「『共有の時間』から『リフレクション』の時間へ」[その1]は「子どもにバトンを渡し、リヴィジョン(推敲、書き直し、考え直し)に繋がる時間へ」(2025年1月11日投稿)、[その2]は「『グローバルな問い』の役割」(2025年2月14日投稿)でした。今回は[その3]です。
前回の[その2]では、読み書きのワークショップでの学びを、「グローバルな問い」を活用して、他教科、社会で起こっていること、社会正義/公平性等の概念につなげていくことを考えました。その際、[その3]で、さらに考えてみたいと思ったのが、「社会正義は大切なので努力します」的な、教師が喜びそうな模範解答に生徒を誘導することを、どうすれば避けられるのかでした。
このことに関わり、この間、何度も読み直していたのが、2024年8月17日の投稿「沈黙と対話」で紹介されていた、桑野隆氏の『生きることとしてのダイアローグ―バフチン対話思想のエッセンス―』(岩波書店、2021年)でした。少し時間をあけて読み直し、自分のこれまでのメモを見ていると、 「… 対話するからには、双方ともいままでとはちがう自分へと変わる覚悟も欠かせないのです」(89ページ)を、2回メモしていることに気づきました。私にとっては、教師の誘導を避ける鍵が、「双方が変わる覚悟」にあるように思いました。
一見、誘導的にならないような「問い」を設定しても、「双方が変わる覚悟」がなければ、教師は変わらないままで終わることになります。そうなると、教師が良いと思っていることを押し付ける教条主義につながる危険もありそうです。
興味深いことに、バフチンは、教条主義だけでなく相対主義も、「対話的ではない」と否定しています。相対主義については、バフチンのポリフォニーについて説明しているところで、桑野氏は次のように記しています。少し長いのですが引用します。
「今日では、相対主義を好意的にとらえる傾向が強くなってきています。ほかのひとの価値観を認め、『いろいろあってもいいんじゃないか』という立場は、一見したところデモクラティックです。けれども本当にそうなのでしょうか。<差異>をそのままにしておくことは、じっさいには<差別>から目をふさぐことにもなりかねません。<差異>どうしの対話が必要ではないでしょうか。『みんなちがって、みんないい』や『ナンバーワンではなくオンリーワン』は、集団主義や『世間』から脱出する出発点としてはいいのですが、そこにとどまることなく、ちがっているものどうしの出会い、対話も欠かせません。
いまのわたしたちにとっては、 『消極的』相対主義こそ、『独裁的』教条主義以上におそるべき主義ではないでしょうか。」(43-44ページ)
*****
「双方が変わる覚悟」に関わり、桑野氏は次のようにも記しています。
「対話する両者のあいだにあらたな意味が生まれるという意味での<創造的対話>の重要性については、おおくの方が賛同できると思いますが、そのさい、『自己がすでにいだいている見解や立場を変える、あるいは放棄する可能性を排除してはならない』としたら、どうでしょうか。
やはり対話はさけたほうがよさそうだ、とおもうひともいるかもしれません。けれども、こうした対話こそががほんとうは実りおおいのです」(108-109ページ)
*****
『生きることとしてのダイアローグ―バフチン対話思想のエッセンス―』で、桑野氏は、氏にとってのバフチンは、「まず第一に、わたしたちをとりまくさまざまな問題をかんがえるさいの拠り所」(160ページ)であるととしています。
私は『生きることとしてのダイアローグ―バフチン対話思想のエッセンス―』を、「リフレクションの時間での教師の誘導を避ける」以外の、さまざまなことに関連させながら、読んでいることに気づきました。さまざまな問題について視点を与えてくれました。
バフチンを初めて読んだのは、大学院時代です。「難しい!」と思いつつも、強く強く惹きつけられました。そんな感覚を思い出しながら、当時と現在の、断片的な理解をつなぎ合わせつつ格闘?するような時間で、それも面白かったです。
0 件のコメント:
コメントを投稿