2022年3月19日土曜日

「薪割り台」に狙いを定める

 文章を書き進めながら、ほんとうに自分が書きたいことはこういうことだったのか、もう少し別のことではなかったのかと、書き手はしばしば思うものです(現に、いつもこのブログに掲載する文章を書こうとするときのわたくしもそうです)。

『理解するってどういうこと?』の「はじめに」で、エリンさんは、授業のアイディアを満載した「ハウツー」本を書くことなら比較的簡単にできるとわかっていたと言って、しかし、そうすることはできなかったと述べ、その結びの部分で次のように書いています。


 こうして自分の関心が、自分でも完全には書きつつあることのすべてをわかってはいない、別の本を書くことにあると気づくに至ったのです。自分がいままさに格闘しているさまざまな概念について書きたかったのです。つまり、子どもたちが学ぶということはどういうことなのかということについて、(私が指し示すのではなく)読者が自ら考える豊かな機会となるような本を書きたかったのです。私自身が教えるというよりもむしろ学ぶ本、そのなかに大きな問いを提示することができるような本を書きたかったのです。その過程で、自分自身に挑戦するような本を書きたかったのです。(『理解するってどういうこと?』viiiページ)

 

 この「はじめに」はこの本の他の部分よりも後に、おそらく一番最後に書かれた文章だと思います。こういう内容を最初に書くことはむずかしいことだと思うからです。むしろ、一冊の本をつくり終えた後にわかったことが書かれていると言っていいでしょう。書き手が「自分の関心」をおぼろげながら理解するのは、きっとすべてが終わった後、しばらく経ってからなのかもしれません。

 アニー・ディラード著(柳沢由実子訳)『本を書く』(田畑書店、2022年:パピルス、1996年)は主にフィクションを書く行為について書かれたものですが、この本にはほんとうに書きたかったことがどうして書き終えた後にわかるのかということを教えてくれる次のような一節があります。

 

 進行中に作品を完全なものにできない理由は、創造的執筆のとるべきかたちは書かれていく過程でのみ明らかになるからだ。それまでの文章は、どんなに磨かれて見かけがよくても使いものにならなくなる。全体を見通せる作家は、作品全体のコンテキストにおいて一文節がどのような意味あいをもっているかがわかってはじめて、作品のねらいを強調するために細部を調整することができる。(『本を書く』57ページ)

 

 これがフィクションを書く行為に限らないことであることは、エリンさんの「はじめに」の言葉が証明しています。「それまでの文章は、どんなに磨かれて見かけがよくても使いものにならなくなる」とは厳しい言葉ですが、「書かれている過程」で「創造的執筆のとるべきかたち」すなわち自分がほんとうに書きたかったことがあらわれるということは、すべての書く行為にあてはまることでもあると思われます。ディラードの言葉は辛辣ですが、書き手として呻吟することを続けた書き手の言葉として真実味があります。

 『本を書く』にはこのような宝物のような言葉がたくさんあるのですが、ほんとうに書きたかったことを書き手が探し当てる状況をものがたる一節もあります。「薪割り」についての夢についての記述です。

 

ある晩、私は夢を見た。それは天なる力が薪割りの方法を私に教えるものだった。狙いを定めるのだ(決まっているじゃない!)、薪割りの台に、と夢は告げた。本当である。狙いを、薪割り台に定めるのだ、木そのものではなく。そうすれば木のてっぺんを削るのではなく割ることができる。薪割り台の上に乗っている木を、まるで透明なものであるかのように素通りしなければ、その仕事をきれいに片づけることはできない。だが、こうすると、極寒の中、いとも簡単に一日に必要な分の薪をわずか二、三分で割ってしまうので、全然からだは暖まらない。暖かくなるたった一つのチャンスを逃してしまうのだ。/薪割りのコツは、私が夢から学んだ唯一の“役に立つこと”だった。(『本を書く』7273ページ)

 

 『本を書く』にはこのような比喩がたくさん使われています。「狙い」を「木のてっぺん」にではなく「薪割り台」に定めることが「薪割りのコツ」だと言うのですが、そしてその通りにやれば実際に「薪」は面白いように割れるものでもありますが(田舎に育ったわたくしも経験したことであります。最初は斧がぶれそうで少し怖いですが。カボチャやスイカを割るときもまな板の一カ所に狙いを定めるといいです)、もちろんディラードが言っているのは、薪割りそのもののことではありません。これが書き手として「役に立つこと」だと言うのです。文章を書くうえでの「薪割りの台」とは何か、それが見つかれば、「透明なものであるかのように素通り」するようにして書きたかったことを表現することができるということになります。

 エリンさんが「自分の関心」に気づいたのも、こうした営みの積み重ねがあったからではないかと思います。「薪割り台」が見つかってそれに狙いを定めることができたからこそ、「子どもたちが学ぶということはどういうことなのかということについて、(私が指し示すのではなく)読者が自ら考える豊かな機会となるような本」ができあがったと言っては言い過ぎでしょうか。ディラードの「薪割り」の比喩は理解行為にも応用することができます。理解するための方法を知るだけでは薪割りで「木のてっぺん」を狙うようなものだということになります。それだけではなくて、理解するための方法を使って自分が手に入れたこと(理解の成果)を出し合うことによって、理解するための「薪割り台」を見つけて、それに狙いを定めること可能になるのではないでしょうか。★

Kylene Beers & Robert Probst(2013) Notice & Note: Strategies for Close Reading, Heinemann.という本で提唱されている「理解のための道標」は、精読を促す「薪割り台」であると言うことができるかもしれません。

2022年3月11日金曜日

「感情なしに学びはない」

  どうしたら、生徒たちは「主体的」に取り組むようになるのでしょうか?

どういう働きかけが、生徒を「深い学び」へと誘うのでしょうか?

これらの答えが、『感情と社会性を育む学び(SEL) ~子どもの、今と将来が変わる』(マリリー・スプレンガー著/大内朋子ほか訳、新評論、2022年)の中にありました!

2022年度の高等学校への適用をもって、新学習指導要領の段階的移行が完了し、日本の教育シーンの中でも「主体的に学ぶ」姿勢や探究的な「深い学び」を目指すことの重要性がさかんに議論されています。でも…その実現は一筋縄ではいかない、なかなかの難問です。私も国語教師として日々の教育活動に取り組む中で、「知的好奇心を発動させ、目を輝かせて生き生き学ぶ生徒の姿」を思い描くものの、上記のような問いの前で立ち竦む日々でした。そんな中、この『感情と社会性を育む学び』に出会い、“目からウロコ”のたくさんの素敵な気づきをもらいました。

 本書の第1章に書かれている「ブルームの前にマズローが必要」では「『「社会的欲求(所属と愛)」が満たされて、初めて高次の思考力に集中できるようになる」とあります。生徒が「ここに居ていいんだ」という所属の欲求が満たされ、安心安全の場を得ること。そして「ありのままの自分」を受け止めてくれる仲間や教員との安全な人間関係を結ぶこと。それらが保証されない環境の中で「学び」は深まるでしょうか?「主体的に学びたい」という前向きな気持ちが育つでしょうか?「読み書き」のような認知的能力を鍛えて伸ばす前に、われわれ教員はしっかり土壌を耕す必要がある、ということをこの本は教えてくれました。

 子どもたちがまず、「自分」にしっかり目を向け、自己の存在を丁寧に受け止められるような教室づくりこそが、「もっと学びたい!自分の可能性にチャレンジしたい!」という成長マインドセットを育むことにつながるのではないでしょうか。また「学力」がそれぞれ異なるように、「感情に向き合う力(EQ)」・「社会性にかかわる力(SQ)」も生徒一人ひとり異なり、それらは生徒に応じた適切な働きかけによってその力の伸展を促すことができると述べられています。そして、その具体的な方法が本書ではたくさん紹介されています。脳科学の知見が織り込まれた説得力のある手法は、明日からすぐに使いたくなる魅力的なTIPS満載です。

 特に「感情」を取り扱うことの多い「国語」という教科に関しては、親和性が高く、SELの要素が取り入れやすい、と書かれています。『感情を表す言葉リスト』や『感情(を特定するための)チェックイン』の取り組みは、言語化することによって「感情」に気づき、その感情への対応について理解することにつながる取り組みやすい方法として紹介されています。自分の感情に鈍感になり、「いまどんな感情がありますか?」との問いに「何も感じていない」と答える子どもたちが多いような気がしています。自分の内側を深く観察し、そこにある感情に気づき、言語化して表現するというトレーニングを通して、自己を知り、共感力や表現力を高めることは、国語科の学習を進めるうえで非常に大切な視点であると感じました。

 最終章の中の、「大人がEQとSQを培ってこそ、初めて生徒に教えることができる」という文章は衝撃に近い感情をもって読みました。「教師が自分自身を『価値ある存在だ』と感じ、目の前の生徒を変えてゆく力があると信じられることが必要だ」――生徒の前に立つ大人こそが自分自身の感情も丁寧に扱い、自己の存在に意義を感じ、安心安全な環境で教育活動に取り組めること。これが「より良い学び」を創造するための出発点なのかもしれない…まず自分自身のEQSQに意識を向け、自覚的でありたいと思って読み終えました。

 たくさんの視点から、貴重な気づきが得られ、具体的な手法も満載の本著は、探究的な学びに取り組まれている先生方に特にお薦めしたい本です。

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 以上は、私立かえつ有明中・高等学校の国語教師の大木理恵子先生が書いてくれた感想でした。

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2022年3月4日金曜日

なんて素敵なノンフィクション(その1) 〜ノンフィクションとライティング・ワークショップ

  子どもたちがノンフィクションを書くことについて、「なんて素敵なノンフィクション」と思った本から学びつつあることを紹介します。『ライティング・ワークショップ』の共著者の一人フレッチャー氏が書いた本★で、タイトルはMaking Nonfiction from Scratchです。

 タイトルの中にあるフレーズ from scratch は「最初から」とか「ゼロから」という意味があります。すでに他の誰かが準備した出来合いのフォーマットやガイドラインを使うのではなくて、自分で材料を集め、どのように書くのかを考えながら、ノンフィクション・ライターが使える技を駆使しつつ、魅力的なノンフィクションをつくりだす。そんなことを具体的に示してくれる本です(なお、以下の参照ページはこの本のページ番号です)。

 ふんだんにノンフィクションの例も登場します。例えば、地殻からのメタンの噴出という深刻なトピックを扱ったノンフィクションの書き出しが紹介されています。アラン・ワイズマンというジャーナリストがCNNのために書いた記事「なぜ地球はおならをしているのか」です。読者を惹きつけ、読ませるために、「おなら」という多くの人にとって身近な現象から、ユーモアを感じる書き出しになっています。フレッチャー氏も、この書き出しと文体のおかげで、この記事に目が留まり、最後まで読むことができたと記しています(12-13ページ)。

 逆に言うと、そのような書き手の工夫がなければ、この記事は(少なくともフレッチャー氏には)読まれなかった可能性が高いことになります。「どうやって、読んでもらえるように書くのか」と言うことは、現実のノンフィクションの世界では、決して蔑ろにできないことがよくわかります。

 このフレッチャー氏の本では、子どもたちの読み聞かせにおすすめのノンフィクションのリストもあります。Kindleですぐに入手できるものを数冊読んでみましたが、書き手の工夫が私にもわかり、上手いなあと思いました。ワイズマン氏の書き出しにしろ、ノンフィクションのお薦めの絵本にせよ、これらを見ていると、思わず「なんて素敵なノンフィクション」と呟いてしまいます。

 フレッチャー氏は、実際の世界には秀逸なノンフィクションが溢れていること、それが「形式を与えて書かせる、教室内のノンフィクション」とは大きなギャップがあることに気づかせてくれます。

 「あらかじめ決められた、それらしいフォーマット」に入れて、ノンフィクションの作品を仕上げることは可能です。おそらく、私がこれまで学習者として書いてきたノンフィクションは、ほとんど全てこのパターンだろうと思います。課題として出されるので少し調べ、それらしい形式に落とし込んで終了。私の記憶にもほとんど残っていませんし、読む方にとっても退屈極まりないものだったと思います。書き手には工夫しようという意欲も生まれないと思いますし、工夫する余地もほとんどありませんから。

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 著者のフレッチャー氏は、作家であり、詩人であり、書くことを教える専門家でもありますが、フリーランスで『ウォール・ストリート・ジャーナル』『コスモポリタン』また複数の機内雑誌などに、特集記事を書いてきた経験ももっています。この本は、フレッチャー氏のノンフィクション・ライターとしての経験と「書き手として良いものを書きたい」という思いが、本全体からあますことなく伝わってきます。例えば、フレッチャー氏は以下のように書いています。

「書いていく過程では、”ノンフィクションを書く”ことと同じぐらい”優れた作品を書く”ことを意識します。読者の想像力を鷲掴みにするようなものを書きたいからです。鮮明な文章を書くために自分が知っていることを総動員します。つまり、正確な描写、注意を惹きつける詳細、人の心をつかむ比喩、記憶に残る引用などです。読者の注意を惹きつけ、最後の最後まで夢中にさせたいからです」(22ページ、筆者訳)。

 ノンフィクションを書くためには、子どもたちは「自分自身」から「世界」にシフトする必要があり(49ページ)、あるトピックについて調べていくことになります。

 その集めた情報について、「提示する切り口や目的を考えつつ、ノンフィクション・ライターの使える技を厳選してノンフィクションに取り組み、読者を引きこみ、読ませ、記憶に残るものを書く」ーーこの部分はまさにライティング・ワークショップだからこそできる部分です。

 ノンフィクションというと、他教科の調べ学習との関わりを感じるため、「ライティング・ワークショップだからこそできる点」について、わかりにくい部分も私の中にはありましたが、ノンフィクションをライティング・ワークショップで扱う視点・理由が整理できた気もします。

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 フレッチャー氏の本の題名の中のフレーズ from scratchにあるように、「最初から」とか「ゼロから」その作品に取り組む場合、子どもたちは多くの選択をしていくことになりますし、多くの秀逸なノンフィクションから学びながら、ノンフィクションで使えることも身につけていきます。

 例えば以下のような選択です(51-53ページ)。

・書き出しはどうしようか? 一般的な書き出しにしようか、あるいは、ありふれていない書き出しにしようか?

・歌、詩、あるいはラップで表現しようか?

・目的はなんだろう? 説明するため? このトピックについて一般的に信じられている神話を覆すため? 実用的なアドバイスをするため?

・読者は誰?

・どんなトーンにしようか? もし、各地で発生している、蜂に大きな打撃を与えている蜂群崩壊症候群について書くとすれば、冗談まじりの軽快な文章にする? あるいは読者を行動に駆り立てるような作品にするのか?

・どのような資料をどのくらい使うのか?

・状況が伝わるようなストーリーや逸話を加えるとすると、何が良いだろうか?

・インタビューを入れようか? その場合は誰を選ぶ?

・文章以外で含めるものは? 地図、グラフ、絵、図表、写真? 作品がより良くなり、読者にしっかり伝わるものは?

→ この例だけでも、こういうプロセスを経験できるのは大きいだろうなあと思います。

 私があまりノンフィクションが得意でないこともあり、引き続き学びつつ、ノンフィクションというジャンルでよく行われる選択やこのジャンルの特徴、そして教室でできそうな具体的なことを、今後も紹介できればと思っています。 

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★ Ralph FletcherのMaking Nonfiction From Scratch。Stenhouse Publishersから 2015年に出版されています。

2022年2月25日金曜日

『国語の未来は「本づくり」』のブッククラブへのお誘い

 

皆様

 

クリスチャンソンと申します。Markと呼んでください。

慶應義塾横浜初等部という小学校でEnglish for Global Communicationというオリジナル・カリキュラムの担当をして10年目になります。

その前はICUで大学生に英語論文の指導をしていましたが、その時に『国語の未来は「本づくり」』の共訳者の吉田さんに会ってリーディングとライティング・ワークショップ(RW/WW)のことを初めて知り、大学でワークショップ形式の英語のライティング科目を開講しました。

いまの学校では限られたRW的なことはやっていたのですが、今学期から初めてWW的に6年生に自由に英語で「本づくり」をしていいよ、というプロジェクトを立ち上げ、今6週目です。

子どもたちが好きなテーマで作家活動に取り組む時のエネルギーに驚かされています。

 

さて、昨年11月にアメリカの小学校低学年のWWRWの実践と理論を綴った本Engaging Literate Mindsの翻訳『国語の未来は「本づくり」』を出版しました。

原書の対象は、アメリカの小学校教員です。

日本の教育関係者者の参考になればと思い、翻訳しました。

国語の先生、小学校の先生、英語の先生、子ども主体の授業に興味ある方は、この本で紹介されている実践や理論の中に参考になる点がたくさんあると思います。

https://www.shinhyoron.co.jp/978-4-7948-1196-7.html

 

以下の#ではフルカラーで原書にある子どもたちの作品が一部見られます。5〜8歳の子どもたちが創造する作品、その本づくりのプロセス、そしてその中での社会性、主体性、自己表現の成長が原書Engaging Literate Mindsの大きな魅力です。

#国語の未来は本づくり

 

ここで皆さんにお尋ねしたいのは:

Q1) 読んでくださった方、おりますでしょうか?

もし良かったら感想が聞きたいです。よかったこと、印象に残ったこと、難しいこと、質問などでも大歓迎です。

Q2) この本をまだ読んでいないが、Book Clubの形で何人かで一緒に読み、感想を章ごとに共有することに興味ある方、おりますでしょうか?

まだ開始時期は決まっていませんが、3月下旬、春休みにスタートすることを考えています。

皆さんのほとんどとは面識がないので、このように尋ねるのは少しドキドキなのですが、興味をもってくれる方とつながれたら嬉しいです。(Q1Q2への反応を、コメント欄にお願いします。)

Q1: Any reactions to the book?

Q2: Any interest in reading it together and discussing it?

Thank you for considering. -Mark

 

2022年2月19日土曜日

「理解する」を「メタ認知」する

  理解しようとするときに自分がどのような方法を使うのか、考えてみたことがありますか。おそらくそのようなことを立ち止まって考えることはあまりないのかもしれません。頭のなかで何が起こっているのかを考えることになるのですから、無理もないと思います。しかし、自分や他の人の話や文章が見事なできばえだと思う時に、いったいなぜそうことができるのだろうかとか、頭のなかで何が起こっているのだろうと考えることは、時々あると思います。

 心理学者・三宮真真智子さんの『メタ認知―あなたの頭はもっとよくなる―』(中公新書ラクレ7552022年)の冒頭近くに次のように書いてありました。

 Aさんの話が聞き手を引きつけるのは、たとえ話が適切だからだ」

「レポートの内容が頭の中でうまくまとまらなかったが、いったん書き始めると、スムーズに進むものだ」

「最近、うちの娘は、うまく意見を言えるようになった。論理的な思考ができるようになったのかな」

 このように私たちは、ふだんからある程度、メタ認知を働かせているのです。

「メタ認知とは、一言で言うと、認知についての認知です」

 私は講演の冒頭で、このように話し始めることがあるのですが、そう言われても、初めての人にはピンと来ないでしょう。そもそも認知とは? それは、頭を働かせることです。心理学では、見る、聞く、書く、読む、話す、記憶する、思い出す、理解する、考えるなど、頭を働かせること全般を指して認知(cognition)と呼びます。頭の中で行われる情報処理と言い換えることもできます。(中略―引用者)

 また、「メタ」という語は、ギリシア語に由来する接頭語であり、「~の後の」「高次の」「より上位の」「超」「~についての」などという意味を表します。したがって、メタ認知とは、認知についての認知、認知をより上位の観点からとらえたものと言えます。自分自身や他者の認知について考えたり理解したりすること、認知をもう一段上からとらえることを意味します。自分の頭の中にいて、冷静で客観的な判断をしてくれる「もうひとりの自分」といったイメージを描いてみると、少しわかりやすくなるかなと思います。(『メタ認知』1819ページ)

  三宮さんのとてもわかりやすい説明によれば「認知」とは「頭を働かせること」。その「頭を働かせること」のなかには「見る」「聞く」「書く」「読む」「話す」「理解する」もはいります。その「自分や他者の認知について考えたり理解したりすること」が「メタ認知」ということになります。ということは、理解しようとするときに自分がどのような方法を使うのか、を考えることは「理解する」ことについての「メタ認知」になりますね。

 具体的な先行研究や実例の大切なところに触れながら、三宮さんはどのようにすれば「メタ認知」を使うことができて、頭のなかを活性化させることができるのかということをわかりやすく伝えています。たとえば『メタ認知』第3章の「他者に教えることが確かな理解をもたらす」と言う一節では次のように書かれていました。

  授業の中で生徒同士が互いに教え合う「相互教授」という方法がありますが、この方法は、教え合うことを通して理解を確かなものにすることに役立ちます。実際、テキストを読んで学ぶ際には、理解した内容を他の人に説明する場合の方が、ひとりで学習するだけの場合よりも理解成績がよくなることが、実験によって明らかにされています。この説明の効果を、自己説明効果と呼びます。さらに、相手にビデオを通して説明する場合と、相手の反応を見ながら対面で説明する場合とを比較すると、相手の反応を見ながら説明する場合の方が、説明者自身の理解を促進するという研究報告があります。(『メタ認知』124ページ)

  このことは「理解する」とはどういうことかを「理解する」あるいは「説明する」行為にもあてはまります。そのことをテーマとした『理解するってどういうこと?』第4章「アイディアをじっくり考える」の140ページから141ページには、「理解のための方法と得られる成果」という表があります。これは、エリンさんが担当したある教員研修のなかで、エドワード・ホッパーの絵「ある日曜日の朝」とその絵について書かれたジョン・ストーンの同名の詩を参加者たちに解釈してもらった時につくられたものです。参加者たちが語った「理解のプロセス」には次のようなものがありました。表のなかに書かれていることを列挙してみます。

・自分がもっている知識にもとづいてイメージを描いた。

・詩と絵の両方に共通するもののなかで、最も大切なものは何かを判断した。

・何度も読み返した。

・不信の念を保留した。第一印象は否定的だったが、「この詩にチャンスを与えよう」と決めた。

・その作品について考えるために、会話のなかで何度も長い沈黙をさしはさんだ。

・自分が理解していなかった部分を埋めた(推測したり、作り上げたりした)。

・作品の構造を用いて、飛び飛びのアイディア相互の関係を推測した。

・質問を投げかけて、パートナーと話し合った。

自分の使った「理解のプロセス」をこのようなかたちで言葉して、他の人に説明するだけでも、自分と他者の理解の仕方の共通点や相違点を意識することになるのですが、大切なのは「理解のプロセス」を通して得られた「理解の成果」についても参加者各自が語っているということです。「質問を投げかけて、パートナーと話し合った」という「理解のプロセス」の「成果」は次のようなものです。

 パートナーが自分と同じ疑問を持っていたんだとわかって、そのうちのいくつかを二人でああでもないこうでもないと言いながら話していたら、この詩と絵をもっと知的に話し合えるようになった。(『理解するってどういうこと』141ページ)

 エリンさんがやったのは、「理解のプロセス」とそれによる「理解の成果」を語ってみることを求めただけなのです。込み入ったことではありません。ただ、私たちが日頃あまりやらないというだけのことです。しかし、このようなかたちで、「理解する」ことを「メタ認知」すると、私たちの理解の仕方についてどういういいことが待っているのかがよくわかります。その対象を理解しようとするときに自分がどのような方法を使っているのかを語り合うことで、対象そのものへ理解の仕方だけでなく、対象を理解しようとする自分自身についても知ることになるのです。それが「わかる」ということなのかもしれません。

2022年2月11日金曜日

一斉指導では実現できない世界

東京のある公立小学校の教師が『国語の未来は「本づくり」』の感想と合わせて、試行錯誤している「作家の時間」の要素を組み込んだ授業について書いてくれました。また、研究サークルで共有したスライドも添付してくれました。(Mark)

  *****

『国語の未来は「本づくり」』は、一斉指導から「協働型」「ワークショップ型」「児童・生徒主体型」「対話型」「探究型」「自己調整型」など、様々な「転換すべき」とされる指導へと移りたい人にとって学びとなる本だと思います。

10年以上前に『作家の時間』を読みましたが、その学び直し、アップデートになりました。

作家の時間について、「社会的主体性(Social Agency)」という考えをもとにしながら考えることができるという箇所がありました。それを読んで、目から鱗が落ちた思いです(この点について詳しくは、後述します)。

自分の実践についても書かせてください。

作家の時間では、はじめ「出版」がもたらす子どもたちの変化を体感しました。子どもたちが指導に対して貪欲になり、書くことに意欲的になります。また、子どもたち同士のフィードバックが活発かつ有効に働くようになります。

それまでは、作文に対するフィードバックは「どうして指摘してくれたんだ。気づいてくれなくてもいいのに」といった気持ちをともなったものでした。なぜなら、指摘された後に直すのが面倒だからです。それに、書きたくて書いた物でもないからです。

作家の時間では、「次の出版」があります。そのため、助言する際も、「次に活かすといいですよ」という先を見越した言い方をすることになります。あるいは、時間ごとのシェアや子どもたち同士のカンファレンスの中で指摘されたことは、子どもたちは比較的素直に受け入れる様子が見られました。

現在の公教育の現場で、今あるカリキュラムを考慮せずに、たくさんの時間を年間の国語の時間に割く「作家の時間」の授業をおこなっていくことは、簡単ではありません。より多くの理解を得ていく道を探る必要があり、カリキュラムの中に無理なく位置付けることができれば、「作家の時間」という実践が、国語教育の進化や発展につながるものになります。実は、「作家の時間」に含まれる要素を抽出してみると、それは驚くほど簡単に取り入れることができました。そして、それはICTがより可能にしてくれました。

 最近の教科書は、光村図書の国語ならばほとんどの単元が、「読む」「読んだことを生かして書く(表現する)」というサイクルで提示されています。このサイクルで積み上がっていきます。サイクルとなれば、「次回」があるということです。表現は出版に置き換えられます。つまり、単元ごとに作品を出版し、単元が変われば「次回」があるということです。残念ながら生徒が題材を完全に自分で決めることができませんが、裁量は多少委ねることができます。

作家の時間と同じような考え方で国語の授業を行うと、単元のまとめは「作家の時間」になります。先生が一に授業を1コマずつ行うスタイルをやめ、中盤以降はミニレッスン形式に切り替え、活動時間としてまとめやピア・カンファレンスのような時間に使います。

このスタイルにしてしばらくは、手書きの作品を印刷して冊子にしていました。児童裏表製販や綴じるための機械を使いましたが、それなりに時間は費やします。

しかし、一人一台のPCがやってきました。ロイロノートというアプリを使うことで、途中の作品なども簡単にシェアできるようになりました。出版(表現)はアプリに投稿して終わりです。紙にする良さはもちろんありますが、それなりに横並びの公教育の中で、この手軽さは他の教師にも歓迎されました。4学級ある今の学年は、皆このスタイルでおこなっています。

 作家の時間を知らない教員にとっても、デジタルツールがあり、教科書にそれなりに沿ったプログラムにすることで、とても受け入れやすいものになります。そして、子どもも意欲を持って取り組みます。

また、従来の授業よりも自由で、友達との交流が頻繁に行えるため、能力差があっても教室は平和的に学び合う場所になっています。ヒエラルキーを感じる場所ではないのです。

この本(『国語の未来は「本づくり」』)の中で「すぐに主導権を与える」ことについて書かれている箇所があります。この箇所はなかなか理解されにくいところかもしれません。

多くの人は、教師の役割に対する固定概念があります。以下のスライドの中でも紹介していますが、こうしたことは社会的な視点から説得を試みるようにしています。日本の子どもの社会参加や自己効力感の低さについて問題だと感じていましたが、Social Agencyの記述はそうした問題意識の中でピタリと合う内容でした。教室の中での影響力への価値づけ。自分の与える影響への想像や手応えを、これからも子どもたちに意識させていきたいと思いました。

 自分が現在の授業スタイルにすんなりと転換できているのは、作家の時間をかつて体感していたからです。それに『国語の未来は「本づくり」』を通して気づきました。今やっている上で紹介した実践も、作家の時間を大きく意識していたわけではありません。しかし、この本を読んで、作家の時間が自分の中で意外と大きい土台になっているのだと思った次第です。

『国語の未来は「本づくり」』は教師の問いかけ、声かけ、距離の置き方などが詳しく書いてあり、真面目に読むと、さらり読み流していけないような濃密な記述が多いです。

アメリカの教師たちの実践からとても学びが多く得られる本で、仲間の教師に紹介しています。









2022年2月5日土曜日

Invitational education/ Invitational learning

 生徒たちに強制する学びではなくて、生徒たちを招待する/招き入れる学びのことです。

「招待教育」というのも変なので、カタカナのままにしました。

読み・書き(国語)を含めて、ほとんどの教科というか、学校での学びは「苦役」として捉えられることが少なくありません。楽しいものと捉えているのは小学校段階(低学年?)くらいまででしょうか? 「強制する学び」と「学校で教えること・学ぶこと」はほぼイコールと捉えられがちです。

それは、洋の東西を問わないようで、そうした背景から、この「インヴィテーション教育ないしインヴィテーション・ラーニング」が誕生しています。ある意味では、原点回帰の試みと言えます。学校に通い始める前の子どもたちにとって、学ぶことは生きることそのものであり、楽しいものですから。(ウェンディ・オストロフ著の『「おさるのジョージ」を教室で実現』は、そんな一冊なのでおすすめです。原書タイトルは、Cultivating curiosity in K-12 classrooms : how to promote and sustain deep learning。)

 ライティングとリーディング・ワークショップを実践している人の中には、自分を「インヴィテーション教育ないしインヴィテーション・ラーニング」の実践者とは位置づけなくても、実はそれを見事なぐらいにやっている人が少なくありません。

 そういう一人が、小学校のあらゆる学年を教えた経験があり、現在は全米英語教師協議会の会長を務めているフランキー・スィバソン(Franki Sibberson)です。その仕事で忙しくなる前は、A Year of Reading (readingyear.blogspot.com)というブログも書いていました。

 そんな彼女、「何よりも、自分の読書人生は招待で満ちている」と言います。「友人が読むべき本を薦めてくれるし、ブッククラブに招待してくれるし、SNSを通じて多様な本の紹介が流れてきます。これらはすべて、一切義務ではありません。選択は私にあります。私がその時点で読むか否か選ぶ裁量をもっています。」

 「私は、教室も同じような環境であってほしいと思っています。なので、教師としての私の大きな役割は、若い読み手たちが読むことに関してどんな可能性があるか招待することです。その際使う方法として、ブックトーク、テーマに沿って収集した本のかご、子どもたちに読み方/考え方を示した掲示物などです。」

 「しかし、テストが大きな位置を占める教育の中で、教師はテストのために(日本でいえば、そのテストのために「教科書をつつがなくこなす」?)授業をすることを強いられ、子どもたちを招待しにくい雰囲気になっていますし、招待する時間をどんどん削られています。そんな中では、招待も強制に変化してしまいがちです。でも、リーディング・ワークショップ(あるいは、読み書きを統合したリテラシー・ワークショップ)を実践するとは、本当の意味での招待を提供し続けることを意味します。」

 「“本当の意味での招待”とは、それが実際子どもたちによって行われなくても気にしないことが何よりも大切です。あくまでも誘いであって、指示や強制ではありませんから。この事実を、繰り返し自分の言い聞かせることも大事です。」

 具体的な例も挙げてくれています。教室のみんなが好きな作家による新しい本が出版されました。その本を読み聞かせした後、その作家の他の本も一緒にして、子どもたちに「もしよかったら、他の本も読み直して、感想を聞かせてくれない/紹介文を書いてくれない」と投げかけました。しかし、その時は一人だけがそれらの本に触れただけで、その後10日間、誰も興味を示しませんでした。新しい本はもちろん、彼女の他の2冊もいい内容の本なので、再度子どもたちを招待する声をかけることはできました。しかし、子どもたちにオウナーシップと選択権を与えたかったので、自分で選んですること待つことにしました。もし、私が再度声かけをしてすすめたら、子どもたちは教師が自分たちに望んでいることをしなければいけないと思いはじめ(そして、実際そうし始め)ることでしょう。

 スィバソンは言います。「もし、私たちの目標が生涯にわたって読み続ける人を育てたいなら、何は強制し、何は招待するのかを考え直す必要があります。子どもたちは、何に対して責任を負うべきなのでしょうか? 私は自分自身に対して次のように問うことを学びました。『自分がしようと思ったことは、子ども全員がしなければならないことなのか? それとも、いまのある子にとってのみ適切なことなのか?』と。ほとんどの場合の答えは、後者になります。

 もちろん、招き入れる役割を担う中心は教師ですが、教室の中にいる他のクラスメイトや、本の形で存在する有名な(あるいは、まだそれほど有名ではない)作家たちも、生徒たちを学びに招待することはできます。そのプロセスややり方が見事な形で紹介されている本が、ピーター・ジョンストン他著の『国語の未来は「本づくり」』ですので、ぜひご一読を!(それの中高用は、ナンシー・アトウェル著の『イン・ザ・ミドル』です。)

参考:https://choiceliteracy.com/article/invitations-vs-accountability/