2026年1月17日土曜日

他者を理解する方法としての「読む技法」

  『理解するってどういうこと?』の第7章でエリンさんは「ノンフィクションの構造」に触れながら次のように書いています。

 〈子どもたちがノンフィクションを読んでいるときには、ノンフィクションの基本構造を使って書かれているものを理解したり、予想させたりすることを系統立ててしていませんし、ノンフィクションを書く場合にも、ノンフィクションの構造についての知識を応用する機会はほとんど提供していません。〉(『理解するってどういうこと?』265ページ)

  こう書いたすぐ後の部分でエリンさんは「しかし私は、今の状況にほんの少しの修正を加えるだけで、多くの子どもたちがノンフィクションでも大きな進歩を遂げられると確信しています」とも言っています。

 「ほんの少しの修正を加える」ための工夫とはどのようなものなのでしょうか。伊藤氏貴さんの『読む技法―詩から法律まで、論理的に正しく理解する―』(中公新書、2025年)は多様なジャンルの文章(テクスト)を取りあげながら、その「ほんの少しの修正」の具体的なあり方を提案しています。

たとえば、「法令の文言」を読む際に、その文言自体のみを忠実に読もうとする「文理解釈」が行き詰まってしまいがちだと指摘して、それを乗り越えるために「文言を超えて読もうとする方法」として行われている「論理解釈」について次のような説明があります。

 〈書かれた文章はそれ自体独立しているように見えるかもしれない。だが、そこには必ず書き手がおり、それが読者に読まれることで意味を持つ。文章を挟んで書き手と読者とが対峙する状況で、文言そのものに拘泥しすぎず、両者をスムーズに結びつけるための読みが論理解釈ということである。これは法令にかぎらず、あらゆる文章にあてはめられる。〉(『読む技法』66ページ)

  ここから読むことは、読者が筆者の「意図」を捉えようとして文章とやりとりすることであるという考え方を捉えることができます。伊藤さんはこのような考え方から、「他者の意図を汲む」ことが読む目標だと言っています。『読む技法』は多彩なジャンルの文章の読み方についての本なのですが、このような考え方に貫かれているという点で、他者理解の仕方が示された本でもあります。

 村上陽一郎「自己の解体と変革」、日本国憲法、岡倉天心「茶の本」を取りあげながら理解するための「読む技法」の基本を提示した後、佐藤春夫「愚者の死」と与謝野鉄幹「清之助の死」の比較読み、芥川龍之介「蜜柑」と梶井基次郎「檸檬」に共通する構造の把握、〈ナラトロジー〉を駆使した芥川龍之介「藪の中」の解釈、など魅力的な論述が行われてます(ぜひ『読む技法』を手に取ってその実際に触れてください)。

それぞれの文章(テクスト)が具体的に読み解かれていく八つの講義を聴講しているような思いで読みましたが、多くの発見がありました。「読む技法」を使いながら、文章の書き手の「意図」との対話的なやりとりをどのように進めていけばいいのかということが、例文に即してわかりやすく示されているために、それぞれの文章(テクスト)の一読者として、既知のことがらとの関連づけが誘われたからだと思います。それは、「読む技法」をどのように使っていけば作者との対話的関わりを営むことができるのかというその手続きを、伊藤さんが丁寧に物語っているためでもあります。

エリンさんも、「ノンフィクションを読む際の障害」と「ノンフィクションをしっかり読めるようにするには」という二つの表にノンフィクションの教え方を整理していますが(この二つの表も伊藤さんの言葉を使えば「読む技法」を述べたものだと考えることができると思います)、その後に次のように述べています。

〈子どもたちにフィクションを読むときとは違った方法でノンフィクションを読むように教えたときは長持ちします。それは、子どもたちが教室を巣立ってから後にも長く使うことができるツールですし、私たちが想像もできないような難しいノンフィクションを読み、情報を理解する時に活用できる方法です。ノンフィクションの構造と障害について学ぶことは、多様な種類の理解に役立ちます。〉(『理解するってどういうこと?』277ページ)

  『読む技法』で伊藤さんが具体的かつ丁寧に示してくれたのはそのような「ツール」や「方法」を使っていかに作者の「意図」と対話をするかということでした。伊藤さんの本の副題には「詩から法律まで、論理的に正しく理解する」とありますが、エリンさんもまた、とくに子どもが「ノンフィクション」の読み・書きの教え方に足りないのは、「論理的に正しく理解する」方法やツールをしっかりと教えてこなかったから、その読み・書きの営みが豊かなものになっていないのだと言っているのです。『読む技法』はこの問題を克服するための手がかりを与えるものだと思います。

方法やツール(伊藤さんの言う「読む技法」)を教え・学ぶことは、わたくしたちがこの社会で生きるために必要な「多様な種類の理解」につながるのです。『読む技法』で述べられていることを身近なテクストの読みに応用してみると、それまで気づかなかったテクストの意味が見えてきます。それを他の人と語り合うことも重要だと考えました。ともすればつまらない、わかりにくい、面白くないと敬遠されてしまいがちな「読むこと」の「今の状況」に、「ほんの少しの修正を加える」ための多くのヒントを伊藤さんは贈ってくださったのです。

2026年1月9日金曜日

『教師のためのアート・オブ・コーチング』の著者のエリーナ・アギラーという人について

  エリーナさんが、教師になったのは1994年のことです。

 当初、教師になるつもりはなかったそうです。大学院に進むために、お金がなかったので学校で代用教員になり、それで教えることの楽しさに開眼してしまったそうです(そして、大学院に行くことはやめました!)。

 彼女がなったのは、英語(日本での国語)の先生です。彼女がどこかで書いていたり、語っている記録を見出すことはできませんでしたが、1990年代は、彼女が先生をしていたカリフォルニア州も含めて全米で普及しつつあったのがリーディングとライティング・ワークショップ(RWWW)なので、大なり小なり影響されていた、ないし実践していたことは想像がつきます。(彼女がつくり出したトランスフォーメーショナル(変革)コーチングとの関連性についてはあとで触れます。)

 自分にとって、教えることは楽しくてしかたがなかったのですが、生徒たちが彼女に尋ねた質問の一つは、なんと「先生は来年もここにいますか? 学年の終わりまで残りますか?」でした。彼女は「もちろん残るよ」と答えましたが、生徒たちは「多くの先生はそうじゃないんです」と言ったのです。そこで彼女は、教師の離職率の高さ、そして教師が抱える圧倒的な負担やストレス、燃え尽きの問題をすぐに理解しました。これは、1990年代の半ばないし後半のことです。

 教師になって最初の数年間、彼女もコーチングを受けたそうです。「それは、とても技術的で、授業の指導法に焦点を当てたものでした★1。しかし私が本当に必要としていたのは、『このすべてプレシャーをどうやって乗り越えるのか』、つまり感情や日々の圧倒的な負担をどう扱うかというサポートでした」と回想しています。

それから約15年後★2、私は自分が設立に関わった学校でコーチになりました。そこで私たちが特に懸念していたのは、やはり教師の高い離職率でした。私が開発したコーチングの方法は、ある意味で私自身が教師時代に受けたコーチングを土台にしています★1。つまり、授業改善や生徒のエンゲージメントに焦点を当てるインストラクショナル・コーチング★3の要素を含みつつ、直感的に「信念」や「あり方」に関するコーチングを始めたのです。なぜなら、そこにこそ燃え尽きやストレス、圧倒的な負担感、そして感情についての対話が生まれるからです。感情は美しく、前向きで励みになるものですが、同時に困難も伴います(引用は、https://www.youtube.com/watch?v=mjrEfCJgO0w の動画より翻訳。その動画ではインタビューされているエリーナさんを見ることもできます)。

 さて、このブログの読者にとっての関心事であるRW&WWとエリーナさんが実践している変革コーチングの親和性についてですが、次の表のようにまとめられます。

テーブル

AI 生成コンテンツは誤りを含む可能性があります。

 この表は、https://projectbetterschool.blogspot.com/2015/03/blog-post.html にある表の一番右側と共通性が多いと思いませんか?

 また、『教師のためのアート・オブ・コーチング』に付けられた解説「アメリカを中心にした欧米諸国におけるコーチングの歴史とその普及の経緯」の424ページで紹介されているもう一つの表(出典は、Responsive Literacy Coaching: Tools for Creating and Sustaining Purposeful Change, by Cheryl Dozier, 2006, Stenhouse Publishersの11ページ)を見ると、コーチが柔軟に個々の教師にニーズに応えながら(教師が同じことを対生徒で行うことと対比しながら)学びをつくり出す理論的な枠組みが示されています。

 これら3つの表から読みとれることは、日本の授業と教員研修が、まだそのような形では行われている割合は極めて少ない、ということです。

 理想的には欧米各国のように各学校にコーチを配置することですが★4、過度期には、管理職、指導教諭、主幹教諭、教科主任や学年主任などが、コーチング・スキルを身につけて若手教師を中心に同僚にコーチングをしたり、ピア・コーチングをしたりすることが現実に考えられるし、求められています。

 インストラクショナル・コーチングが始まったアメリカの歴史を振り返ると、出発点はRWWWの普及だったことは間違いありません。その成功によって、優れた実践者をコーチとして採用して普及を図ったのです。その成功が、次の段階では算数・数学を中心に他教科やICTなどのコーチにも広がりました。

 すでに表に示したように、RWWWとコーチングの間にある親和性は大きく、授業で日々カンファランスをしていた優れた教師たちの多くが、優れたコーチになっていきました。その意味では、RWWWを実践するということは、いいコーチになるための準備もしていると言えるわけです★5。逆に言えば、RWWWの実践をしていないでコーチになることのハードルは、かなり高いと言えるでしょう。練習の量がものをいいますから!

 

★1 彼女もコーチになった当初は、行動だけに焦点を当てて教師をコーチングしていたそうです。しかし、それでは数か月後には元に戻ってしまうことが多いと彼女は指摘しています。例えば、協同学習を導入することに同意して、何度も練習して実践できるようになったのに、何か月後かにその先生の教室を訪ねてみると、「なぜ生徒が列に並んでいるのか」「なぜ教室が静まり返っているのか」といった場面に出くわします。そこで彼女は「静けさ」や「生徒の発言」に関する教師の信念を掘り下げる必要性に気づいたそうです。その信念が選択にどう影響し、生徒にどう作用するのかを理解することが、真の変容につながるからです。

 この点は、授業にそのまま応用できてしまうと思いませんか? 教師ががんばってたくさんの知識やスキルを詰め込んでも(あるいは、生徒本人がそれらを一時的に詰め込んだとしても)、残念ながら、それらが生徒たちの中にあまり残らないことを誰もが知っています。

それでは、定着する学び、生徒であれ教師であれ、心底理解して、変容する学びはどのようにつくり出すことができるのでしょうか? 少なくとも現在、日本で行われている教員研修や授業は、そのことをほとんど考えずに行われていると言えないでしょうか? 要するに、「ごっこ遊び」レベルの研修であり、授業が続き、リアルな当人たちが使いこなせるレベルの研修や授業ではないということです。

 https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/12/blog-post_21.html および

https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/12/abd.html を参照ください。

★2 彼女が、コーチとしての取り組みを始めたのは2003~4年ごろという情報もあるので、15年後ではなく、10年後が正しいかも? 『教師のためのアート・オブ・コーチング』は彼女のコーチとしての約10年間の経験をまとめたものであり、コーチになったばかりの人(2003~4年当時の自分)が知っておきたいことをまとめた本です。

★3 これについては、『インストラクショナル・コーチング―授業と学校を変革する教師の最強パートナー』ジム・ナイト著、図書文化、2026年2月刊行予定を参照ください。

★4 https://projectbetterschool.blogspot.com/2024/09/blog-post.html

   https://projectbetterschool.blogspot.com/2024/04/blog-post.html

★5 それと比べて、日本でいいと評価される授業を教室で実践し続けることは、必ずしもいい研修会や協議会等での講師になることは保証していません。依然として、「話した(教えた)のに、覚えてないの」的なアプローチが主流ではないでしょうか?

2026年1月2日金曜日

常に晒され続ける評価の目 本当に厳しい中学校の評価


年末年始、中学校3年生のうちの子は、今日も高校受験について考えていることだろうと思います。誰もがそうだろうと思いますが、受験勉強はあまり好きではありません。小説やマンガを通して歴史にふれ、物語を楽しむことは大好きですし、英語もだんだん好きになっているように見えます。でも、受験勉強を進んでやりたいと思うタイプではありません。僕自身もそうだったので、気持ちは痛いほどわかります。


小学校の教師を長く続けてきましたが、中学校生活の全貌を子どもの姿を通して見つめると、少し違った側面から小学校生活が見えてきます。小学校生活こそが、最後のフロンティアにも見えてしまうのです。「中学校でも書いたり読んだりして楽しみ続けるんだよー」と、軽々しく励ませなくなってしまいそうです。


私たちの時代と今の時代の中学校教育は、全く違います。今の中学校は、厳しい。常に評価の目に晒され続けているという印象があります。もちろん、子ども自身の目標達成を後押しするような評価ではなく、子どもたちをグレーディングするような、残酷な評価の方です。


良くも悪くも「いい加減」だった昔の評価


私たちの時代(私は1990年代に中学生でした)の教師の仕事について、中学生の私の視点からしか知ることはできませんが、おそらく成績のつけ方は相対評価で、中間テストや期末テストの比重がとても大きかったのではないかと思います。自分の記憶では、授業中にワークシートのようなものはあったと思いますが、当然授業の中で行うものでした。図工や技術家庭では、制作物を作ったりすることはありましたが、数学や社会などは、良くも悪くも先生の講義が中心でした。私の場合、放課後はあまり一生懸命でない部活に通い、友達とたわいもない会話をして、自分は週に2回ほど近所の方が趣味で開いていた私塾に通うような生活でした。僕はものすごく勉強ができる方ではありませんでしたが、苦労はしないタイプで(だから頑張るタイプでもない)、あまり高校受験のために根を詰めて勉強した記憶はありません。それでも、公立高校の入試問題は、7割くらい取れていたような記憶があります。


私たちの時代は、高校受験といえども、どこかのんびりとしていました。誤解を恐れずにいえば、勉強が得意な子は、賢い学校に行くだけ。勉強が得意でない子は、無理してガリ勉もせず、それなりの学校に行くだけ。それが、普通で、当然でした。今は、何か違います。ほとんどの中学生が、必死なのです。



本当によいのだろうか、今の中学校の評価



現在の中学校は、中間や期末のようなテストによる総括的評価に成績の配点が偏重しないように、子どもたちの学習の過程(プロセス)も評価する形成的評価も大切にされています。形成的評価とは、子どもたちの学習の途中段階で行われ、目標達成に向けて教師が方向を修正する機会を作ったり、目標達成までどのような道を通れば良いのか、子どもと一緒に見通すためにある評価です。このように書くと、子どもたちのためになる評価であると捉えられますが、現在の中学校の場合はそうとも言い切れません。


期末テストを総括的評価とすると、現在の中学校で単元テスト(単元のまとめテスト)や提出物などは、形成的評価と位置付けられています。つまり、期末テストだけの評価はやめてミニテストを増やそう、提出物を増やそうという流れになっています。単元テストは各教科1回以上あり、提出物も同じ程度あります。教師にとっては、「一発で評価されないからいいよね」「小さな努力を重ねられる子どもが報われるよね」という善意で行われているでしょうが、子どもたちにとってはどうでしょうか? 常に、客観的な数値や等級の評価から逃れられない仕組みに、否応なく巻き込まれていきます。


単元テストといえどテストなので、赤い大きな数字でこれ見よがしに書き込まれたテストが返却されます。提出物には、A、A+、A−のような記号がテストと同じように付いてきます。中学生たちはこれに毎回晒されます。提出物で良い評価を得るためには、学校の中だけでは時間が足りません。うちのように要領の良くない子どもは、部活動で頑張った後、家に持ち帰って夜ご飯の後にやります。本来の自分の姿ではAは取れないので、AIなども使ってデコレーションし、本来の自分の考えがよくわからない提出物になっています。まるで、加工アプリで自分がよくわからなくなった写真のような提出物です。そうやって、なんとかAをとって「よかったー」と安堵するわけです。


うちの子の名誉のために伝えますが、AIの文章を丸写しにすることはありません。それをちゃんと読んで理解して、噛み砕いて文章に利用しています。私も最初は、AIを家に持ち帰った課題に使うことを反対していました。でも、課題がなかなか終わらずに寝る時間が少なくなって位しまう自分の子どもを前にして、AIを使わないことなど言えるはずもありません。AIの言っていることは難しい時もあり、私がそれをさらに噛み砕いて解説することもしています。中学生の多くの子がやはりAIを活用しながら課題に取り組んでいるそうです。先生もそれを承知しつつも、課題を出すのだと思います。


学校と学習塾の水面下の関係


学習塾についても私たちの時代とは様変わりしています。調べてみると、1990年代よりも今の方が格段に塾に通っています。昔は、学力を上げるための場所が学習塾でしたが、今は雰囲気が違います。うちの子どもは、塾に通っていない珍しい子どもです。うちの子どもが話す内容から推測するところによると、今の塾は単元テストや提出物のサポートまで行っているようです。塾の先生たちはその学区の先生がどのようなテストを作ったり提出物を作ったりするのかの情報に精通していて、それに合わせて子どもたちに有効なアドバイスを行っているようです。例えば、その先生の作った過去問などもしっかり持っています。おそらくその先生が異動しても、各地域の塾同士で連携して、情報を共有するのでしょう。今や塾に行かない子どもは少数で1割程度、ほぼ全ての子が塾に通うような世の中になっています。


1990年、塾は学力を一時的に上げる訓練所のような場所でしたが、現在の塾は、子どもたちが中学校生活を生き抜く生命維持装置のような役割をしているようにしか、私には見えません。子どもたち一人ひとりに寄り添えるように、少人数の塾はコンビニのように乱立し、一人ひとりに合わせたサポートをしています。中学校にとっては手を回しきれない子どもたちへの手厚いサポートを塾が行ってくれるので、塾のことを悪くいう中学校はないでしょう。昔よりも多くのことを学ばなけれなならない中学校のカリキュラムを、今の時間数でしっかり習熟させるのは無理なように思います。カリキュラムの量や難しさが上がれば上がるほど、塾に助けを求めてくる家庭は増えることでしょう。塾というよりかは「サポート校」という表現の方が近いように思います。学校と学習塾がwin-winの関係にあり、だれもこれを崩そうとは思いません。なるほど、塾業界の経済が回るわけです。しかし、忘れてはいけません。中学校生徒の不登校や心の病は増える一方です。


つまり、自分を「ビジュよく」「盛る」ために、塾やAIなど、使えるものはなんでも使って、この休まるところのない評価に晒され続け、なんとか息をして耐え続けるのが、今の中学校教育です。



内申点を「盛る」



さて、がんばって中学校生活を生き抜くことができた子どもには、内申点という称号が得られます。昔と変わらず、中学2年生の終わりから受験に関わる成績ということで、内申点に加算されていきます。しかし、現在の中学生は私たちの比ではありません。私立高校などでは、部活動や生徒会活動以外にも、英語検定、数学検定、漢字検定、ボランティア、習い事、コンクール歴、学校が開いた説明会に参加状況まで、内申点や合否に関わる水面下の点数として加算されているそうです。


「内申点のために生徒会に入る」「内申点のためにボランティアをする」「内申点のために習い事でコンクールに出る」もうこれを聞いただけでも、90年台の中学生だった私は生き抜ける自信がありません。私は父の手伝いで重い障害をもつ子どもたちを海に連れて行くことをしていましたが、当然手伝いに駆り出されているだけなので、ボランティアという立派な言葉すら持っていませんでした。もちろん、内申点など微塵も考えたことがありませんでした。僕にとって良いことをしている気持ちさえなく、ただの毎年通例の行事でした。これは今の自分を確実に形作っていますが、今の子どもたちには伝わらないかもしれません。


内申点が足りないと、いきたい学校を受験させてももらえません。私立高校など、内申点が〇〇点以上ないと受けられないという足切りがあります。中学校の先生たちも子どもたちが公立高校不合格にならないように、内申点を進路決定の材料にするので、私立学校とさほど仕組みは変わりません。中学校生活の全てをかけて内申点という自己PRを盛り続け、立派な自己像を作り上げられた中学生が、希望の進路を選択していきます。



綺麗な暴力 評価



客観的で形成的で多面的な、美しい評価です。形成的評価や内申点とは、綺麗な暴力なのではないでしょうか? 暴力は連鎖します。それが社会構造だからです。 うちの子どもは塾に通わせていませんので、僕がテスト勉強に付き合っています。うちの子にとって、それがよいかどうか、確信がありませんが、塾に通わないという選択をした我が家にとっては、その道しかありません。塾から逃れたとしても、親に反発したい年頃の子が親に勉強を教えてもらうということそれ自体が、暴力の連鎖なのかもしれないという思いは、払拭することができません。かといって、勉強が天才的に得意な子でなければ、フロンティアはどこにもありません。


高校生の子どもを持つ先輩によれば、高校に入ってもこれが続くそうな。どうしたらよいのか途方に暮れるまもなく、年末年始でどこか弛んだ街の雰囲気の中でも、うちの子どもはやりたくないという気持ちを押し込めながら、家で勉強を続けています。



いい加減が、良い加減


『「ほどほど」にできない子どもたち: 達成中毒(ジェニファー・ウォレス著 信藤 玲子訳 早川書房 2024年)という本があります。教育システム自体が、子どもたちを達成中毒へ追い込む装置になってしまっていることを、事例を踏まえて警鐘を鳴らす印象的な本でした。達成できればいいですが、達成できない子は、傷を負って再び立ち上がることができなくなってしまいます。


https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0005210389/


やはり、隙間がないのだと思います。人間としての余白をはさむ隙間がない。一部の大人が望む理想的な中学生を大量に生産するような、逃げ場のない管理的な中学校生活ではなく、隙間があり、役に立たないけどやりたいことがあり、失敗や成功もあって、それで勉強もできればなお充実程度の、私たちの時代の隙間のある中学校生活が、いい加減でちょうど良いと思ってしまいます。


小学校教師として、そして保護者として、私たちには、何ができるのでしょうか?



(写真は、箱根の大涌谷から見た富士山です。一富士二鷹三茄子。今年も良い年になりますように。)



2025年12月27日土曜日

『一人ひとりを大切にする学校』で描かれているMETという高校について

METの卒業要件は、次の9点であることが、以下の注意書きと共にhttps://x.gd/h7Eqs に書かれています(その訳は、以下の通りです)。

「生徒とその家族は、これらの期待(要件)を理解しておく必要があります。これらの要件は大変ではありますが、ロードアイランド州のすべての生徒が、卒業後の進学やキャリアで成功できる準備を整えることを保証するものです。

  • ロードアイランド州の卒業要件を満たすこと
  • 1年間にわたる卒業研究プロジェクトの完了
  • 75ページの自伝(Autobiography)の完成
  • 地域社会に基づくインターンシップへの参加経験
  • 特定の進路分野におけるキャリア探索と準備を結びつけること
  • 進路と、それに関連する大学単位または資格を明確にした包括的な「卒業後プラン」の完成
  • SATまたはACT(アメリカ版の「大学進学のための全国統一試験」)の受験
  • コミュニティー・サービス(地域奉仕活動)への参加
  • 在学4年間★、年3回の口頭による公開エキシビション(学習発表)の実施

 

 一般的に、MET(および他の Big Picture提携高校)の卒業要件は、「単位取得(机に何時間座っていたか)」ではなく、以下の3つが3本柱と捉えられています。

1. 75ページの自伝~4年間の学び・成長・挑戦・アイデンティティーをまとめる。

2. ポートフォリオLTIでの成果物、リフレクション、プロジェクト記録など。

3. 卒業エキシビション~自分の学びの旅路を、家族・メンター・学校関係者の前で発表。

 

75ページの自伝の目的と内容は?

 ポートフォリオも、エキシビションも、インターンシップについても紹介したいのですが、本ブログでは国語に一番関係する「自伝」に絞ります。

 卒業要件に、最低でも75ページの自伝を置いている目的は、

・生徒が4年間の学び・成長・葛藤・アイデンティティを、自分の言葉で語り直すこと。

・自分の人生を「物語」として構造化し、agency(自立) を獲得するプロセスそのもの。

・単なる作文ではなく、自己理解・自己決定・自己表現の総まとめ。

内容としては、たとえば次のようなものが含まれます。①家族・背景・文化的ルーツ、②自分の興味の変遷、③インターンシップでの経験、④成功と失敗、⑤自分の価値観・強み・弱み、⑥将来のビジョン、⑦自分の学びのスタイル、⑧自分がどのように「世界と関わってきたかなどで、自分の物語の包括的な再構築を目的としています。

 なぜ(最低でも)75ページなのか?

これは単なる分量の問題ではなく、「自分の人生を深く掘り下げるには、一定の時間と文章量が必要」というMETBig Pictureの哲学に基づいています。①量があるからこそ、表層的な自己紹介ではなく、深い自己省察に到達し、②文章化のプロセスが、自分の人生を自分の手に取り戻す行為になるからです!

 

75ページの自伝は、世界の教育実践の中でも「自分の物語(self‑narrative)」をここまで構造的・制度的に組み込んだ稀有なモデルという評価を得ていますが、その理由を次に紹介します。

1. 「自伝=自分の物語」を卒業要件として制度化している稀有なモデル

多くの教育モデルは「振り返り」「自己紹介」「志望理由書」などを求めますが、「75ページ以上の自伝を書き上げること」を卒業要件にしている学校はほぼ存在しません。

  • 分量が明確に規定されている
  • 4年間の学び・人生・価値観を統合する
  • 形式ではなく「自分の物語の構築」そのものが目的

これは、自分の物語を教育の中心に据えるという強烈なメッセージです。

 

2. 「自伝=自分の物語」をプロセスとして扱う設計になっている

75ページの自伝は、単発の課題ではありません。

  • アドバイザリーで継続的に書き進める
  • インターンでの経験を物語化する
  • エキシビションで語り直す
  • ポートフォリオに蓄積する
  • 最終的に自伝として統合する(上の4つについては、本に詳しく書かれている!)

つまり、自分の物語の構築が4年間の学習プロセス全体に埋め込まれているのです。

 

3. 「自伝=自分の物語=エージェンシー(自立)」という思想が明確

METBig Pictureの哲学はこうです:「若者は、自分の物語を語れるときに初めて、自分の人生の主体になる」。75ページの自伝は、まさにその力を育てるための実践的な装置です。

 

4. 「自伝=自分の物語」を学術的・社会的に意味づける構造がある

75ページという分量は、単なる作文ではなく、以下のような学術的営みに近づきます。

  • 自分史(life history
  • 個人の経験を「物語として」研究する方法(Narrative Inquiry
  • 自己省察的実践(reflective practice
  • アイデンティティー形成の研究

つまり、教育実践と学術的ナラティブ研究が接続されているのです。これは、他の教育モデルにはほとんど見られません。

 

5. 「自伝=自己物語」が評価の中心にある

METBig Picture の評価は、テストではなく、①ポートフォリオ、②エキシビション、③自伝の3本柱になっています。つまり、自分の物語が評価の中心に置かれているのです。これは「自分の物語を教育の周辺ではなくに据える」という、極めて具体的かつ効果的な実践です。

 

6. 自伝=自分の物語が「自分が関わりをもつ人たちと共有される」設計

75ページの自伝は、書いて終わりではありません。METのアドバイザー(教師とは言いません!)、家族、メンタ―/インターン先の大人、同級生など、多様な他者に向けて語り、フィードバックを受け、再構築します。つまり、自伝=自分の物語の執筆と紹介が他者とのかかわりを重視したプロセスとして扱われているのです。

 

『一人ひとりを大切にする学校』の著者(=METの創設者で、約20年間校長を務めたデニス・リトキー氏)は、次のように書いています。

 「高校生が書いた自伝だとは思えないほど素晴らしいもので、すべての自伝をこの本に掲載したいくらいです。多くの卒業生が自伝を書くのはとても難しかったと言います。これは、長さの問題ではなく、これまでの人生で、感じてきた痛みをもう一度思い出さなければならいことが、彼らにとって本当に恐ろしいことだからです」(25ページ)

 ある保護者は、「私は息子の自伝を見るのが大好きです。自分の人生と自分が受けている教育を分析して100ページ以上も書いたことを誇りに思っています」(208ページ)と言っています。

 学校で生徒たちがつくり出す成果物で、このように言われるようなものを今の日本の教育はつくり出しているでしょうか?

 

 以上紹介した自伝、評価の仕方、卒業要件等も含めてMETBig Pictureが取り組んでいることが分かりやすく書かれている『一人ひとりを大切にする学校』のアクティブ・ブック・ダイアローグを2006年1月31日(土)に開催しますの、興味をもたれた方はぜひ参加してください。

 


★アメリカの高校は、9年生から12年生までの4年間と決まっています。なお、中学校は、教育委員会によって7~8年生だけ、6~8年生、小中一貫など多様です。

 

参考: https://www.themethighschool.org/METのホームページ)

    https://www.bigpicture.org/ (Big Picture のホームページ)

    a town torn apart film - Google 検索 ないし https://x.gd/Bac7v (著者のDenis Littky氏が80年代から90年代の初めにかけて(?)校長を務めたニューハンプシャー州ウィンチェスターにあるThayer High Schoolでの体験を映画化したもの。こんな保守的な高校と地域ですら、METBig Picture に加盟する学校が今していることを、やれてしまった!! ということは、やり方と関係の築き方次第?)

2025年12月20日土曜日

読書の網・理解の網

  2024年本屋大賞翻訳小説部門1位の『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』(牧野美加訳、集英社、2023年)の著者ファン・ボルムさんによる『毎日読みます』(牧野美加訳、集英社、2025年)に次のような一節があります。


〈本を一冊読み終えて、次は何を読めばいいかわからないときは、「なぜこの本を良いと思ったんだろう?」と一度考えてみるのだ。そして、その「なぜ」をたどっていき、目には見えない本のつながりを頭の中に描いてみる。著者の思想が気に入ったのなら、その思想に影響を及ぼした作家は誰なのかを調べてみる。テーマが良いと思ったのなら、同じテーマのほかの本を検索してみる。引用句が特に印象的だったなら、引用された本を読んでみる。クモの巣のように稠密に張り巡らされた「読書の網」から、簡単には抜け出せなくなるはずだ。〉
(『毎日読みます』、130ページ)

 ボルムさんが言うように「なぜこの本を良いと思ったんだろう?」という問いは、みなさんももったことがあるのではないでしょうか。わたくしも本を読みながら時折そういう問いを抱くことがあります。スティーグ・ラーソンの『ミレニアム―ドラゴン・タトゥーの女―』(ヘレンハルメ美穂、岩澤雅利、ハヤカワ文庫、2011年)に始まる『ミレニアム』シリーズにある時はまって読んでいたことがあります。原著者ラーソンの死後も、ダヴィド・ラーゲルクランツ、カーリン・スミルノフと他の作家が書き継いで、現在7巻目の翻訳が出ています。ヒロインのリズベット・サランデルが登場すると途端に空気の変わりハラハラしながら熱中してします小説です。熱中しながら、ある時ふと我に返って、いったいどうしてこの本を読むようになったのかということを思い返してみました。2017年9月15日にこのページで書いたように、『ミレニアム』にはまるきっかけになったのは、ジョディ・アーチャー&マシュー・ジョッカーズ著(西内啓・川添節子訳)『ベストセラー・コード―「売れる文章」を見極める驚異のアルゴリズム―』(日経BP社、2017年)という本でした。
 「大ヒットする小説には規則的で力強い律動がある」(『ベストセラー・コード』147ページ)といった小説に対する魅力的な見方が示された本でしたが、そのなかに「世界的ベストセラー」として『ミレニアム』が取り上げられていました。次々に刊行される物語にすっかり夢中になっていて、いつしかそのことを忘れていたのですが、『ミレニアム』を読んでその世界観が気に入り、それにはまり込む源は『ベストセラー・コード』の読書体験があったのです。
 『毎日読みます』を読んでから、遅ればせながら『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』を読み始めた私ですが、作中の「ヒュナム洞書店」の店主「ジュナム」も毎日開店のあと閉店までずっと小説を読む店主です。そういう意味で毎日読んでいることには変わりなく、「ジュナム」にはきっとボルムさんが投影されているのだと思えてきます。この二冊の本を読んだ私の頭のなかでは、『ミレニアム』を読み始めた頃に読んだ記憶のあるガブリエル・セヴァンの『書店主フィクリーのものがたり』(姫野はやみ・小尾芙紗訳、ハヤカワepi文庫、2017年)のことも思い出されました。
ボルムさんの言う「読書の網」を張り巡らせることで、最近出かけた書店の書棚で『本と歩く人』(カルステン・ヘン著、川東雅樹訳、白水社、2025年)や『本と偶然』(キム・チョヨプ著、カン・パンファ訳、かんき出版、2025年)というタイトルの本を手に取り、気になって購入してしまいました。「読書の網」の仕業だと思います。
 『毎日読みます』には、引用したくなる言葉がたくさんあるので困ってしまいますが、もう一つだけ。

〈「わたし、五六ページあたりの内容が自分の状況にぴったり当てはまってて、いいなと思った。あなたはどう?」
「ん? わたしもそこ読んだけど、全然記憶にのこってないな。どんな内容だった?
本について友人とおしゃべりしていると、一つ気づくことがある。私たちは本を読み終えると、まるで読書感想文のように全体のあらすじや中心テーマを要約することに集中しがちだが、実は、各ページに何気なく潜むちょっとしたアイデアや考えに意味を見いだし、それを自分の人生に取り込む作業も大事だという点だ。そうやって見いだした意味を友人と共有すれば、私たちの読書体験は思ってもみないほど豊かになる。わたしたちが見のがしていた五六ページの話が友人を通してわたしに届き、その話にわたしが見いだした意味が今度は友人に届けられる、その過程すべてが読書体験なのだから。〉(『毎日読みます』、141ページ)

 エリンさんは『理解するってどういうこと?』の第5章で「読み・書きを学ぶ際の主要な構成要素」として「深い認識方法」に三つの領域があると言っていますが、ボルムさんの本のこのくだりは「優れた読み手・書き手になる領域」にあたることです。つまり「読み直したり、書いたり、お互いに話し合ったり、自分たちの考えたことをもとに描いたり演じたりしながら、他の人と、各自が考えて発見したことを共有することで、自分の理解を深めたり、広めたりする」ことは理解にとってほんとうに大切なことだとエリンさんは言っていますが(『理解するってどういうこと?』181-182ページ)、ボルムさんの「見いだした意味を友人と共有すれば、私たちの読書体験は思ってもみないほど豊かになる」という言葉は「優れた読み手・書き手になる領域」での「深い認識方法」が私たちにもたらすもの大きさを簡潔にしかし鋭く捉えています。これは他の読書と共に「読書の網」を広がりのある、さらに稠密なものにしていく方法でもあります。
 このようにして、『毎日読みます』はボルムさんの読書体験をもとに、本や世界を理解する方法をとても具体的に伝えてくれます。それは「理解の網」をつくるものと言っていいのかもしれません。

2025年12月12日金曜日

生徒も、先生も、授業にもっと「自分」を出していいんだ!

 元々は国語教師で、昨年度までは教頭を務め、今年度からは宮城教育大学教職大学院で教えている飯村寧史さんが送ってくれた最近読んだ本の推薦文を紹介します。

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 ローレン・ポロソフ著 山元隆春・竜田徹・吉田新一郎訳『ほんものの学びに夢中になる 関わりあい高めあう授業づくり』(北大路書房、2025)を紹介します。


 ローレン・ポロソフ著『ほんものの学びに夢中になる』の中に、こんな問いかけがあります。


 「成功できる生徒の定義を、学校での学習、取り組み、人間関係に自分自身の価値観を持ち込める生徒と再定義したらどうなるでしょうか? 教師の期待に応え、スキルや知識の評価を受けることに加えて、自分にとって何を達成することが重要か、そしてどの程度達成できたかを生徒が自分で決めることができたらどうなるでしょうか?」(p.129)


 この問いかけに、あなたはどう答えるでしょうか?


 私たちはこれまで、学校で学ぶ内容を「外から与えられるもの」として扱ってきました。教科書に書かれていることを理解し、覚え、できるようにすること。それが「学習」だとされてきました。もちろん、優れた授業実践では、学びの内容を生徒の生活や関心に結びつける工夫も多くなされてきました。


 しかし、ポロソフのこの問いかけは、そうした前提そのものを揺さぶります。学びの中心に置くのは「内容」ではなく「生徒」。内容は、学ぶ人の価値観や経験によって、異なる意味をもってよいのではないか。この発想は、内容は自分の「中」にこそ生まれるものだという新しい視点を私たちに与えてくれます。


 とはいえ、「理想的だけれど、現実には難しい」と感じる先生も多いでしょう。生徒は必ずしも熱心ではなく、教師がどれほど工夫しても思うようにいかないことがあります。私自身、これまで教職に携わってきた経験の中でも往々にしてそういうことがありました。しかし、この本をよく読むと、ポロソフ自身もまた、そうした悩みを体験し、その難しさをよく理解している一人であることがわかります。決してただの理想を言っているわけではなく、彼女自身の教室での試行錯誤から生まれた提案なのです。教師としてどうありたいかを問い直しつつ、生徒の現実を理解したうえで語られている点に、同じ教師として深い信頼を感じます。


 たとえば第4章では、単元の構想と学習課題の設計が取り上げられています。教科書の順序に縛られず、教師が単元テーマを立て、複数の課題を用意する、いわばカリキュラム・マネジメントの実践です。注目したいのは、生徒が自分に合った課題を選択できる「チョイス・ボード」の方法です。教師の意図や学習目標を踏まえながら、生徒が自分の価値観に沿って選択し、取り組む。しかも、安易に楽な課題に流れないような設計も工夫されています。


 かつて、私は、中学校の国語教師として、多くの生徒が夢中になって、一生懸命取り組めるような発問や課題を作りたいと願っていました。しかし、教室で全員共通の発問、全員共通の課題を一つだけ出す一斉授業を行うならば、どんなに工夫しても、全員がそれに適応するということは不可能であるということを痛感していました。だから、上記の「チョイス・ボード」には非常に魅力を感じました。これなら、教師の側で取り組んでほしいことや身につけてほしいことを提示しつつ、生徒が自分の価値観でそれを選んで行うことができます。まさに、私が困難を感じていた部分に新たな光を当ててくれるものでした。

 

 まもなく改訂される学習指導要領では、学校や教師の裁量がより広がるといわれています。そのとき、生徒にももっと裁量があってよいはずです。こういった議論には、学力低下やテスト結果への不安が必ずつきまとうものですが、それでも、先生や生徒がのびのびと工夫しながら学びに向かう方が健全だと思います。教室には、学校の学びに意味を見いだせない生徒、生活背景から授業に集中できない生徒がいます。そんな生徒たちにとって、「自分で価値を感じ、やってみたいと思える学び」を取り戻すことこそ、教育の原点だと感じます。

 例えるなら、これまでの学校教育は「制服を着せられ、それに自分を合わせる」ようなものでした。そこから、「自分の好みや目的に合ったデザインや色、素材の服を選び、責任と自覚をもって着ていこうとする」段階へ。本書は、そんな変化を私たちに促しています。これからの時代の学びにおいて、どちらが求められるでしょうか?


 本書には上記以外にも、たくさんの実践アイディアが紹介されています。もちろん、日本の学校事情を考慮して、工夫する必要はあるでしょう。それでも、読み終えたあとに「もう一度授業を考えてみたい」と思わせてくれる本です。それは「明日の1時間」ではなく、もっと長い目で見た授業づくりです。「この単元で」「この一年で」「卒業までに」という時間の広がりをもつ授業です。その究極のねらいは、生徒が卒業後も自ら学び続け、生き生きと生活していくことにあります。


 最初の問いかけに立ち戻ってみます。


「成功できる生徒の定義を、学校での学習、取り組み、人間関係に自分自身の価値観を持ち込める生徒と再定義したらどうなるでしょうか?」(p.129)


 私は、この問いに対して「生徒はきっと自信とやりがいを取り戻すに違いない」と答えたいと思います。不確実な時代だからこそ、生徒が自分の軸をもち、歩み続けられるように支える。その思いを共有する先生なら、この本の中に多くのヒントを見つけるはずです。きっと多くの先生が共感し、自分の授業を見つめ直したくなるでしょう。そして、この本を通して、自分の授業を変え、学校を変え、教育を少しずつ前に進めていく力になってくれると思います。そのような期待をこめて、本書をぜひお勧めしたいと思います。


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「チョイス・ボード」以外にも、教師と生徒に選択する学びを提供する教え方が紹介されている本には、『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』『一斉授業をハックする』『教育のプロがすすめる選択する学び』『教科書をハックする』などがあります。


 飯村さんが書いているように、あまりにも、「明日の1時間」の授業づくりに目が行きすぎているなかで、「この単元で」「この一年で」「卒業までに」という時間の広がりをもつ授業こそが求められています。その究極のねらいは、生徒が卒業後も自ら学び続け、生き生きと生活していくことにあります。それを体現している授業の一つが、ライティング・ワークショップ(https://wwletter.blogspot.com/2025/11/blog-post.html)とリーディング・ワークショップ(https://wwletter.blogspot.com/2025/12/blog-post.html)です。これらは、生涯にわたって自立した書き手/読み手/考え手/学び手を育てることを最初から目標にしています。そのために最も大切にしていることが、自分が書きたい題材を選ぶことと選書能力を身につけること(それと並行して「読み手意識」と「書き手意識」をもつこと)です。これらはすべて日本の国語教育が、ほぼ無視し続けていること!? 

 これらの算数・数学、社会科、理科版の実践が、『教科書では学べない数学的思考』『社会科ワークショップ』『だれもが科学者になれる!』で読むことができます。


2025年12月5日金曜日

「読み手としての私」を語る

  関西大倉中学校高等学校・堀内誠太郎先生の実践紹介の第2弾です。

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 2024年度の3学期、2年間の「読書家の時間」の集大成として、2年生には「『読み手としての私』を語る」と題したレポートに取り組んでもらいました。レポートは以下の4章から成ります。


第1章 「読書家の時間」と出会う前(つまり小学生のころ)の自分がどんな読み手だったか

第2章 読み手としての自分を成長させてくれた本と、成長したポイント(1冊目)

第3章 読み手としての自分を成長させてくれた本と、成長したポイント(2冊目)

第4章 今後「自立した読み手」として読書にどんな価値を見出し、どんな読書生活を送っていきたいか


 このレポートの中で、生徒たちは次のような成長ポイントを挙げていました。


成長ポイント①〈読むことの価値に気づいた〉

  • 本を読むことで、人の気持ちを理解できるようになる、と気づいた

  • 本を読むことで、知らなかった世界に出会える、と気づいた

  • 本を読むことで、前向きな考え方ができるようになる、と気づいた


成長ポイント②〈読み方が上手になった〉

  • 人物同士の関係を整理して読めるようになった

  • 場面の展開についていけるようになった

  • 描写から想像して読めるようになった

  • タイトルの意味を考察できるようになった

  • 他の本に書かれている内容と比較しながら読めるようになった


成長ポイント③〈選書や読書習慣が良くなった〉

  • ノンフィクションも読むようになった

  • 長編小説を読み切れるようになった

  • 授業以外でも読むようになった

  • 自分で本屋に行くようになった

  • 友達が薦めてくれた本を読むようになった


 ある生徒のレポート全文を掲載します。


第1章 小学生時代の「読み手としての私」

 小学生時代、私は本に対していいイメージがありませんでした。読書は時間を取らないといけないので、面倒臭く、本を読むことのメリットは分かりませんでした。読むとしても、映画のノベライズ本ぐらいでした。

第2章 「読み手としての私」の成長(1冊目)

 知念実希人『祈りのカルテ』

 この本で私は知らないことを知る楽しさを知り、本を読む量が今までよりも十倍近く増えたきっかけになりました。例えば、この本は医療系のフィクションで病名が出てくるのですが、その中で「醜形恐怖症」という病気が挙げられています。「醜形恐怖症」は、日常に支障が出てしまう精神病の一つです。このような精神病は見た目だけの判断は難しいということを知りました。だから、知らず知らずのうちに見た目だけで判断してしまう私たちはもっと発言に気をつけるべきだと学びました。このように、知らないことを知る楽しさを知ったことで、今までよりも読む本やジャンルを増やすことができました。

第3章 「読み手としての私」の成長(3冊目)

 湊かなえ『母性』

 この本で、読んだ本について友達と話せるようになりました。この本は、娘を愛することができない母親と、母からの愛を求めて、愛されたいと願う娘のそれぞれの視点が描かれている物語です。友達とは、娘の視点のストーリーで共感し合うことができました。例えば、「無償の愛」についてです。「自分たちってやっぱり無償の愛が必要だよね」「愛がなかったら存在する意味を感じなくなっちゃうよね」と意見交換し合うことができました。このように、本は話すきっかけになることに気づきました。本さえあれば、相手の好みや人柄が分かるので、小学生の時には分からなかった、本を読むことのメリットを、この本で感じることができました。

第4章 「自立した読み手」として

 本を読むことの価値は、視野や考え方を広げることにあると思います。『祈りのカルテ 再会のセラピー』で知らないことを知る楽しさを知ったり、『母性』で友達と読んだ本について話せるようになったりしたことで、読む本が増え、その分作者の視点や考え方に触れることが多かったので、小学生のころの私と比べて、私自身の世界観が豊かになったと感じることができました。今後の「読むこと」との向き合い方は、今までのように楽しむために本を読むだけでなく、勉強するために本を読めるようになりたいので、本を買うときの選択肢にノンフィクションも入れられるようにしたいです。


 本を読むのが苦手な生徒も少なからずいましたが、全員がそれぞれに読むことの価値を見出し、自分にとって価値ある2冊の本を紹介してくれました。生徒たちの書いてくれたレポートは、日々迷いながら「読書家の時間」を実践している私の背中を力強く押してくれました。このレポートは下級生が読めるように図書館に掲示しています。そのようにして、先輩から後輩へ、読むことの価値と魅力的な本が伝えられていく文化を育んでいきたいと思っています。


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 生徒たちの成長ポイントと関連して、『「読む力」はこうしてつける』の第1章「読むとは」では、

   1 読むことが可能にしてくれることは?

   2 読むことを通じて身につけさせたいことは?

   3 そもそも、なぜ読むの?

   4 あなたによって「読む」とは?

の4つの切り口で、読むことを教える立場にある先生たちの考えをまとめていますのでご覧ください。