2022年5月27日金曜日

授業に生徒が夢中で取り組むとは

 エンゲイジメントは、まだ聞きなれない言葉だと思います。

 一般的には「関与」「参加」と訳されますが、そんなレベルではありません。

 姉妹ブログの「PLC便り」で取り上げたことがあります。

 https://projectbetterschool.blogspot.com/2015/03/blog-post_15.html

 アメリカでも、エンゲイジメントは、次のような状況でした。

 「2、30年前、エンゲイジメントという言葉が学会の分科会や専門書のタイトル、そして多くの教室で使われることはありませんでした。なぜなら、教師は教え、生徒はその指導に従う、「それが授業だ」という考え方だったからです。もし、エンゲイジメントがその枠組みの一部であるならば、それに越したことはない、という程度でした。勤勉で従順な生徒は、一般的に単位を取るために苦労をしません。もし、単位を取れない生徒がいれば、教師は生徒のせいにするだけでよかったのです。」(リリア・レント著『教科書をハックする』の39ページより。原書が出版されたのは2013年なので、最初の「2、30年」は、今なら「3、40年前」にする必要あり。ここ、20年ぐらい、「エンゲイジメント」は英語圏でキーワードになっています。それなしに生徒たちはまともに学べない、ということで。さらにここ10年ぐらいは、それをはるかに越えた生徒を「エンパワーメント」する学びの模索が重視されるようになっています。そして、「エンゲイジメント」は必要最低限と捉えられるようになっています。)

「生徒が夢中になって学んでいる教室では、エネルギーを感じることができます。そのような授業では、めったに教科書が学びの中心にはなっていません。その代わり、理解を求める生徒は、教科書の中身をカバーすることではなく、探究のプロセスを大切にします。教科書やインターネットは必要な要素ですが、夢中になって取り組む学び手がいなければ何の役にも立ちません。」(前掲『教科書をハックする』の41ページ)

「現実では、あまりにも多くの生徒が知りたいと思う気持ちもなしに教科書を読んでいます。彼らは、教師を満足させるために、あるいはワークシートの空欄を埋めるために必要な情報を見つけては次のページへと移り、やる気がなく、中身がつまらないことを確信するだけなのです。

それでは、いったいどうすれば、教室の中で明るく火花が飛ぶように学びへの好奇心に火をつけることができるのでしょうか? さらに大切なこととして、生徒が自分には関係ないと思ったり、退屈に感じたりする教科書やほかの教材にどうすれば夢中にさせることができるのでしょうか? 簡単な答えはありませんが、「夢中になって読むのを可能にするジョン・ガスリーのモデル」は最初の大切なスタート地点になります。それを示した【表1-1】を見てください。」(前掲『教科書をハックする』の42ページ)

 この表には、読む指導を夢中で取り組めるようにするためのヒントが満載ですので(もちろん、「書くこと」にも、「聞く・話す」にも、さらには他教科にも応用できます!)、一つひとつの項目をぜひじっくり読んで自分のものにしてください。

  たとえば、2つ目の項目の「コントロールと選択を生徒に提供する」を、あなたはどのくらいすでにやれていますか?

 与えられたもの(教科書)を与えられた方法で学ぶだけでは、オウナーシップ(その学びが自分のものと思える意識)は得られず、教師に「お付き合い」をしているだけです。

 具体的な方法として、次の4つが提案されています。

1番目は、どう学ぶかの選択肢を、生徒たちに提供する

2番目は、何を学ぶかの選択/判断に、生徒が参加する

3番目は、自分が何を知ったり、できるようになったりしたことを表現する方法の選択肢を提供する(従って、もはやテストだけではないことを意味します)。

そして4番目は、探究学習=プロジェクト学習を実践する

 1番目には、、マイク・エンダーソン著『教育のプロがすすめる選択する学び』が、4番目には、https://wwletter.blogspot.com/2021/08/wwrw.html が参考になります。

  4番目と5番目の「自己効力感」と「興味関心」は、教師ないし教科書会社が一方的にいいと思って生徒全員に押し付ける教材が、一人ひとりの生徒の「能力」や「興味関心」に合っていることは考えられないので、こここそが教師の出番になります。1番目の項目の習得目標とこれら二つをマッチングさせられる存在は、教師しかいませんから。ここで威力を発揮するのが「見取りと子ども理解」です。https://projectbetterschool.blogspot.com/2022/05/blog-post_22.html

 生徒たちがエンゲイジする(夢中で取り組む)授業に挑戦されたい方は、ぜひこの表を自分のものにしてください。疑問質問がありましたら(あるいは、実践紹介できる方は)、pro.workshop@gmail.comにご一報ください。


2022年5月21日土曜日

道に迷うことの意味

 

道に迷うことの意味

 

 『理解するってどういうこと?』の第9章でエリンさんは「感情と記憶」という理解の種類について次のように書いています。

 ・感情的な関連づけがおこなわれると、理解は豊かなものとなる。私たちは美しいと感じることを再度体験したくなり、学習に喜びが含まれているとよりよく理解できる。創造的な活動をするなかで、私たちは光り輝くもの、記憶に残るもの、他の人たちに意味のあるものをつくろうとする。最終的に、私たちがしっかり考えて発見したことは強力で、長持ちするものとなる。こうして、記憶に残る。(『理解するってどういうこと?』339ページ)

  そして「私たちは、人々が自らの学んだことに感情的な結びつきを作った場合に、学んだことを理解し、記憶し、他の場面で応用できるようになるということを知っています」とも言っています(『理解するってどういうこと?』342ページ)。このような「感情的な関連づけ」「感情的な結びつき」はどのように生じるのでしょうか。それはむしろ、自分にとって既知のことがらのあたらしい意味を発見して心が揺さぶられる経験のことを言っているように思われます。

マイケル・ボンド著(竹内和世訳)『失われゆく我々の内なる地図―空間認知の隠れた役割―』(白揚社、2022年)という本を読んでそのことを思わざるを得ませんでした。この本の原著タイトルはWayfinding。「道を見つける力」という日本語で訳すことができます。「空間アプローチ」と「自己中心アプローチ」という二つの認知的アプローチの話が出てきますが、ここの部分でわたくしはこの著者が「理解」のことを扱っているのだと思いました。

  ありがたいことに人間は、どんな人工システムと比べても計り知れないほど複雑で、有能な脳内ナビを備えている。ではどうやって私たちはそれを使うのか?

 心理学者によると、不慣れな土地で道を見つけるとき、人は次の二つの戦略のうちどちらかをとるという。すべてのことを空間の中の自分の位置と関連づける「自己中心的」アプローチか、それともランドスケープの特徴に頼り、ランドスケープ同士の関係を見て自分の位置を知るという「空間」アプローチのいずれかだ。自己中心的アプローチは、一連の指示に従うような感じである――いくつ道路を渡れば目的の交差点に出て、その後、左右どちらに曲がるか? 一方、空間アプローチのほうは、鳥の視点をとる必要がある――あの丘から見て、私の家はどこにあるのか? 南に向かうべきか、それとも西に? 自己中心的アプローチはいわば自分の勘に頼り、空間アプローチは全体像から考える。(『失われゆく我々の内なる地図』134-135ページ)

  「不慣れな土地」での道を見つけるときにここで言われている二つのアプローチは誰しもがとるものではないでしょうか。そして、「自己中心的アプローチ」が「自分の勘」に頼るもので、「空間アプローチ」が「全体像」から考えるためのものだと考えれば、私たちにとって「空間アプローチ」が非常に重要だということになります。

  ひとつの空間スキルに熟達していても、必ずしもほかの技能にもすぐれているとは限らない。イケアの家具を組み立てるのがとても上手でも、方向感覚が劣っていることもありうる。ただそうは言っても、ナビゲーションに熟練している人はどの空間的なタスクも巧みにこなせるという傾向はある。彼らは周囲の環境に注意を払い、適切な時に決定を下す。前に言ったことのある場所を、違った視点からでも認識することができ、しかもおおむね視点取得が得意である。彼らはすぐれた作業記憶を持ち、どのくらい遠くまで来たか、何回曲がったか、さらにランドマークの位置も覚えていられる。詳しい空間情報が処理される脳の領域である海馬も、平均より大きい。彼らは、いわゆる「場独立」のテストで高い成績を収める。このテストは大きくて複雑な形の中に単純な形をどれほど簡単に見つけられるかを測るもので、ランドマークや道などの特徴をメンタルマップの中にまとめあげるのに役立つスキルである。彼らはまた、ナビゲーションをする際に、鳥の目で見る空間アプローチと、ルートに基づく自己中心的アプローチの両方を使うのがうまく、またそのふたつをいつ切り替えるかよく分かっている。(『失われゆく我々の内なる地図』153-154ページ)

  「鳥の目で見る空間アプローチ」と「ルートに基づく自己中心的アプローチ」のあれかこれかではなくて、この両者をどのように切り替えるかが大切なことなのです。これは経験的にはよくわかります。そしてなにごとかを理解しようとするときに私たちの頭のなかで起こっていることでもあります。

では道を見つけるときに私たちには何が大切なのでしょうか。「発達性地理的見当識障害(DTD)」についての研究をふまえて、ボンドは次のようにも言っています。

 海馬の空間記憶がどれほど正確であっても、前頭前皮質の意思決定がどれほど効率的であっても、もしくは自己中心的な座標系をより広い世界へつなげる脳梁膨大後部皮質の機能がいかにすぐれていても、もしそれらがひとつのネットワークとして機能しなければ、私たちはどこにも行き着くことはできないのだ。(『失われゆく我々の内なる地図』288ページ)

  「海馬」「前頭前皮質」「脳梁膨大後部皮質」…私たちの脳の部位をあらわす言葉ですが、それぞれの働きが関連しなければ、私たちには道がわからないというのです。その「ネットワーク」が欠けているために自分がどこにいるかわからないというのが「DTD」の特徴です。逆に考えれば、その「ネットワーク」が欠けているからこそ、それを探そうとするわけです。だからこそ「道に迷う」わけです。

 では「道に迷った」とき私たちはどうするか。本書後半には「認知症患者の空間行動」の研究が取り上げられていますが、「介護施設」での入所者の行動分析を行ったいくつかの研究からボンドは次のように言っています。

 ミツバチが蜜を探すように、彼女は手がかりから手がかりへとダンスをする。人々がルートを知らないときに旅をするやりかたと似ていなくもない。分からなくなるたびに、馴染みのあるものを探して進むのだ。(『失われゆく我々の内なる地図』297ページ)

 自分が完全に世界を理解していないとき、そこを探求するのは――そう、自分がまだ見つけていないものを探すのは――理にかなっている。トールキンが『指輪物語』で私たちに思い出させてくれたように、「さまよう人のすべてが迷っているわけではない」。(『失われゆく我々の内なる地図』298ページ)

  「道に迷う」ことは実のところ「自分がまだ見つけていないものを探す」営みであって、そのこと自体が生きている証なのかもしれません。逆に、GPSなどの道に迷うことのないようにするテクノロジーは私たちに何をもたらすのか。本書の終わり近くでボンドは次のように述べます。

 GPSによって、いっさい道に迷わないということもあり得るようになった。人によっては魅力的に聞こえるだろう。だが必ずしもそれは、想像するほど魅力的なものではないかもしれない。常に地理的に間違うことのない世界に生きるとき、私たちは自分というもののいくらかを、成長の可能性のいくらかを失う。レベッカ・ソルニットは著書『迷うことについて』で、確実性と知らないということについて熟考し、こう言っている。「決して迷わないというのは生きていることにはならない。どうやって迷うかを知らなければ、破滅が待っている。発見に満ちた人生は、未知の土地のどこか、その中間に横たわっている」。続けて彼女はヘンリー・デイビッド・ソローの文章を引用する。ウォールデンの池のほとりに彼が建てた小屋での二年間は、「思慮深く」生き、「人生のすべての真髄をすすりとろう」とする試みだった。「道に迷って初めて」と彼は言った――「つまり世界を失って初めて私たちは自分を発見し始め、自分がどこにいるのか、そして私たちと世界とのかかわりの持つ無限の広がりを認識できる」。(『失われゆく我々の内なる地図』304ページ)

 ここではレベッカ・ソルニットと彼女が引用するヘンリー・ソローの言葉が引かれています。引用に次ぐ引用となりますが、それだけに「道に迷うこと」が人間にもたらす可能性についての思考の系譜を見る思いがします。それは、迷いながら「自分がまだ見つけていないものを探す」ということが、理解の種類の一つであることを物語ってもいるのです。道に迷いながら「自分がまだ見つけていないものを探す」過程で、既知のことがらのあたらしい意味を発見することになるからです。そのとき、理解しようとする人の頭のなかに「鳥の目で見る空間アプローチ」と「ルートに基づく自己中心的アプローチ」とのネットワークが築かれ、自分が「いま・ここ」にいるという認識がうまれ、強い「感情的な関連づけ」がひき起こされるのだと思われます。

2022年5月14日土曜日

(副題も含めた)題名のミニ・レッスン

 少し前に、中学生の教室でよく読まれた本や中学生におすすめの本を、中学校での教職経験のある先生方や司書の方にたくさん教えていただきました。知らない本のオンパレードだったこともあり、たくさんの題名を見ている間に、題名のミニ・レッスンについて考えてみたくなりました。

 まずは「副題のミニ・レッスン」です。『スマイル!』『祈り』『世界を信じるためのメソッド』『勇者はなぜ、逃げ切れなかったのか』『釜石の奇跡』。こういう題名を見ると、皆さんはどういう本を想像されますか? これらを副題つきにすると、以下のようになります。

『スマイル! ――笑顔と出会った自転車地球一周157ヵ国、155,502km』(小口良平、河出書房新社、2017年)

『祈り――忘れるな拉致――報道写真集』(新潟日報社、2020年)

『世界を信じるためのメソッド――ぼくらの時代のメディア・リテラシー』(森達也、理論社, 2006年)

『勇者はなぜ、逃げ切れなかったのか――歴史から考えよう「災害を生きぬく未来」』田所真、くもん出版、2016年

『釜石の奇跡――どんな防災教育が子どもの"いのち"を救えるのか?』(NHKスペシャル取材班、イースト・プレス、2015年)

 「釜石」と見て、サッカーを思い出した私は、『釜石の奇跡』は「スポーツ感動もの」だと思ったので、副題を見て、自分の的外れさに苦笑です。

 考えてみると、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ、新潮社、2021年)も、印象に残る題名ですが、ここからだけでは内容の見当はつきにくいです。この本に副題はあったのかな?と思って表紙を見ると、英語で小さ目の字で The Real British Secondary School Daysと書かれています。異なる言語で書き足すという方法があるのも学べます。

 ここまでに挙げた本は全てノンフィクション系の本ですから、「副題」を扱うのは、ノンフィクションの導入のときのミニ・レッスンでもいいのかもしれません。特にノンフィクションを書きたい子どもには、「副題とのコラボとその方法」は、自分が使える技の引き出しに入れておきたい一つのようにも思います。

 他方、フィクションの場合は、ノンフィクション系と比較すると、副題があるものは少ない印象を受けました。そこで、「気になった題名で著者が行っていること」を考えてみました。

 今回、教えていただいた多くの本を見ていて、一番、印象に残った題名は以下です。

 『か「」く「」し「」ご「」と「』(住野よる、新潮社、2017年)

 「 」を使われていることから、「句読法で工夫する」という方法にも目が向きます。

 子どもたちに、題名を分析してもらうと、いろいろと工夫のポイントが出てきそうですが、私も著者の行っている工夫を、もう少し考えてみました。

 ・よくある日本語の単語をカタカナにする 

(例) 『キケン』(有川浩、新潮社、2010年)

→ アマゾンで検索すると、略称「機研(キケン)」=危険、という紹介が書かれていたので、(カタカナのように)音だけにすると、複数の異なる漢字を示唆することができるのがわかります。

 ・一見マッチしない言葉を組み合わせる。

(例)『少年アリス』(長野まゆみ、河出書房新社、1989年)

『ミッキーマウスの憂鬱』(松岡圭祐、新潮社、2005年)

→ 少年とアリス? ミッキーマウスはハッピーなイメージなのに? と興味を惹かれました。

*****

 「どうやって選書をするの?」と学習者に聞くと、選書方法として「題名」がよく入ってきます。私自身は題名だけで選書することは少なく、「作家読み」か「人のお薦め」が多いです。とはいえ、気になった題名から検索すると、カスタマー・レビューが読めますので、助けになります。

 そして、「あ、これは素敵な題名だけど、自分には合わないジャンルや自分にはおそらく楽しめない本だ」と思うこともあります。それはそれで「あり」というか、教師が図書コーナーやおすすめ本を全て読まないといけない、いうことではありません。

 実際、優れた実践者のアトウェル氏は、ブックトークについて説明している箇所で以下のように言っています。

 「まだ私が読んでいない新しい本について、購入した理由、受賞歴、書評、同じ作家の他の本、本に印刷されている紹介や国会図書館のサマリーなどを読み上げる時もあります。そして、この本を一番に読みたい人がいないかを尋ねます。読んでみて、高く評価できれば、ブックトークするようにとも言い添えます。また私が苦手な、ファンタジーやサイエンス・フィクションの本については、そのジャンルが好きな生徒に渡して目を通すように頼みます」(『イン・ザ・ミドル』144ページ)

 『読書家の時間』では、教師は自分が読んでいない本でもカンファランスができることが書かれています(2014年版でも、今年6月下旬に刊行予定の改訂版でもこの部分は同じ内容です)。「カンファランス」という章の中に「教師が読んでいない本でもカンファランスはできる」というセクションがあり、以下のように書かれています。

 もし、子どもたちが読んでいる本の内容を正しく理解しているかどうかを確認するためにカンファランスを行うとするならば、教師は子どもたちの読んでいるすべての本に目を通し、その全てについて「正しい理解」ができていないとカンファランスを行うことはできません。

 <略>

 多くの教師が、子どもたちの成長を可能な限り最大限に引き出したいと考えているはずです。にもかかわらず、教師の知っている本や教材しか読ませないとするならば、子どもたちは狭い籠で育てられた鳥のように、大空を知ることなく1年間を過ごすことになります。<略>このようなことにならないためにも、読んでいない本でもカンファランスを行っていくようにしましょう。(『読書家の時間』104〜105ページ)

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 子どもたちが大空を知る鳥のように羽ばたけるためにも、おすすめ本リストは教師と子どもの強力なサポーターになりそうです。

2022年5月6日金曜日

新しい目で世界を見るための本

 数年前まで、国立系の中高一貫校で教えていて、いまは本文中にもある軽井沢風越学園で国語を教えている澤田先生が『見て・考えて・描く 自然探究ノート ~ ネイチャー・ジャーナリング』の書評を書いてくれたので紹介します。

 より良い文章の書き手とは、より良く世界を見る人のことである。その思いを強めたきっかけの一つは、現任校である軽井沢風越学園の同僚たちの書く文章だった。

 軽井沢風越学園は、長野県の軽井沢にある幼稚園・小学校・中学校の「混在」校である。「混在」しているのは子どもたちだけでない。大人のスタッフも同様で、多くの現場から同僚が集まる。小学校の教員をしていた人、野外保育の実践を重ねてきた人、森のガイドをしていた人、僕のように中学校や高校から集まってきた人、デザイナー、放送局出身の人…。そうした多様な同僚との関わりの中で、内心ひそかに驚いていたことがあった。野外保育など、自然をフィールドとして長く働いてきた同僚たちの書く文章が、とても魅力的なのだ。彼らの書く文章のなかでは、人や木々や生き物が活き活きと動く。昨日とは違う今日の太陽の日差し、森の中でうごきはじめる小さな生き物、子どもたち同士の遊ぶ姿。そういう風景から、彼らは背後にある意味を見出し、物語を紡いでいく。優れた書き手は、世界をより良く見ることを通して、そこに新たな意味を創り出していくのだ。それは、僕のような凡百の書き手にとっては、うっとりしてしまう書きぶりだった。

 しかし、ジョン・ミューア・ロウズ『見て・考えて・描く 自然探究ノート』を読むと、神業のような彼らの「世界を見る目」にも、熟達の道があったのではないかと思わされる。というのも、本書は、世界をより良く見るための、極めて具体的なネイチャー・ジャーナリングの手引書だからである。僕は初めて知った言葉なのだが、ネイチャー・ジャーナリングとは、ナチュラリストと呼ばれる人々が用いる自然観察の方法だという。ナチュラリストは、理論や概念からではなく、実際に自分の眼で捉えるところから世界を捉えようとする。そのため、生き物、樹木、岩、水、風景などの自然を、先入観を排して分析的に観察し、記録し、思考していく。

本書の特長は、ネイチャー・ジャーナリングの方針とノートの詳細な具体例が、豊富に示されていることにある。例えば、一本の木を、雲を、どう見るのか。僕たちの頭の中にあるステレオタイプな木や雲の姿を脇において、目の前の木や雲そのものを観察し、記録するために、どこに注目し、何を描くと良いのか。そのために必要な水彩絵の具や鉛筆などの道具も含めて、実に具体的に指南してくれる。まさに、神は細部に宿っている。本書にある多数の美しいカラーイラストを眺めるだけでも楽しいが(筆者は、美しい絵を描くことは本質ではないと強調しているが、実際問題として、本書のスケッチはどれもこれも美しい)、この細かな手引きは、ネイチャー・ジャーナリングを実践しようとする人の心強い味方になるはずだ。絵心のない僕でさえ、この本を参考に山のスケッチでもしてみようかと心誘われたくらいなのだから。

 でも、この本の最大の魅力は、世界に向けて自分を開いていく好奇心が、天性の才能ではなく、意識的に保ち、磨きつづけられるものだと宣言する姿勢にある。そしてこの思想は、自然科学の領域を超えて、学ぶことの根底をささえるものだ。というのも、僕にはこのネイチャー・ジャーナリングの話が、自分の専門である国語科の「書くこと」における「作家ノート」(writer’s notebook)と重なって思えるからである。この「作家ノート」とは、書き手が文章を書く前の段階で使うノートのことだが、決してただの下書き用ノートではない。そのノートを持ち歩くことで、書き手は、書く題材を自ら探すように世界を眺める。自分が驚いたことを書き留めたり、気になった会話を記録したりと、世界をちょっと違う角度から眺めるようになる。つまり、作家ノートの本質は、書くための手段である以上に、世界とつながるための手段なのだ。作家ノートにこそ、書くことを通じて世界を発見するという、書くことの最も大事な現場がある。そして、この作家ノートの機能は、言葉によるネイチャー・ジャーナリングそのもの。アメリカの作文指導者であるラルフ・フレッチャーは、作家ノートを「あなたを目覚めさせ、あなたの内と外の世界でいま起きていることに、注意を向けさせてくれる」時計のベルに喩えているが(A Wirter’s Notebook)、ネイチャー・ジャーナリングのノートも、きっと同じ音を響かせているに違いない。

 子どもの頃からの「名言好き」の僕にとっては、「見る」「観察する」ことに関する多くの箴言が紹介されているのも、本書の魅力の一つ。さまざまな魅力的な断章の中で、本書を象徴するようなマルセル・プルーストの次の言葉がとりわけ印象に残った。「発見という名の航海の本質は、新しい風景を探すことではない、新しい目でみることなのだ」。

 見慣れたはずの風景を、新しい目で見る。結局のところ、世界をより豊かに享受し、好奇心を持って自己を更新しつづける人とは、そういう人なのかもしれない。それは詩人であり、科学者でもある(偶然かもしれないが、本書70ページではジャーナルの方法として詩を書くことが挙げられている)。

『見て・考えて・描く 自然探究ノート』は、極めて具体的なネイチャー・ジャーナリングの方法の本でありながら、そんなふうに、教科の枠を超えた示唆を与えてくれる魅力的な本だと思う。僕にとっては、国語と理科の思わぬ距離の近さを感じた読書でもあった。発見するとは、新しい目で見ること。せっかく森のある学校に勤めているのだから、僕も自分の作家ノートのなかに自然探究ノートの要素をどう取り入れるか、考えてみたい。

 

2022年4月30日土曜日

「子どもの詩」へのコメントに学ぶ

  【時々投稿をお願いしている吉沢先生に、今回も以下の投稿をお願いしました】

 2022年1月8日の投稿で、小学生の詩を集めた『小さな目』という本からいくつかの作品を紹介しました。この本には、小学生を対象に書かれたコメントが掲載されています。★1

 私はこのコメントにとても魅力を感じました。子どもの発想を認め、個性の表れた作品を評価する一方で、子どもの陥りがちな問題をストレートに指摘しているからです。

 今回は、そのような問題に対する評者のコメントに光を当てたいと思います。次の4点から紹介します。

(1) 人間には我慢してやらなければならないこともある

(2) 通信簿など心配しても仕方がない

(3) 形だけ整えて安心してはいけない。自分の本当に言いたい中身を見つけるべき

だ。

(4) 社会的な事実について、一足飛びに結論をだしてはいけない。

*****

(1) つらいことも我慢してやらなければならない

次の作品は小学校1年生のものです。★2


なつやすみ

       なかた かずま

これで

にっきをかくのが

しまいです

うれしくでたまりません

もう

にっきかいたか と

いわれません


→ これについて評者は、「このしには きらいなことをやりとげて ほっとした よろこびが でている。これは これでいい。」と認めた上で、「しかし うれしがってだけ いたのでは ダメだ。」と言います。評者は、毎日の生活で好きなことと嫌いなことを区別してみることを提案しています。ご飯やおやつを食べること、遊ぶこと、寝ることは好き。歯を磨いたり、学校へ行ったり、勉強したり、日記を書くことは嫌い。そして、次のように言います。

「こうして かぞえてみると きみが きらいなことは にんげんだけが やることだ。きみの すきなことは いぬやねこだって やっている。にんげんが にんげんとして りっぱに なるためには、すこしくらい きらいなこと つらいことも がまんして やらなくては いけない。」


(2) 通信簿など心配しても仕方がない

次の作品も小学校1年生のものです。★3


つうしんぼ

       きよの ひでお

ぼく たいていおこられるな

れんらくちょうに

かかれただけで

おこられるんだもの

ぼくのおかあさんは

ぼくのテスト

「みたくない」って

つうしんぼ

なんてんだろうな

ぼく とってもしんぱい


→ 評者は言います。「きよのひでおくんは 『つうしんぼ』を とても しんぱいしているが、そんなもの しんぱいしても しかたがない。わるかったら こんど しっかり やればいい。」

 なんどストレートなコメントでしょう。作品としての出来ばえ以前の問題として、そこに表わされている子ども自身のあり様を評者は心配し、助言しています。たかが通信簿ではないか、という評者の声が聞こえてきそうです。


(3) 自分でなくては作れない特別なものを書くこと

次の作品も小学校1年生のものです。★4


えんそく

       かわぐち のりこ

せんせい

はしがあるよ

せんせい

ばらがさいてるよ

せんせい

はんかちおとしちゃった

せんせい

つかれちゃった

せんせい

おべんとうにしてよ

せんせい

ばななはんぶんあげるよ


→ 評者は「いかにも とかいの子らしい きのきいた しだ。」とし、「せんせい」という言葉の繰り返しがリズムを作り出していることを認めつつも、次のように言います。

「でも この しには どうしても このひとでなくては つくれないという とくべつなものがない。どこの だれの えんそくにも でてくるようなことを ただ ならべてそれを「せんせい」で つないだだけだ。(中略)あなたのような しっかりした子は、もっと こころのこもった じぶんでなくてはかけないようなしを かいてほしい。」


(4) 一足飛びに結論を出してはいけない

次の作品は小学校6年生のものです。★5


さむらい

       工藤 順二

さむらいはどうして

きり合いをするのだろう

同じ日本人でありながら

きり合いをすることは

ばかげたことだ

たったひとつしかない

命を

むだにするなんて

ばかなことだ


→ ばかげているとわかっていてもきり合いをして命を捨てる武士がいるという現実をどうとらえるべきでしょうか。

「むかしは子どもがそんなことをいうと、へ理屈をこねるといってしかられたものだ。いまは子どもがこういう詩をつくると、さすがは現代っ子だ、はっきりしている、といっておとなたちは感心する。しかしこんなことでいい気分になっていたら大変だ。ものごとをなんでも表面からだけ常識的に解釈して、それでわかったつもりになっていたらとんでもない。」

 武士の命のやりとりには、それ相応の理由があってのこと。その時代の流れや、歴史的な事実を知りもせずに、一足とびに結論をだしてはいけない、と評者は言います。

*****

 子どもの気持ちを受けとめ、個性を認めることが大切であることは、言うまでもありません。と同時に、間違っていること、至らないことについて、それを指摘し正していくのも大人の大切な役割です。この本のコメントから私は、子どもに真摯に向き合い、しっかりした人間に育って欲しいという評者の思いを感じます。

*****

★1  コメントには、書いた人の名前が記載されていないため、本稿では「評者」という呼び方にしてある。

★2  ★3  ★4  引用の詩とコメントは、朝日新聞社編『ぼくらの詩集 ちいさな目 1ねん・2ねん』(あかね書房, 1964)より。

★5  引用の詩とコメントは、朝日新聞社編『ぼくらの詩集 ちいさな目 5ねん・6ねん』(あかね書房, 1964)より。


2022年4月23日土曜日

「2014年と2022年 〜読書家の時間/リーディング・ワークショップ8年間の実践で変わったこと・変わらないこと」

  リーディング・ワークショップの日本の教室での実践版をつくろうということで、2014年にプロジェクト・ワークショップ編『読書家の時間』が刊行されました。それから8年が流れ、今年、『読書家の時間』の改訂版が出版されることになり、現在、校正中です。

 8年前と比べると、教育の世界にも目に見える変化がいくつもあります。例えば、IT機器が教室内外での学びに登場する頻度は大きく増え、超アナログの私でさえも、恐る恐るオンラインの提出機能を使うことで、教室内で使う「紙」プリント類の量が格段に減ったりしています。カリキュラムや指導要領、学校に期待されることの変化を感じておられる方もいらっしゃることと思います。

 変化には柔軟に対応しつつ、子どもたちの学びにプラスになることは貪欲に取り入れられるといいのかもしれません。とはいえ、変化や新しいことに翻弄されないためには、それらを吟味できる視点も必要です。その土台にあるのは「一定期間、変わらなかったこと・大切にされ続けたこと・そこから発展してきたこと」と考えてもいいのかもしれません。

 『読書家の時間』改訂版では、ICT機器を自分の授業の指導で使うだけでなく、全校生徒と職員に対するICT機器関連の利活用指導も同時に行う必要に迫られるという厳しい状況に直面する教師も登場します。その中で、GIGAを追い風にして、子どもたちの学びをしっかり後押しする、目の覚めるような中学校の実践例を展開します。この教師は、何も考えずに用意されたプラットフォームに乗るのではなく、新しい技術が可能としてくれることを吟味しているのもよくわかります。そして、何よりも、子どもたちと一緒にICT機器使用のマナーも考えながら、それぞれが読み書きを楽しみ、成長できるように後押しすることを大切にしています。子どもたちのスマートフォン・トラブルが大幅に減ったという副次的な効果もあったそうですが、納得です。

 読書家の時間でこの8年間変わらず、大切にされ続けたことも見えてきます。改訂版で新しく加わった章の一つは、読む文化が一つの教室から教室の外へと広がっていく様子を描写しています。この章では、セクションの番号に「0(ゼロ)」という表記が使われています。0(ゼロ)」という表記を使った理由は、「読む文化」を広げるための前提となる項目を確認するため、とのことです。そして、その前提は実にシンプルです。以下に引用するように、この教師が担当しているクラスの子どもたちが、毎年、本を読むようになったのは、本を読む時間をつくっているからなのです。

 「リーディング・ワークショップを実施している教室では、「国語の授業」と「読書」が融合されています。つまり、国語の授業のなかに必ず「読む時間」があるのです。子どもたちは、それぞれ自分にあった本を選んでいます。教師が紹介した本、学校図書館で借りた本、友達からすすめられた本、自分のお気に入りの本など、多くのなかから選ぶことができます。そして、一人ひとりが本の世界に入り込むかのように、夢中になって読んでいます。読者があまり好きではなかった子どもも、教師による選書のカンファランス(第4章参照)を通して、少しずつですが自分に合う本が見つけられるようになり、興味をもつようになっていきます」

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 ここしばらく、改訂版についてプロジェクト・ワークショップのメンバーとやり取りする中で、2014年刊行の『読書家の時間』ともうすぐ出版予定の『改訂版 読書家の時間』の両方の執筆に関わったメンバー2名に、この8年間についてさらに質問してみたくなりました。

 まずは、現在は横浜市で校長をしている広木先生です。先生自身の立場も校長に変化しています。「8年間で変わったこと」「変わらずに大切にしていること」を尋ねてみたところ、以下を挙げてくれました。広木先生は、8年前に自分の教室にあったヒロキ図書館を校長室に復活させ、校長となった今も、機会を見つけて読み聞かせしたり、子どもたちと本についてのやりとりを楽しんだりしています。

【変わったことは?】

・大人も子どももさらにデジタルでのコミュニケーションが進みました。小学生でもスマホを使いこなす子が大勢います。

・読書記録はデジタルノートで、紹介は写真を使ってできるようになりました。アンケートも楽々とれます。

・教師の平均年齢がさらに若くなりました。それもあって学年がチームとなって子どもにかかわっています。教科担任制も進んでいます。

・担任裁量で授業の工夫、挑戦が難しくなり、教科書に頼った授業が多いのが実情です。

・教科横断的な授業を行うことは当たり前になってきています。

・登校支援が必要な子どもが増加してきています。

【8年間で変わらないことは? 8年間を通して大切にし続けたことは?】

・読書の時間を確保すること、自分から本を選ぶことの大切さや楽しさを伝え続けること

・教師として、授業は自分でつくりだすもの、子どもの主体性に火をつけるかかわりを追求すること、がいかに楽しいかということ

・読む、書くはすべての学びにつながる力で、国語という教科に収めず、すべての学習場面で力をつけていきたいということ

・子ども同士の読みや考えの交流は、こちらが想像する以上に豊かで深いということ

・子どもを待ったり、任せてみたりする勇気をもつこと

 2014年版で、子どもたちが読むことに夢中になっている様子を見せてくれた、小学校で教える冨田先生には、8年前から現在に至るまで、「変わらないで大切にし続けたこと」と「そこから自分の中で、より発展してきたこと(より強く思うようになったこと)」を尋ねてみました。

【8年前から現在に至るまで、変わらないで大切にし続けたこと】

その子の大切にしているものを大切にするということです

「読書家の時間」や「作家の時間」には

その子が大切にしていることがとてもよく分かります

みんなそれぞれ学んでいるものが違うからです

【その中で「自分の中で、より発展してきたこと(より強く思うようになったこと)】

最近の教育界の潮流の中に、「資質・能力」とか「思考力・判断力・表現力」とか、「力」という字が目につきます

決して子どもたちの力を引き出そうとすること自体は悪いことであるとは考えませんが、

私が行っているワークショップ「読書家の時間」が「力」を引き出すために行っているという感じではありません

「読解力」とか「探究力」とかワークショップの文字の近くに並ぶと

最近では少し違和感を感じています


自分の良さに気づくこと

自分の良さに気づいてくれた人がいること

お互いに共に時間を過ごしたこと


こういう人間味に満ちた時間、空間、仲間があったことが

心の中でその子を温め続けるのではないかと考えています

「力」とかそういうものは

どちらかというと副次的なもので

夢中になって何かを作ること(欲を言えば仲間とできること)それ自体が

10年後20年後に宝物になると思います


究極言えば読み書きでなくてもいい

学校という場所に仲間と共に夢中になれるものがあったということが

その子のこれからの幸せにつながるのではないかと思います

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→ 冨田先生が答えてくれたことを見ていると、個々の違いに対応できるカンファランス・アプローチだからこそ、それぞれの子どもの学びをサポートできる、でもそれぞれの子どもは孤立していないことを、改めて思います。

 そういえば、2014年版には、以下のような箇所がありました。

「...それでも一つ言えることは、すべての子どもは、私たち教師が気付かない無限の可能性をもっていて、子どもたちが学習をするたびに、そこから滴り落ちて輝く「その子らしさ」を見せてくれるということです...                               

...

 教師が見たい部分だけ見られるように子どもたちが選択する機会を奪って、教師が指定した学習だけをやらせたり、主体性をもってやっているように見せかけたりしていたのでは、子どもは教師の都合にこたえるだけで、教師が望んでいるような姿しか見せてこなくなります...」(2014年版 198-199ページ)

→ また、一人ひとりの読み書きをサポートする中で、冨田先生は、10年後、20年後の宝物につながることを見ています。

2014年版の以下の箇所を思い出しました。 

 「読書家の時間は、子どもたちの「その子らしさ」をありのままに受け入れられる素地をもっているだけでなく、子どもたちが自分で読む力をつけていくことができる教え方・学び方であると思います。自分のやりたいことが実現できて、それを教師が一緒に手助けしてくれたり、自分の願いに近づける助言をくれたりする。実現できたことを、クラスの友達が一緒に喜んでくれる。そういったことが可能なのです」 (2014年版、200ページ)

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 改訂版、どうぞお楽しみに! また出版時期など最終的に決まりましたら、2014年版との違いなども含めて、改めてお知らせします。

2022年4月16日土曜日

おしゃべりな脳 ?

 「おしゃべりな脳」というタイトルにひかれて、チャールズ・ファニーハフの『おしゃべりな脳の研究―内言・聴声・対話的思考―』(柳澤圭子訳、みすず書房、2022年)という本を読みました。「内言(inner speech)」は発声を伴わない頭のなかの言葉のことで、非文法的で圧縮や省略を伴うもの。コミュニケーションのための言語としての「外言」が「内言」化し、思考の道具になるとしたのが心理学者のヴィゴツキーです。その「内言」と「聴声」(幻聴)とを関連づけることで、人間の創造性を説明することができるとは思いもよらないことでした。著者のファニーハフは「内言」について次のように言っています。 


 子どもの頃に内言がどう発言するかに目を向ければ、多様な形態と機能があることも腑に落ちる。子どもが他者と交わす会話が「地下に潜って」―つまり内在化されて―外的なやりとりの無音版を形成したとき内言が現れる、と考えるには十分な理由がある。これはつまり、言葉で行う思考には、他者と行う会話の特徴がいくつか含まれているということで、他者と交わす会話の特徴は、文化の交流様式や社会的規範によって形作られる。(『おしゃべりな脳の研究』17ページ)

 

 「内言」が社会的起源をもつというこのような考え方をもとに、この本では「言葉の芸術家と視覚芸術家の作品」を参照しながら、「創造力を発揮する重要な方法のひとつは、自己と会話することなのかどうか」ということが検証されます。そしてまた「人間の経験に登場するふつうでない声」すなわち「聴声(あるいは言語性幻聴)」が生まれる理由の考察がなされて、そのように「自分に聞こえる声」を「混乱した脳による無駄口」ではなく、「未解決の情緒的葛藤を知らせる過去からのメッセージ」として捉える可能性が語られます。

 「内言」が現れることで、私たちは「自分自身と話す」ことが可能になります。

 

自分自身と話すことは人間の経験のひとつであり、決して万人に起きることではないものの、精神生活の中でさまざまな役割を果たすらしい。ある重要な理論によると、脳内の言葉は心理的「ツール」として機能し、思考の中でいろいろなことをするのを助けてくれる。ちょうど、家の修繕作業が工具のおかげで可能になるようなものである。内言は、計画を立てたり、指示したり、励ましたり、疑ったり、言いくるめたり、禁じたり、省察したりできる。クリケット選手から詩人に至るまで、人はあらゆる形で、ありとあらゆる目的のために自分自身と話す。(『おしゃべりな脳の研究』16ページ)

 

ヴィゴツキーやミハイル・バフチンらの「対話」論を踏まえながら、ファニーハフは、「自分自身と話す」こと、すなわち「内的対話」こそが創造的な思考の契機になるという主張を展開します。小説家や芸術家へのインタビューをもとにして「内的対話」の働きに関する次のような考察が生まれます。

 

 本書で取り上げた経験の中には、私たちが内的対話と定義する範囲を少し広げるように見えるものもある。たとえば、小説家の創造的な思考は、相互的な会話より、立ち聞きか盗み聞きとの共通点のほうが多そうである。私たちがインタビューした作家で、登場人物とじかに語り合うと言う人はまれだった。私自身の小説執筆についていうなら、登場人物に返事をしてしまうと、そっと打ち明けてもらっている話がそこで途切れるような気がする(思い違いかもしれないが)。開放された駐車スペースのモデルは、精緻化させる必要があるだろう―いったん声が現れたら、対話で交流しなくても(おそらく社会的表象の特異な活性化によって)心の中に入ってこられるようなモデルへと。たぶん、人はこんなふうにほかの声を脳内に入らせることしかできないだろう。なぜなら、人には内なる会話の対話的構造があるからである。そして、それは人間としての発達の結果だからである。確かなところはわからない。しかし、これは少なくとも、古来から不可解だった創造性のプロセスに対する新たな考え方ではある。(『おしゃべりな脳の研究』266ページ)

 

 その創造性は、作家の創作行為ばかりでなく、「聴声」というかたちであらわれる言語性の幻覚を理解する鍵でもあるとファニーハフは述べています。いや、無から有を生み出すための「もがき」のなかに必ず立ち現れることだと言っているのです。作家の創作の場合は健全で、「聴声」は「病的」であるというような見方は、線引きできないところに線を引いているようなものだという主張でもあります。ファン・ゴッホやピーター・レイノルズといった、エリンさんが「理解の種類」の「メンター」として選んだ芸術家の言葉は、「内的対話」が創造的な思考を生み出すことを証していました(ファニーハフもファン・ゴッホと弟テオとの手紙のやりとりを取り上げています)。

 『理解するってどういうこと?』を書くときに自分の頭のなかで起こったことをエリンさんはつぎのように書いています。

 

障害を乗り越えるということは、自分自身の強さを知るということです。それを自ら選んで取り組もうが、そういう状況に投げ込まれてしまったのであろうが、難題に直面したことなる人ならだれでも、自分にどれほど理解する力があるかに気づくというのはどういうことなのかを知っていると思います。けれども、多くの場合、こうした意識を持つには、自分の内側からひっきりなしに聞こえてくる「自分にはできない」という反対の声に打ち勝たなければなりません。否定的な見方や自己懐疑という悪霊が、多くの人の内面にまだ巣食っているのです。この章の後半部分で述べることになりますが、本書に書いた言葉の多くは、私の頭のなかにこだまする「誰も気になんかしていないよ、エリン!」という合唱と闘いながら生み出されたものです。『思考のモザイク』を書いた後に、今度は私一人だけで本を書くということは、自分が下手な書き手であり、私のアイディアなどは誰の役にも立たないのだよと、ささやく声を抑えなければならない営みだったのです。私にとってそれは、自己懐疑という悪魔のような力との総力戦にほかなりませんでした。自己懐疑はもがきの一部なのです。そういうもがきとの闘い方を、誰かが若い頃に教えてくれていたらよかったのに、と思います。(『理解するってどういうこと?』157ページ~158ページ)

 

彼女も自分の内側の「声」と闘いながら書いていたわけです。ファニーハフによる「おしゃべりな脳」の研究は、私たちの頭のなかで起こる「理解の種類」の成り立ちを説明するものであることがよくわかります。エリンさんが示した「理解の種類」とは、「おしゃべりな脳」の働きのヴァリエーションだと言っていいのかもしれません。「もがく」という「理解の種類」を経験することは、自分のとらわれていたことがら・自分を束縛していた何かに気づくことでもあります。理解するということは、苦しみの源にある「物語」に私たちがたどり着く過程なのかもしれない。何かをわかろうとして「もがく」ことは、自分の抱える問題は何かを明らかにしようとする営みではありますが、むしろその問題がどんな「物語」をもっているのかというふうに考え直すことで「理解」に至る道を見つけることができるのかもしれません。そういうことをファニーハフの本は教えてくれます。