、書くことを嫌いにするようなことは避けてください。

④の「自分への期待値を下げられない」のは、プロの書き手たちが抱えているだけでなく、誰もが抱えている問題です。最初からいい文章/評価される文章を書かなければと思いこんでいます。でも、そんなことができる人は、そうたくさんはいません。下書きレベルは、箇条書きレベルでも、文章としては読めるようなものではなくてもいいのです。「下書き」ですから! それが、すべての出発点と捉えればいいのです。(結果的に、それが終着点の可能性もあり得ますが、それは単にラッキーなだけです!)

 ある作家は、次のように言っています。「多くの人が書く才能はもっています。でも、修正を書く勇気をもっていません。さらに、修正-読み直し-修正を何度も繰り返す勇気をもっている人は少なくなります」

 それを繰り返せる人が、プロの作家やノンフィクション・ライターやジャーナリストです!

 この最後の下書き-修正-(声を出して読む-修正-読み直し-修正・・・・繰り返し・・・・修正こそが、書くのがうまくなる唯一の道であることを教えてあげてください。

参考: https://www.edutopia.org/article/things-professional-writers-do-students-should-too