2025年1月18日土曜日

作者と読者の頭のなかで繰り広げられる対話

  ジョージ・ソーンダーズ著(秋草俊一郎・柳田麻里訳)『ソーンダーズ先生の小説教室』(フィルムアート社、2024年)という本を読みました。アメリカのシラキュース大学創作科の大学院で、作家志望の学生たちと一緒に、チェーホフ「荷馬車で」「かわいいひと」「すぐり」やツルゲーネフ「のど自慢」、ゴーゴリ「鼻」、トルストイ「主人と下男」「壺のアリョーシャ」といったロシアの短編小説を読み解きながら行われるワークショップにもとづいた本です。小説の読み方の解説なのかと思って読み始めたのですが、「はじめに」の終わりのところに次のようなことが書かれていました。

 「読むことの研究とは、頭の働きの研究である。ある主張が真実か、どうやって判断するのか。住む時代も場所もちがう他人の(つまり作者の)頭との関係においてどう振る舞うのか。ここでやろうとすることは、本質的には、自分たちが本を読んでいるところの観察である(いまこうして本を読んでいるとき、どう感じるのかを再構成しようという)。なぜそんなことをしたいのだろう? そう、小説を読むときに働く頭の部分は、世界を読むときに働く部分でもある。」(『ソーンダーズ先生の小説教室』15ページ)

  明らかに理解の仕方についての本でした。小説家でもあるソーンダーズさん自身がロシアの小説を読む時の「頭の働き」が詳しく語られています(七つの小説を読む自分の頭のなかを詳述するのですから、500ページを超える大冊ではありますが)。書き手でもある著者の読み手としての頭のなかを読むことができるというところこそこの本の大きな魅力です。ですからこの本のなかほどには、「小説は、対等な者どうしの率直で緊密な対話だ。私たちが読むのをやめられないのは、書き手からのリスペクトを感じるからだ」(166ページ)とも書かれ、「小説は二者(引用者注:作者と読者)の頭のなかでくり広げられる対話だという考え方は、ひとりの人間がもうひとりに物語を聞かせるという行為から自然に生まれた。この考え方は、私たちが読むロシアの作品にもあてはまり、きっと原始人が焚火の周りに集まり世界のお話会をやったときにもあてはまる」「読者は人生に興味をもっていて、私たちの作品を手にとることで、私たち作者をひとまず信用してくれている。/私たちは、読者を口説くだけだ。/読者を口説くには、読者を大切に思えばいい」(167ページ)とも書かれています。作者と対話するように読む、とか、読者と対話するように書く、とか言われるそのことの実践の書でもあります。

 その魅力的なワークショップはどのように進められるのか。

 一例を挙げます。アントン・チェーホフの「荷馬車で」という短編小説を扱った最初の章には、小説を一度に1ページずつ提示しながら「その頁を読んで自分になにが起きただろうか? その頁を読むことで、それまでは知らなかったなにを知っただろうか? 小説に対する理解がどう変わっただろうか? 次になにが起こると思うだるおか? 読みつづけようと思うのなら、どうして?」と問いかけながら、「荷馬車で」という小説を読み進める誌上ワークショップが展開されています(「荷馬車で」という小説がどのように分けられているかということは本書を手にして確かめてください)。

 冒頭の1ページを提示した後に、ソーンダーズさんは次のようなことを読者に求めます。

 1 頁から目を離して、これまでにわかったことを要約してください。一文か二文でやってみてください。

2 関心を惹かれるものはなんですか?

3 小説はどこに向かっていると思いますか?」(『ソーンダーズ先生の小説教室』22ページ)

 国語教科書を使った授業でも同じようなことはできそうです。『ソーンダーズ先生の小説教室』では、「荷馬車で」の最初の4ページほど、ずっとこの調子で読み進めることになります。もちろん、ソーンダーズさん自身がこうした問いかけに答えながら、この小説の世界を解説していくので、そこもまた魅力的です。

 ただずっとこの調子では、読者が「いらいらして」投げ出してしまいかねないので、この後は2ページずつに読む分量が増えます。登場人物が出揃って、読み進めるにつれて読者の頭のなかには雪だるま式に情報が増え、「荷馬車で」の世界がつくられていくわけです。いくつものあらたな疑問も生まれます。

 そのまま終わりまでこの調子で進めるのかと思っていると、「ここで、たったいま読んだ節の終わりで、小説を終わらせてみたらどうだろう」(69ページ)という提案がありますが、それでは「いや、まだ小説じゃない」と感じるだろうと言って、その理由を考え話し合うことがそこで求められます。創作科のワークショップですから、文章を「小説」にする結末のあり方を考えてから、「荷馬車で」の最後の部分を読むことにしているわけです。

 『理解するってどういうこと?』の第5章に次の一節があります。

 「私がブッククラブに出かけて、読み終わったばかりの小説の最後の章をそれぞれ書き出してみましょう、などと提案するでしょうか? 私がブッククラブでそんな非常識なことを提案しようと考えたことはけっしてありません。しかし、今言ったことは、私の知るところ、理解を「教える」ための教材のなかでたくさん行われている「活動」の一例にすぎないのです。私が、「最後の章のあらすじを書き出してみましょう」などと提案することはけっしてありませんが、「その作者なら考えたかもしれない別のいくつかの終わり方をみんなで論じましょう」という提案ならするかもしれません。その小説の終わり方について、その作者ならこう考えたかもしれない、いや、そう考えるはずがないということを、1時間ばかり話し合う素敵な時間をみんなで過ごすことができるからです」(『理解するってどういうこと?』183ページ)

  エリンさんの提案は読後に「小説の終わり方」について語り合うというものですが、ソーンダーズさんのやっているのは、結末を伏せて、その手前で「小説の終わり方」を論じ合うというものです。その違いはありますが、いずれも読者の頭のなかを活性化させ、頭のなかで作者と対話しながら「素敵な時間」を過ごすアイディアです。

 最後に、小説を読んだ後「しばらくのあいだ」読んだ自分がどのように変わるのかということについてのソーンダーズさんの言葉を引きます。

「自分の考えが唯一の考えじゃないんだと気がつかされる。

 他人の人生を想像したり、それを認めたりする能力にだんだん自信がついてくる。

 自分が他人と地続きだという感覚が芽生える――他人にあるものは自分にもあり、その逆もしかり」(『ソーンダーズ先生の小説教室』580ページ)

 頭のなかで作者や登場人物と対話するからこそ変わるのだと思います。そういうことが「しばらくのあいだ」(ソーンダーズさんは「ずっと」とは言っていません)起こるものなのか、次に小説を読んだ後に確かめてみてください。

 

2025年1月11日土曜日

「共有の時間」から「リフレクション」の時間へ (その1)〜子どもにバトンを渡し、リヴィジョン(推敲、書き直し、考え直し)に繋がる時間へ

 もし、ワークショップの最後に行われることが多い「共有の時間」に、「他の子どもに教える」ことが、選択肢の一つであれば、共有の時間のイメージは変わってくるでしょうか。年末年始に再読していた、読み書きを統合するワークショップの本『The Literacy Studio』(★1)では、「共有の時間」の代わりに、「リフレクション」(Reflection)という時間を設定しています。「リフレクション」(Reflection)という題の章を読んでいて、とても印象に残った点が二つあります。

 印象に残った一点目は、子どもが他の子どもを教えたり等、この時間を、できるだけ「子ども中心の、子どもが主体的に動ける時間」(176ページ)にしていることです。

 子どもが他の子どもを教える(190-194ページ)ことについては、次のように記されています(私のざっと訳ですみません)。

 もし、子どもが共有したいなら、教師は、しばしば、ただ共有するのではなく、クラスメイトに教えてみるように促しています。これは小さなことかもしれませんが、重要なことです。多くの場合、教師はカンファランスで、その子が教えられるタイミングに気付きます(191ページ)

 また、「もし」他の子どもに教えることが、教室の中で「よくあること・予測できる活動」であれば、教える側の子どもは、短時間で効率よく伝えるにはどうしたらよいかを考えることになるので、自分で咀嚼する時間がさらに増え、咀嚼した分、栄養になりそうです。そして、教える内容が、他の多くの子どもにとって有益であれば、教える子どもと教えられる子どもの双方にとってプラスです。 

 また、教師がリフレクションの時間に、子どもたち全員を集めて対話を始める時にも、教師が途中で一歩下がり、対話をリードすることを、子どもたちにバトンタッチしている事例も紹介されています(185-190ページ)。「子どもが学びをリードできる」と教師が気づいて手を離す、その結果、子どもたちが新たな見方や知識をつくり出しています。

 印象に残った二点目は、リヴィジョン(推敲、書き直し、考え直し)とリフレクションが協働する(★2)(195ページ)という考え方です。

→ リヴィジョン (revision) という用語ですが、以前ライティング関連の本の中で、リヴィジョン(revision)という単語について、「re」が「再び」という意味の接頭辞であることから、「re-vision (再びヴィジョン)と捉えてみる」みたいな記述を読んだことがあります。こじつけかもしれませんが、確かに、「再び」という意味の接頭辞を意識して、re-visionと考えると、書くことにおいても読むことにおいても、これまで書いてきたもの、あるいは読んできたものについて、それらを「見直す、自分の考えを改める」というイメージが、私にはとてもしやすいです。

 大人であっても、自分の書いたものを読んでくれる、信頼する人がいれば、その人のコメントをドキドキしながら待ち、ブッククラブが予定されていれば、自分が話したい箇所に印をつけて、それに対しての他のメンバーのコメントを楽しみに待つなど、共有とリヴィジョンが、大人の読み書きにおいても、協働していることがよくわかります(194-195ページ)。

 「リフレクションとリヴィジョンは協働する」つまり、リフレクションの時間は、共有すること自体にある喜びや共有する相手への信頼を土台にしつつ、「ただ共有するだけ」ではなく、それをリヴィジョンに繋がる時間にしていく、この方向性に魅力を感じます。

 続きは(その2)で考えていきたいと思います。

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 なお、 読み書きを統合することに関わり、上記の『The Literacy Studio』については、2024年5月12日の投稿「読み書きを統合するワークショップ」で紹介しています。ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップを別々に実施するのではなく、それを統合して行いますから、読み書きに共通することを教えた後、読んだり書いたりする時間では、子どもたちは、読むことに取り組むのか、書くことに取り組むのかを、それぞれに選択します。

→ とはいえ、子どもたちは、読むこと、書くことに、トータルでだいたい同じ程度の時間を使うことになっています。例えば水曜日は読むことに取り組めば、木曜日は書くことに取り組んだりです。あるいは、教師が、「今日は、みんな読むことから始めよう」と設定することもあります(115ページ)。しかしながら、読み書きのワークショップを統合することで、子どもが取り組むことの選択肢は確実に広がります。また、読み書きを統合して一つのレッスンで教えるので、読み書き別々に教えるよりも、教える時間が短くなり、実際に読んだり書いたりする時間が増えます(8-9ページ)。

 また、1)「ミニ・レッスン」 → 2)「ひたすら読む時間・ひたすら書く時間」 → 3)「共有の時間」という、ライティング/リーディング・ワークショップの用語も、それぞれ 1) crafting session、 2) composing time, 3) reflection と違う用語になっていて、その違いも説明されています(42-47ページ)。

 → 上記とは異なる本として、2021年9月11日の投稿では「読み書きを統合する時間を設定する」というタイトルで投稿した際、『The Literacy Workshop』という本についても紹介しました。この本では、読み書きを統合したミニ・レッスンは、デモンストレーション・レッスンと呼ばれています。絵本を使う例が多く、レッスン例も絵本も「たっぷり」ある本です。

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★1 Ellin Oliver Keene著 The Literacy Studio: Redesigning the Workshop for Readers and Writers. Heinemannより2022年に出版。

★2 原文は Revision and Reflection work hand in hand. (195ページ)です。


2025年1月3日金曜日

子どもの読み手/書き手としてのアイデンティティーを大切にした国語の授業を!

  一人ひとりの生徒には、読み手としてのアイデンティティーがあるというのが、リーディング・ワークショップ=読書家の時間での生徒の捉え方です。(それに対して、読解に特化した国語の時間の生徒の捉え方は、何でしょうか? できる生徒とできない生徒? 授業に熱心に取り組む生徒とそうでない生徒?)

 リーディング・ワークショップを実践している教師は、生徒たちのことを読書家として接します。ミニ・レッスンが終わって「ひたすら読む時間」に入る際に、「さあ皆さん、読み始めます」とは言わず、「さあ読書家の皆さん、読み始めましょう」と言います。それは、個別カンファランスをする時も同じです。一人ひとりの生徒を読み手としてのユニークなアイデンティティーをもった読者家として接します。最初の質問は、「読み手として、今日は何をしていますか(何をしようとしていますか?)」などであることが多いです。従って、カンファランスの内容は一人ひとりに対して固有なものになります。(共通項が多い場合は、個別カンファランスをしていては時間の無駄になりますから、グループ・カンファランスをしたり、さらに多い場合はミニ・レッスンでクラス全員を対象にするという選択を取ります。)

 書く指導に特化したライティング・ワークショップ=作家の時間も同じです。一人ひとりの生徒を作家として接し、「さあ作家の皆さん、そろそろ作家の椅子の時間です」と呼びかけます。(同じように、社会科では市民や歴史家として、理科では科学者として、算数・数学では数学者として接します。)

 この名称は、馬鹿にできません。接し方が「生徒」として接する場合とは、大きく違ったものになります。生徒を一人ひとりの人間(しかも、読み手や書き手として)尊重する割合が飛躍的に増えます。教師の使う言葉が違ったものになります!

このような接し方(作家の時間や読書家の時間の授業を1~2年続けると、次のようなことを小学校高学年の子どもが言えるようになります(『言葉を選ぶ、授業が変わる!』の63ページ)。

ユーモアのあるのは、ジェシーが得意。彼はファンタジーをたくさん書くんだ。ロンは、本当によい書き手だよ‥‥彼は書くよりも描く方がもっとうまいよ‥‥エミリーはミステリー作品を自分で書くんだけど、細かいところまで書くのが上手だよ。彼女は登場人物たちを上手に描写していたんだ。山場がきちんとあって、読者が解かなければならない謎があったので、本当によいミステリーだったよ。

 このスティーヴンの発言を読んで、あなたはどのような子どもたちを思い浮かべますか? どのような授業が浮かびますか?

 『言葉を選ぶ、授業が変わる!』の著者は、これに次のような解説を付けています(同上、63~64ページ)。

スティーヴンは自分自身やクラスメイトのことを作家と見ています。そのためプロの作家について話すときと同じような言い方になっています。

このとき教師は、スティーヴンが「作家がしていること」を深く理解し、「一人の作家として」アイデンティティーが強化され、それを磨き続けることができるようにと、意識してこの話し合いを行っています。

スティーヴンはクラスメイトについても「多様な作家の集まり」と見ていました。また、実際そのように振る舞っていたため、このときに、スティーヴン以外の仲間も「有能で多様な作家」というアイデンティティーが強化されていきました。

 そのために、教師は子どもが主体的に考え、行動する★問いかけをし続けます。具体的には、すでに紹介した「読み手として、今日は何をしていますか(何をしようとしていますか?)」や「作家として、あなたは今日何をするのですか?」があります。後者の質問の場合、いくつかの特徴があります(同上、72ページ)。

第一に、教師のために課題を行うというのではなく、子どもには作家が行うような視点から書くための枠組みが与えられています。また、そのような視点からの会話がうながされているのです。

第二に、(a)その子どもは「作家」であり、(b)「作家とは何かを作り出す人」という前提が提示されています。したがって、この役割にそって作家としての行動をとらないでいるのは難しくなります。これは議論するまでもありません。つまり、その子どもは、「(作家として)いま執筆している物語の書き出しを考えているんだ」といったようなことを言わなければならないのです。

 似たような質問を、『言葉を選ぶ、授業が変わる!』の著者は紹介(と、それぞれの解説も)してくれています(同上、73~74ページ)。

・「読者として、最近学んだことは何ですか?」

・「作家として、次は何を学びたいのですか?」

・「それをどうやって学ぶつもりですか?」

 日本の授業で、このような問いかけが教師から生徒にされることはあるでしょうか? 上で紹介した言葉や問いかけはまさに、「自立した学び手(読み手や書き手)」として接しているし、サポートし続けている表れではないでしょうか? 主体性(エイジェンシー)が生徒の側にあり、教師はそれを支援する役割を担っていることが明確です。『言葉を選ぶ、授業が変わる!』の本の中では、第4章「主体性、そして選択すること」、第5章「柔軟性と、活用すること」と続きます。

 

★授業や単元や学期や学年が終わったり、学校を卒業しても、自立した読み手や書き手として、本を読んだり、文章を書いたり、いろいろなことを主体的に考えて行動できる人(問題解決者)になることをイメージして日々の授業(カンファランス)をし続けます。

 『言葉を選ぶ、授業が変わる!』は、教師の発する言葉(特に、問いかけ)に焦点を当てた本です。あなたの授業を変えるきっかけになりますので、ぜひご一読を!