エリンさんの『理解するってどういうこと?』では、小学校2年生のジャミカという女の子の問いかけに答えるために、様々な「理解の種類」が挙げられ、探究されています。その二つ目に「沈黙を使う、深く耳をすます」という「理解の種類」があります。「深く耳をすます」という「理解の種類」はどういうものでしょうか。『理解するってどういうこと?』の111ページから116ページには、エドワード・ホッパー「早朝の日曜日」「ニューヨークのレストラン」「線路脇のホテル」「夜更かしの人々」のそれぞれについて、エリンさんがじっくりと観察したことが記されていきます。
「これらの絵に耳をすましてみたいと思うだけでなく、自分の頭のなかで起こっていることにまで耳をすましてみたくなります。つまり、自分自身の思考に耳をすます時間を意図的に作りたいのです。詩(文章)や絵画に耳を傾けることで、自分の思考に耳をすましてより深い意味をつくり出すよう自らに教えることができるのであれば、それと同じことを子どもたちにもやってみるように言うことができるでしょう。」(『理解するってどういうこと?』113ページ)
絵画に「耳をすます」「耳を傾ける」? 絵画は「見る」ものではないのか、という思いにとらわれていると、このことは不思議なことに思われるかもしれません。どうしてそれが重要な「理解の種類」になるのか。
シャリー・ティッシュマン(北垣憲仁・新藤浩伸訳)『スロー・ルッキング―よく見るためのレッスン―』(東京大学出版会、2025年)には、エリンさんのいう「耳をすます」「耳を傾ける」ことの意味を深く考えるためのヒントがたくさん記されています。ティッシュマンの言う「スロー・ルッキング」つまりゆっくり時間をかけて「よく見ること」は、エリンさんの言う「耳をすます」ことなのです。
ティッシュマンはハーバード大学教育学大学院講師で、「高次の認知(high-level
cognition)」や「人びとが批判的、反省的、創造的な思考を身につけるためのプログラムや実践」に焦点を当てる研究者です。そのティッシュマンが「スロー・ルッキング」や「観察による学習」になぜ興味を持ったのか。その「瞬間」は次のように述べられています。
「ある小学校五年生の授業の始業時間に訪ねたときのことでした。子どもたちは騒々しく教室に入ってきました。そして先生は私に「これから三〇分かけて、マティスの絵を見てもらう予定です」と教えてくれました。私は丁重にうなずきましたが、そのとき、本心ではこう考えていました。小学校五年生のグループに、三〇分間じっと座って絵を見るように指示したら、すぐに子どもたちはそわそわして落ち着きをなくしてしまうだろう、と。しかし、この先生には計画があったのです。彼女は、子どもたちが絵をパッと見るのではなく、じっくり観察するように、いくつかの簡単な方法を用いました。その効果は驚くべきものでした。たとえば、子どもに気づいたことを五つ挙げてもらいます。次に輪になってもらい、それぞれの子どもに前の人がいったことにつけたす形で観察をしてもらうという、じつにシンプルな方法です。さらに、他の子どもとグループをつくってもらい、二つの疑問を共有してみるのです。あったという間に三〇分がすぎました。(中略)
絵の「正しい」解釈(もしそれがあれば、ですが)と見解が一致しなくても、作品の歴史的な情報を諳んじることができなくても、子どもたちは明らかに多くのことを学んでいたのです。しかも、その知識は、子どもたちが自分の目でしっかりと見ていたからこそ得られたものです。外部からの情報をどんなに集めても、子どもたちが自ら得た洞察に取って変わることはなかったでしょう。」(『スロー・ルッキング』5~6ページ)
そして「スロー・ルッキング」の「スロー」には四つの方法があるとティッシュマンは言います。「新鮮な目で見る」「視点を探る」「細部に気づく」「精神的な幸福感」の四つです。「ゆっくり見る」からこそ予想外のことに気づくことができる、「ゆっくり見る」からこそ「見る角度を意図的に変える」ことができる、「ゆっくり見る」からこそものごとの小さな細部に気づくことができるというわけですが、私が興味を覚えたのは四つ目の「精神的な幸福感」です。「スロー・ルッキング」を実践した生徒たちの観察から、ティッシュマンは「ゆっくり見て世界の美しさを知ることは、それだけで価値があることを生徒たちは直観しているようです」(『スロー・ルッキング』62ページ)と書いています。そして「ゆっくり見る」ことが生徒たちに「自分自身の生き方を振り返る機会を与えてくれる」とも言っています。そして「スロー・ルッキング」が「かれらの心の奥底にある何かに触れるのです。それは、自分自身や周りの世界についての身近でありながら新しい発見といえるかもしれません」(同63ページ)としています。
エリンさんのホッパーの絵の観察によって彼女のうちにもたらされたのも、おそらくこの「新しい発見」に近いものであったのでしょう。それが「耳をすます」を彼女が大切な「理解の種類」の一つにした理由だと言えるのかもしれません。ティッシュマンが参観した小学校五年生たちが得た「洞察」も、彼らにしてみれば「精神的な幸福感」をもたらすものだったのだと考えます。
ティッシュマンの考察は広く深く人間の学習の根幹にあたるものを探るもので、コメニウスからデューイに至るまでの学習論のなかにいかに「スロー・ルッキング」の価値が掘り下げられいたのかということについて詳細に語られています。それは本書をぜひ開いて「ゆっくり」見ていただきたいところです。
私が高校3年時のクラス副担任だった日本史の先生が、卒業記念のそのクラスの色紙に「仏像を見るときには3分間立ち止まれ!!」と書いてくださったことを覚えています。18歳の私にはまったくピンときていませんでしたが、今ではその言葉の意味が少しはわかるようになりました。立ち止まらなければ気づかずに過ごしてしまう「仏像」の意味を「わかる」ためにはゆっくりと立ち止まってじっと見て、考えてみなければならない。それが、「ゆっくり見る」ことで「仏像」に「耳をすます」ことなのだと。そうやって自分の「心の奥底」を見つめて見れば、もしかすると「新しい発見」が生じるのかもしれないと、先生は50年近く前に、あの短い言葉で私たちに人生でとても大切なことを伝えようとしてくださったのだと思います。
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