カンファランスに焦点を当てたReaders Front and Centers(読み手=子どもたちを前面に、そして真ん中に), by Dorothy Barnhouseを読んでいて、次のような一節がありました。数字は、ページ数。青字/斜字は筆者のコメント。
3 上から下におろすアプローチで、正論を提供しても行動は変わらない。どんな簡単なことでも。たとえば、インドやバングラデシュにおける分娩前に手を洗うといったこと。それによって、乳児死亡率はいっこうに下がらなかった。なぜそれが変換したのか? 講師役が、当事者が仕事をしている所に行き、お茶を飲みながら、何をしているのか/何はしていないのかを聞くことから始めたから。具体的な理由を尋ねたところ、返ってきた答えは「彼女が優しかったから」「いっぱい笑ったから」「友だちと話しているようだったから」というものだった。 ~ ソーシャルな部分、関係、感情の部分がとてつもなく大きい。大きすぎると言えるぐらいに。しかし、それが人間。
4 対象を知らなければ、教えられない。そして対象に耳を傾けなければ、知ることはできない。「教えることは聞くこと」というのは、決して新しいものではないが、常にないがしろにされている。
これを読んで思い出したのは、『読書家の時間』で紹介されている「大造じいさんとガン」を教える授業の木下くんと沢木さん(5年生)へのカンファランスでした。
一般的な一斉授業だと、この教材についていけない木下くんは、最後までボ~としたままが続き、読むのが好きな沢木さんにとっては、この教材だけだと物足りなさを感じてしまいます。両者にとって、退屈な授業になってしまうわけです。(一つの教材を前面に、そして真ん中においた授業だと、少なく見積もっても6~7割の子達にとって退屈な授業になっているのではないでしょうか?)
それに対して、教材ではなく、あくまでも一人ひとりの子どもを前面に、そして真ん中に据えたカンファランスの実例が88~96ページにかけて丁寧に紹介されています。
木下くんは、「大造じいさんとガン」の代わりに、教師が『ミイラになったブタ』の中の「双子の島」という題材を提示したことで、イキイキと読み始め、『完訳ファーブル昆虫記』に発展する可能性すらありました。
「大造じいさんとガン」だけでは物足りない沢木さんは、椋鳩十の他の作品も読む、作家研究に取り掛かりました。
(いずれも、「大造じいさんとガン」を教材に選んで扱っているねらい=登場人物の関係性からは逸れないように配慮しながら、教師は子どもたちをサポートしていました。)
このように、子どもたちが打ち込んで学べる/読めるようにするのが教師の役割です。インドやバングラデシュの乳児死亡率を下げるために、村々を歩いて人々の話を聞いて回ったワーカーたちのように。そしてそれを可能にするのが、まずは聞くこと/観察することからスタートするカンファランスです。
資料: Readers
Front & Center: helping All Students Engage with Complex Texts, by Dorothy Barnhouse, from Stenhouse
『読書家の時間』プロジェクト・ワークショップ編著、新評論
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