2014年6月29日日曜日

映像作品と絵本の読み聞かせの反応の違い

先日の『モリス・レスモアとふしぎな空とぶ本』ですが
ぼくもとてもおもしろいと思って動画も見てみました
第84回アカデミー賞で短編アニメ映画賞を受賞しているのですね
それが絵本化したようです
受賞作品としては日本では『つみきのいえ』がよく知られています


この短編アニメはまったくセリフは全くありません
すべて効果音だけで進行していきます
ですので映像の方だけ見せると解釈が多様化しました


モリスが最期を迎えるシーンでは
映像だけだと子どもたちはとくに最期を迎えるというイメージはないようです


そこで同作品の絵本バージョンを読み聞かせると
モリスは最期を迎えるということが子どもたちの会話の中から生まれてきました

また読み聞かせだと
「この話はすごく笑えるんだけれど、なんかさみしくなるんだよなあ」と
読み終えた後ぱらぱらと感想を言い合っていました


映像だけでは会話は生まれませんでしたが
絵本の読み聞かせだと会話が生まれます
そこに決定的な差を感じました
本は子どもたちは会話が生まれやすいのかもしれません
映像は食い入るように見ているので会話という感じではありませんでした
その点は予想をしていなかったので驚きました。



けれど
映像の方に分があったところもあります
モリスが古い本に聴診器を当てるシーンでは
映像の方がやはり魅力的でした


子どもたちはモリスが古い本の世界へと飛び込んでいくシーンにとても魅力を感じていました
絵本のページを見ながらそのシーンをイメージしているようです


絵本と映像の違いを感じながらどちらも子どもたちは楽しみました
それだけこの本と映像には魅力が詰まっているのだろうと思います

https://www.youtube.com/watch?v=VljJIQuPDSE

2014年6月20日金曜日

図書館についての絵本




 このところ、少し図書館についての絵本を何冊か読みました。

 きっかけは、5月25日のPLC便り 『モリス・レスモアとふしぎな空とぶ本』(ウイリアム・ジョイス著、おびかゆうこ訳、徳間書店)が紹介され、この本が素晴らしかったからです。
 また、私は英語を教えているのですが、ハリウッドスターが絵本を読み聞かせてくれるサイト(http://www.storylineonline.net/)★を見つけ、そこで邦題『としょかんライオン』(ミシェル・ヌードセン著、福本友美子訳、岩崎書店)の英語版があり、それもなかなかよかったこともあります。

 本の価値や、図書館はライオンだって来たい場所であることは、教師が口で言わなくても、本が十分に語ってくれる気もします。

 『トマスと図書館のおねえさん』 、藤原宏之訳、さえら書房) 『バスラの図書館員――イラクで本当にあった話』晶文社)になると、本が普通にあり、図書館に行けることが、どれだけすごいことなのかも、分かります。
 
 そういえば『読書家の時間』の執筆メンバーが、以前『としょかんのよる』ほるぷ出版)を紹介してくれたことも思い出しました。

 帰路、近くに図書館に寄ってみると、『しずかに! ここはどうぶつのとしょかんです』 (ドン・フリーマン著、なかがわちひろ訳、BL出版)という本もあり、思わずくすっと笑ってしまいました。『としょかんねずみ』(ダニエル・カーク著、わたなべてつた訳、 瑞雲舎)のシリーズもありました。

 「図書館に行きましょう」、「図書館は楽しい場所」、「図書館で本を読みましょう」等々と口で言う代わりに、自然とそういうことを伝えてくれそうな本があれば、ぜひ教えてください。


*****
    上で紹介した、ハリウッドスターが読み聞かせをしてくれるサイトにある絵本は、数は少ないですが、バラエティに富んでいます。『ストライプ――たいへん!しまもようになっちゃった』、『だいすきだよハッチさん』、『おばあちゃんのきおく』、『ありがとう、フォルカーせんせい』、『にじいろのさかな』など、邦訳が出ているので、おなじみの本もかなりあります。邦訳は多分まだだと思いますがThe Tooth (終わりかたがとてもいいです)Stellaluna  もかなりおすすめです。Stellalunaの同じ著者の Truppも、思わず購入してしまいましたが、こちらもかなりの名作です。英語の好きな方はぜひ。

2014年6月13日金曜日

ここから はじまる 〜「読書家の時間」ブッククラブ報告〜②

 
 前回は、不安定ながら安定している「もやっと」した感じ、学び手が学びを入れる「カゴ」についてお伝えしました。




この日参加のみなさんの振り返り(抜粋)を紹介します。

○子どもの主体的な学びを大切にするーーーということへの共通理解が、暗黙の大前提になるのだ、ということを改めて感じました。様々な制約の中で、「うまいことやっていこう」と思います。完璧を目指すのではなく。

○初めてブッククラブをやってみて、とても楽しかったです。
 子どものもつ「カゴ」の話はとても印象的で、今まではみんな同じカゴをもっていて、こちらのボールが入らない子は問題がある?と思ってしまいました。でもそれは全く違い、ひとりひとり、もつ「カゴ」の大きさも形もちがう(心と同じ!)なのだと分かりました。
 だから、どうやってこの子にはボールを入れようか、とか、この子が自分から自分の「カゴ」にボールを入れるにはどんなミニレッスンや声かけがいいか?と考えたらよいのだと、ほっとしました。
 学校というところは30人の同じ年の仲間とぶつかったり、考えたり、悩むことがいかに大切か、教師、対、子の学びだけではなく、子と子の交流がとっても大切だということを感じました。

○この本のブッククラブの延長で、「今の自分の教師像」を話し合う時間が面白かったです。「知っていること」と「受け入れられること」のバランス、自分でも意識していきたいと思いました。
 みんなが「不安」に日々向き合っていることを共有できたのも良かった。小学校の先生達は自分の学級内のことには、相当な裁量権を持っている印象があるのですが、そうではないのですね。裁量権があるからこそ、周囲の視線を気にして「自主的に」横並びにするということもあるのでしょうか・・・。

○教員側の「安心」の確保も大事。それは一斉授業という形態だったり、知識量だったり、いろんな要素があると思うけれど、安心は、心の健康に直結しているので、大切に考えたい。
 細かい具体的な話をしたい、と思うところは多いかも。でもそれは、具体的にやりたいと思っているからだと思う。そういう会も必要かとは思った。
 答えがない(正解がない)のは頭ではわかっているけれど、答えがほしい、と思ってしまうからかも。

○自分の考えと似ている考えや自分に無い視点での考えを聞くことができるとても良い機会でした。(普段の)研究会では、「自分が思っていることは話題にそぐわないかも・・・?」と思ってしまうことがありますが、皆さんが話を受け入れてくれる雰囲気も、自分にとって素敵な時間でした。今年は読書にもう少し力を入れていきたいです。

○自分が一番成長できるときは、新しい価値に出合ったときかな、と思いました。どこかの誰かが見せてくれた不可解な価値を、自分の何かと結びつけてみたとき、新しい何かが生まれる、それが成長かと。見えやすいものほど、なかなか自分のものにはならず、見えにくくてぼんやりしているものをつかもう、つかもうと努力しているときが、実は自分のものになりはじめているのかなあ。今日も、新しい価値と出合えました。

○私がこれからも大切にしようと決心したことは、
・この子の次の一歩は何だろう(=評価)と考えるミクロの目。
・さて、全体はどう動いていくべきか、本当にこれでいいのかなと考えるマクロの目。
 この両方を「体を壊さぬ範囲で」思い切り使っていくことです。

・・・みなさんの教室での「読書家の時間」の様子もぜひお知らせください!
 次回は、秋頃、またこのミーティングを開催します。

2014年6月6日金曜日

ここから はじまる 〜「読書家の時間」ブッククラブ報告〜①



 5月30日土曜日、「読書家の時間」出版記念イベントとして、ブッククラブを行いました。2回に分けてその様子をお伝えします。

 私たちは、少しでも読書家の時間の学び方を知って欲しい、そして、参加者の皆さんが、悩みつつも次の一歩を見つけて、明日から実践できる、元気の出る会にしたいと考えていました。参加者は8名です。


 

 プログラム
  自己紹介
  さっそくブッククラブ(第10章 教師の変容)
〜休憩〜
  「もやっ」と話そう 今の、これからの、自分の教師像
  振り返り


  「もやっと」話そうについて。その「もやっと(=不安定ながら安定している感じ)」についてメンバーの一人が参加者に語りかけるところからこのコーナーを始めました。こんな様子でした。


 ・・・人はみんな、頭の上にかごをもっていて、そのカゴにいろいろなことを入れて成長していきます。例えば、先輩の先生から仕事のアドバイスを自分のカゴに入れて成長していく若手の先生がいます。子どもと先生の関係も同じように例えられます。先生の助言を的確に受け取れるような、大きなカゴをもった子どももいれば、なかなか先生の助言を受け取ることができない小さなカゴをもった子どももいるでしょう。

 でも、この頭の上のカゴ。実は、自分自身が放ったボールは結構高い確率で入ります。自分で投げたボールは、頭の位置を自分で調整して、スポッと入るからです。自分自身に投げかけるボールは、結構苦労するものです。自分自身のカゴを見つめなければならないし、自分で投げたボールが見当違いというのこともあるからです。

 けれど、人から投げてもらうボールよりも、自分自身のかごをしっかり見つめ、投げたボールは高い確率でかごに入り、自分の心にストンと落ちます。自分自身で出した問いや答えは、自分自身を動かすエネルギーを帯びているのです。だから、教師は子どもたちに、自分自身でボールを投げられるように、声をかけていきます。「こうした方がいい」というボールではなく、「なるほど、それで?」と耳を傾けたり、「例えばどういうこと?」と差し出したり、そして、「がんばっているね!」と勇気付けたりします。すると、子どもたちは、自分自身の力で、ボールを投げてみようとするでしょう。そのボールの結果を問わず、自分自身でボールを投げられたことを、一緒に喜び合えれば、自分で動き出す人が生まれます。


 
 自分が最高だと思っている助言をどんどん学び手の頭のカゴを狙って放っても、まったく入らないことはよくあることです。でもその学び手が自分でボールを投げられるようにサポートしてあげられれば、きっとよい結果が生まれます。そのためには、自分のやり方を押し付けるのではなく、相手の形に合わせてサポートの仕方を変えていく柔軟性が必要です。それを、ここでは「もやっと」と名づけました。
 「もやっと」していると、なんだか自分がないみたいで不安になることがあります。筋骨隆々で効果的な方法をビシッと指し示し、「みんなこれでいくぞ!おらー」と大きな声で主張できる人は、確かに力があってかっこいいです。「もやっと」している自分よりも、信頼されるのかもしれません。けれど、そのやり方で付いてこられる人は、実は頭の上のカゴが大きくて、どんなボールでも入れることのできるキャパシティーのある人や器用な人だけです。
 それよりも、「もやっと」自然体に構えていて、無理がなく、いつも微笑みを湛えていて、相手の動きに合わせてしっかりとサポートをしてくれる人が、本当は、人を伸ばす人なのではないでしょうか。相手の動きに合わせることができる人は、まずは相手を受容できる人です。受容するためには、筋骨隆々なことよりも、自分自身が柔らかくなり、相手を包み込むことのできる可塑性が必要です。だから、「もやっと」しているんですね。

 悩んでいることは当たり前だし、不安なのは当然のこと。それを、自分の中に共存させて、相手を受け入れることが大切かと思います。教師は悩まなくなったら終わり。悩んでいるということは、目の前の状況を改善しようとして生まれる化学反応ですし、それを改善しようとするからこそ、目の前の困っている後輩や子どもたちを見ようとするわけです。だから、教師は自信満々で仕事するより、もやっとしているぐらいのほうが丁度良いのかもしれません。

 
  ・・改めて、「読書家の時間」にチャレンジするということは、子ども観・教師観を磨き続けることなのだと感じました。モヤモヤと考え続けながら実践し、また秋頃、実践を持ち寄ることになりました。

(次回は参加者のみなさんからの振り返りをお届けします)

2014年5月30日金曜日

『読書家の時間』を読んで (1)


『読書家の時間』を読んでくれた3人の感想を紹介します。
 
1)
 『作家の時間』もそうでしたが、どのように取り組んできたか(これまで)を書いた本ですけれども、どのように取り組めばよいのか(これから)を示してくださっています。基本的に一貫した声で語られているのに、子どもたちや先生たちや保護者の皆さんの魅力的な言葉が、きちんと活きていて、引き込まれてしまいます。
 ひたすら読んで、ひたすら書く時間を生み出して重ねることで、一人ひとりの無限の可能性を信じて、自立をサポートしていくそのすじみちを見せていただきました。
 丁寧に語られたこの本を読んで、To Understandの原稿に目を移すと、エリンさん(=著者の名前)の書かれていることがさらにぐっと立体的になる思いです。★
 また、第10章の「教師の変容」のインタビューは、思わず身を乗り出すようにして読んでいました。「読者家の時間」と出会い、この取り組みの意味を、もがきながら、頭のなかでじっくりと考えながら、しっかりと自分のなかにつくり出していかれたことに。
読むことを通じて、その子どもが「その子らしく」学習することができる。教師も授業をするたびに、新しく見えてくる「その子らしさ」を「ありのまま」受け入れることができる…
という宝物のような考えに、心打たれます。
山元隆春 (広島大学)

  <以下は、メルマガからの続き>


2)
 大学院時代から、良い読み手とはどのようなものなのかについて、考え、様々な文献にあたってきました。さまざまなストラテジーについて調べ、さまざまな教え方についても調べてきました。
 実際に教え始め、できるだけ大学院時代に得た知識を使ってよい読み手を育てるということを目標に授業を計画し、実践してきました。
 しかし結局のところこれまでの教師が文章の内容を説明するということから大きく授業スタイルを変更することはできていなかったように思います。昨年度は一年間少しずつ新しいことに挑戦したつもりではいますが、まだまだ単発の試みになっていました。
  そんな中、私が常に思っていたのは、国語における読むことや書くことの指導を部活のようにできないかということでした。読むことはスポーツのようなもの で、まず読ませてみて、それぞれの読みに対してよりよい読み方をするためにはどうすべきかの指導を考える。同じ課題を持った生徒を集めて指導をする。その 間ほかの生徒は自分のやるべき課題をこなしている。少しずつではあるが、いろいろな本を読むことができるようになっていく。なんとかそんな授業ができない かと考えていました。
 その中で昨年度から読み始めたのが「ワークショップで学ぶ」のシリーズでした。
 これまでも、海外のReading Instructionに興味を持ち、様々調べて来た中、この四月に『読書家の時間』が刊行され、海外の理論及び実践をもとにした日本での実践についての本ということで読ませていただきました。
 個人的に一番これから有用だと感じたのは、ミニ・レッスンの内容をまとめた表でした。(p78-80) これまで、指導要領や自分のしてきた勉強から自分なりに考えてきているつもりではいましたが、生徒の読みをみて、教えるべきことは何なのか、どこを見れば いいのかまだまだはっきりしておらず、これからまとめていかなければいけないなと感じていました。ですが、この表を見ることで、生徒の読みのどこに着目し ていけばいいのかがまとめられており、今まで以上に具体的な指導が可能になるのではないかと感じています。
 また第10 章における教師の変容も興味深く読ませていただきました。さまざまな研究でも示されているように、新しいことに挑戦することは時間がかかるのだということ を改めて感じました。挑戦を始めた最初はこれでよいのか不安にもなり、成果がでないことに焦ってしまうと。いきなりの成果を求めてはいけないのだなという ことも。完璧な例ばかりを示すのではなく、失敗のような話を知ることで、少しずつやってみようと言う気にさせてもらえるな、とも感じました。
  最後まで読んだ上でやはり。と思ったことは、メンバーが皆さん小学校の先生方であることです。どこに行っても指導方法に関しては小学校での実践が非常に多 いのです。私は高等学校の教員をしておりますが、もっともっと教科間の連携をはかっていけるといいなと思っております。国語だけで読み方などを教えるので はなく、その読み方を他の教科領域でも応用したりしていけるような授業を展開できるように学び続けていきたいと思います。アメリカでは様々な教科で読むこ とや書くことを取り入れるというような指導が行われているという研究もよく聞きます。何が日本の実情に合うのかをこれからも考えてきたいと思っています。
神奈川県立旭高等学校
国語科教諭 進路支援
小岩井 僚

3)
 「授業って何だろう?」「誰のための授業なのだろう?」 ~ この本は、改めて、じっくり考える機会を与えてくれました。

 印象に残っているのは第4章「カンファランスと一斉授業の違い」です。
P92「カ ンファランスは、教師と子どもが今後の学習について協力しあいながら考える作戦会議である」という言葉がありました。別に疑問を持たずに、そうだな、と 思ったのですが、この文をかみしめてみると、「協力しあいながら」って教師それぞれの価値観が含まれるな、と思ったのです。
 最 近、個別指導を見る機会がありました。子どもの学習観察や書いた作文を熟読していても、荒さがし。イケてないところをたたくための準備?! その後、「こ こが違っている」「これでは相手には伝わらないよ」「私には伝わらない」と個別に指摘してダメ出し(教師本人はそう思っていない)。教師の言われたとおり に改善した子どもに「よくできたね!」と褒める。これって何でしょう。教師の満足度を上げるための個別アプローチ?!
  「子どもと協力しあいながら」「子どもと話し合いながら」 ~ このことを意識していたとしても、いつしか「子どもに一方的に」になっているのでは。問題 点ばかり見つけてその指摘ばかりしていないか。自分自身の子どもに対する関わり方を改めてふり返りつつ、授業全体でも同じことが起こっているのでは、と 思ったときハッとしました。
  今、授業改善が叫ばれ、子どもが主体的に学ぶ授業の創造がスローガンとして掲げられています。でも、教師が一生懸命説明し黒板に板書するスタイルはまった く変わっていません。子どもが楽しいといわれる授業も、よくよく見ると教師の話が面白いということだったり、ゲーム性を高めたものだったり(チーム競 争)。タメになる授業といわれる授業も、テストの点数がいかに取れるか、効率的に覚えられるか、問題がよく解けるようになるかが中心。ファシリテーション を意識した「学ぶ主体を子どもに渡す授業」も、子ども達を見るとどこかやらされ感があり、大人の存在が大きい大人中心の授業。

P105「その正しさを確認するのではなく、その子どもが疑問に思っている点や分からない点が何なのかを明確にしたり、本を読んで想像を膨らませたことを言語化できるように支援します」
 正しさに縛られていると、いつしか「協力しあいながら」が抜けていくのかもしれませんね。

*第10章 教師の変容 は自分と同じ経験があちこちにあり「そうだよね」「そうだよね」とつい言葉に出しながら読んでしました。教師の生の声(かなり悩まれていたときの様子・気持ちの揺れ動き)はかなり心に響きました! 
  Nさん


 以上3人のを紹介しましたが、第2回目も考えていますので、ぜひ皆さんの感想をお寄せください。
同じ本を読んでも、読む人によって読めるものが違うのが本です。誰かが、「読むことは、読んでいるその人を読むこと」と言っていました。従って、読む時で、読めるものも違ってきます。(さらに言えば、「読みたいものしか読めないのが本」です。)
また、『リーディング・ワークショップ』の中では、 アラン・パーヴスの言葉を2度も引用して(40ページと73ページ)、「本を読むには二人が必要」を強調していました。最低でも二人が必要ということだと 思います。一人だけでは、あまりにも見えないものが多すぎるので。なんと言っても、いまの自分が読めるものしか読めませんから。★★

★ この翻訳本は、『理解するってどういうこと?』(仮題、エリン・キーン著)というタイトルで、2~3か月後に出版されます。私がこれまで出版に関わった本の中で一、二を争ういい本です。(こちらからも、著者の<もがき>が伝わってくる本です。それも、触発される<もがき>が。)

★★ さらに言えば、なんと書き手ですらすべては見えていません!! (詳しくは、『「読む力」はこうしてつける』の41~43ページを参照ください。) だからこそ、書くときも共著やチームで書くことが大切なんだと思います。