2026年2月21日土曜日

めいめいの「知」がゆるやかにつながる幸福

  『私たちが光の速さで進めないなら』(カン・バンファ/キム・ジヨン訳、ハヤカワ文庫NV、2024年)の作者キム・チョヨプさんの『本と偶然』(カン・バンファ訳、かんき出版、2025年)は、読むことと書くことについての思考を言葉にした本です。作家が自著や他の人の書いた本を読むということは、そのひとの創作にどのように作用するのだろうと思って読み始めました。

チョヨプさんは、ピエール・バイヤールの『読んでない本について堂々と語る方法』(大浦康介訳、ちくま文庫、2016年)の「人が自著について語るとき、とある「別の本」について話しているように感じる。こうした分裂が起こるのは、わたしたちの内面にそれぞれの本があるためだ。この内なる本はだれにも伝わることがなく、いかなる本とも重なり得ない」という言葉を引いて、次のように言っています。
「作家の手元を離れた本は数千数万の読者に届きながら、数千数万とおりの内面の本となる。それらは一冊ごとに構成が異なり、各自の読書経験に固有のかたちで介入するためには、ほかの誰かにそっくり伝えることも不可能だ。自分の解釈や感想を書評にまとめようとしても、それは内なる本の一部でしかなく、書評を読み、書く行為もまた、もう一つの「内面の書評」を生み出すことだから。(中略)作家が読者に意味を伝えつくすことに失敗し、読者が作者の意図を把握しつくすことに失敗することで、本は本来より拡張した存在となる。」(『本と偶然』、213ページ)
そして「だとしたら書評を書くことこそ、失敗の危険を冒して初めて可能なことではないだろうか。読むことを試み、読むことに失敗し、時に誤読が拡張の可能性へと変貌する偶然の瞬間を期待しつつ、誤解と理解のあいだを行きつ戻りつしながら本に無数の意味を塗り重ねていくその作業を、わたしは喜ばしい気持ちで追いかけたい」と言います。この考え方が「読むこと」と「書くこと」をつなぐのです。私は作家ではありませんから、書くために読むということをいつもしているわけではありません。しかし、読者としての私も読みながら実は「内面で」書いていると思うのです(それを言語化するとこのような文章になるのですが)。そして私の場合、それはたいていチョヨプさんの言う「失敗」であると思いますが、そのことによって「本は本来より拡張した存在となる」という考え方にとても惹かれます。
『理解するってどういうこと?』の340頁以降にエリンさんの親友の「ブルース・モーガン」という先生のことが書かれています。チョヨプさんのような作家ではありませんが「情熱的で好奇心旺盛」な先生で、「建築、都市計画、アウトドア、環境、政治、社会的な公正さについての自らの強い関心を教室に持ち込む」先生です。エリンさんはモーガン先生の日常の振る舞いを丁寧に紹介した後、次のように言っています。
「でも、子どもたちには、もう一人のモーガン先生に出会ってほしいのです。子どもたちみんなに、彼のような情熱を持ち、人間の感情の意味を明確にして説明することを怖れない教師に触れてほしいのです。ブルースの教室で子どもたちが飛躍的に成長するのは、つまり学んだことを記憶して、それをどこかで応用できるようになるのは、いつもというわけにいかなくとも、自分たちが学んだ概念に感情的な意味づけをひんぱんに行っているからなのです。」(『理解するってどういうこと?』342頁)
この「感情的な意味づけ」をチョヨプさんも実行していて、『本と偶然』にはその姿も描かれています。先程引用した部分に示されているチョヨプさんの考え方に惹かれるのと同じように、彼女が自分の日常に示す「感情的な意味づけ」にも惹かれます。モーガン先生よりもずいぶん静かなかたちですが(これは多分に、エリンさんが語るモーガン先生と自ら語るチョヨプさんという書き方の違いであると思われます)。
チョヨプさんはSF作家ですが、もともと化学研究をしていた大学院生であったこともあります。その知識と経験をいかしてノンフィクション作家になろうとした時期があったとのこと。しかしSF小説で作家としてデビューすることになります。第一作品集『私たちが光の速さで進めないなら』にはその頃に書かれたSF小説をまとめたもので、私も日本語訳を2024年の末に読んで感銘を受けました。
 しかし、2018年に『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』(五十嵐真希訳、小学館、2022年)を書いたキム・ウォニョンという作家の誘いで、障害学についての本を書くことになります。身体に障害をもつウォニョンさんから聴覚に障害を持つチョヨプさんに「互いに異なる境遇に置かれていながら、障害という少数性を共有するふたりの視差を示す」本を書こうという誘いでした。SF小説家としてデビューしていたチョヨプさんにもともと書きたかったノンフィクションを書くチャンスがめぐってきたのです。しかし、ここでチョヨプさんは小説を書くこととノンフィクションを書くこととの違いに直面します。
 SF小説を「世界の霧に覆われた地図と似ている」とするチョヨプさんにとって、ノンフィクションの世界は「霧のない地図と同じ」でした。だから「知らないことをごまかす」ことのできない分野です。最終的には『サイボーグになる テクノロジーと障害、わたしたちの不完全さについて』(牧野美加訳、岩波書店、2022年)として刊行されることになりますが、この本をまとめるまで苦難の道が続きます。本書の第1章後半にはこの本が出来上がるまでのチョヨプさんの内面のドラマが描かれていて、読みごたえがあります。
 「知らないことをごまかす」ことのできない分野で「障害学の観点で障害-テクノロジーの関係を再設定すること」というテーマに取り組んだチョヨプさんは、執筆に取りかかるまで膨大な「資料の海を手探りで漂う」ことになりました。
 重要な論文に出会い続け「霧のない地図」のなかで自らの問題意識や問いを「説明できるクリアな言語」を手に入れていきます。ところが、初稿に対する編集者の言葉は「語り口があまりにもドライだ」というものでした。チョヨプさんが編集者から言われた言葉が引用されています。
「読者が知的な刺激の向こう側、本の世界により深く入りこむには、自分を揺さぶる問題式やいつまでも解決しない悩みなど、もう少しむき出しの自分が見えたほうがいいのではないかと思います。ここで紹介しているさまざまなディベートの中心に、当事者であるご自身の経験と問題意識が組みこまれているといいのですが」(『本と偶然』101ページ)
 大切なことを気づかせてくれた編集者の言葉に応える試行錯誤がこのあとに詳しく書かれるわけですが、それは本書を手に取ってお読みください。チョヨプさんはその試行錯誤のなかで次のようなことに気づきます。
「初稿を何度も手直しし、経験を入れては取ってをくりかえすなか、徐々に原因が見えてきた。初稿が読者を引きこめなかった根本的な理由は、わたしの経験がどれくらい入っているかにあるのではなかった。書いているわたしでさえも、そこで紹介している多くの事例と自分の話を別個のものと考えていたせいだった。体験談が浮いているのも当然だ。わたしはここに至るまで、障害を自分のアイデンティティとして真剣に受け止めたことがなかったのだ。」(『本と偶然』105ページ)
 ドキュメンタリーを見たり、文献をさらに読み進めてそれらの著作物の助けを借りるということに自覚的になったり、研究者や編集者、共著者のウォニョンさんと対話したりすることによって「障害の経験」という「ゆるやかなつながり」を知ることになるだけでなく、チョヨプさん自身が障害を「自分のアイデンティティ」として受け止めていく過程が描かれていきます。チョヨプさんは「自分の書くものが自分のものであると同時に、だれかとともに書かれるものであることを知った」と書き、「わたしたちのめいめいの「知」が決してかけ離れたものではないのだと、だれしも自分の力だけで傑出することはできないのだと考えさせられた。そしてそれが、わたしたちにとっていかに幸せなことであるかを」と結んでいます(『本と偶然』113ページ)。
 自らの得た知識や経験に「感情的な意味づけ」をすることによって、「めいめいの「知」」がゆるやかにつながっていることに「幸せ」を覚えるチョヨプさんの世界認識に、この本を読みながら繰り返し私は惹かれています。大切な理解の種類の一つだと思うからです。

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