動画もあるしゲームもあるのに、どうして紙の「本」を読む必要があるのか? 読書することの何がいいのか? ―――このように質問されると、考え込んでしまってなかなかうまく答えられません。いいものだから黙って読めばいいのだという類の回答では質問者は納得してくれないでしょう。
難波優輝さんの『本とは何か』(新潮新書、2026年)には冒頭の二つの質問に答えるための大切な考え方が示されています。難波さんは「私たちが本を読む、ということは、本で何かパフォーマンスしている、ということだ」と書いています。読書をパフォーマンスとして捉えると「本」や「読書」のどのようなよさが見えてくるのでしょうか。
『本とは何か』には「物語」「人文書」「ハウツー本」「雑誌」「マンガ」「楽譜とレシピ」など様々なジャンルの「本」を読むことの特徴が細やかに分析されていきます。たとえば「ハウツー本」や「自己啓発本」を読む場合、それは「自分で読み進めている」という感覚が得られることが重要だと難波さんは言っています。
「他でもない私が本を手にとって読み進めている。その自己コントロール感覚は、自己啓発の際にはよい気分にさせてくれるはずだ。動画を流しているときは、音声や映像が流れていってしまう。それらは「良い言葉」であるのだが、私がパフォーマンスすることで出現する言葉ではない。それらは過ぎ去る。私が本の文字列を追うとき、私がその言葉をパフォーマンスする。それゆえ、自己啓発書が本であることによって生まれるのは、読者の自己効力観のようなものであるかもしれない。」(『本とは何か』93ページ)
たとえば、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)を読んでいる私は、この本に書かれていることをただなぞっていくだけでなく、自分の頭のなかで納得しながら読んで、コモン君の言動を自分にあてはめながら考えていました。これは自分でこの本のページをめくりながら読むことで起こることです。
難波さんはその時の「読書する姿勢」に注目します。
「セザンヌの「読書をする女性」が私は好きだ。これらは、読書の深さ、沈思黙考する人々の姿を描く。その顔はうつむいている。「うつむく」という姿勢に注目しよう。スマホをみているときの姿勢とも、ディスプレイをみているときとも違う、このうつむくという姿勢は、ことのほか、重要である。この姿勢は外界を遮断する。話しかけにくさがある。自分自身も、没入できる感覚がある。そして、何かを深く考えているような、日常の動作とは少し切り離された雰囲気がある。」(『本とは何か』94ページ)
セザンヌの絵はネットで検索するとすぐに見ることができます。山陽本線の電車のなかで『君たちはどう生きるか』を読んでいる私の姿も、外から眺めると「何か深く考えているような、日常の動作とは少し切り離された雰囲気」をもつ姿であったと思います(それに注目する人はいなかったと思いますが)。セザンヌだけでなく、ルノアールやマネやマティスや黒田清輝、浅井忠など、高名な画家たちが、女性たちの「読書する姿勢」を描いた絵を残していることは、本を読む人間のその読書パフォーマンスの姿が独特の「雰囲気」を醸し出すことに気づいていたと言うことができるでしょう。読書に没頭する姿はまさしく「絵になる」というわけです。そしてこの「孤独性」はインタラクティブですぐに反応が返ってくる「ゲーム」では得られないものだと難波さんは言っています。
「本の良さは、「孤独性」にある。本は開くと雄弁に語りかけできて、いろいろ命令をしたりして騒がしいけれど、それをすぐに黙らせることもできる。あるいは、本は行為してくるけれど、ゲームのようにはインタラクティブではないし、書き手は遠い場所にいる。この迂遠さ、この本の孤独さ、綴じている=閉じていることは、とてもユニークな経験を与えてくれる。」(『本とは何か』102ページ)
「綴じている=綴じている」からこそ、「読書パフォーマンス」は「ユニークな経験」をもたらすのですが、それは読者一人ひとり異なるものです。何が書いてあったかという質問の答えには共通性があるかもしれませんが、どのように読んだかという質問の答えはむしろ違ってくる。そこに「読書」を「パフォーマンス」と捉えることの意義があります。
「他人の感想や解釈をよむとき、私たちは「その人がどう読んだか」というパフォーマンスに注意を向けているのだ。ふだん、自分の読書については「作品を読んだな」しか意識できない。しかし他人の読書となると、私たちは自然と「パフォーマンスの仕方」に注意を向けられる。「え、そんなふうに読んだの!」と驚くことも何度かあったはずだ。つまり、自分自身の読書ではくっついてしまっている「作品」と「パフォーマンス」が、他人の読書パフォーマンスに出会うことで分離されるのだ。(中略)自分一人では見逃していた読書パフォーマンスの可能性を、他人を通して初めて実感できる。だからこそ、私たちは書評を読み、読書会に参加し、友人と感想を語り合うのだ。それゆえ、読書の後の様々な場面での語り合いというのは、たんなるおまけではなく、読書パフォーマンスにとって根本的な営みであり、本を読む楽しみの根源にあるもののようにも思える。」(『本とは何か』35~36ページ)
一人で本や文章を読んでいる時には自分の読み方にどのような特徴があるのかということを意識することはまずありません。その「本や文章」の内容を追いかけているのだと思い込んでいます。難波さんの言葉を借りて言えば、それは「本や文章」(難波さんは「作品」と言っています)と自らの読む「パフォーマンス」が「くっついて」いる状態だということになります。「本や文章」を読んでいる私がある方向で意味づけをしながら読み進めているわけですから、当然それは「本や文章」そのものではありません。「本や文章」を読む私の「パフォーマンス」を分離するようなことはしていません。
複数の読者が他の人の読みや解釈を知る機会を設けることができれば、難波さんの言う「作品」と「パフォーマンス」を分離することができるのかもしれません。『理解するってどういうこと?』の第4章の表4・1には「理解のための方法と得られる成果」、あるワークショップでの「私たちは理解することにどのように取り組んでいるか」というエリンさんの質問に対して参加者が答えてくれた「理解のプロセス」と「理解の成果」がわかりやすくまとめられています(『理解するってどういうこと?』140~141ページ)。「理解のプロセス」に書かれていることは「読書パフォーマンス」を言葉にしたもので、「理解の成果」はそれが自分にもたらした「いいこと」です。各自の「読書パフォーマンス」はお互いに話をすれば明らかになるのです。そしてその時に自分が使ったツール(理解するための方法)はどのようなものであったかということを共有することができれば、「自分自身の読書ではくっついてしまっている「作品」と「パフォーマンス」が、他人の読書パフォーマンスに出会うことで分離される」という経験をすることができるのです。こうしたことが本を読むことの新しい喜びをもたらしてくれるのだと思います。それが、なぜ人は本を読むのかという大切な質問に対する答えを見つけることにつながるのです。
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