2026年1月2日金曜日

常に晒され続ける評価の目 本当に厳しい中学校の評価


年末年始、中学校3年生のうちの子は、今日も高校受験について考えていることだろうと思います。誰もがそうだろうと思いますが、受験勉強はあまり好きではありません。小説やマンガを通して歴史にふれ、物語を楽しむことは大好きですし、英語もだんだん好きになっているように見えます。でも、受験勉強を進んでやりたいと思うタイプではありません。僕自身もそうだったので、気持ちは痛いほどわかります。


小学校の教師を長く続けてきましたが、中学校生活の全貌を子どもの姿を通して見つめると、少し違った側面から小学校生活が見えてきます。小学校生活こそが、最後のフロンティアにも見えてしまうのです。「中学校でも書いたり読んだりして楽しみ続けるんだよー」と、軽々しく励ませなくなってしまいそうです。


私たちの時代と今の時代の中学校教育は、全く違います。今の中学校は、厳しい。常に評価の目に晒され続けているという印象があります。もちろん、子ども自身の目標達成を後押しするような評価ではなく、子どもたちをグレーディングするような、残酷な評価の方です。


良くも悪くも「いい加減」だった昔の評価


私たちの時代(私は1990年代に中学生でした)の教師の仕事について、中学生の私の視点からしか知ることはできませんが、おそらく成績のつけ方は相対評価で、中間テストや期末テストの比重がとても大きかったのではないかと思います。自分の記憶では、授業中にワークシートのようなものはあったと思いますが、当然授業の中で行うものでした。図工や技術家庭では、制作物を作ったりすることはありましたが、数学や社会などは、良くも悪くも先生の講義が中心でした。私の場合、放課後はあまり一生懸命でない部活に通い、友達とたわいもない会話をして、自分は週に2回ほど近所の方が趣味で開いていた私塾に通うような生活でした。僕はものすごく勉強ができる方ではありませんでしたが、苦労はしないタイプで(だから頑張るタイプでもない)、あまり高校受験のために根を詰めて勉強した記憶はありません。それでも、公立高校の入試問題は、7割くらい取れていたような記憶があります。


私たちの時代は、高校受験といえども、どこかのんびりとしていました。誤解を恐れずにいえば、勉強が得意な子は、賢い学校に行くだけ。勉強が得意でない子は、無理してガリ勉もせず、それなりの学校に行くだけ。それが、普通で、当然でした。今は、何か違います。ほとんどの中学生が、必死なのです。



本当によいのだろうか、今の中学校の評価



現在の中学校は、中間や期末のようなテストによる総括的評価に成績の配点が偏重しないように、子どもたちの学習の過程(プロセス)も評価する形成的評価も大切にされています。形成的評価とは、子どもたちの学習の途中段階で行われ、目標達成に向けて教師が方向を修正する機会を作ったり、目標達成までどのような道を通れば良いのか、子どもと一緒に見通すためにある評価です。このように書くと、子どもたちのためになる評価であると捉えられますが、現在の中学校の場合はそうとも言い切れません。


期末テストを総括的評価とすると、現在の中学校で単元テスト(単元のまとめテスト)や提出物などは、形成的評価と位置付けられています。つまり、期末テストだけの評価はやめてミニテストを増やそう、提出物を増やそうという流れになっています。単元テストは各教科1回以上あり、提出物も同じ程度あります。教師にとっては、「一発で評価されないからいいよね」「小さな努力を重ねられる子どもが報われるよね」という善意で行われているでしょうが、子どもたちにとってはどうでしょうか? 常に、客観的な数値や等級の評価から逃れられない仕組みに、否応なく巻き込まれていきます。


単元テストといえどテストなので、赤い大きな数字でこれ見よがしに書き込まれたテストが返却されます。提出物には、A、A+、A−のような記号がテストと同じように付いてきます。中学生たちはこれに毎回晒されます。提出物で良い評価を得るためには、学校の中だけでは時間が足りません。うちのように要領の良くない子どもは、部活動で頑張った後、家に持ち帰って夜ご飯の後にやります。本来の自分の姿ではAは取れないので、AIなども使ってデコレーションし、本来の自分の考えがよくわからない提出物になっています。まるで、加工アプリで自分がよくわからなくなった写真のような提出物です。そうやって、なんとかAをとって「よかったー」と安堵するわけです。


うちの子の名誉のために伝えますが、AIの文章を丸写しにすることはありません。それをちゃんと読んで理解して、噛み砕いて文章に利用しています。私も最初は、AIを家に持ち帰った課題に使うことを反対していました。でも、課題がなかなか終わらずに寝る時間が少なくなって位しまう自分の子どもを前にして、AIを使わないことなど言えるはずもありません。AIの言っていることは難しい時もあり、私がそれをさらに噛み砕いて解説することもしています。中学生の多くの子がやはりAIを活用しながら課題に取り組んでいるそうです。先生もそれを承知しつつも、課題を出すのだと思います。


学校と学習塾の水面下の関係


学習塾についても私たちの時代とは様変わりしています。調べてみると、1990年代よりも今の方が格段に塾に通っています。昔は、学力を上げるための場所が学習塾でしたが、今は雰囲気が違います。うちの子どもは、塾に通っていない珍しい子どもです。うちの子どもが話す内容から推測するところによると、今の塾は単元テストや提出物のサポートまで行っているようです。塾の先生たちはその学区の先生がどのようなテストを作ったり提出物を作ったりするのかの情報に精通していて、それに合わせて子どもたちに有効なアドバイスを行っているようです。例えば、その先生の作った過去問などもしっかり持っています。おそらくその先生が異動しても、各地域の塾同士で連携して、情報を共有するのでしょう。今や塾に行かない子どもは少数で1割程度、ほぼ全ての子が塾に通うような世の中になっています。


1990年、塾は学力を一時的に上げる訓練所のような場所でしたが、現在の塾は、子どもたちが中学校生活を生き抜く生命維持装置のような役割をしているようにしか、私には見えません。子どもたち一人ひとりに寄り添えるように、少人数の塾はコンビニのように乱立し、一人ひとりに合わせたサポートをしています。中学校にとっては手を回しきれない子どもたちへの手厚いサポートを塾が行ってくれるので、塾のことを悪くいう中学校はないでしょう。昔よりも多くのことを学ばなけれなならない中学校のカリキュラムを、今の時間数でしっかり習熟させるのは無理なように思います。カリキュラムの量や難しさが上がれば上がるほど、塾に助けを求めてくる家庭は増えることでしょう。塾というよりかは「サポート校」という表現の方が近いように思います。学校と学習塾がwin-winの関係にあり、だれもこれを崩そうとは思いません。なるほど、塾業界の経済が回るわけです。しかし、忘れてはいけません。中学校生徒の不登校や心の病は増える一方です。


つまり、自分を「ビジュよく」「盛る」ために、塾やAIなど、使えるものはなんでも使って、この休まるところのない評価に晒され続け、なんとか息をして耐え続けるのが、今の中学校教育です。



内申点を「盛る」



さて、がんばって中学校生活を生き抜くことができた子どもには、内申点という称号が得られます。昔と変わらず、中学2年生の終わりから受験に関わる成績ということで、内申点に加算されていきます。しかし、現在の中学生は私たちの比ではありません。私立高校などでは、部活動や生徒会活動以外にも、英語検定、数学検定、漢字検定、ボランティア、習い事、コンクール歴、学校が開いた説明会に参加状況まで、内申点や合否に関わる水面下の点数として加算されているそうです。


「内申点のために生徒会に入る」「内申点のためにボランティアをする」「内申点のために習い事でコンクールに出る」もうこれを聞いただけでも、90年台の中学生だった私は生き抜ける自信がありません。私は父の手伝いで重い障害をもつ子どもたちを海に連れて行くことをしていましたが、当然手伝いに駆り出されているだけなので、ボランティアという立派な言葉すら持っていませんでした。もちろん、内申点など微塵も考えたことがありませんでした。僕にとって良いことをしている気持ちさえなく、ただの毎年通例の行事でした。これは今の自分を確実に形作っていますが、今の子どもたちには伝わらないかもしれません。


内申点が足りないと、いきたい学校を受験させてももらえません。私立高校など、内申点が〇〇点以上ないと受けられないという足切りがあります。中学校の先生たちも子どもたちが公立高校不合格にならないように、内申点を進路決定の材料にするので、私立学校とさほど仕組みは変わりません。中学校生活の全てをかけて内申点という自己PRを盛り続け、立派な自己像を作り上げられた中学生が、希望の進路を選択していきます。



綺麗な暴力 評価



客観的で形成的で多面的な、美しい評価です。形成的評価や内申点とは、綺麗な暴力なのではないでしょうか? 暴力は連鎖します。それが社会構造だからです。 うちの子どもは塾に通わせていませんので、僕がテスト勉強に付き合っています。うちの子にとって、それがよいかどうか、確信がありませんが、塾に通わないという選択をした我が家にとっては、その道しかありません。塾から逃れたとしても、親に反発したい年頃の子が親に勉強を教えてもらうということそれ自体が、暴力の連鎖なのかもしれないという思いは、払拭することができません。かといって、勉強が天才的に得意な子でなければ、フロンティアはどこにもありません。


高校生の子どもを持つ先輩によれば、高校に入ってもこれが続くそうな。どうしたらよいのか途方に暮れるまもなく、年末年始でどこか弛んだ街の雰囲気の中でも、うちの子どもはやりたくないという気持ちを押し込めながら、家で勉強を続けています。



いい加減が、良い加減


『「ほどほど」にできない子どもたち: 達成中毒(ジェニファー・ウォレス著 信藤 玲子訳 早川書房 2024年)という本があります。教育システム自体が、子どもたちを達成中毒へ追い込む装置になってしまっていることを、事例を踏まえて警鐘を鳴らす印象的な本でした。達成できればいいですが、達成できない子は、傷を負って再び立ち上がることができなくなってしまいます。


https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0005210389/


やはり、隙間がないのだと思います。人間としての余白をはさむ隙間がない。一部の大人が望む理想的な中学生を大量に生産するような、逃げ場のない管理的な中学校生活ではなく、隙間があり、役に立たないけどやりたいことがあり、失敗や成功もあって、それで勉強もできればなお充実程度の、私たちの時代の隙間のある中学校生活が、いい加減でちょうど良いと思ってしまいます。


小学校教師として、そして保護者として、私たちには、何ができるのでしょうか?



(写真は、箱根の大涌谷から見た富士山です。一富士二鷹三茄子。今年も良い年になりますように。)