2026年10月16日金曜日

修正と再考の精神

  土門蘭さんの『ほんとうのことを書く練習―「わたしの言葉」で他者とつながる文章術―』(ダイヤモンド社、2026年)を読んでいると、次のような言葉に出会いました。

 「そもそも言葉を使うのは、お互いに「わからない」からだろう。感覚的にわかり合えるのならば、言葉なんて使わなくていい。言葉を使うのは、違う人間同士のあいだにわかり合えない部分があるからだ。つまり、自分を超えなくてはいけないから。そのための言葉であり、ロジックだろう。だから私は文章を書くとき、常に「理解」にゴールを置く。

 私はずっと、執筆やインタビューなど言葉を用いるコミュニケーションにこだわっていたが、それはもっと他者を「理解」したいからだった。共感できない人の言動も、なぜそのような言動に至ったのか思考のプロセスを言葉でひもといていけば、いつかきっと理解できる。そう信じることが私には希望だったし、いまでもそうだ。」(『ほんとうのことを書く練習』230ページ)

 土門さんによれば「共感」とは「感覚的にわかってもらうこと」であり、「「わかるなぁ」と同調・同意してもらったり、受容してもらったりすること」です。それに対して、「理解」とは「論理的にわかってもらうこと」であり、「なるほど、そういうことか」とわかってもらうことです。土門さんの言うように、「違う人間同士のあいだにわかり合えない部分」があるから、私たちは言葉を使ってわかり合おうとします。誤解も生じるでしょうが、言葉の裏にある「思考のプロセス」をたどっていけばその誤解を「理解」に変えることができると信じることが「希望」であると土門さんは言います。

「他者も、自分も、わからない。共感できず、苦しむことも多い。だけど対話を諦めない限り、「共感」は無理でも「理解」は叶う。共感することは無理でも、互いの言葉に耳を傾ける。私はそう信じて文章を書き続けている。」(『ほんとうのことを書く練習』231ページ)

  この主張は自分と他者との対話だけでなく、自己内の対話においてもあてはまります。土門さんが参加したあるトークイベントで「僕も文章を書いていたのですが、自分の下手な文章を読むのが嫌で、書けなくなってしまったんです」と話した人がいました。土門さんはその人がまだ書きたいと思っていると感じたので「書き手の自分を、子どものように思ってみてはどうですか」と言い、さらに次のように続けたという。

 「目の前で子どもが熱心に描いた絵が、『下手くそだ』なんて罵ったりしないですよね。まずは『何を描いたの?』と興味を持ったり、『よく描けたね』と褒めてあげたりしませんか? 自分の中の書き手も、子どもと一緒です。褒めてあげれば書くのが楽しくなるし、ダメ出しばかりすれば書くのが苦痛になる。どうか、ご自身の中の書き手を褒めて、やる気を出させてあげてください」((『ほんとうのことを書く練習』81ページ)

  褒めて伸ばすということは作文指導の大切な姿勢ですが、「書く私」と「読む私」との対話においても重要な姿勢であることを土門さんのこの言葉は教えてくれます。大人になればなるほど「読む私」の経験値は増えるので、知らず知らずのうちに「書く私」に課す制約が多くなり、自己検閲のハードルが高くなってしまいます。「書く私」を褒めて、やる気を出させる言葉を用意することは、「読む私」が「書く私」のことをどのように「理解」するかにかかっていると言ってもいいでしょう。

 『理解するってどういうこと?』第8章「すばらしい対話」には、テキサス州フォートワースのキムベル美術館を訪れ「マティスとピカソ―穏やかなライバル関係―」を見た時のことが書かれています。アンリ・マティスとパブロ・ピカソの半世紀近くに及ぶ絵による対話を鑑賞して、エリンさんは次のように書いています。

 「学習において対話が理解を導くことは少なくありません。私たち教師は、ある概念について子どもたちに語れば語るほど、その概念についての自分自身の理解が深まることを知っています。子どもたちの質問としっかり考えて発見したことは、その概念についてのあなたの説明のしかたに影響を与えます。子どもたちがあなたの今後の視点を変えてくれるような、新しい見方を提供してくれるのです。こうした、修正と再考の精神が、マティスとピカソとのあいだで交わされた対話の特徴です。」(『理解するってどういうこと?』292ページ)

 マティスとピカソも、言葉ではなく絵による対話を長期間にわたって続けました。その間それぞれの絵に修正と再考の機会が与えられ、「新しい見方」がもたらされたのです。エリンさんの言葉に照らして考えると、土門さんの言う「対話」による「理解」が「修正と再考の精神」を養うものであると意味づけることができそうです。「ほんとうのこと」を書くために土門さんが言っていることは、言葉で理解すること/言葉で理解されることの重要性を教えてくれるものですが、それが言葉での理解だけにとどまらないことも示しています。

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