2024年12月27日金曜日

学校は何をするところなのか?〜卒業文集は必要かの議論から考える〜

「学経の反省」という季節になっています。学経とは学校経営計画のことで、要は、学校の色々な枠組みを見直そうという大切な機会になります。日本中の学校で今話題になっているものの一つが、「卒業文集を見直そう」です。もう卒業文集を書いていない学校も数多くあります。
 卒業文集とは、ご存知の通り、6年生が卒業を間近に控えた12月頃に、小学校生活の集大成としてみんなで書く文章を集めたものです。テーマのよくある例が、「将来の夢や目標」「今の自分を育てた思い出」などで、600字ぐらいの原稿用紙にまとめることが多いように思います。10年前の子どもたちならば、テーマや構成を考えた後、原稿用紙と格闘し、先生が夜な夜な修正箇所を朱書きし、さらに子どもたちはそれを踏まえて書き直すを繰り返して、清書に行けた子どもは、さらにボールペンで間違えないように書くということを行っていました。修正テープは使ってはいけないという都市伝説があったりすることも今となっては笑い話です。最近では、ICT端末が入り、パソコンで原稿を作るそうですが、それでも清書はボールペンの手書きで行っているとのこと。私は読み書きが苦手だったので、今だに自分の書いた卒業文集の内容を覚えています。



卒業文集が消えようとしている理由は?



 なぜ、卒業文集は消えようとしているのでしょうか?理由はいくつかあります。
 まずは、時間数が足りないということです。働き方改革の波で、余剰時間(実際の授業時数から標準授業時数等の必要な時数を差し引いた時間)はほぼ0に近いところを目標に推し進められています。ただでさえ時間が足りないのに、時間のかかる文集までできない、ということです。ただ、これはカリキュラムをどう構成するかによって、解決できる問題なので、私個人的にはたいして問題にはなりません。ただ、重いのが次の問題です。
 それは、卒業文集が書けなくて、心身の調子を崩してしまうことがあります。例えば、学校に来れなくなるような児童がどの学校にもいる可能性があります。他の子は次々と終わっていく中、自分だけ原稿用紙は真っ白。先生は優しく助言をしてくれるものの、どうしても書くことがない。締切日の12月末は刻々と近づいていく。おそらく、優しい先生の助言も徐々に圧を増していくことでしょう。そんな中、書くことが苦手な児童が、学校に来なくなってしまうという例があるのです。もちろんこれは極端な例であり、全ての子がそのような実態ではありません。しかし、多くの子が通う学校ですから、そのような事例はもちろんあります。普通の学校なら十分にありえる話です。
 昔はそのような子はいなかったのでしょうか? もちろん、いました。放課後に残したり、家にまで行って付き合ってあげたり、はたまた先生が文章をある程度用意してあげたり、先生の熱意のもと、様々な手段を使ってこの問題を乗り越えてきました。この先生の取り組みは賛否両論でしょうが、先生が一生懸命やることが当たり前でしたし、子どももその親もそれに応えることが、卒業することへの必要な条件という理解だったように思います。
 では今はどうなのでしょう。先生に与えられた授業時間はどんどん少なくなっています。以前のように家庭にまで行くことや放課後に残すことも、安全上の理由で大手を振ってできるものではなくなりました。授業時数や残業時間を抑えるように、文科省、教育委員会、管理職からは言われます。
 また、個人の見解ですが、子どもの粘り強さ(レジリエンス)は両極端になり、意欲の格差は広がっています。驚くほど粘り強さのない児童や学習意欲のない児童が目につくようになってきました。それに合わせて、学校という組織から受けるストレスが、すぐに身体化してしまう児童も多くなっているように思います。学校という組織は、良くも悪くも、革命的な変化は起こっていないので、今も昔もストレスのあるのが学校でしょうが、現在、心の調子を崩す児童は統計的にも多くなっています。
 一方で、600字程度の文章なんてすぐに書き終わり、それでは自己表現をする場には紙幅が足りないと考える児童も存在します。それが両極端の現実です。
 先生側の指導支援のスキルの問題も横たわります。先輩先生の見よう見まねで齧り付いてきた若手教師は昔の時代で、子どもと同じように、教師の中でも意欲格差は広がっています。指導支援のスキルがなかなか継承されにくくなっていることもありますし、ベテラン先生でも現在の学校体制や児童の実態に頭を悩ませています。卒業文集一つ取り上げても、その背景にある問題は複雑化しています。
 そんな中、卒業文集は今、分岐点に立たされています。




では、卒業文集をどうする?


 卒業文集を失くそう、または、減らそうという動きは私の周りだけでも幾例も聞きます。「アルバムだけにしよう」「クラスページを縮小しよう」などはよく聞く話題です。「文章でなくても、絵を描いたり、写真を残したりするなど、柔軟な対応にしよう」という意見がよく聞かれます。さて、みなさんはどう思われるでしょうか? 
「個別最適化の波」は、学校現場に次々と押し寄せています。「手足に不自由さのある児童がいるから、体験学習のハイキングや縄跳び集会はやめよう」というのは児童の実態を共有しやすいので、教師や保護者の理解が進みやすいですが、「読み書きに困難さを抱える児童がいたり、不登校傾向の児童がいるから、卒業文集をやめよう」というのは、児童の実態が把握しにくいこともあり、意見が分かれるところです。
 そのような問題に対して、「一人ひとり自分の得意に合わせてできることを選べるようにしよう」という個別最適な流れになることは当然のことです。しかし、それを行うには、「教師の指導力」と同じくらい「教師の人数」が必要でしょう。多くの選択肢を設けて、その支援ができないのでは、子どもたちを不安な気持ちにさせたり、危険な状況にさせてしまうかもしれません。危険とは無縁なはずの卒業文集一つとっても、子どもたちは無知なことから人権的に問題のある差別表現を使ってしまうこともあり、しっかり教師が見守る必要があります。しかし、教師の人数が増えることは全く期待できません。するとあまり議論が深まらない中で「やめよう」という意見が強くなっていきます。
 自分は普段、特別支援学級の子どもたちと関わっているので、彼らにとって生きづらい学習環境の中で、心身の調子を崩したり、叫びをあげて苦しんだりする様子を間近で見てきました。誰もが安心して学べる学習環境を作りたいと思うのは山々です。しかし、このままでは、子どもたち全員で行う取り組みの全てが「やめよう」「なくそう」「へらそう」と、次々と消えていってしまうことに、頭では理解しつつもそれに伴う行動が取れないことがあります。



学校は何をするところか?


 はたして、学校の意味とはどこにあるのでしょうか?
 苦手なことも、得意なことも、何でもやってみることは、子ども時代に必要なことであるように思います。自分で選べることには賛成ですが、それがあらゆる場面に適応され、行き過ぎると、子どもたちは自分にとって触り心地の良い活動ばかりを選択するようになり、苦手なことへの向き合い方や粘り強さなどを経験する機会が減るでしょう。また、苦手だと思っていたことに取り組むと、その何年も後に自分の成長を感じられることがあります。私自身も、読み書きは大の苦手でしたが、今では自分にとって欠かすことのできないライフワークの一つになっています。苦手だから取り組まないで自分の可能性を限定してしまうことは、その子の未来の可能性すらも奪ってしまうことにならないでしょうか?
 また、「文集」でも何でも良いので、みんなで一つのことに取り組む価値も見つめていかなければなりません。全員で取り組む全てのものが、凝集性と揶揄され、個人の方向へ安易に流れていくことは、本当に良いことなのでしょうか? 一度散らばってしまったものを再び集めることは、散らばらせることよりも、とても難しいことだと想像しています。覆水盆に返らず、もしそれが「利己主義」であれば、それは恐ろしいほどに増殖していくことでしょう。




私にも分かりません。。。


 ここまで書いてきて、私自身もしっかり意見が定まっていません。非常に苦しい心持ちです。個別最適な学習環境を作りたいと思う傍らで、それを感情的に受け止められない自分もいて、自分の中で矛盾が生じています。学校とは、そんなところなのです。
 最近、『体育科教育』に掲載された音楽家ヒャダインさんの巻頭エッセイが話題になっています。(ご自身で検索してみてください。)私はそれ自体は非常に考えさせられるものですし、世界中の教師がこのエッセイからたくさんのことを考えるべきだと思います。しかし、簡単に「そうだ!そうだ!」と体育科教育全体を否定する意見には、怖さを感じています。このヒャダインさんのメッセージから私は、もっと体育科教師はいろいろな子どもたちのために、モヤモヤと悩んでほしいという意図を感じています。
「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉があります。私の中での意味は「安直に考えて解決しようとせず、モヤモヤを抱いて受け入れ、考え続ける姿勢」のことです。教師という仕事は、いろいろな考えがあり、自分の考えが絶対ではなく、それでも誇りを持って仕事をしなければならない仕事でしょう。どの仕事でもそう言えると思いますが、教師という仕事はそれが顕著なように思います。心の中にモヤモヤを抱えたまま、それでも前向きに仕事をしていく。ぐちゃぐちゃしていますが、どんな取り組みが良い学校なのかをネガティブ・ケイパビリティしながら模索しているところです。



(写真は仏果山〜高取山〜宮ヶ瀬ダムの縦走コースで撮影したものです。神奈川県内でもアクセスが良くて眺望の良い指折りのコースかと。おすすめです。)


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