ジョージ・ソーンダーズ著(秋草俊一郎・柳田麻里訳)『ソーンダーズ先生の小説教室』(フィルムアート社、2024年)という本を読みました。アメリカのシラキュース大学創作科の大学院で、作家志望の学生たちと一緒に、チェーホフ「荷馬車で」「かわいいひと」「すぐり」やツルゲーネフ「のど自慢」、ゴーゴリ「鼻」、トルストイ「主人と下男」「壺のアリョーシャ」といったロシアの短編小説を読み解きながら行われるワークショップにもとづいた本です。小説の読み方の解説なのかと思って読み始めたのですが、「はじめに」の終わりのところに次のようなことが書かれていました。
その魅力的なワークショップはどのように進められるのか。
一例を挙げます。アントン・チェーホフの「荷馬車で」という短編小説を扱った最初の章には、小説を一度に1ページずつ提示しながら「その頁を読んで自分になにが起きただろうか? その頁を読むことで、それまでは知らなかったなにを知っただろうか? 小説に対する理解がどう変わっただろうか? 次になにが起こると思うだるおか? 読みつづけようと思うのなら、どうして?」と問いかけながら、「荷馬車で」という小説を読み進める誌上ワークショップが展開されています(「荷馬車で」という小説がどのように分けられているかということは本書を手にして確かめてください)。
冒頭の1ページを提示した後に、ソーンダーズさんは次のようなことを読者に求めます。
2 関心を惹かれるものはなんですか?
3 小説はどこに向かっていると思いますか?」(『ソーンダーズ先生の小説教室』22ページ)
国語教科書を使った授業でも同じようなことはできそうです。『ソーンダーズ先生の小説教室』では、「荷馬車で」の最初の4ページほど、ずっとこの調子で読み進めることになります。もちろん、ソーンダーズさん自身がこうした問いかけに答えながら、この小説の世界を解説していくので、そこもまた魅力的です。
ただずっとこの調子では、読者が「いらいらして」投げ出してしまいかねないので、この後は2ページずつに読む分量が増えます。登場人物が出揃って、読み進めるにつれて読者の頭のなかには雪だるま式に情報が増え、「荷馬車で」の世界がつくられていくわけです。いくつものあらたな疑問も生まれます。
そのまま終わりまでこの調子で進めるのかと思っていると、「ここで、たったいま読んだ節の終わりで、小説を終わらせてみたらどうだろう」(69ページ)という提案がありますが、それでは「いや、まだ小説じゃない」と感じるだろうと言って、その理由を考え話し合うことがそこで求められます。創作科のワークショップですから、文章を「小説」にする結末のあり方を考えてから、「荷馬車で」の最後の部分を読むことにしているわけです。
『理解するってどういうこと?』の第5章に次の一節があります。
最後に、小説を読んだ後「しばらくのあいだ」読んだ自分がどのように変わるのかということについてのソーンダーズさんの言葉を引きます。
「自分の考えが唯一の考えじゃないんだと気がつかされる。
他人の人生を想像したり、それを認めたりする能力にだんだん自信がついてくる。
自分が他人と地続きだという感覚が芽生える――他人にあるものは自分にもあり、その逆もしかり」(『ソーンダーズ先生の小説教室』580ページ)
頭のなかで作者や登場人物と対話するからこそ変わるのだと思います。そういうことが「しばらくのあいだ」(ソーンダーズさんは「ずっと」とは言っていません)起こるものなのか、次に小説を読んだ後に確かめてみてください。
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