2026年9月25日金曜日

人の思いのこもった授業を



『海の命』をとことん読む


 昨年度、私はおそらく担任としては最後となる研究授業を行いました。これまでいろいろな授業を提案してきました。読書家の時間のブッククラブの授業を提案したこともありましたし、社会科の探究の成果を発表する授業も提案しました。もしかしたら、もう指導案を書くこともないかもしれないなあと思いながら、最後にやってみたいと思ったことは、とことん読み込み、子どもの感想を分析して、組み立てていく昔ながらの授業でした。


 『海の命』という教材と時間をかけて向き合いました。立松和平の「命シリーズ」や『遠雷』、立松和平の教材研究をした先生の記事なども漁って、自分の読みを深めていきました。そして、節目節目に書いた子どもたちの感想を読み込み、彼らがどのように『海の命』を捉えて、教師としてどの方向性に導いていきたいのかを考え、ねらいをもって授業を立てていきました。そんな授業が、わたしにとっての最後の研究授業になりました。


 自分のやりたかった研究授業は、現在の学習指導要領が求めている視点から見れば、とても古風なものになりました。私の先輩の先生たちが見せてくれたような昔ながらの授業を、最後に自分の後輩となる若い先生たちに見せたかったのかもしれません。先輩たちはそのような授業を気負うことなく普段着でやっていましたが、私には研究授業という場の力を借りて行うことが精一杯でした。


 指導講評の先生は私のことを若い頃から知ってくださっている先生で、「らしくない授業だったね」と、歯に衣着せぬコメントをいただきました。感謝をしています。しばらく立っていなかった懐かしの風景を眺めているようで、自分にとっては満足でした。子どもたちも、私のアツ(熱量)を正面から受けながら、よく頑張ってくれたように思います。一つのテキストをみんなで読み解くという、今や時代から取り残されたような学習に、スポットライトを当てるような研究授業になったのではないかと思っています。



作家の時間


 『海の命』の研究授業の前月には、作家の時間の流れの中で「推しの魅力を伝えよう」や「5分後に〇〇な結末」のユニットに学年で取り組みました。『海の命』の授業とは真逆の、中心から広がっていくような学習でした。子どもたちはたくさんの作品群を完成させていきました。魅力溢れる作品が次々と生まれ、大人でも読み応えのある作品が数多く生まれました。作家の時間も若い先生たちに見てもらって、こちらもやってよかったなあと振り返っています。

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 一人一人と対話をして、作品を読み、コメントで応える。作家の時間の難しくもやりがいのある局面はここにあります。こちらの想定を大きく越える作品を作り上げることもあれば、鉛筆が止まったまま動かない子もいたり、はたまた、国語ができないと思われていた子が思いもよらぬ成果を生み出したり、勉強ができる子が創造的な活動に全く興味が持てなかったりすることもあります。子どもたちの見えている姿、見えていない姿、いろいろな子どもたちの姿がゴロゴロと立ち現れて、それら一つ一つと向かい合っていく楽しさが、「作家の時間」にはあります。


 作家の時間は、子どもたちが真ん中にいる学習形態です。汗をかいて自分を表現しようとする子どもたちに、教師はどのように声をかけ、支えていったら良いのか、私たちは四苦八苦します。それでも、何かその子らしさの光る作品へと子どもたちが漕ぎ着けると、子どもも大人もじんわりとしたやりがいを感じることができると思います。おこがましくも、自分の声かけやら見守りが、少しでも子どもたちの作品作りや成長に、小さなきっかけを作れたと思うと、「よかった」と胸を撫で下ろすような思いです。



海の命も作家の時間も


 私は、『海の命』をみんなで読み深めることも、作家の時間で個性を書き放つことも、どちらも大好きです。人の思いが確かで色濃く、存在感を放つからです。

 『海の命』には、私自身の子どもに投げかけたい願いがあり、子どもたちがそれに呼応してくれました。「太一はなぜ瀬の主を殺さなかったのか」 この問いと向き合った子どもたちは、何か一つのことをみんなで考える楽しさ、そんな気持ちを味わうことを願う私の思いに、ちゃんと呼応してくれました。

  作家の時間には、子どもたちの思いが結実したたくさんの魅力的な作品があり、その制作のために教師が支えていくようなイメージです。自分らしい作品を作りたいと奮闘する子どもたちに力を貸せることが、大きな喜びです。100人の子どもたち一人一人に、わずかながらですが、ファンレターを書いていきました。

 教師の思いが先か、子どもの思いが先か、正しい答えなどは無いと思っています。教師の思いが先行した『海の命』も、子どもの思いが先行した作家の時間も、両方大切で、どちらも軽んじることはできませんでした。どちらかを選ぶという選択ではないですし、その時のクラスの雰囲気やバランスもあります。ただ、学習には人の思いが交錯している。そんな有機的で人間臭い学習が、どこか学校らしくて、自分は好きなのだと思います。



誰も操縦していない授業


 一方で心配していることもあります。先生も思いを持っていない、子どもたちも主体者意識がない。そんな操縦者が誰もいない授業が広がっているような気がしているからです。

 国語の教科書は「よくできた」教材です。子どもたちの生活の中から問いが生まれるように構成され、しっかりと構成を意識した書く時間が取られ、子どもたちの交流を通して相手意識、目的意識が焦点化されるように工夫され、分かりやすいイラストや活動を丁寧に説明してくれています。その国語の教科書の意図に沿うことが教師の目的になり、先生の意図に沿うことが子どもの目的になり、そうやって、誰の思いで学習が進んでいるのかよく分からない授業を見かけます。

 国語の教科書は子どもを知らないし、先生の葛藤も知りません。先生がそこに思いを載せることができるならば、それはそれで良い器になるかもしれませんが、国語の教科書の思いを汲み取ろうとした実践も多く、「結局あなたは何を大切に思っているの?」と、問い返したくなるような若い先生の授業を目にします。だから、誰も授業の操縦者のいない、立て板に水のような授業が行われていくのです。「よくできた」国語の教科書に溺れてしまう先生の一つの姿であるように思います。



収束と拡散を繰り返す


 結局はありきたりですが、収束的な『海の命』の授業も、「作家の時間」の拡散的な授業も、両方大切なのです。収束的な学習で子どもを伸ばそうとした経験が作家の時間の支援に生きるし、作家の時間で培った子どもの時間を守り抜くことが、一つのテキストを読み抜く学習のスタンスに還っていきます。

 若い先生がどのような場所に向かいたいのか、その場所に立った後どんな風景が見えるのか。先を少し見てきた私ができることは、一緒にその風景を心躍らせながら見ることであると思います。操縦者のいない自動運転ではおもしろくありません。先生が、子どもが、ハンドルをしっかり握って、思いのこもった学習を一緒に楽しめたら良いと思います。


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