2025年1月24日金曜日

作家の時間とAI 〜10年後、教師という仕事は、社会に本当に必要とされているのだろうか?〜

 1月15日、お昼の温かい陽射しを浴びながら、駅から心地の良い緑道を通って横浜市立小学校の今村俊輔先生(イマシュンさん)の教室に向かいました。これからどんな学習が見られるのか、楽しみのあまり、寒さも気になりません。イマシュンさんの教室では、なんと作家の時間にチャット型のAIを活用して、カンファランスなどに利用しているらしいのです。

 明るくて笑顔の多い教室であることが、入ってすぐに分かりました。6年生が30人ほど。やはり、ほとんどすべての子が、タブレットでテキストを打ち込んでいます。多くの子がApple社製のPagesアプリで文章を作っているのが印象的でした。

 さて、子どもたちはAIをどう使っているのかな? あれ? 使っている子はどこかなあ?

ディストピアにはならない

 私はすぐにAIというと、依存的になったり、コピー&ペーストをして楽をしたりするイメージを持ってしまいます。私がこの前参加したAIで絵本を作るワークショップを引きずっていたからかもしれません。実際の教室は、そんな悪い面ばかりが強調された教室にはなっていませんでした。

(前回の私のAIで絵本を作るワークショップの記事はこちらから)

https://wwletter.blogspot.com/search/label/AI


 イマシュンさんの教室で使われていたのは、株式会社みんがくの「スクールAI」アプリです。

学習への活用に特化したAIということで、セキュリティーやプライバシーなど様々な工夫がされています。詳細はリンク先を参照してください。

https://school-ai.mingaku.net/


AIを使う子どもたち

 作家の時間の学習中、教室の中でAIを使っている子は、多く見積もって全体の1/3程度です。AIに依存している様子は全くありませんでした。使っている女の子の画面を覗かせてもらいました。

「学校が舞台の友情の物語が描きたいです」とAIにメッセージを送ると、AIは

「それはおもしろそうですね。友情の物語を書くためには、学校はとてもふさわしい舞台です。どのような主人公を考えていますか?」(この一連の描写は一言一句正確ではありません。)のような質問を返してきます。

「小学生の男の子です。」と答えると、

「おもしろそうな物語になりそうです。小学生の男の子は友情の物語にぴったりの登場人物です。この物語は起承転結で表すとどのような構成になりますか?」

このように、また質問をして書き手の思考をAIが進めていっています。

私は「AIはどういう時に使うの?」とこの女の子に質問したところ、「これでいいかなあと迷った時に使ったり、自分のアイデアを確認したりする時に使っています。気軽に使えるので、すぐに聞きたいときとかに便利です。社会とか理科とか、他の教科でも使っています」と答えてくれました。

 次に、少し不器用そうな男の子の画面をのぞいてみましょう。

「題材が決まらない」と入力すると

「まずは、作文のテーマを決めましょう。あなたが興味を持っていること、最近体験したこと、または 思い出深い出来事から題材を選んでみましょう。たとえば「家族との思い出」や「友達との楽しかった出来事」、もしくは「好きな季節の過ごし方」などが考えられます。どんなテーマに心が引かれましたか?」と丁寧な返答を返してきます。男の子は「ファンタジー」と返しました。すると、

「素敵なテーマ選びですね! ファンタジーの世界を創り出しましょう。まずは、物語の舞台になる独特な 世界を考えてみましょう。例えば、空に浮かぶ島がある世界、魔法が使える森、未来の科学が発展した都市など、どんな舞台がいいですか? 舞台を決めてください」と返しています。

 この男の子の問題はまだ解決できていないようです。けれど、一人で悶々と悩んで時間が終わるということはなく、なにか行動を起こそうとしている様子は伺えます。


 作家の時間において、主たる活動は「書くこと」になるので、みんな思い思いに自分の表現したいこと(今回はフィクション作品のユニット)を描こうと取り組んでいます。その中で、AIに質問をしたり、確認をしたりすることで、まさにアシスタントとして活用しているように思いました。チャット形式なので、質問に関して文字で返信をしてきます。画像や動画で返してくることはなく、文字でのやり取りになります。AIは、思った以上に文字で丁寧に説明してくれるので、読解力が必要だろうと思います。(設定で「小学6年生向き」や「小学3年生向き」のように、AIの返し方も学年によって変えてくれるようです。)その影響で、AIに病みつきになっている様子はまったくなく、子どもたちはAIを必要な時に必要なだけ活用しています。違った表現をすれば、ある意味で「少し距離をとった」「熱が冷めた」使い方をしているようにも見えます。テーマに迷っている子は、確かにAIとの対話に時間を使っている様子もありますが、描きたいものが定まっている子は、ほぼAIを使わずに書き進めているので、当たり前と言えば当たり前の作家の時間の風景がありました。




プロンプトで最適化されたAI

 放課後、イマシュンさんにお願いしてスクールAIをよく見させてもらいました。AIはプロンプトに基づいて動いています。プロンプトとは、AIをこちらの意図通りに動かす指示書のようなものです。作家の時間によく使うAIのプロンプトには「アドバイスをもとに私が考えたいので、具体的な修正例や追加例文、修正後の文章は出力しないでください」「150字以内で出力してください」のようにあらかじめ設計されています。もともとあるスクールAIの上に、イマシュンさんが作家の時間のカンファランスに合うようにプロンプトを組んでいます。

「AIが出力したものをそのまま使うような活用の仕方はさせたくないので。」私が危惧したAIの作品を勝手に盗用してしまうような使い方は、アプリの仕様の上でも、先生のプロンプトによる設計の上でも、できないようになっています。AIを目的に合わせて選択することもでき、たとえば、「ただひたすら討論したいとき用のAI」や、「日常の悩み事などの相談に乗ってくれるAI」など、たくさんの種類のAIが選べるようです。

 AIがひとまず答えてくれるので、子どもたちがよく直面する「検索してもリストアップされたページのどれが自分の求めている情報かわからない」という問題には、教師の支援が必要なくなるかもしれません。

 一方で、情報の重要性を判断し優先順位をつける思考や、情報の出所に当たり論拠を明らかにする思考などは、AIにお任せにしてしまうことによって軽んじられる可能性があります。そのような思考法は、小学校段階では必要がないとするのか、それとも、学齢に関わらず、段階的にそのような思考を培っていこうとするのか、議論が必要でしょう。


「AIはゲームチェンジャー」は本当か?

 イマシュンさんは「AIはゲームチェンジャー」という発言をされていました。僕もこの意見にほぼ同意しています。それは、「学習環境」という支援がAIの登場でかなり拡張する可能性が出てきたからです。私は『社会科ワークショップ』の中で、「学習環境はもう一人の教師」であることを書いています。(以下のリンクからダウンロードできます)

https://tommyidearoom.com/%e3%80%8e%e7%a4%be%e4%bc%9a%e7%a7%91%e3%83%af%e3%83%bc%e3%82%af%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%83%e3%83%97%e3%80%8f%ef%bc%99%e7%ab%a0%e3%83%bb%ef%bc%91%ef%bc%93%e7%ab%a0/


 一人ひとりが創造的な活動を行うワークショップの学び方の中で、孤立してしまう子どもも存在します。「どう書いたら良いか分からない」「何を書いて良いかわからない」「自信がない」「やる気が出ない」などです。カンファランスを行う先生は多いに越したことはないですが、35人の子どもたちを支援者が一人で見なければならない状況もあります。支援が必要な子に行き届くようにするためには、先生からの支援(直接、またはノートを介して)だけでなく、仲間同士の支援(ピア・カンファランス)も必要ですし、学習環境からの支援(掲示物、チェックシート、ワークシート、過去の作品群、作家の名文集など)も不可欠です。しかし、これまで学習環境からの支援は、子どものニーズを汲み取ることはありませんでした。AIはそれを可能にしています。子どもが何を描きたいかを明らかにしたり、励ましたり、問いかけたりもしています。もっと進めば、教師の貯めてきたたくさんの資料の中から、どれを参照したら良いかを図書館司書のようにレファレンスしてくれるAIが登場するかもしれません。

 プロンプトの組み方によっては、まだまだ可能性が広がります。「毎日1行でも書くことを求めてくるAI」とか「奇をてらったことばかり言うAI」とか、いろいろなキャラクターを作り出せるかもしれません。そういった意味で、AIは支援を大幅に拡張させることができます。「ゲームチェンジャー」という言葉も過言ではありません。


AIは人を育てるか

 学校という場で、作家の時間の作品が子どもの手を動かして作ったものであることを前提にすれば、その創作者の人間そのもの(体験、人柄、生い立ち、価値観、年齢、外見なども含めて)と結びついて存在するものなのではないかと、私は考えています。言い換えれば、作家の作品は、作品そのものを味わうものであるのと同時に、作品を通してその子どもを知る「窓」でもあり、さらに「その子そのもの」でもあるということです。子どもたちの作る作家の作品は単独では存在せず、その子の優しさや、弱さ、怒りやユーモア、がんばったことや諦めたことなどと結びついて生まれてきて、初めて価値のある作品として完成するのではないでしょうか。AIを活用することで、「子どもそのもの」の輪郭がぼやけて、デフォルメしてしまうということはないのでしょうか? 

 良い作品を作るために作家の時間があるよりも、良い書き手として認め、よい書き手へと育てるために作家の時間があります。AIが、その子が成熟した書き手として一歩を踏めるように導いてくれるのかどうか、それとも、文章の文字ヅラだけに着目して(AIはそれしかできないことは仕方のないことです)、その子の存在を認めず、その子の豊かな生き方に寄与しないのであれば、勇気をもってAIを断る決断も必要なのかもしれません。AIが、その子の「いまここにいること」を認めることができるのか、まだ私は答えをもっていません。私たちは、AIと人間がどのような関係を結んでいくのかを、よく注意を払って見ていく必要があります。


では、私たちは「子どもそのもの」を育む学校をつくれているのか?

 AIに良い書き手を育てることを求めるのであれば、それは自ずと私たち教師に跳ね返ってきます。私たちは、子どもの存在を認め、そこからもう一歩踏み出せる勇気を芽吹かせるような支援を行えているのかどうか、ということです。子どもたちが、自分の良さや悪さ、人間性を表現できるような機会を作れているのかどうかということです。文字ヅラだけで作品を評価する学校になっていないでしょうか?稚拙な文章の中に、その子らしさを見つけることができているでしょうか? 教師の代わりにそれをAIがやれるようになったら、私たちはついに廃業するべき時なのだと思います。

 AIの登場によって、より一層、学習とは何か、学校とは何かを、考え直す局面が近づいたように思います。


子どもを助けるAI

 一つ希望のある話を聞きました。コミュニケーションに課題のある子どもが、AIとのやり取りを通じて、作家の時間以外でも前向きになったというエピソードです。私たちは、表情や仕草、声の抑揚、場面や時間などに含まれる意味(それが真意に沿っているか反しているかはともかく)、つまり、非言語コミュニケーションの情報をどうしても受け取って、それを大切な情報だとして処理してしまいます。私が受け持っている特別支援学級の中には、そういう非言語の情報を受け取ることが非常に苦手で、失敗経験をもつ子どももいます。そのような子どもが、言語だけに限定したAIとのコミュニケーションの中で、AIが彼自身の言葉を聞き、彼自身の声に言葉で返してくれることで、彼が自分自身の存在を確かめることのできる可能性を、もしかしたらAIはもっているのかもしれません。AIとのやり取りを「壁打ち」と表現することもありますが、自分の投げたボールをAIが返してくれることで、自分のボールを確かめることができます。殻に籠ってしまった子どもは、それすらもできず、ボールを抱えたまま苦しさの中にいることもあるでしょう。AIが学校の中で子どもを助けることは、少なからず確かにあるように思います。



1 件のコメント:

  1. 投稿を拝読していて、以下の箇所がとても印象に残りました。

    「作家の時間によく使うAIのプロンプトには『アドバイスをもとに私が考えたいので、具体的な修正例や追加例文、修正後の文章は出力しないでください』『150字以内で出力してください』のようにあらかじめ設計されています。もともとあるスクールAIの上に、イマシュンさんが作家の時間のカンファランスに合うようにプロンプトを組んでいます」

    ↑ 上記のようにされていることで、イマシュンさんのクラスの子どもたちは、AIに依存することなく、AIを自分にとって役に立つツールとして使えているように思いました。自分の教えている子どもたちのために、教師が上のような設定をするかしないかが(そして、設定をする場合は、その設定の仕方が)、極めて大きい気がします。

    今回の投稿から、自分として、もう少し考えたい宿題もいただきました。それは、カンファランスの位置付けです。

    子どもたちを見ていると、AIを「役にたつツール」として自分にプラスになるように使っています。これまでのツールではできなかったことが山ほどできる「役に立つツール」として、AIが効果的に授業に組み込まれている気がします。

    でも、これはカンファランスとは、少し立ち位置が違うような気がするのです。

    カンファランスの中には、「子どもにリードさせるカンファランス」もあります。そういう点では、子どもが自分の必要に応じて、AIを使っているので、「子どもにリードさせるカンファランス」のようにも見えます。

    ただ、成功するカンファランスは、その子一人ひとりについて、教師がそれまでに蓄積してきた知識や、それまでのカンファランスの記録の蓄積の上に成り立っているいる気がします。

    AIは、あくまでも「これまでのツールをはるかに超える、役に立つツール」の位置付けにして、カンファランスとして捉えない方がいいのかも、と思ったりもするのです。あるいは教師のカンファランスを助ける助手???

    私にとっては、未知の有益な情報だけでなく、考え続けたいポイントもいただけた投稿でした。ありがとうございました!

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