2016年9月16日金曜日

「わからないこと」に触れてわかる歓び

 『理解するってどういうこと?』をエリンさんが書くきっかけになったのは、小学校2年生のジャミカの、「でも、誰も、わかるってどういうことか教えてくれたことはなかったわ」という言葉でした(4ページ)。この発言の重みによろめいたエリンさんは「理解というのは、読み手が、筆者の意図したメッセージと自分がこれまで知っていることを結び付けて、自分なりの解釈をつくり出そうとするときに起こる」という考えは持っていましたが、それをジャミカに言っても納得は得られないと思い、それは言いませんでした。そのかわりに、その翌日から足を使って、ジャミカら子どもたちは日常的にどのような「理解」経験をしているのか(させられているのか)を調べます。エリンさんは、自分たちが教室でやっているのは子どもたちが「わかって」いたのかを「チェック」しているだけだ、ということに気づきます。理解するということの「子どもたちのなかに眠っている知的能力に見合った捉え直し」が必要だということに思い至るのです。
 ジャミカの爆弾のような発言に対するこのエリンさんの「初動」が、実はきわめて柔軟で大切な理解行為であると教えてくれたのが、尹雄大さんの『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社、2016年)でした。

・何かを見るとき、“それ”を見ているのではなく、“それと自分との関係”を見ている。そのため人は自分の見たいものを見たいようにしか見ていないのです。(107ページ)

 エリンさんがもし、ジャミカの言葉と自分(のこれまでの知識や体験)との関係だけにこだわっていたら、そもそもジャミカの言葉に打ちのめされることはなかったでしょう。その言葉を「わからないこと」として排除し、『理解するってどういうこと?』は書かれずに終わったかもしれません。「わかる」歓びの探求に向かうことはなかったはずです。
 尹さんは「明るさのもとでの理解を「認識」とするならば、光の届かない領域の知覚を「把握」と呼びたい」と言います。彼の言う「把握」とは「自分が移動して触れるという運動の中で『そのものが何であるか』を理解していく」ことで、「そこには正解はなく、ただ自分にとってそれがなんであるかを知る」ことです。自分にとってその対象が何であるかを、自分の体感を含めて「わかる」ということだと思います。

・「考える」ことを頭だけに任せ、ともかく答えを知ることに重きが置かれている時代です。誰もがそのようなやり方のみが「考えることだ」と思うのであれば、そこで出された答えは似たり寄ったりになってしまうでしょう。実際、頭では「多様性が大事だ」とわかっていても、いったん事が起きると、すぐに賛成か反対かと意見を割り切りたがる傾向があるようにも思います。
 だからこそ、わからないことを割り切ったり、別の考えに置き換えて済ますのではなく、わからないことがあったならば、早わかりをしてしまわない。結論めいた言葉を読み、自分の安心できる内容を確認して終わらせるのではなく、次のページをめくってみる。そうすることで初めて膝を打つような納得が訪れ「考える」ことが開始されるのではないでしょうか。こうした体験は情報や知識、概念を知るにとどまらない体の感覚を伴うだけに、「わかった」という頷きは深いところで生じるはずです。(『やわらかな言葉と体のレッスン』200ページ)

 私もこの原稿を書くために、先々週読み終わった『やわらかな言葉と体のレッスン』を引っ張り出して、既に印を付けた箇所を前後も含めて、初読では気にもとめていなかった箇所でも改めて重要だと思ったところにマーカーで印をつけたり、ノートに手書きで書き写したりしました。引用した箇所はそのうちのごく一部です。
 半ば強引に『理解するってどういうこと?』のエリンさんの言葉と尹さんの言葉を重ねてみるということも、尹さんの言う「自分が移動して触れる運動」の一つではないかと自分のやったことを勝手に意味づけています。

・わからないことを恐れ、闇を排除したくなるのは、それが言葉に、概念に置き換えられないからです。(180ページ)

・わからないことに恐怖するのは嘘ではない。けれども、わからないことに不安を感じつつも何があるかわからないことに期待や歓びを覚えるというのも確かです。(213ページ)

「わからないこと」「闇」を排除するのではなく、そのものに踏み込む勇気を持って「運動」することが「わかる」ことなのだということを二人の本は伝えてくれます。その行為が、私たちのなかに「眠っている知的能力」を引き出し、「わかる」という「歓び」をもたらしてくれるのだとも。尹さんが教えてくれた「自分が移動して触れるという運動の中で『そのものが何であるか』を理解していく」ことは、私たちが大切にしなくてはならない「理解の種類」の一つなのです。きっとそのことによって、自分のなかのそれまで見えていなかった部分に触れることができ、それがくっきりと見えるようになるという「宝物」が得られると思います。

 

2016年9月9日金曜日

【続】 (書くこと、読むことについて)たった一つのことしか、教えられないとすると?


 「読む場合、選書以外に大切なことは何でしょうか?」と、前回のRWWW便りに書かれていました。

  ここ2回のRWWW便りは、「(書くこと、読むことにおいて)たった一つのことしか教えられないとすると?」でしたが、「たった一つシリーズ(?)」でもう1回書きます。



1)  前回のRWWW便りで、書く題材の選択の大切さを読みながら、『ライティング・ワークショップ』(新評論、2007年)の本文最後のページで、この本の締め括りとして、ナスディジという作家の言葉が引用されていることを思いだしました。
 「私は言語使用に関する規則は知らないし、読点をどこに置くべきなのかも知らない。<中略>でも、書くときに自分の心をどこに置くのかを知っている」(156ページ)
 初めて『ライティング・ワークショップ』を読んだときは、どうして、この引用が最後に来たのか、どこか腑に落ちないところもありました。でも、WWやRWを学ぶなかで、「選択」があるから、書きたいことを掘り起こしたり、培ったりしながら、その人しか書けないものがかける、その価値を少しずつ理解できてきた気がします。

2) 「読む場合、選書以外に大切なことは何でしょうか?」という、前回のRWWW便りの問いですが、少し前までの私の答えは、「本に引き込まれること・反応すること」でした。

 それは『リーディング・ワークショップ』(2014年、新評論)の中の以下の文に、強い印象を受けたからです。

 「ここまでに、優れた読み手が習慣的に行っている読み方を子どもたちに見せるための多くの方法を提示しましたが、その中で最も大切なことを一つだけ取り上げるとすると、それは、その本に引き込まれているという見本を示すことです」(56ページ)

 本に引き込まれることは、今もとても大切に思っています。もっとも、私は、たまに降りる駅を乗り越してしまいますが(苦笑)。

 とはいえ、前々回のRWWW便りで「書くことについて、たった一つのことしか教えられないとすると?」を書いたあと、「リーディングでたった一つしか教えられないなら、『読者意識』」も悪くないかも?」と思い始めています。

 リーディングで読者意識?というのは、ヘン? どういうことなの?? と思われるかもしれません。


 読者意識というよりも、「誰のために、誰を意識して読むのか」、と言ったほうがいいのかもしれません。当然、「誰のために、誰を意識するのか」によって、読む目的も影響されますし、読み方も変わってきます。



 私の読書生活を振り返ると、「誰のために、どういう目的で、読むのか」によって、読み方を変えています。そして「読み方を変えることができる」というのは、かなりクリティカルが気がします。

 このことを考えさせてくれたのは、リーディングのカンファランスに特化した本で、誰のため(誰を意識して)に読むのかということについて、自分自身、自分と関係のある人、会うことのない人の3つに分けています。

①ですが、自分のために読むときは、自分が読み方を決めていくことが多いです。


にですが、たしかに少し考えてみると、ブッククラブの準備で読むとき、クラスメートに本を紹介するために読み直すとき等、読み方が変わります。

については、この本では、例として「テスト」を挙げています。テストの読み方が要求されるわけです。

  「誰」を意識することによって、読み方が変わることを子どもたちが意識できる、そして必要に応じて読み方を変えることができる、こんな、ある種の「読者意識」を持てることも、かなり大切な気がします。

*****

上で紹介した本は、Conferring: The Keystone of Reader's Workshopです。Patrick A. Allen著で、2009年にStenhouseから出版。 6275ページに、目的と読者(purpose and audience)について、詳しく説明されています。そして、それぞれの場合のカンファランスについても述べられてます。

 


2016年9月2日金曜日

読むことについて、たった一つのことしか教えられないとしたら?

前回のテーマは、「書くことについて、たった一つのことしか教えられないとしたら?」でした。

あなたは何を教えますか?

私も考えました。
そして、断然、「選題(書く題材)」についてだと思いました。

すでに、「読み直すこと」と「読者意識」が先週紹介されていますから、これで3つ目です。

ぜひ、あなたの選択を教えてください。
「多様さ」こそが、WWのいいところです。
作文教育には、この多様さがあるでしょうか?
自分が何を大切にするかを明確にすることは、とても重要です!

さらに、私は考えました。
先週の質問を「読むこと」に置き換えたらどうなるかな、と。

私の答えは同じでした。「選書」についてです。

選書と選題抜きでは、自立した読み手にも、自立した書き手にもなれないと思うからです。それがなければ、読むこと/書くこと自体も存在しませんし、読み続ける/書き続ける可能性も限りなくゼロに近くなってしまいます。
(ひょっとしたら、日本の読解教育と作文教育は、それをやり続けている??)

前回も登場していたNancie Atwellという先生は、WWRWの実践者で、それらの普及にアメリカで(というか英語圏で)火をつけた人の一人です。
彼女が、読むことを教える際に大切な3つのことをまとめてくれています。★

① 教室内にあるたくさんの本 ~ 教室のある充実した図書コーナーはRWの必需品です。その前提として、学校図書館が充実していることも。
② 子どもたちに読むものの選択を提供すること ~ 選択を提供しなければ、夢中で読みふける状態は得られません。夢中で読めれば、読解力も、読むことの面白さも、そして成績も自然についてきます。
③ 子どもたちを鼓舞する教師/教え方 ~ 日本のあちらこちらに充実した図書館はすでにありますが、子どもたちの読書量や読む力が向上しているという話はなかなか聞きません。(どちらかというと、それらが落ちているという話は聞きます。)
そこで、欠かせないのが読むことに情熱をもった教師の存在です。教え方で、いまあるベストはRWです。それは、上記の①もも含んだ教え方ですから(その意味では、教科書中心の教え方は、すでに無理なことを意味しています。選択を提供していませんから)。
 アットウェルさんは、マイクという中学校1年生の男の子の例を紹介してくれています。彼は、読むことにまったくの関心がなく、アットウェルさんの学校に入学してくる前の年は一冊も本を読まなかったし、読みのレベルも学年よりはるかに低いことがわかっていました。しかし、アットウェルさんはマイクの興味関心(スポーツ、コンピューター・ゲーム、ファンタジーなど)に応える形で、彼が自分にピッタリの本を選べるようにすることで(読みのレベルも乗り越えて)年間に36冊もの本を読めるようにしてしまったのです。それによって、彼の思考力、一般的な知識、共感能力等は伸び、誰もが認めるいい生徒にも、いい人間にもなったということです。

国語の授業で教師ががんばって「言語の技術」を教え続けることで、に書いたようなことのどれだけが得られているでしょうか? (教えているはずの「言語の技術」のどれだけが、身についているのかも検証が必要かもしれません。上で書いたようにを踏まえたなしでは、身につかないことがわかっているからです。)★★

それほど、選書(そして、書く場合は選題)が大切なのです。
そして、その後に書く場合は、「読み直すこと」や「読者意識」やその他のことが。
読む場合の、選書以外に大切なことは何でしょうか?



★★ ①~③について、詳しくは『リーディング・ワークショップ』と『読書家の時間』を参考にしてください。①と②については、上記の両方の本の第2章に、本の集め方なども含めて詳しく書いてあります。


2016年8月26日金曜日

書くことについて、たった一つのことしか、教えられないとすると?

 教えたいこと、教えなければいけないことは山のようにありますが、もし、上のように問われると、どうお答えになりますか?

 『ライティング・ワークショップ』(新評論、2007年)の著者は、もし書くことについて一項目しか教えることができないのであれば、「読み直すこと」を教えると言っています(89-90ページ)。

 もし、私が同じ問いを問われたら、「読者意識」と答えると思います。「読み直す」ことと密接につながっていますから。

 読者を意識するからこそ、読み直します。そして、読者が誰であるのかによって、読み直し方も、当然、変わってきます。

 ライティング・ワークショップでは、「出版」を「読者に向かっての作品の発信」ととらえ、いわゆる印刷物での出版だけでなくて、口頭での発表も含めています。また学校内外での「掲示」も「出版」に含まれています。

 『作家の時間』(新評論、2008年)の第8章は「出版」で、教室内外で、『作家の時間』の執筆メンバーが行った出版例が挙げられています。

 「みんなの前で読む」という出版に、クラス全体で取り組んだときの様子も説明されています(136-137ページ)。

 『作家の時間』8章では、いろいろな出版方法が紹介されていますが、そこから、以下、いくつかを紹介します(137-138ページ参照)。

 ✍ 隣のクラスに行って読む
 ✍ 保護者会で家の人への手紙を読む
 ✍ 校内放送(お昼の放送)で読む。
 ✍ 高学年の子どもが1年生の教室に行って読む。
 ✍ クリアーファイルにいれて、教室に掲示する。
 ✍ お薦めの本の紹介を掲示する。
 ✍ 掲示する図工の絵に話をつける。

 上にあるように、「中身」を本の紹介にすると、読み書きのつながりもでき、かつ、読者は、いい本を知ることもできますから、一石二鳥です。

 アメリカの優れた実践者アトウェル氏の学校の子どもたちも、しっかり「出版」をしています。アトウェル氏の本★の中では、17 もの出版方法をリストしています。

 幸い、この方法をすべて日本語でリストしてくれているブログがあります。「あすこま」さんのブログの「これだけある、アトウェルの『出版』の方法」です。以下のURLからぜひご覧ください。

http://askoma.info/2015/06/06/1119

 その中には、「質問状、お礼状、不満、葉書、ファンレター等々の通信の形(手紙)にする」というのも、ありましたが、そういえば『ライティング・ワークショップ』(88ページ)でも、 「おばあさんに手紙を書く」というのも、ありました。

 実際に子どものニーズと一致する(ちょうど、御礼状をかかないといけない等)ようにするのも、いいと思います。

 それ以外にも、『ライティング・ワークショップ』(88ページ)には、「ベビー・シッターをアルバイトでする人のための具体的なアドバイス」みたいなのもありました。

*****

  「読者意識」はライティングだけでなくて、リーディングでも重要です。つまり「誰のために読むのか」という点で、読み方も変わってきます。「テストの作成 者のために読む」のであれば、当然、テスト向きの読み方が必要になります。そんな視点を教えてくれた本★★も含めて、近日中 のRWWW便りに書ければと思っています。


★ Nancie Atwell 著 In the Middle: A Lifetime Learning about Writing, Reading, and Adolescents, third edition (Heinemannより2015年).


★★ Patrick A. Allen著のConferring: The Keystone of Reader's Workshop (Stenhouse より
2009年)










2016年8月19日金曜日

再読の楽しみ(そして再読を授業に取り入れる価値)

 ケストナーの『飛ぶ教室』を、数日前に町の図書館から借りてきて読みました。小学校高学年?向きの名作のようですが、実は初めて読みました。返却する前に、自分の好きな場面をもう一度読んでから返却したくなり、2か所ほど読み返しました。

 

 好きな本全体を再読する時もそうだと思いますが、ある本の好きな場面を再読しているときも、すでにストーリーが分かっているので、余裕をもって読めますし、1回目に読んだときに気付かなかったところに気づくこともあります。


 すでに自分が好きなことも分かっているので、安心できる、楽しい時間です。


 しかも、楽しみながら、しっかりある種の「反復練習」をしているわけですから、言葉の使い方なども定着していきます。文脈のないところで無理やりさせられるドリル的な反復練習よりは、はるかによいと思います。

 

 「再読」あるいは「読み返す」ことは、リーディング・ワークショップの授業では、友達に本を紹介する時に、とりあげられるトピックかもしれません。ただ、このときは「単純に再読を楽しむ」というよりは、「本を紹介するという目的で再読する」という感じだと思います。

 

(→ 少し話は逸れますが、友達に本を紹介/推薦をするために本を読み直す場合、紹介する側は「大切なところを見極める」「要点を確認する」「インパクトのある引用できそうな文を見つける」などの、目的をもった読み方の練習がしっかりできます。紹介される側は、いい本を知ることができ、かつ読んでみて分からなくなったときに、紹介者に質問することもできます。また「話す・聞く」という活動とも組み合わせることもできますから、本の紹介という活動自体、大きな価値があると思います。『読書家の時間』第7章「友達同士で読む」では、本の紹介文、カード、口頭での推薦等々の方法で、日本の教室での実践が具体的に載っていますのでご参照ください。)

 

 「本の紹介の準備をする」というミニ・レッスンはあっても、「単純に再読を楽しむ」というミニ・レッスンはあまりないのかもしれません。こんなに楽しい時間なのに!と思うと、なんだかもったいない気がします。
 
 もちろん、教室の中には、再読を楽しむというミニ・レッスンがあってもなくても、同じ本を何度も読む子どもも当然います。




 とはいえ、教師としては、あえて再読を奨励するよりも、「たくさん、どんどん読めるように、自分に合った本をみつけて、新しい本を読もう」と教えたくなることもあります。特に学年の初めの頃は、たとえば20分など一定時間一人読みができるように励ますようなミニ・レッスンもよく行われますし、クラスの状態を見ながら、クラスみんなで合計で読むページの目標を決める先生もいます。

 

 子どもたちの読む「量」(時間、ページ)が増えてくることは、とても嬉しいことですし、大切です。またその過程で、読むジャンルが広がっていくこともあります。


 同時に、読む時間や読むページを増やすことが順調にいき始めた時期は、量を強調することから少し離れて、たまには「再読の楽しさ」を伝えるのも一案です。

 

 夏休みもあと少し、「夏の間に読みたかった本、読まなければいけない本」のリストをちょっと横において、本棚あるいは図書館で、好きな本、好きな箇所を読み返す。ペナック先生の「読者の権利」10箇条★にも入っている「読み返す権利」を、教師もたまには謳歌するのも悪くないかもしれません。何よりもゆったりした楽しい時間ですから。


*****

 

★ ペナック先生の「読者の権利10ヶ条」はRWWW便りでも何度か紹介しています。一番最近ですと今年5月27日のRWWW便りのなかで少しでてきています。ちなみにその翌週の6月3日のRWWW便りでは「作者の権利10か条」についてです。「作者の権利10か条」は知人のブログで発見し、ブログ作成者の了承を得てRWWW便りで紹介させていただきました。作者つまり書き手の権利も、とてもいいなと思います。

さて私は『飛ぶ教室』の好きな場面を読み返したあとに、訳者(若松宣子、偕成社文庫版です)による解説を読み、『ケストナ― ナチスに抵抗し続けた作家』という伝記が出版されていること、ケストナー自身が『ファービアン』という風刺小説を出ていることを知り、新たに読んでみたい本が増えました。


またケストナーを少し検索していて、大昔に読んだ記憶のある、『点子ちゃんとアントン』もケストナーが著者だったということを知りました。読み返すことで、次に読む本への広がりも出てきますし、いつか再読してみたい本も出てきます。


余談ですが、 『飛ぶ教室』を図書館で借りたときに、ハリー・ポッター好きの家族のために、ハリー・ポッターに出てくる動物の本も借りて帰りました。すると、その動物の話が話題になるのですが、私はほとんど覚えていません。加齢(?)かもしれませんが、これだけ忘れることができるものだ、となんだか新鮮な(?)気持ちです。動物の名前は、ある意味、「新出単語」なので、新出単語定着という効果も再読にはあるようにも思います。



2016年8月13日土曜日

「そこにないもの」をみる力


 小学生の頃、水戸サツヱ著『幸島のサル』(もともと実業之日本社から出ていましたが、現在は鉱脈社の「みやざき21世紀文庫」の一冊)という本を読んで、宮崎県の幸島に暮らすサルたちの観察エピソードをとても興味深く読んだ覚えがあります。独自の「文化」を創造していくサルたちのエピソードがたくさん書かれていました。死んだ新生児がミイラ化するまでずっと抱えて過ごす母ザルの姿に強く感動したことを覚えています。砂浜に撒かれた餌を海水で洗って食べるサルたちや、やはり餌の芋を海水で洗って味をつけて食べるサルたちの姿も描かれていました。著者は、ニホンザルの生態を描きながら、人間のことを書いているのだと考えた記憶が残っています。
 松沢哲郎『想像するちから―チンパンジーが教えてくれた人間の心―』(岩波書店、2011年)も、そういう一冊です。
 チンパンジーに、チンパンジーの似顔絵を与えると、彼らはその輪郭をなぞる、と書かれています。では、3歳2ヶ月の人間の子どもにまったく同じことをするとどうなるか。人間の子どもはその似顔絵にないものを描き入れるというのです。目を描き入れると。松沢さんは「たぶん、チンパンジーはそこにあるものを見ている。一方、人間はそこにないものを考える」(179ページ)と解釈しています。また、急性脊髄炎になって首から下が麻痺し、寝たきりになっても「めげた様子が全然ない」チンパンジー・レオのことを思い出しながら、松沢さんは次のような考察を展開します。

今ここの世界を生きているから、チンパンジーは絶望しない。「自分はどうなってしまうんだろう」とは考えない。たぶん、明日のことさえ思い煩ってはいないようだ。
 それに対して人間は容易に絶望してしまう。でも、絶望するのと同じ能力、その未来を想像するという能力があるから、人間は希望をもてる。どんな過酷な状況のなかでも、希望をもてる。
 人間とは何か。それは想像するちから。想像するちからを駆使して、希望をもてるのが人間だと思う。(180ページ)

 この「想像するちから」こそ、理解の源ではないでしょうか。松沢さんによれば、それは「絶望するのと同じ能力」でもあります。「そこにないもの」をみる「想像するちから」を持つゆえに、人間は、過去の学習体験から得た情報をすでにもっている知識つきあわせ、それを新しい知識に変えていくことができ、明確に書かれたり、話されたり、示されていないことを推測することができるのです。「想像するちから」があるから、詳しくイメージを描きながら文章や絵のなかに浸ることができるし、考えや解釈が変わる過程を捉えたり、自分の理解内容をチェックして、修正したりしながら意味をつくり出すことができるのでしょう。『理解するってどういうこと?』「資料A」に示されている「理解するための方法」はまさに「想像するちから」のもたらすものだと思います。
 もう一つ。チンパンジーと人間との「大きな違い」について、松沢さんが言っている次のようなことも心に残りました。

 チンパンジー流の教育がわかると、人間の特徴もはっきり見えてくる。
 一番目は、教えるということ。チンパンジーは教えない。
 でも、その「教える」の一歩手前に、人間は「手を添える」ということをする。これが二番目の特徴だ。人間だったら、ちょっと手を取って、「こうやって割るんだよ」とか、「この種がおいしいよ」「こっちの石のほうがいいんだよ」とか、さらにはもっとかすかに、手の位置を修正したり、指さし位置を示したりするだろう。チンパンジーはそれをしない。
 その「手を添える」ということの、さらに一歩手間に、これはほんとうに人間しかない三番目の特徴として、「認める」というものがある。具体的にいえば、「うなずく」「微笑む」「ほめる」。チンパンジーのお母さんは、そんなことはしない。チンパンジーはうなずかない。(140ページ)

 考えてみれば、理解することを教えるときに効果的な方法である、「考え聞かせをする」「モデルで示す」「実演してみせる」「カンファランスをする」「共有する」(『理解するってどういうこと?』「資料C」「理解することを教えるときに効果的な方法」)は「手を添える」ことの多彩なありようです。また、「認める」ということは、617日の「『共感』という宝物」で取り上げたフランス・デュ・ヴァールの『共感の時代へ』では、人間が生まれながらにして手に入れている一番大切な「道具」とは「他者とつながりを持ち、他者を理解し、相手の立場に立つ能力」としての「共感」能力だとされていましたが、松沢さんの指摘する「認める」は、その根にあたるものです。
 「認める」「手を添える」「教える」―――理解するとはどういうことかを子どもと一緒に考え、「そこにないもの」をみる力を育てていくために大切なことです。

2016年8月5日金曜日

書くことの日常化


 先週の書き込みとの関連で、一緒に『読書家の時間』を書いた都丸さんのブログから紹介します。

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『文章のみがき方』(辰野和男、岩波新書) にこんなことが書いてあった。
「日々、たゆまずに書く。そのうちにはきっとあなた自身の文章が形をなしてゆくはずです。毎日の素振りをせず、いくら野球の解説書を読んでも、野球がうまくなるはずはありません。日記は、野球でいう素振りでしょう。」 7ページより引用

「毎日書く」ことが大切だと思い、20111219日から日記を書き始めた。
2016
7月現在まで続いているので、書き続けることの効果もそれなりに実感している。
その日の欄をうめなくてはならないという義務感も少々。

日記に何を書いているかというと

・仕事のこと(進捗状況やふり返りなど)
・その日に発見したこと
・食べた物
・旅行の記録
・体重
・自分にとって大切な情報
・読んだ本/読みたい本
・失敗談(次にどう生かすか)
・感謝の言葉
・買った物
・家族のこと
・大切だと思った言葉
・野球やスキーのこと(趣味)
・作文教育と読書教育のこと
・社会の出来事

実感している日記の効果
・体重のコントロールができるようになった。
・「書くこと」への抵抗感が大幅に少なくなった。
 (小学生の頃は作文大嫌い、読書大好きな子どもであった。)
・読み返すことで、新たな気付きを得ることがある。
・「締め切りギリギリの働き方」が改善された(計画的に働けるようになった)
・自分の成長に気付き、前向きな気持ちになれる。
・自分を励ます格言集ができる。

先日、日記を読み返していたら「書くことの日常化」に関する大切なメモを発見。
「書くことの日常化」は自分自身にとても役立っている。

Nobody has time to write, but writers find the time to write.
Never a day without a line. The writing muscle must be exercised.
・大きな原稿は小さく区切って書く。
・「1日400字は書く」と決める。
・下書きと友達になる。
Writing is not apart from living.
You won't know what you have to say until you write.
Writing comes from paying attention.

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実感している日記の効果」を中心に、上を読んだら、「書くことの日常化」はとても大切なことと思えてきましたか?★

ちなみに、都丸さんは日記とアイディア用ノート(=作家ノート)の両方を書いています。

日記用とアイディア用ノートを常に持ち歩いています。日記のほうがよく読み直すので、大切だと判断したことはなるべく日記ノートに書くようにしています。日記ノートは、見開きの左側が1週間の記録、右側がメモできるページになっています。
日記は、その日の枠が決まっているので、書くべきことを選んで短く書く。
作家ノートは、アイディアや引用したい文章などを制限なく書く。最近だと短歌にはまっているので、短歌になりそうな気付きや短歌の下書きを書くことにも使っています。



★ そういう私も、15~30歳までの15年間、日記を毎日書き続けた経験があります。それ以降は、アイディア・ノートに切り替わりました。ここ7~8年ぐらいは、それもパソコンに転換しています。媒体が変わることは、イコール目的も変わっています。